ピントの合わないディスタンス

@niwakagyara

ピントの合わないディスタンス

『ねえ、さゆちゃん』

『なに?』

 さゆちゃん、と私の名前を呼ぶ舌足らずな彼女の声が思い返せば心地が良くて、むず痒い。

 暖かくて穏やかな記憶。同じ保育園に通う彼女とどこかにいる。手を繋いでいたことは覚えていた。当時の私は彼女といつも一緒にいて、いつも手を繋いでいたと思う。だからどこにいたかなんて覚えていない。

 覚えているのは彼女の髪の綺麗な黒は当時からずっと美しかったということ、とか。

『わたしの――きれい?』

 私の瞳を覗き込んで彼女は問う。緩い風に揺れてたなびく彼女の髪。ほおを紅潮させた彼女が何を問うていたかは詳しく覚えていないけど、少なくとも私は素直にそれに応えていたと思う。

 だって本当にしおちゃんのそれは本当に綺麗だったから。

『うんっ。だいすき!』

『……そっか、嬉しいな』

 そんな記憶がある。時間の壁を隔ててずっと遠くに眠っているそんな記憶が。



 長い黒髪が彼女の足取りに合わせて揺らめいている。我の強い彼女の性格を反映するような、早くて一定のテンポの速度の歩み。

 夜の訪れを予感させる夕焼けの中で、彼女の癖一つない黒色の髪は目に留まって私の視線を離さない。この辺の中学生女子が志望校を決める理由にしてしまうくらい可愛い、そんな高校の制服も彼女のその美しさの前では色あせてしまう。同じ制服なのに着られてしまっている私――鹿角かづのさゆとは大違いだ。

 そんな彼女の後ろを離されないように私は歩いていた。

「相変わらず、綺麗な髪」

 ぽつり、つぶやいてみる。

 聞こえていたらちょっと恥ずかしい。勝手に呟いて勝手に照れそうになるも、彼女の様子になんら変わりはない。そりゃそうだよね、とも思うけど。

 彼女と私の間は数歩分の距離……ということはなく、おおよそ十メートルくらい。今の私たちを表現する言葉は「二人」ではなく「一人と一人」だ。なんから彼女は私がついてきていることを知らないだろうから後者の扱いすら不思議がると思う。

 私が勝手に付けているだけだからね。まあ家は同じ方向なので不純な動機100パーセントというわけじゃない。伊達に幼馴染をしていないので自然とそうなるのだ。自然とそうならない点としては彼女が帰宅する時間に合わせて私もそうしているということ。私は彼女の後ろ姿を見たくて狙ってそうしていた。

 彼女の髪が歩く度に揺れてたゆたう。その度に胸をくすぐられる感触がする。

 趣味と実利を両立するとはこういうことを言うのかもしれない。きっと言わないけど。 

 そうこうしている間に分かれ道がやってくる。

 私の家はもう少し直進したところにあるけれど彼女の家は右折したところにある。

 彼女に気づかれないようにさらに少し距離を取って物陰に身を潜めて、彼女がいなくなるのをいつも通り待つことにする。万が一見つかってしまっても帰宅中を装えばいいだけだけど、なんだかやましいことをしている自意識が私を隠れさせる。

 結局彼女は特に私のいる方へ目線をやることもなく直角もたるやというきびきびした動きで右の方へ曲がっていった。

 右折する彼女の横顔が眼鏡のレンズ越しに私の瞳に写る。張り詰めた弓の弦のようにきりりと鋭い彼女の目。昔は柔らかかったのに随分と研がれたな、なんて思ったりした。

「……ふぅ」

 今日も気づかれずに無事終えられたな、と一息。同級生たちが部活でさわやかな汗を流している一方で私が流してるのは見つからないかと怯えて冷や汗をかくくらいのものだ。不健全な気がしてならない。

 とぼとぼと私は私の帰路を辿りながらぼんやりと考え事。

 最後に彼女とまともに話したのなんて下手したら年単位で前のことなのに、彼女の姿だけはずっと追ってしまう。きっと不相応に近かった昔の距離感を取り戻そうとしていていて、恋しいんだと思う。取り戻せる日が来るなんて思ってないけれども。

 彼女――しおちゃん、大御門詩音おおみかどしおんとの距離感を。



「ストーカーじゃん!」

 昼休み。最近眼鏡の度の合わなくなってきたんだよなぁ、と指先で弄びながら目の前の友人の叱責されている。帰宅部って放課後何して過ごしてるの、なんて聞かれたことが会話がきっかけだったと思う。素直に、そううっかり漏らしてしまった。

「さゆ、あんた。ぼーっとしてる娘だと思ってたけれどそんな一面もあったなんて、新鮮よ」

「いやいや」

 ぼーっとしてるのは認めるけどね。

「家の方向が同じだから、ついつい見つけちゃうし目で追っちゃうだけだよ。野良猫を見つけた時みたいにね」

「野良猫て」

 猫ちゃんを例に取ることでなんとか話題の生々しさをマイルドにすることにする。少しだけ成功したのか友人の声色がほんのり柔らかい。いや、私に単に呆れただけかも。

 けれど実際私にとっては似たようなものだと思う。撫でようとしても逃げていく野良猫は遠目に見つめるのがせいぜいで、しおちゃんは私にとって今となってはそういう距離の相手だった。だから日々の中で目で追うことはできてもそれ以上の発展はなくて。話しかけようとしても距離感を失っているからうまくいかないと思う。

