釜ヶ崎・2098

@maplin

釜ヶ崎・2098

  ンク……

  ゥンク……


 壁の向こうからかすかに聞こえた。


  トゥンク……


 ふむ。どうやらだいぶ興奮しているらしい。


  トゥンク……

   トゥンク……

  トゥンク……

    トゥンク……


 ここ、だれもが幸福をあきらめ亡者のように徘徊しているだけの〈釜ヶ崎複合体コンプレックス〉において、これだけ落ち着きのない魂(痰)も珍しい。

 どれ、少し様子を探ってみるかと思い、わしは「おい」と呼びかける。

 痰はビクッとして、しばらく動きを止める。

 1分ほどの沈黙のあと、


  トゥンク……

   トゥンク……


がまたはじまる。

 いやはや。これではおびえた獣だ。

 わしは可能なかぎり穏やかな調子で「お前さん、なにをそんなに興奮しているのかね」と問う。


  ざわ……

  なあにが「ざわ……」じゃ。ちょっとお話をしませんか?

  えっえっえっ。いや、自分は……

  そう。おぬしは痰じゃ。かといって思念というものが皆無ともいえないじゃろう。

  あっ、はい、いや、でも……

  でもいままで誰かと通信したことはない。そりゃ、ま、そうなるわな。わしはおそらく世界で唯一おぬしらと意志の疎通ができる「痰偵」なのだから。

  …ざわ…ざわ…ざわ…


「っへくちん!」


 おっと。くしゃみをしてしまった。

 とその拍子にのどから飛び出てきた痰が床に着地するやいなや、


  いてこましたろか!


とさっそく威勢が良い。

 おおむね、やつらはシャバに出てきた当初は冬眠状態にある。目覚めるのはしばらくたってからなのだが、こやつはどうも頭の打ち所でも悪かったに違いない。

 いつもは話し相手になってくれる可愛い分身だが、いまはどうにも鬱陶しい。

 わしは車椅子を操作してこやつを引き殺す。


  失礼。で、そっちはどんな感じ?

  いやー。ちょっと言いにくいっすね……

  まあまあ、袖触れ合うも他生の縁といいますやん……

  そうですね……ここだけの話、ナイスバディの女がすぐそばに倒れているんですよ……

  ほう……

  でもその女、どう見ても死んでるように見えるんですよね……

  なんと……

  しかも、僕が思うに、これはどうやら、……


 やつが言う「密室」とやらの内情を理解するのには時間がかかった。わしはやつの言葉による説明だけからその部屋を想像せねばならないのだが、しかし「密室」に限らず間取りの説明というのは像を結びづらい。イメージの転送がわしらのあいだで可能であれば良いのだが。

 特になんの飾りもない、薄暗い小さな部屋。縦に3メートル、横に5メートル、奥行きは4メートルくらいの大きさで、照明器具の類いはなく、右手の壁のかすかなひび割れからぼんやりした光が入り込んでいる。

 その部屋に裸の女が尻を突きだして倒れている。ヨガでいう「女豹のポーズ」に近いが、しかしその上半身はガクッと床に突っ伏して、その先に首がない。

 首はたいそう見事に切断されているようで、切断面は壁に吸い込まれたかのようにスムースだ。周りに血痕も飛び散ってはいない

 そして四肢にも欠損がある。

 手足の先端が切り取られているのだ。

 それは昔なにかで見た絵を思い出させた。女豹ではなく「犬」とかそんなタイトルだったが。

 この景色をやつは女の横から眺めている。右の乳房から50センチほど離れたところで。

 やつの正面、女のからだの向こう側には錆びだらけの鉄の扉があるが、それは内側からドアチェーンでロックされている。

 左手の壁の中央付近には閉じた磨りガラスの窓があり、それは宇宙へ通じているように暗い。しかしその暗さの質は星一つない夜空の暗さというよりも、人の入り込む余地もないほど壁にまわりを囲まれて光が射さないだけに違いない、とやつは訴える(しかし本当だろうか)。

