第14話:虚無
目が覚めると、そこは知らない天井だった。
ツンとした消毒液の匂いと、生死を交互に跨ぐ独特の香り。
ここが病院だということは、すぐに気がついた。
起き上がろうとすると、身体中に激しい痛みが走る。
その痛みと同時に、自分が車に轢かれたんだと認識する。
俺は僅かに動く腕をなんとか伸ばして、ナースコールを押した。
すると、病室のドアが開いたと思えば、随分驚いた表情をした若い看護師が「目が覚めたんですねっ! よかったぁ~」と、大きな声で喜んでくれていた。
その表情を見て、俺は「何をそんなに喜んでいるのだろう?」と、どこか冷めた気持ちになってしまう。
少し時間が経つと、医者が寝ている俺の横に座って、説明をしてくれた。
医者が言うには、俺はかなり危険な状態だったらしい。
交通事故で負った主な怪我は、頭部外傷、両脚の骨折。
全身打撲、他にも細かな傷を上げたらキリがないらしい。
場合によっては、身体に痺れなどの障害が出るかもしれない。
リハビリ次第では元の体に戻るかもしれないが、全ては俺次第らしい。
他にも色々言われた気もするが、俺にとっては、正直どうでもよかった。
まるで、他人の話を聞いている感覚に近かったからだ。
すべての説明が終わると同時に、医者も一息つく。
「それからね……」と、今までの話が世間話でしたと言わんばかりの表情で、俺に告げる。
「君はうつ病だよ。診断書を書くからしばらく休みなさい」
俺は頷いたのだろうか。
それとも声に出して返事をしたのか、それすらわからなかった。
けれど、気づいたときには病室で一人になっていた。
ふと、窓の外を見る。
天気は、これでもかというくらいに雨が降っていた。
俺はそっと窓に手を当てる。
冷え切った窓の温度がどうにも心地いい。
(何をやっているんだろうな……)
すべてを失い、挙句の果てには怪我までして、他人にも迷惑をかけてしまう始末。
思い返せば、俺はなんであんなに必死に頑張っていたのだろうか。
馬鹿みたいに働いて、何の目標もなく、何かを変えたいと思っていて、頑張れば何かが変わると思って、必死に足掻いて、掴みかけていたと思っていたら、仲間からの裏切りや失望の嵐。
全て、矢野が悪かった?
否、これは間違いなく俺自身の自業自得なのだろう。
覆そうと思えば、もしかしたら出来ていたのかもしれない。
けれど、俺は決断できなかった。
選ばず、何もしないことを敢えて選択した。
故に、俺は弱くて、馬鹿で、愚かだったのだ。
ふと、彼女の姿が浮かぶ。
今彼女は何をしているだろうか?
ちゃんとご飯は食べれているだろうか?
学校は行けているだろうか?
……謝りたい。
知らぬうちに、俺の問題に巻き込んでしまったことを。
危うく、彼女の人生を狂わせることになってしまうところだったのだ。
(……あのまま死んでいればよかったのに)
もう、何もない。
何もないなら、もう……。
「……もう、どうでもいいか」
その言葉を口にすることで、俺の中の何かが壊れた気がした……。
# # #
――2週間が経った。
少しずつ体の痛みが引いてきていた。
しかし、どうにも両手の指や両脚が上手く動かせない。
両脚は仕方ないが、頭を打った影響なのだろう。
いかんせん、指が上手く動かせないのだ。
よく箸を落とすし、拾うのも一苦労だ。
とはいえ、いつまでもベットで寝たきりというのも考えものだ。
かといって、何かをするわけでもない。
只々、時間が過ぎるのを待つだけの日々だった。
最初のほうこそ、医師や看護師も気を遣って色々話しかけてくれていたが、今では何も喋らずに終わる日のほうが多い。
当然だ。
俺自身が会話を望んでいないのだから。
そんな、ある日のこと。
ベットで何をするわけでもなく、ボーっとしていると、珍しく看護師が笑顔で「久瀬さん、お客様ですよー」と、声を掛けてくれる。
「……久瀬さん?」
吹き抜ける風と共に、凛として透き通る声。
その声はどこか懐かしく。
それでいて、一番聞きたかった声だったのかもしれない。
ゆっくり声のほうを振り向くと、制服姿の彼女はどこか懐かしい。
そして、呆れたように深いため息をつく。
「……バカ」
そう言いながら、俺の横に置いてあった椅子にそっと座った。
それから、しばらく沈黙の時間が続いた。
せっかく来てくれたのに、話す気になれない。
何もできないし、どうすればいいのかもわからない。
すると、友利は袋から林檎を取り出す。
スルスル、と器用に林檎の皮を剥いていく。
「これ、よかったら」
「……」
ありがとう、と言いたいのに言葉が出ない。
お礼を言う気になれない。
目の前にある事実が、まるで幻のようなのだ。
俺は、ただ林檎を見つめるだけだった。
「……はい」
そう言って、俺の口元に林檎を持ってくる。
俺は作業のように、口を開けて無言で食べる。
僅かに甘さが口いっぱいに広がるのを感じた。
そんな俺の様子を見て、友利は何に納得したのだろうか。
優しく微笑みながら……。
「あなたが元気に喋れるようになるまで、私の独り言に付き合ってもらおうかしら」
彼女は、こんな俺に時間を使ってくれたんだ。
# # #
「学校では生徒会長なのにボッチなのよね……。可愛すぎるからかしら?」
「……」
学校のこと。
「スーパーでもバレンタインの季節は戦争ね、あなたも元気になったら付き合いなさい」
「……」
いつも立ち寄るスーパーのこと。
「家の前にぶっちょの猫がいるのよ、黒いの。まるであなたみたいに捻くれた目つきをしてるのよ、ふふっ」
「……」
家の前にいるデブの黒猫とじゃれたこと。
「今日はね……」
「……」
2月、3月と……。
友利と一緒に日々が過ぎていった……。
――――……。
そして、俺はいつの間にか退院することになった。
友利は俺を乗せた車椅子を押しながら、懐かしい自分の家に連れてきてくれた。
「んっしょ……っと。ふぅ、ただいま」
「……」
もう、いいのに……。
俺のことなんて、放っておけばいいのに……。
もう、俺にそこまでの価値なんてないのだから……。
それなら、いっそ……。
俺なんて、いないほうがいい……。
「……もう」
――死にたい。
そう言おうとすると、それを諭すように友利は俺の手を両手で握る。
「……っ、ダメ」
「……」
「言っちゃダメ、お願い」
「……」
彼女の眼は真剣だった。
俺は彼女の言葉に押し切られるように黙る。
俺が黙ったことで安心したのか。
そっと、俺の背中を撫でてくれる。
(……ああ、優しい手だ)
そんなことを思った。
そして、いつものように友利は俺に日常を語ってくれた。
「今日はね……」
「……」
それから……。
何も話さない俺に何度も、何度も話しかけてくれた。
心の傷にそっと絆創膏を貼るように……。
優しく……。
……優しく。
――そして、季節は4月になった。
ブラック企業で働く俺。死にかけたら女子高生に拾われる。 白雪❆ @project-sirayuki
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