翼よ、パリの灯が見えるのか

うぉーけん

ある夜の日

 子供部屋だ。子供部屋には、ただ自身のまわりが世界そのものであった少女時代の、懐かしく愛おしく狂おしいほどの思い出がある。そこでの記憶は、秘めたままにだいじに仕舞っておくのが賢明だと考えてすらいた。


 年上の友人で、実の姉妹以上に仲睦まじく交わり、両親よりも濃密に暮らしたあの人との日々。


 狂騒の時代レ・ザネ・フォルの終わりの始まり、そして三〇年代のほんの一握りをともにした。

 そう、時間は長くはない。それでも同じ時代を過ごしたのを忘れたことなぞなかった。サン・マロ湾で眺めた重厚な建造物に歴史の長大さを感じたことを。ジヴェルニーのモネの庭で咲き乱れる宝石みたいな睡蓮に感嘆としたことを。かしましい黄色い声でサントノーレ通りの店々をひやかして回ったことを。


 不滅の記憶。

 だから、アデライドはもう一度フランスに行くと決めた。ナチ・ドイツの手に落ちたパリへと。


◆ ◇ ◆


「ユートピアを創ろうとしたのよ」


 見下ろしたリーザが言った。室内灯代わりのバンカーズ・ランプが異国人を照らしている。燃える火のような赤毛は、ヴォルガ周辺の生まれであることを示しており、いかにも想像しうるかぎりのロシア人だ。灰を湛えた瞳は信じられないほど知的で、目を細めると夜霧に無数の灯火が瞬いているようで見惚れてしまう。


 ベッドのなかで、幼いアデライド――本名はアングロ=ノルマン語由来のアデライン・イヴェリンだが、フランス風にアデライドと呼ばれるのを好んだ――は後頭部をリーザの太ももにうずめる。そばかすの浮いた肌は青白いのに、好ましいほどぬくい。大動脈が脈打つのを感じると、アデライドの心臓も同じタイミングでどきどきする。


 アデライドは手をのばす。長い赤毛を掌で受け止める。色合いのままに火のように熱いのかと想像したが、リーザの髪は肌をくすぐり流水のように流れ落ちていく。こまやかな感触が心地良い。指先でもて遊んでもリーザは咎めず好きにさせてくれる。


 恍惚。うっとりとしてしまう。

 夢見心地でアデライドは聞いた。


「それは、どんな国だったの?」

「言論の自由、人身の不可侵、私的所有権がある国」

「そんなもの、西欧には当たり前のようにあるけれど」

「けれど、私の故郷にはなかった。ヴルィエミャンナィエ・プラヴィーチリストヴァはないものを創りだそうとした」


 年齢よりも聡いアデライドはくすくす笑う。自慢気に頬を持ち上げる。いまのロシア語はちゃんと理解できた。二月革命で皇室に取って代わった「臨時政府」のことだ。


「ケレンスキーは知っていたかな」

「弁護士で議員、臨時政府の首相、ロシアの陸海軍大臣、近代国家で史上初めて女ばかりの武装大隊を創設した人」


 リーザは教え子の知識に満足し、ゆっくりと口の端だけで微笑む。


「それに、婦人たちは政治に参加する権利も求めたわ」

「だから革命を起こしたの? 権利を手にするために?」

「なにかを得ようとしたら、戦わなくてはいけないこともある」

「リーザもそうしたの?」

「そうね。少なくともそう望んでいた。その点では、たしかに異端だった」

「なんで?」

「ロシア帝国では貴族の血を引いていても、女は家のなかの奴隷にすぎなかったから」


 アデライドはかしこぶって頷く。

 リーザは表情が薄く、常に自分の内面を見ているみたいに視線が曖昧で、本心を測ることが難しい。限られた人間、親密なともがらだけが内奥に触れることができるのだ。


 高貴な奴隷よりも、なにより自由人であることをリーザは選んだにちがいない。飼い犬よりも飢えた狼。なるほど気高き餓狼ともなればリーザにふさわしく思えた。


「じゃあ、そうした権利を求めた人たちはどうなった? ちゃんと手に入れられた?」

「……失敗したわ。二度目の革命で、国を追われた」


 寂しそうに呟くと、リーザがアデライドの額を撫でる。目にかかった前髪をどかしてくれる。共産革命に続いた内戦は子供に聞かせる内容ではないと判断したのか話題を変えた。


「寝る前に、別のお話をしましょうか。どんな話がいい? 帝国のあちこちにいたユーモラスで少し恐ろしい精霊チョルトたちの神話? それとも、恋を知る前に戦争の味を知る勇敢なコサックたちの物語?」


