星の海
夜海ルネ
第1話
「人のために生きろ」
物心つく前から、僕を育ててくれたのは厳格な祖父だった。両親を交通事故で亡くしてから、僕は祖父母の家に引き取られ以来十年ずっと、その家で暮らしてきた。
「人のために生きろ」祖父によく言われてきた言葉だ。祖父は二十代の頃からずっと小さな食堂を経営してきた。寂れていて少し古臭く、現代風でもなんでもないけど、地元の人たちに愛されてきた食堂だ。おおかた祖父の丁寧なサービスが評判だったのか、味に定評があったのだろう。小さくてこぢんまりした店だったが、五十年もの間細く長く営んでいた。
そんな祖父が、先日、他界した。脳卒中だった。ある日の早朝、いつものように食堂の厨房で仕込みをしていて、突然意識を失って倒れ、それを発見した祖母が救急車を呼んだけど、手遅れだった。
葬式にはものすごい数の人が参列した。その多くが、祖父の食堂に通う常連客だった。中には、普段店に顔を出すことの少なかった僕のことを知るおじさんもいて、立派になったなぁ、と感慨深い表情で口にしては僕の肩をポンポンと叩いた。
中学生の僕は、学ランを着て火葬場の隅で黙りこくっていた。不思議と涙は出なかった。悲しんでいるのかもよく分からない。ただ、心のどこかにぽっかりと、穴が空いているみたいだった。それまでずっと、“じいちゃん“という存在が埋めていたその場所。祖父が死んで三日経っても、その穴が塞ぐことはなかった。
葬式が終わって、翌日には祖母が食堂を切り盛りしていた。もともと祖父母の二人だけでやっていた小さな店だったから、祖父亡き今必然的に厨房に立つのは祖母一人だけだ。一人で注文をとり、料理を作ってそれを提供するのは、七十歳を過ぎた祖母には負担が大きすぎる。そう思った僕は、ある日の夕飯時、祖母と二人きりの食卓で店の手伝いがしたい、と言った。
「拓也は気にしなくていいんだよ、勉強もあるし、友達とも遊びたいだろ?おばあちゃんは一人で大丈夫、なんにも心配いらないから」
のんびりした口調で、祖母はそう言った。僕が腑に落ちないまま口を開こうとすると、うちの孫は優しいねぇ、と僕の言葉を遮るように祖母がお茶をすするから、結局僕はそのあと何も言えなかった。
僕はその夜、夢を見た。幼い頃の夢だ。
「拓也」
幼い頃、厨房に立つその背中を見たとき、僕はなんとなく、祖父が遠い存在のように思えた。僕の存在に気づいた祖父が振り返り、僕の名前を呼ぶ。低くしゃがれていて、でも、そこには心地よい温もりがある。
「なに?」
僕が祖父のそばに寄っていき手元を覗くと、皺の刻まれた手が僕の頭の上にそっと置かれた。
「人のために生きろ」
「……じいちゃんみたいに?」
僕は祖父を見上げて尋ねた。祖父は苦い顔をして、
「じいちゃんは、そんな立派なもんじゃねぇさ」
どこか遠くを寂しい目で見つめた。
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