redo

トム

redo



 PiPiPiPiPiPiPi……。


 頭のすぐ上で喧しく電子音が鳴り響く。モヤモヤとした微睡みの中、うるせぇなと思い、起きることに反旗を起こして布団をかぶろうとした途端、何かが頬を舐め上げた。


「……ニャァ」

「……うぅ、わかったよ」


 薄く目を開けると目の前にはちょこんと『福』が座ってこちらを見下ろしている。観念して「ふぅ」と短く小さなため息を漏らすと、布団をガバリとめくってから身体を起こす。未だに五月蝿く鳴っているスマホをタップして、「うぁ~」とだらけた声を出しながら、両腕をこれでもかと伸ばした瞬間、背中がバキリと音を立てた。


「ぐはぁ! 痛ってぇ」


 寝る態勢が悪かったのか、それとも疲れが腰に溜まっていたのか。ベッドの上で悶える俺を、「……馬鹿なことしてないで早く飯!」と言わんばかりにもう一声鳴いた福が、音も立てずにベッドから降りる。痛みに苦しみながらも眺めていると、振り向きもせず、奴は尻尾をピンと立てて寝室を後にした。


「……クソぉ、猫にまで負けた気がする」



 人生で二度目の一人暮らしをするようになって数年が経った。初めての一人暮らしは大学に合格し、親元を離れて田舎から地方都市へと出てきた時だ。小さな二階建てのアパートで、所謂トイレと風呂が一緒になったユニットバス付きの1Kタイプ。ベランダすら付いていない8畳程度の洋間に半間はんけん程度のクローゼット。Kと名の付いたキッチン部分は部屋ではなく通路だ。小さなシンクと電熱タイプのコンロがセットになったシステムキッチンが備え付けられ、すぐ隣に洗濯機置き場。対面がユニットバスで、洗面台はない。そんな小さな部屋で、都合9年近くも暮らしていた。



 ――そろそろ大きい部屋に住まない?



 大学を卒業し、就職先も自宅の沿線圏内で見つけ、唯々諾々と社会の歯車となって5年、大学時代から付き合っていた彼女にそんな言葉を聞かされた。実家には年1度か2度程度しか帰っていなかったが、その時ばかりは両親や親戚一同が集まって祝ってくれた。



 ――おめでとう! まさかお前が最初に結婚するなんてなぁ!


 ――おめでとう! 次は孫の時だな――。



 それを言っていたのは叔父さんだったか、会社の上司か……。今はもう思い出せない。


 数年後、同じ沿線沿いの少し離れた場所にマイホームを買うことが出来た。4LDKタイプの一軒家。駐車場と小さな庭が付いた、建売住宅。ハウスメーカーが作ったその一帯は同じ様な家が並んでいたが、それでも一国一城の主になった感慨は男として言い表せないほどに嬉しかった……。


 

「……子供の受験のことなんだけど――」

「……ねぇ、あの子が……」

「あなた、子供のことが――」

「――ねぇ、あなたは私達のことを……」



 ――子供の事はお前に任せてあるだろう? 明日は得意先の接待なんだ。悪いが寝かせてくれ――。



 何時からそうなっていたんだろう……。何時からそう思っていたのだろう――。



 家族の為に。妻や子供が苦労しないように……。何があっても困らない為に……。



 いや、そんなのは全部いい訳なんだろう。



 ただ逃げただけだ。



 家族から。



 責任から……。



 結果、ダイニングのテーブルの上には緑色した紙と指輪だけが、ぽつんと置かれていた。ガランとした家には何もなかった。いや、家具や俺のものはそのままだ。


 ……ただ、妻や子供たちの物だけ、何も残っていなかった。


 ――想い出すらも何もかもが。



 そこから全てが暗転した。


 会社に報告し、数日の休みを貰い、妻の実家へと赴いたが、けんもほろろに追い返される。何年も前から話を聞かなかった俺の責任だと責め立てられた。実家からも同じ様な叱責が両親から飛び、遂には縁を切るとまで言われてしまう。もうどうにもする事ができず、自暴自棄になって判をついて役所に届け、会社に戻った。



「……異動ですか」


 弱り目に祟り目とはこの事か。それまで順調だった得意先が粉飾決算で倒産したのを皮切りに、俺の仕事先がどんどん失われていった。何故かそれで変な噂が立ち、結果として窓際へと出向させられた。最終的には何の仕事もさせてもらえず、行けば「辞表はまだかね」とはっきり言われる始末。数十年、身を粉にして奉仕し続けた結果がこれかと落胆し、上司に封筒を叩きつけた帰り道、河川敷でぼうっと川を眺めていた。



 赤く染まった川の流れを見ていると、穏やかに流れる川の流れにさえムカついた。側に落ちた石を拾い、思い切り投げてみると、パシリ、パシリと水面すいめんを跳ね、何度かそれを繰り返して水面みなもに沈む。――水切り、石切り……だったか、等と意味もなくそんな言葉を思い出していると、どこからかミィミィと言う鳴き声が聴こえてくる。ふと気になってそちらへ視線を巡らせてみると、川の側に生えた背の高い雑草がガサガサと揺れ、そこから小さな黒いかたまりが這い出てきた。


「……ん? 猫? 小さいな、親は居ないのか?」


 少し奥の方を見てみると、そこには朽ちた段ボール箱が転がっている。何だと思い、側まで近寄って覗き込むと、中で息をしていないガリガリに痩せた猫が見つかった。


「……産んで、力尽きたのか」


 そこには数匹の同じ様な色をした仔猫が居たが、どの子も既に息をしていないようで、皆固くなっている。這い出てきた仔猫もそれが精一杯だったのか、俺の足元でくたりと倒れ、そのままじっとしてしまった。


