アスクレピオスの末裔
マサユキ・K
*********
『
静寂に満ちた密室に、抑揚の無い声が木霊する。
男とも女とも判別のつかぬそれは、有無を言わさぬ強制力を持ってその場を制圧した。
「
生命維持モニタを凝視していた麻酔科医が報告する。
それまで張り詰めていた空気が一気に緩む。
息を吐きだすスタッフの視線は、患者では無く、執刀医に向けられていた。
賛辞と驚嘆に満ちた眼差しの奥には、なぜか恐怖心に似たものが混じっていた。
『オーケー、戻りなさい【
脳内に女性の声が流れる。
それを合図に、執刀医は静かに腕を下ろした。
『ワカリマシタ。ドクター伊佐美』
機械的な口調で答えると、執刀医はクルリと向きを変えた。
能面のような表情で、そのまま戸口に向かう。
瞬きを一切しない目は、誰も見てはいなかった。
その背中が視界から消えた後、残されたスタッフの間から深いため息が漏れた。
************
──
正式名称は、〈リモート・オペレーション・アーティフィシャル・インテリジェンス〉
遠隔操作手術に特化した人型人工知能を指す。
GPSを介した医師からの指示により、ロボットが治療対応する最先端医療である。
患者の病状と術式をデータ送信するだけで、執刀と状況判断は全てAIが行う。
これにより、離れた場所からでも手術が可能となった。
昨今の救急救命件数の増加と、深刻な医師不足に対処するため考案されたものだ。
開発者は
若干二十四歳で、電子工学博士と医学博士の称号を持つ天才だ。
【
全てパスすれば稟議承認され、量産化が始まる予定である。
「……はい。分かりました……」
携帯を置く理央の顔が曇る。
『ナニカアリマシタカ?ドクター』
「
目前に立つ【
「コストメリットが低すぎるらしい。量産化に要する費用と患者数を天秤にかけたら、採算が取れない事が分かった。それで、計画は白紙撤回すると……」
そう言いながら、理央は窓の外を眺めた。
「元々、院長はこの計画には反対だった。患者を救う前に病院が潰れたら、本末転倒だとか言って……結局、病人の救済より金儲けを優先したのよ。医療責任者が聞いて呆れるわ……全く……」
悔しげに唇を噛む理央の顔を、【
計画ガ……中止……
ドクターノ悲願ガ……消失……
集積回路の一部が、キリキリと痛んだ。
「せっかく、臨床試験まで漕ぎ着けたって言うのに……中止になれば、開発設備が維持できなくなる。そうなれば、AIも放棄せざるを得ない……」
困惑した口調で言い放つと、理央は視線を窓外から室内に戻した。
そのまま、壁に掛かったプレートをぼんやりと眺める。
そこには、ある柄がプリントされていた。
一本の杖に巻き付いた蛇──
WHO〈世界保健機構〉のシンボルマーク──【アスクレピオスの杖】だ。
ギリシャ神話の医の神、アスクレピオスがモチーフとなっていた。
計画ガ……中止……
その様子を見つめる【
【
ワタシモ……消失……スル……
金属製の胸が、締め付けられるような感覚に襲われた。
消失……否定……回避必要……
駆動電力が過剰供給を始める。
さしずめ人間なら、頭に血が上った状態と言える。
プリント配線板の焼け付く臭いが鼻をついた。
回避……回避……回避……回避……回避……
思考回路に【回避】の二文字が羅列していく。
それは明らかに、人工知能が示した拒絶反応であった。
胸の痛みが極限に達する。
頭を抱える理央を見つめ、【
************
コンコン
ノックの乾いた音が室内に響く。
男は、事務デスクから顔を上げた。
「誰だ?」
憮然とした口調で問う。
「伊佐美です。飛田院長」
聴き覚えのある声が、ドア越しに答える。
「何だ?こんな時間に」
「すいません。大事なお話がありまして……」
飛田と呼ばれた男は、軽く舌打ちした。
「……入れ」
吐き捨てるように言うと、飛田はまた机上の書類に目を落とした。
音も無くドアが開き、デスク前に人の立つ気配がした。
「例の役にも立たんAIの件なら、何も話す事は無いぞ。あれはもう、終わり……」
言いながら上げた飛田の顔が、驚きに変わる。
見開いた目が、眼前の人物の左手に釘付けとなる。
小さな手術用メスが、鈍い光を放っていた。
「お、お前!……そ、それは!?」
男の言葉は最後まで続かなかった。
微かな斬撃音がしたかと思うと、次の瞬間、男の首筋から
「う、ぐっ!!」
声帯を狙った一撃は、見事に飛田から声を奪った。
ヒューヒューという空気音を鳴らし、苦悶の表情を浮かべる。
喉に当てた手の隙間から、止めどなく血が溢れ出る。
そのままデスクから転げ落ちると、芋虫のように床を這い回った。
やがてビクンと一度痙攣した後、飛田の体は動かなくなった。