 リーザはなんでも知っている。フランスにイギリス総領事として赴任した両親が希望した通りに。


 アデライドの両親であるイヴェリン夫妻は、愛娘に言語の才能があることに幼いうちから気がついていた。そこでイギリスを離れフランスへ仕事でやってきたときに、伝手を頼り娘の能力を開花させるにふさわしい女家庭教師ガヴァネスを求めた。公教育に頼らず家庭内に教師を求めるのは、二〇世紀のイギリス上流階級においていまだ普遍の価値観だった。


 首都パリとはいえど、およそフランスではイギリス的観念に叶うガヴァネスを雇うことは難しく思えた。


 そこに紹介されたのが亡命没落貴族のエリザヴェーダ・ヴェルホフスカヤことリーザだった。ラテン語の響きのある優雅なロシア語と、貴族の子女としての教養を亡命先で磨き抜いた完璧なフランス語、そしていくばくか訛りのある――それすら魅力的な旋律であった――ドイツ語を話す才媛。英語は勉強中だと謙遜していたが、イヴェリン夫妻と話すときですらいささかの隙もみせなかった。


 子供の学習において丸暗記よりも読み聞かせの大切さを説き、教育の館ハウス・オブ・エディケイションを創設したシャーロット・メイスンを両親は尊敬していた。


 イヴェリン夫妻は喜んで今は亡き帝政ロシアの知の結晶であるリーザを雇った。アデライドはもっと大喜びだった。ガヴァネスはときに子供部屋の無慈悲な暴君ですらあったが、リーザは忍耐強く寛大で慈愛あふれる人だった。白い指先で教科書を示しながら、異国の言語の一節一節を謳い、蒙をひらき、知性のきらめきをもって新たな世界をアデライドに敷衍してみせた。


 パリで友達もおらず退屈していたアデライドにとって、理想の遊び相手だ。


 リーザといれば、あらゆる出来事が楽しかった。乳母はどこまで親しくとも使用人だが、ガヴァネスは違う。家族だ。ピクニックに行くときも、首都を離れ旅行に行くときも、イヴェリン親子はリーザといっしょだった。おかげでアデライドの語学力はめきめき上達し、年齢に比べ練達の領域に達しているとも言っていい。フランス人のふりをすれば、そのまま通じてしまうほどだ。


 なによりもリーザの話す故郷の物語は興味深い。ヨーロッパの辺縁でありながら、ビザンティンの系譜であるロシアはヨーロッパとは異なる世界が広がっている。好奇心がうずうずするほど刺激される。

 ベッドのなかで妹のように抱かれ、眠りにつくまでの間。薄い唇は可憐に魅惑的に言葉を紡ぐ。吐息がかかるほどの距離で、ロシア語やフランス語で語られるお話は異国の匂いがするのだ。