「おい、お前まで死んじゃだめだ」


 その小さな仔猫を持ち上げると、かろうじて息をしているのが分かった。急いで病院へと思ったが、生憎動物病院なんて分からない。どうしようかとオロオロしていたら、不意に声がかけられた。


「どうか、されましたか?」



◇  ◇  ◇



「いや、助かりました」

「いえいえ、良かったです」


 その人は河川敷をたまたま犬の散歩に訪れていた。夕方に河川敷に居た俺を見かけ、見るとはなしにぼうっと見ていたそうだ。石を投げ、ふと川に向かって歩き始めた俺を見て、どうしたのかと思っていた時に、犬が吠えたのでまさかと思い、近づいたら仔猫を抱き上げオタオタし出したので、声を掛けてくれたのだと……。


(……身投げでもするかと勘違いさせたのか)


 先程の自分の行動をかえりみ、気恥ずかしさであははと後頭部あたりを掻いていると、獣医の先生に声を掛けられる。どうやら産まれてすぐ授乳も出来ず、衰弱してはいるが、このまま入院して養生すれば大丈夫だろうという事だった。


「それで、この子の事はどうされますか? このまま飼うという事でしたらそう言う処理を行いますが、飼わないなら、役所に連絡をしないと――」


 

 今まで、動物なんて飼育した経験など一度もない。まして猫などは我儘で、気まぐれだとよく聞く。……人とすら上手く付き合えなくて独りになってしまった俺だ。そんな俺が――。


 その時、頭の中で一瞬にして色々な事が巡る。



 ――パパ! おかえりぃ~!


 ――あなた、こないだ、あの子が寝返り打ったのよ。


 ――これからは三人になるわ。頑張ってね、お父さん!


 ――大好き!



 あぁ……。なんで。なんで今更こんな事を思い出すんだ!


 それは、離れていった娘や妻と一緒に笑えて居た頃の想い出だ。何故か逆再生のように最近のことから始まり、最終的には大学の、まだ友人だった彼女からの告白シーン。二人で河川敷で水切りをして、回数が少ないほうが秘密の暴露をするというゲーム……。俺が5回跳ねて、彼女が3回だった。途端大きな声で俺にそう叫んで、真っ赤になった彼女の顔……。


「こ。これは夕焼けのせい!」




「……いえ、私が飼います。きちんと面倒見たいので、よろしくお願いします」


 ボロボロ落ちる涙を拭きながら、先生に頭を下げる俺を周りの人たちには、さぞ奇異に映っていただろう。




 何時まで経っても寝室から出てこない俺に業を煮やしたのか、全身黒い色をした「福」がのっしのっしと、その丸い大きな目を睨めつけるように戻ってくる。


「わかってるよ、……イテテ、寝違えたか。うぅ、腰がきついなぁ」


 言い訳ばっかするんじゃねぇと言った目で、俺がベッドから降りるのを確認して彼は俺の隣に付き、一緒に部屋を後にする。


 寝室の隣はすぐにリビングになっていて、太陽の光がカーテンの隙間から覗いている。遮光カーテンを引いて窓から入る光に目を細めていると、「みゃぁ」と催促の声が足元から上がったので、「へいへい」と応えてそのままダイニングへ向かった。


 家族で暮らした一戸建ては何とかすぐに買い手がついた。8割方を彼女に渡し、残った手持ちで今の賃貸に引っ越した。動物可能マンションは昨今増えているが、猫だと少し条件が厳しく、遂に今までの沿線からは遠く離れてしまった。まぁ、職も失った自分にとって、そこに拘る理由ももうなかったので、少し郊外に在る5階建てのマンションを選んだ。


 独りと一匹。2LDKは少し広いかとも考えたが、家賃の安さや買い物などの利便性を考えて、ここに決めた。家財道具は使えるものを残して全て処分。越した当初は色々煩雑な書類や、役所への届け出で苦労したが、なんとか全てをやり遂げて病院から、彼を連れて帰ることが出来た。少しの自堕落生活の後、就職活動にいそししんではみたが、初老になった俺に世間の風当たりはキツく、最終的には派遣労働者として工場勤務が決まり。そうして2年、真面目に働いたことが認められ、身分だけは非正規ではなくなった。


「うにゃ!」


 つい、ふとした事で思い出に浸っていると、すぐに彼が文句を言ってくる。


「わかってるよ、……っとにお前は俺のおかんか」


 彼の食事を用意しながら、昨日買っておいた菓子パンをダイニングで頬張ると、電気ケトルで沸かしたお湯をインスタントコーヒーを入れたマグに注ぐ。カリポリと小気味いい音がして彼が食事をしているのを聞きながら、「うまいか?」と来ない返事を期待しながら声をかける。


「……」


「…っとにそっけないお方ですなぁ」


 と、分かっていながらさも残念そうに言うだけ言って、コーヒーを一口啜って、仕事に行く支度を始めた。


 洗面所で顔を洗い、着ていたパジャマを洗濯機に放り込んで、そこに掛けていた作業着に着替える。跳ねた髪を水でどうにか抑え込んだ後、ダイニングに戻ってみると、彼の食事は済んだのか、リビングのキャットタワーに登っている。水だけを入れ替え、マグを流しに置いて一旦寝室へ戻ると、リュックを背負って部屋を出る。


「福、今日も留守番頼んだぞ」


 振り返らずにそれだけ言うと、玄関のドアに手をかける。



 ――行ってきます!



 長い間言わなかった朝の出掛ける挨拶……。



 ここからだ。



 まだやり直すことは出来るんだから……。



 だから、胸を張って。



 ――ミャ!



 玄関の扉が閉まるその瞬間、微かに彼のエールが聴こえたような気がした。




~完~

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redo トム @tompsun50

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