 女のからだはその窓の手前側、左手の壁のすぐ近くにある。

 それ以外には室内に調度品といったものはない。

 わしは通路の壁を眺めてみる。

 なんの変哲もない壁。

 しかしこの壁の配置が重要だ。

 基本的にわしがいる通路は向こうの部屋をぐるりと一周するぐあいになっている。

 わしはある程度なら壁越しでもやつの「気配」を感じられる。やつはこの壁からさほど離れていない。とすると、やつの左手にあるという窓の位置もおおむね見当がつく。

 わしは車椅子を動かして通路をちょっと行ったところで右に曲がる。こちら側の壁に窓はない。つまりむこうの部屋の左手の壁はこの通路と壁を共有していない。いびつな増改築が日々繰り返されるここではよくあることだ。といって、向こうの部屋にあるという窓からからだをひねり出すだけのスペースがあるかというと、ない、と想像はできる。

 さらに通路を右に曲がると、なるほど鉄の扉がある。わしはしばらく押したり引いたりしてみたが、そもそも錆び切ってしまっており、わしの力ではビクともしなかった。

 さらに二度通路を右に曲がって元の位置戻ったわしは、こう告げた。


  お前さんのいうとおり、たしかにのように思えるよ。しかし、お前さんは、その、なんというか、犯人なのかねえ。

  いやいや!ぼくはなんにもしてないっすよ。

  そりゃお前さんはなんにもしとらんだろうが、お前さんの「本体」は……

  待ってくださいよ!ぼくと「本体」との関係性は……

  まあまあ、そうカッカしなさんな……


 これ以上やっこさんをいたぶる必要はなかろう。

 それより一旦、いまの状況を整理してみようか。

 わしは特に用もなくいつもの散策をしていた。といっても現在の座標ははっきりしない。わしはもう何年も〈釜ヶ崎複合体〉に囚われているからだ。わしが物心ついた頃には釜ヶ崎は無数の建築物がむりやりに繋ぎあわされる形でひとつの巨大な街=有機体を形成していた。〈釜ヶ崎複合体〉は一種の独立した都市国家でもあり、その運営は天才的なハッカー集団だともっぱらの噂だった。わしら日雇いの労働力に求められていたのは、〈釜ヶ崎複合体〉の巨大化と複雑化。わしが最初に手掛けたのは無数にはりめぐらされた空中回廊のコンクリートに穴を開けガラスを嵌める作業だったが(それによってかろうじての採光性を維持するのだ)、エンジニアと知り合ったことで電気系統を弄る楽しさにめざめた。わしは奥へ奥へと進んでいき、垂れ下がる電球の明るさを熱帯のバナナに似せる作業に没頭した(そのころの釜ヶ崎はすでに熱帯気候に属していたが、〈釜ヶ崎複合体〉のコアを成す21世紀前半由来の建築群はくすんで寒々とした色彩だった)。一仕事終えて目を醒ますといつの間にか次なる労働を求めるチラシが壁という壁に貼られている。そのうちの任意の一枚を手に取れば〈現場〉への道順が地図に示されているといった具合だ(そのたびごとに、しかし何者がこの複雑な迷宮の構造を把握しているのかと不思議だった)。わしはおそらくこの巨大建造物を理解したかったのだと思う。チラシは捨てずにリュックに積めて移動した。しかし地図を何百枚集めても一つの像が結ばないのだった。もはや賃金を貰いに行くこともなくなった。飯には困らなかった。炊き出しはどこにでもいた。乞食がどこにでもいるように。

 そうしてわしは長い年月をかすかに壁のひび割れから漏れてくるのを除いて日の光を拝むこともなく過ごし、ある朝梯子から落ちて車椅子になった。自分の年齢を数えるのはすでにやめていた。ここが建物の何階なのか、全体のなかで上のほうなのか下のほうなのか(「階」というものがこの場所でまだ意味を成すとして)すでにわからなかった。

