一人娘の婚活
江東うゆう
第1話 田舎屋敷の相続準備(茶室付き)
「だいぶ、きれいになったなあ」
父が額の汗を、白くて薄いタオルで拭いた。私はジャージのポケットに突っ込んであったタオルハンカチを首筋に当てる。汗がえぐいくらいにタオルに吸い込まれていく。お肌の潤い用にとっておいた水分まで、持っていきそうな勢いだ。
やってられない。
私は顔を上げる。
目の前には、古い田舎屋敷。父方の祖父母の家だ。祖母は麓の赤十字病院に入院中、祖父が一人で住んでいる。通いの看護師さんたちがいるけれど、ケアマネージャーの話では、もうそろそろ一人暮らしは厳しいという話だ。
確かにそうかもしれない。祖父は、今年95歳になる。
〝おまえが家に帰ってこればいい。〟
祖父は父の顔を見るとそう言う。だが、父も、まだ、ここから飛行機で1時間半離れた地方都市で、会社の役員をしている。
「やあやあ、がんばったなあ。茶でも飲もう」
呑気な父は、祖父の言いつけ通り、貴重な夏休みをいつもここで過ごす。母はとうにイヤになっていて、十年くらい前から、友だちと海外旅行に行くようになった。
父は草の汁で濃い緑色になった軍手を脱いで、縁側から家に上がった。
私は麦わら帽子を脱ぎ、深呼吸する。しゃがんで手の届く範囲の草を取り続けると、胸が圧迫される。草抜きしながら、大きく息をすることなんて無理なのだ。そもそも、草臭いし。
「ほらほら、麦茶」
父が大きな金色のやかんと、マグカップ二つを持ってきた。一つは瀬戸大橋が、もう一つは倉敷の町並みがプリントされたもので、父や私が旅行に行ったときのお土産として、祖父母に贈ったものだ。父が「使おう」というまでは、ガラス張りの戸棚の中に飾られていた。
父がマグカップを縁側に置いて、麦茶を注いだ。私は縁側のふくらはぎにたかる蚊を手で払いながら、麦茶を飲む。
「いつ眺めても、ここはのどかだなあ」
縁側に腰掛けた父の方へ、蚊が飛んでいった。だが、長袖長ズボンに阻まれ、こちらに戻ってくる。
「他に家がないもんね」
私は素早くマグカップを置いて、蚊を打った。
「蚊にかまれたか」
父が心配そうに私の足元を見た。
「
「大丈夫。お父さんこそ、あんまりシャツのボタンを外さないでね。首筋やばいよ」
父はひらひらと手を振って見せた。わかった、という合図だ。
「ところで、これが終わったら、茶室に入ってみんか」
私は母屋の隣にあつらえられた、ひときわ上品な建物を思い浮かべる。にじり口の中は、いつもきれいにされていた。祖父が腰を痛めて入れなくなってからは、親戚のトンさんが週に一回やってきて、整えてくれる。
「トンさんに黙って入っていいの?」
「夕方にトンさんがくるんだ」
トンさんは頼りになる人だ。遠方に住む父に代わって、祖父や家のことを見てくれている。曽祖父の兄弟の子どもで、父とも幼いころは一緒に暮らしていた。ワインが好きで、うちからのお中元とお歳暮はいつも、うちでは飲まないような良いワインを贈ることに決まっていた。
「へえ、楽しみだね」
トンさんと一緒なら、私も良いワインを飲ませてもらえるかな、などと思いながら、頬を緩ませる。
「うん、紬に話があるって」
父の表情は、少し硬かった。
一人娘の婚活 江東うゆう @etou-uyu
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