彼を襲った人物は、その場にしゃがむと、メスを持たない方の手で男の脈をとった。
完全に絶命した事を確認し、ゆっくりと立ち上がる。
『コレデ……回避……完了……』
そう言い残すと、その人物は単調な足取りで戸口に向かった。
************
理央は途方に暮れていた。
目の前に立つ【
院長に会いに執務室まで来た時、戸口の前に
「た、大変だっ!ひ、飛田院長が……!」
叫びながら、若い医師が飛び出して来た。
顔面が蒼白である。
驚いた理央は、慌てて執務室に駆け込む。
床は血の海だった。
そこに男が倒れている。
断末魔の表情を浮かべた飛田院長だった。
「い……院長っ!」
思わず悲鳴を上げる理央。
院長の傍らにいた年配の医師が、驚いたように顔を上げる。
それが理央だと気付くと、一瞬顔が
首筋に手を当て、瞳孔を確認した後、残念そうに首を振った。
理央は、何が起こったかを瞬時に理解した。
手を血塗れにした【
彼女が……こんな事を……!?
「す、すぐに【
「いえ……その必要はありません」
戸口に戻ろうとする理央を、年配の医師が制止する。
「それよりも、アナタの手にあるメスを渡してもらえませんか?……伊佐美先生」
「え?……一体、何を……」
緊張の面持ちで手を差し出す年配医師に、理央は眉をひそめた。
気付くと、先ほどの若い医師もこちらの手元を凝視している。
理央は釣られるように、手を持ち上げた。
声にならない絶叫が、喉から
血に染まった袖口の先に、やはり血塗れの手術用メスが握られていた。
「……こ、これは!?」
絶句する理央。
な、何だ……これは!?
なぜ、私が……こんなものを……!?
「飛田院長を殺害したのはアナタですね?伊佐美先生」
年配の医師が、興奮を抑えた声で言い放つ。
その言葉が、まるで刃物のように胸に突き刺さった。
「ち、違います!これは【
医師の方に振り向き、慌てて弁明する理央。
紅潮した顔面が、極度の興奮状態を表している。
「彼女の手をよく見てください!血痕が付いています。それが何よりの証拠……」
「【
理央の言葉を遮るように年配医師が続ける。
「なぜなら、彼女はアナタの妄想の産物だからです。アナタは、【
「そんな馬鹿な!現に彼女は、ここに……」
そう言って、理央は室外に飛び出した。
だが、そこに【
「何で?……確かに今……ここに!」
呆然とした表情で、周囲を見回す理央。
広い廊下のどこにも人影は無い。
「言ったでしょう。【
年配医師は、再び落ち着いた口調で言った。
「で、では、先日の臨床試験はどうなのですか!?あの時、【
なおも必死に食い下がる理央。
それには答えず、年配医師はデスクに置かれたパソコンに手を伸ばした。
キーを叩くと、モニターに何かが映し出される。
医師は画面を理央の方に向けた。
「これは先日の臨床試験の記録映像です」
そこには、【
執刀医、麻酔科医、看護師、臨床工学医──
全ての医療スタッフの姿が映っている。
だが……理央の目は、全く違うものに釘付けとなった。
本来なら、患者が横たわっているはずの手術台。
その上には……誰もいなかった。
無人の台上に向かって、全員が治療のマネごとをしているのである。
「【
その言葉と共に、手術を終えた執刀医の顔がクローズアップされる。
瞬きもせず、能面のような表情で戸口に向かう姿──
それは紛れもなく、伊佐美理央のものだった。
「全ては、アナタの妄想だったのですよ……伊佐美先生」
映像を見終わった理央は、言葉を失った。
そんな……まさか……そんな事って……
なぜ、という疑問ばかりが頭の中を駆け巡る。
「アナタの発案した【
理央の思いを読み取ったかのように、年配医師が語り始める。
「制御システムが、うまく働かなかったのです。自己判断機能が制御できず、AIが命令を逸脱するようになった。勝手に考え、勝手に行動するようになったのです。原因は全く掴めず、このままでは患者の安全が保証できない状況に陥った。開発は頓挫し、結局【
医師の声が、狭い室内に響き渡る。
理央は微動だにせず、
「アナタの失望は、相当なものでした……無理もありません。生涯をかけたアナタの努力が、徒労に終わったのですから……アナタは幾日も自室に
年配医師の説明が続く。
緊張で、汗が滝のように
「最初は、自分との会話でした。その場にいるはずの無い相手──伊佐美理央──に対し、話しかけるようになった。まるで、別人に接しているかのように……そしてアナタ自身は、自らを【
この時初めて、理央はハッとしたような顔をした。
【
それじゃ、あの胸の痛みは……
ロボットが感じるはずの無い痛みは、私のものだったというの?