 それからのわしはこの洞窟のような世界で移住を繰り返してはいつの日かその全体像を雷に打たれたように理解する瞬間を待ち望んでいる。ここに住み続けて困ることはなかった。時折どんがらかっしゃんと大音響で建物が崩落するのが聞こえたが、わしは不思議と無事だった。飢える心配もなかった。なんとなれば炊き出しは遍在するのだから。

 「痰偵」の能力について、語るべきことは少ない。「探偵」の能力が謎と巡り合いそれを解くことにあるとすれば、わしの能力はただの特殊なコミュニケーションの技術だ。「探偵」の推理力や情報収集能力をわしに求めるのは馬鹿げている。まあ、「それ」が発現したのは物心ついた頃だったし、わしは特に苦労もせず「それ」と折り合いをつけてきた、とだけ言っておこうか。

 ただ、痰については若干の説明が必要となるだろう。やつらの「人格」はそれを生み出したものに等しい。記憶はない(例外もあるが)。聴覚は「普通」だが、視覚は360度あり、視力はまんべんなく2.0相当。うらやましい限りだ。しかしやつらはすぐれて「視覚的」な存在ではあるが、粘菌のように自らの力で移動はできない(当たり前だが)。その他一般にやつらが出来ないと思われていることは、実際にやつらは出来ない。なにとぞ常識的に考えていただきたい。


 そうこうするうちに、やつが騒ぎはじめる。


  あっ!なんか音が聞こえてきました!

   キシ…

    キシ…

     キシ…

  って感じの、人が登ってくるような……


 すると、


  カチャ……


という音がわしにも聞こえた。


  そんな……!

   そんなことって……!

    うわああああああああああああああああああああ!

  どうした!なにが起きとるんだ!

  …ざわ…ざわ…ざわ


 やつはパニックになっていつまでたっても例の「…ざわ」を繰り返している(なぜだかやつらはオノマトペを好むのだ)。

 わしは壁に耳を当てて意識を集中する。すると、コンクリートの上を歩いているような音がしたあとに、


  ぬぷっ……

   くちゃ……


 と粘着質の音がかすかに耳に絡みついた気がした。


 それから、


  …ぱんぱん…ぱんぱん…ぱんぱんぱん、ぱん……


 という音が断続的に鼓膜をわずかに震わせる。

 ……肉が肉に叩きつけられる音。

 しばらくして、来たときとは逆方向へ進む音。カチャっという音。

 木の板が軋むような音がして、しかしすぐに闇へと飲まれていく……。


  ハハハ。ぼくは勘違いをしていました。ぼくがいるここは、床ではなくて、垂直になった壁だったんだ……そして女は、首を切られて倒れているんじゃなくて、壁に埋め込まれていたんですよ……。窓はね、床下の明かりのない階段に繋がっていましたよ……ハハ……ハハハ……ハ……………………


 通信が途切れた。

 寿命であろう。


 つまりはこういうことか、とわしはひとり考える。

 かつて部分的な崩落が〈釜ヶ崎複合体〉に起こり(よくあることだ)、ある部屋が90度回転した挙げ句にこの階層にたまたま引っかかった。気管支にへばりつく痰のように。

 その部屋に、誰かが木製の上り階段を取り付けた。一種の秘密の屋根裏部屋のようなものかもしれない(もちろんそれはどのような意味でも「屋根裏」ではないが)。

 そして「壁埋め」が行われる。その特殊な性癖がどのような技術で成り立っているのかは、わしのあずかり知るところではない……。

 ある日、男は(おそらくコトの最中に)痰を吐く。そうして男が出ていったあとに、やつは目覚め、その「本能」に従って目の前の女の胸に「胸」をときめかす。

 やつは状況をだと誤認する。だが実際は、なのだ。


 ふう、とわしはため息をつく。

 そして近いうちに別の区画へ移住しようかと考えながら、散策の続きのために車椅子のブレーキを外した。

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