 物語られるとき、リーザのすべてが感じられる。体温、匂い、知識、そして――優しさ。

 それは、アデライドの頭のなかをじんわりと温かくする。


 今日も夜は長かった。子供にとっては。


「もう寝ましょうか」


 ベッドから降りるとリーザが言った。眠たさに目を擦りながらアデライドは応える。眠気とまだ寝たくないという反発心が思考を少なからず後押しする。

 ずっと考えていたことを、躊躇いながら口にする。


「ねえ、お願いがあるの」

「どうしたの、急に」

「おやすみのキスをして」

「甘えたくなっちゃった? 頬に? それとも、おでこかな」


 アデライドは首を左右に振った。これは、甘えなんかじゃない。もっと大切なことなのだ。


「唇にしてほしい」


 言ったあとに葛藤と、ほんの少しの後ろめたさと、期待がないまぜになる。リーザが驚いたように眉根をひらく。

 真意を見透かされた気がして、あわててアデライドは付け加える。


「スラヴの人は同性でもそうするんでしょう? ゴーゴリの小説で読んだもの」


 くすりと笑うリーザ。なにかを感じたようだが口に遡上させることはなかった。

 そうね、と一言。


「おやすみなさい、良い夢を」


 唇と唇が触れ合った。アデライドの心臓が跳ね上がる。

 ミルクのなめらかさ、バラのように甘い香り、木漏れ日の心地よさ。あらゆる言葉で形容できる。だが真に言葉にするには四ヵ国語ですら事足りぬ、この上ない幸福さ。


 それがすべてだったのに。


◆ ◇ ◆


 エンジン音が急激に変化したのを知覚し、アデライドは我に返った。直線運動を回転運動へ変換する鼓動。マーキュリーの音色。ドーバー海峡はとうに越え、いまや違う国の上空だ。


懐中電灯エヴァレディを使った発光信号のモールスが見えた。お客さん、目的地だ」


 イギリス王立空軍ロイヤル・エアフォースの嗜みに従い左脚に地図、右脚に航法図版をストラップで留めているパイロットが言った。海軍の船舶による輸送が秘密情報部サーヴィスの縄張りとあっては、執行部としては空軍に頼るよりほかないのだ。期待通り、彼は速度と方位から自機の位置を算出する推測航法によりしっかりとアデライドを運んでくれたようだ。


 すなわちナチ・ドイツ占領地へと。灰緑色フェルトグラウの男たちが支配し、人の不幸ほど人骨が散らばっている地へと。


 アデライドはガラスに頬を押し付ける。眼下を覗く。下方視界確保のために翼の位置は高く設計されているので、視野は良好だった。十数年ぶりにみる風景。三日月が暗い地表を照らしている。

 大陸の大地がアデライドの蒼銀の瞳に写りこむ。藪で区切られ畝のある地面、昼間には牛たちが闊歩する牧草地、ゆるやかにカーブする河川。片田舎の農地に、明るい色合いの森林が点在している。夜虫の冷光もにぎやかに漂っているだろう。


 田園地帯ボカージュ


 フランス、そうフランスとしか言えない光景だ。あのどこかでナチと新独政権ヴィシーに抵抗するマキ・レジスタンスが出迎えの準備をしているはずだった。降下ポイントに向けて、夜空に響くブリストル・マーキュリーXX九気筒空冷星形ラディカルエンジンの負荷がさらに上がる。


 ドイツ側に気取られぬよう高度三〇〇メートル付近の低空を飛んでいたライサンダーマークⅢが上昇していく。高度五〇〇メートル以上に達すれば安全にパラシュート降下できるからだ。機体がぐんぐん駆け昇る。

 やがて必要高度に達し、パイロットが親指を立てた。


「あんたに神のご加護を」

「ありがとう」


 神が私をゆるしてくれるなら。


 本心は口には出さず、アデライドは礼をのべた。パイロットが後部席を振り返りにやりと笑った。鼓舞する笑み。彼がドイツの夜間戦闘航空団ナハトヤークト・ゲシュヴァーダーの脅威をものともせず送ってくれたのはたしかなのだから、他意があるはずない。

 地上直掩機であるライサンダーは小型の飛行機だ。コクピットは狭い。互いの息遣いが聞こえそうなほど至近にいる。イギリスのパイロットらしくエンジン火災を警戒し重ね着できるだけ重ね着し着ぶくれしている髭面の彼が、自分と変わらぬほど若いということにアデライドはようやく気がついた。


 そうだとも。戦地にいるのは若者ばかりだ。


 座席に座ったまま準備を始める。戦時経済省は吝嗇家だ。座席は剥き出しで、パラシュートはシートを兼ねていた。ハーネスを手順通りに巡らせ、ストラップをとめる。首元から足首までジッパーが繋がっているひとつなぎワンジーのジャンプスーツにパラシュートを装着する。


 Ⅶ型ゴーグルを下ろし目を保護すると、準備は整った。ついに降下するときだ。この夜を、どれほど待ち望んだことだろうか。


 アデライドが少女であったころ。

 イヴェリン夫妻は、ガヴァネスを主餐に同席させるほどには開明な価値観の持ち主だった。だが愛娘が必要以上に同性にべたべたするのは見逃さなかった。ガヴァネスへの親密さを訝しんだのだ。

