遠い歌声

橘 紀里

海辺の出会い

 一つ昔話をしよう。とある寂れた漁村に一人の男が住んでいた。均整のとれた体つきだが漁師にしてはまあ普通の、どこにでもいそうな男。無精に伸びた髪と髭が気になるが、背がやたらと高くそこそこ整った顔に、どこかうれいを帯びた夕暮れ前の空のような灰青色の瞳が印象的で、村では若い娘から旦那のいるおかみさんにまで好かれていた。とはいえ、とりたてて浮いた噂が立つでもない。そんな男がある日、浜辺で不思議な生き物と出会った。


 夜空で編み上げたような紺青こんじょうの髪に、真昼の海の浅瀬に翡翠ひすいを溶かしたみどりの瞳。胸元を覆う髪と同じ色のひらひらとした布は何でできているものか、薄い胸は、それでもまあ少女おとめの形をしている。丸みを帯びた頬に尖った顎先、唇は桜貝のように小さく繊細で、思わず見惚れるほどに美しかったが、何より目を引いたのは、その下半身を覆う、あらゆる多彩な青を集めたような色とりどりの鱗だった。


「おじさん、そんなにじろじろ見ないでよ、えっち」

「……胸もねえガキな上に、ひょろひょろした魚の下半身あしで何言ってんだ。網焼きにして食っちまうぞ」

「やだ、食べちゃうだなんてやっぱりえっち!」

「うるせえ、さっさと海へ帰れ」

 ぶっきらぼうな男の言葉に、けれど幼い人魚はぷうっと頬を膨らませた。

「ちょっと、海の神秘の人魚姫を捕まえてその言葉、おかしいんじゃないの? この美しい声と容姿すがたに感嘆して……ほら、恋に落ちるとかあるでしょう」

「ねえわ」

 確かにその声は極上の竪琴が奏でるような透き通った甘い響きをしていたけれど、男はただ苦虫を噛み潰したような顔をするばかり。むしろ厄介ごとはごめんだとさっさと桟橋へと歩み去ろうとする。ぐぬうと何やら可憐な容姿に似合わぬ呻き声を上げた人魚は、さりとて本当に振り向きもせずに去ろうとする後ろ姿に、慌てた様子で声をかけた。

「ちょ、ちょっと待って。お願い!」

 その声に潜んだ切実な響きに男がぴたりと足を止める。振り向いた顔は胡乱げで、至極面倒そうではあったが止めた足が動き出す気配はない。人魚は浜辺に手をついて、びちびちとびれを振り回した。

「ちょっとうっかりしてたら干き潮で戻れなくなっちゃったの。後生だから海まで運んでちょうだい!」

「海までって、ほんのちょっとじゃねえか」

 人魚が座り込んでいる浜辺から波打ち際までは、大人の足ならわずかに十数歩というところだ。いかに幼いとはいえ、何とかたどりつけない距離ではない。

「こんな暑い砂浜で這っていったらこの真珠たまの肌が傷ついちゃうじゃない。海水って傷口からはすごくしみるのよ?」

 そんなこともわからないのか、とでも言わんばかりの呆れた口調に男がうんざりした顔になる。とはいえ確かに華奢な腕も、細い尾鰭も浜辺を進むにはあまりに頼りない。そもそも、もうしばらくこんなところで転がっていたら日差しに焼かれて干からびてしまいそうだった。


 海の底から響いてくるような深い深いため息を吐き、男は魚籠びくを地面に置いて、ひょいと人魚の体を横抱きに抱き上げた。細い体はしっとりとしていて、さらには思いかげずふわりと不思議な甘い香りがした。目を見開いた男に、人魚が我が意を得たりとばかりに、得意げに満面の笑みを浮かべる。

「うふふ、半魚の身だからって潮くさいとでも思っていた? 深海にだけ咲く海月花の精油をたっぷりつけてきたから、艶々つやつやいい香りなのよ」

「海月花……クラゲかよ」

「ちがうわよ! あいつらの方が海月花に似てるから、海月の名前を与えられたの。人間って、これだから無知で困るのよ!」

 ぷんすかと男の頬をつねろうとした人魚は、けれどざらりとした感触に驚いたように手を引っ込める。

「なにこれ、ごわごわにも程があるわ。髪だってまるで、海底の針藻のよう」

「うるせえな。ごちゃごちゃ言ってると放り投げるぞ」

「まあ野蛮——じゃなかった、ええと、失礼しましたわ。ご親切にどうもありがとう」


 にっこり笑った顔は取り繕う様子があからさまではあったものの、月下美人もかくやという華やかさだ。男はそれでも心動かされた風もなく、ざくざくと砂を踏み締めてあっという間に波打ち際へとたどり着く。そのまま構わずざぶりと腰まで浸かるほどに海の中へと進んでいく。


「待って、このままではあなたまで沈んでしまう——」

 慌ててそう言った人魚に、けれどふと男が口の端を上げて笑った。灰青の瞳が微かにけぶって、彼女をじっと見つめる。

「海の魔女は寂しい魂を誘惑して海に引き込む。そうして魔物の餌にするという」

 歌うように言った顔は静かなのにひどく不穏だった。人魚はふるりと身を震わせて、そのまま逃れようとしたけれど、彼女を抱いた腕はかたくなではないのになぜかそれを許さない。

「あの日、凄まじい嵐の中で俺は確かに魔女の歌声を聴いた。このまま沈んでも構わないと思うほど酔いしれて、だが、なぜか船は沈まなかった。そうして故郷へと戻った俺を待ち受けていたのは、崖上のほこらで俺の無事を祈り続け、海に呑まれた妻の訃報だった」

 静かだった男の瞳に嵐のような激情いろが浮かぶのを、幼い人魚は呆然と見つめた。烟っていた灰青色に苛烈な光が宿り、真っ直ぐに彼女を射抜く。

さらうなら攫え。代わりに俺はお前たちの全てを滅ぼしてやる。この渦巻く嵐のような嗔恚いかりがやがて凪いだ水面のように鎮まるまで、決して——」


 小さな人魚はほんの少し首を傾げ、それからそっとざらつく頬を引き寄せて包みこむように抱きしめた。

 怒気を孕んだ呪詛のような言葉が、微かな嗚咽に変わるまで。

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遠い歌声 橘 紀里 @kiri_tachibana

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