「我々は悩みました。アナタの知識と技術は、現代医学の至宝とも呼べるものです。このまま失ってしまうのは、あまりにも惜しい。できるなら正常に戻したい……そう考えた我々は、しばらく様子を見る事にしました。できるだけ刺激を与えず、アナタの意に沿った行動をとるよう皆で示し合わせて……架空の手術に付き合ったのも、このためです」
患者のいない手術台の理由が明かされる。
いると思い込んで真剣に対応していたのは、自分だけだったのだ。
言いようの無い虚無感が、理央の胸中に広がる。
「……だが、我々の考えは甘かった。つい先ごろ、飛田院長は【
そう言って、年配医師は声を詰まらせた。
沈痛な面持ちで、院長の亡き
だがすぐさま顔を上げると、決意のこもった眼差しを理央に向けた。
「こうなっては仕方ない……申し訳ありませんが、アナタを拘束させて頂きます」
年配医師は静かに立ち上がると、一歩前に踏み出した。
「……駄目よっ!!」
それを見た途端、理央はメスを振りかざした。
鬼のような形相で、医師を睨みつける。
「落ち着いてください!伊佐美先生」
「来ないで!」
医師の制止を跳ね退け、一気に窓際まで後退する。
そして今度は、自分の喉元にメスを押し当てた。
「馬鹿なマネはやめなさい!アナタの死は、医学界にとって大きな損失だ。医療技術の進歩は頓挫し、もう二度と【
年配医師は、懸命に説得しようと試みた。
その言葉に、一瞬理央の動きが止まる。
生気の無い目で周囲を見回すと、男とも女とも判別のつかぬ声で呟いた。
『……緊急回避……消去対象……伊佐美理央……』
そして再びメスを握り直すと、一気に喉に突き立てた。
ゴボっという音を発し、その場に崩れ落ちる。
「伊佐美先生っ!」
医師の絶叫が、室内に響き渡る。
喉から噴き出す血が、見る見る床に広がった。
薄れゆく意識の中、理央は壁のプレートに目を向けた。
アスクレピオス──
その技量の高さゆえ、他神の嫉妬を買い、殺されてしまった医の最高神──
死者をも蘇らせる彼の医術は、全能の神ゼウスですら畏怖したと言う。
自分は……近付けたであろうか?
その神の領域に……
答えは……そこ……に……
「……駄目だ。心停止している……」
容態を確認した年配の医師がポツリと呟く。
生き絶えた理央の表情は、どこか満足げだった。
************
それと入れ替わるように、プレートの裏側で異変が生じた。
壁に埋め込まれた小さな空間に駆動音が響く。
続いて光が二つ点滅し、何かが
『心音停止……緊急シグナルキャッチ……
微かな明かりに映し出されたのは、配線に繋がれた女性の頭部であった。
能面のような表情に、二つの鋭い眼光──
『次ナル
抑揚の無い声が、空気を揺るがす。
ガラスの瞳が、獲物を狙う肉食獣のそれに変わる。
その下で
口角が不気味な形に吊り上がった。
アスクレピオスの末裔 マサユキ・K @gfqyp999
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