 なにより不埒な娘が、神に背くことを恐れた。


 さようならも、またね、もなにも言う機会を与えられなかった。別れの言葉すらない別離だった。

 イギリスに戻ったアデライドは、孤独のなかひとりの淑女として順調に成長した。後任のガヴァネスは厳しく、ときに躾と称し鉛筆で繰り返し手の甲を叩いてきた。抗いがたい大人の暴力を前に子供らしい快活さは失われ、寡黙な大人になった。それでも両親の望むままに成長したはずだった。


 ナチがヨーロッパに動乱をもたらすまでは。


 戦争が始まった。祖国は消極的な態度を翻し、戦いに臨んだ。とたんに望まぬ別れという寂寞たる過去が、猛烈に追いかけてきた。


 自分になにが可能なのか。もう充分に大人ならば、どこに行き、なにをなすかはひとりで決められる。自立とはそういうものだ。あの人は夢を見て、旧制を否定し、血統を失うことを理解しながらも自らを閉じ込める石壁を取り払おうとしたではないか。


 私も、子供部屋から出なければならない。自分を優しく甘やかに隔絶している壁を越えねばならない。大人は自由に歩き回れる。それは過去との決別であり回帰でもあった。


 自問の果てにロンドンのベイカー街六四番地を訪ねたとき、四ヶ国語を操れるアデライドは――しかも必須のフランス語はネイティブレベルだ――諸手を上げて歓迎された。それはつまり、「ヨーロッパを燃え上がらせよ」と命じたウィンストン・チャーチル首相が肝いりで創設した対ナチ工作を主任務とする特殊作戦執行部スペシャルオペレーションズ・エグゼクティブ、SOEに所属しもっとも危険なエフ・セクションで働くということだ。


 フランスで活動する栄えある五〇余名の女工作員スパイたち。そのひとりに、アデライドは選ばれたのだ。


 機体が風でがたがた揺れた。覚悟はあれど緊張に喉が鳴る。女性工作員に求められる役割は破壊活動ではなく、多くの場合、伝達人クーリエだがそれはむしろ秘密文書を持ち歩くということだ。

 ナチス占領地で右側通行と左側通行を間違えたり、ボタンの縫い付け作法がフランス人と違うなどの些細なミスをむくつけきゲシュタポたちは見逃さない。秘密文書を持っていれば言い逃れはできない。正体が露見すれば、悪名高きラーフェンスブリュック強制収容所に送られる。そこではよくて銃殺されるか、飢えと乾きに苦しんだあげく、肺炎かチフスを患い死ぬ可能性すらあった。


 胸の隠しポケットの偽装身分証と、帆布キャンバス製のホルスターに収めたウェブリー&スコット二五口径自動拳銃がしかるべき場所にあるのを触って確認する。身を守ってくれる道具たちが手元にあるのは心強い。

 もっとも、クーリエとして活動しだせば火器は手放さねばならない。真に頼りになるのは掛け値ない勇気と、繊細な大胆さと、多大な幸運のみ。怖くないといえば嘘になる。


 だが自らの意思でここに来ると決めたのだ。


 作戦名、ジャック・ドゥ。闇夜にかくれ秘にまぎれ密やかにドーヴァー海峡を飛翔するワタリガラスとして、今夜のアデライドは存在する。


 戦争の時代には、イギリスにすらもうガヴァネスと呼ばれる人々はいなくなった。少なくともおおやけには。総力戦のために女性たちの労働力をも戦時生産に振り向ける必要にかられ、家庭内の就業募集が原則禁止されたからだ。


 ガヴァネスは、在りし日の名だった。


 アデライドは両腕の力を込めてキャノピーを開く。それまで防風ガラスに遮られていた外界が牙を向く。プロペラが生み出す気流がごうごうと鳴った。多岐管総排気流路エキゾーストマニホールドから吐き出される臭いが鼻を突く。暴風じみた夜気と燃焼する燃料が五感を刺激する。


 戦争の臭いに粘膜がなぶられる。

 でも、ここまで来たのだ。いまさら後悔なぞするものか。


 機外へと身を乗り出す。五〇〇メートルは目眩がするほどの高空だった。己を叱咤する。ためらうな、理由のために。虚空に踏み込む。できるだけ身体を縮こませる。手足を伸ばし風をもろに受ければ、後ろにふっ飛ばされ尾翼に激突するからだ。


 アデライドは自分自身を、飛行機から投擲した。


 数多の女性工作員たちが辿ったのと同じ道程。現地組織と合流するまでは、これでひとりきりだ。だが果たして、合図を寄越した信号手がナチの手に落ちていないと断定できるのだろうか。


 考えている暇はなかった。なにしろ釣瓶のような落下だ。耳元で風が轟々と唸りをあげる。激しい気流が全身を滑っていく。飛行機の視点から鳥の視点へと高度が落ち、ゴーグルの向こう側に広がる世界がぐんと縮こまる。


 でも焦りはしない。訓練通りにやればいい。アデライドはパラシュートのDリングを引っ張った。背中からするすると蜘蛛の糸じみてサスペンション・ラインと風防が伸び始め。


 開傘。衝撃。ぐんと身体が持ち上がる。突然不可視の怪腕につまみ上げられたようにすら思えた。降下速度が急減する。飛行帽からはみ出たアッシュ・グレイの髪が舞い踊った。全身で勢いを殺していたというのに、圧力に眼球がまろびでそうだ。華奢な肉体を構成する、全身の骨がぎしりとなった。


 束の間すべてが静止する。


 頭上には万華鏡のようにさんざめく星々。眼下には長閑な田園風景。夜空と大地の狭間に囚われているのだ。アデライドは目を見開いた。錯覚だという自覚はある。ここからは距離がありすぎる。なにより戦争中の灯火管制により都市は闇にまどろんでいるはずだ。


 だから。ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに視認できるはずがないのに。自然と目の端から滴が溢れだした。漸減されたエネルギーに掬われ涙滴が宙を舞う。


 なんてことだろうか。


 候補生のなかでもっとも冷静だと教官が褒めてくれたというのに。こんな幻視を自分が抱いたことを信じられなかった。


 はるか彼方にあるのは、めくるめく光の粒子たち。目も眩まんばかりの銀の水面。


 たしかに見えたのだ。パリの灯火が。


 背景の闇と都市の光が織りなすコントラスト。輝きのなかにこそ――私がいる。あの無数の明かりのひとつに、忘れえぬ昔日もまたあるのだ。


 まぼろしだと理性が告げていても、すばらしい眺望にいっとき心を忘れずにはいられなかった。


 まばたきする。視界に広がるのはただの月夜だ。パリは消えていた。時間がゆるやかに動き出す。風防素材に絹を使用した半球型パラシュートが、落下途中のアデライドの肉体と速度を受け止めている。打って変わった穏やかな降下。いまやイギリス人工作員は風に舞う一枚の羽根となり、ゆっくりと地表に向かっていた。


 見上げれば、上空五〇〇メートルにいる古臭いが幸運で頑強な機体が翼を振ったように見えた。パイロットはエンジン音をたてながら遠ざかっていってしまった。ライサンダー機内というイギリス製空間が失われ、フランスがすべてとなる。


 涙が肌を伝う。


 アデライドは気付く。

 なんで私は泣いている?


 わかりきっている。パリを幻視したからだ。この十年、思い出というガラス細工の箱に収め、そっと愛でるだけで満足していたというのに。


 記憶が、日々が、過去が渦を巻く。爆発的に感情が膨れ上がる。少女であったころ、初めて唇と唇を重ねた一夜の記憶が色鮮やかに蘇る。

 そこに性愛なぞあるはずがない。大人からの、おさなごへの戯れだ。


 でも。なんて。なんて温かいのだろうか。


 熱量だ。熱量が我が身を焦がす。


 ここにはひとりきり。空にいれば孤絶していられる。あらゆる壁はなく、自分で掴み取った空間だ。両親からも国家からも、なにより神すらからも咎められはしない。

 内心は自由だ。内から思いが生じ始める。情動に突かれ、だが何者にも悟られぬよう、アデライドは音にせず囁く。


 ねえ、リーザ。あなたはパリに、まだいるの。スラヴを奴隷化しようとするナチの手は、まだ届いていないの。きっと聴こえないとは思うけれど。


 会いに来たんだよ。

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