 遠目で彼女の姿を見るにも最近視力が落ちてきてよく見えないんだけどね。作り直さなきゃかな、なんて思いつつ眼鏡をかける。

「大御門さんねえ。確かにくりくりの髪のあんたが憧れるのもわかる綺麗な髪だけど……中学生並の身長のあんたが憧れるのもわかる背丈の高さだけど」

「辛辣……」

 ストーカーさんに気を遣うわけないでしょ、と愛すべき私の友人は吐き捨てる。特に言い返せる要素はないんだけども。

 大御門詩音、しおちゃん。昔は私の方が背が高かったのに気がつけばしおちゃんに追い抜かれてしまった。歩く速さだって私の方が合わせていたくらいなのに今や彼女に追いつくのにひいひい言っている。隣を歩けば足並みを揃えてくれるかもしれないけれど、前提があり得なかった。

 ちなみに髪は昔から綺麗だった。よく触らせてもらっていたのを覚えている。

「あと、大御門さんは目がね」

「眼鏡?」

 は? と怪訝な視線を向けられる。こほんと彼女は仕切り直して、

「目、目つきの話よ。綺麗だけど怖いっていうか」

「そうだっけ。後ろ姿ばかり見てるから印象薄いや」

「あんたね……」

 もうずっと彼女の姿は背中しか見ていない。幼馴染だといえば聞こえはいいけれど、いつからか疎遠になってしまった。なんならクラスメイトですらない。会話する機会がないから顔を突き合わせることもない。

 私の方からそうなのだから、しおちゃんからしたら私の顔なんてもう覚えていないんじゃなかったりして、まさかね。

「近寄りがたい空気があるっていうかね。確かに綺麗な外見をしてるのは認めるけれど、ツンツンしてそうで話しかけにくい感じ」

 ツンツン……過去のしおちゃんと結びつかない言葉が、今の彼女の話題になると沢山出てきて時間の経過を感じないでいられない。

 私は目の前の彼女くらいしか友達はいなくて、しおちゃんはいかにも美人ですと言った娘たちと一緒にいるのを学校でよく見る。誰かと一緒に帰っている姿は滅多に見ないけど私も一人だからおあいこだね。

「でも昔はお顔も可愛かったような。ほんわか〜って感じで」

「へえ〜」

 これ以上ストーカーの話に付き合ってられないよ、と言わんばかりの生返事なのでこの話題はここで止めることにして自分のお弁当と向き合うことにした。しおちゃんに向き合うことはいつまでも出来そうにないけど。


 昔は、昔はなんて。

 未練たらしく何度もその言葉を繰り返すのに肝心なことは何も言えないでいる。何を言えばいいのかも自分でもよくわからないんだけど。

 ぼーっとしてるとはよく言われるけれど、実際そうだと思う。しかし自分が何を思ってこの行為をしているかにすら鈍感なのは致命的なのではないか。

 そんなことだからこんなことになる。

「あっパスケース落としちゃってるよ、大御門さん」

「それはどうもありがとう……え」

 夕焼け時、いつものように彼女の後ろを歩いて帰宅していた最中のこと。彼女がパスケースを落としたのを見つけたからつい拾って声をかけてしまった。良いことをしたなぁ、と思えたのは数秒ですぐにそもそも自分がいわゆるストーキング中だったと気づく。

 パスケースを差し出すと彼女がゆるやかに手を伸ばして恐る恐るといった風に受けとろうとする。そのスローペースに違和感を覚えて、ふと『不審がる』という心の動きをジェスチャーにしたらこうなるのではないかと思い至る。やってしまった、ともその時気づいた。

「た、たまたま帰り時間が重なっちゃったみたいだね」

 数秒の間ももたなくて誤魔化すようにそういう。どの口が、と数少ない友人の声が耳元でした気がした。

 へへへ、とぼんやりとした作り笑いを浮かべているとしおちゃんの顔の怪訝の色がだんだんと薄くなっていく。嘘つきほどよく喋るとは言うけれどそれを自身で体験することになるなんて思ってなかったな。

 どれだけの沈黙があったか、クオリティの低い笑顔を維持し続けていると、

「……あぁ、鹿角ね」

「久しぶりだね」

 少なくとも話をするのはずっと久しぶりだから。

 そんな私のやぶれかぶれの誤魔化しが功を奏したのか、変な追求もなく彼女は綺麗な指で私からパスケースを受け取って懐にしまう。そんな些細な動きでも私の目を引く、特に指。白魚のような指は彼女の美が体全体、端の方まで行き渡ってることを示しているみたいだ。

 改めて彼女を見つめる。合法的に。一メートル程度の距離感は久しぶりで、近すぎて感情に反して背中がむずむずする。

 後ろ姿でばかり追っていた彼女。私のくりくりの髪と対照的な長い黒髪は彼女の背中は隠れてしまって正面からはよく見えない。目線のやる先もなくて彼女の顔を見つめるとじろりと向こうもこちらを見つめている。キリリと鋭い目尻に長いまつげ。その全てが私に向けられていた。

「眼鏡」

「うん? うん」

 不意にしおちゃんの口から単語が飛んできた。

「高校入ってからつけるようにしたんだ。最近また視力落ちてきちゃって、度が合わなくなって来ちゃったんだけど」

 しおちゃんのキラーパスの意図がよくわからなかったけどとりあえず要らないことまでペチャクチャ喋り倒すことにした。

 まさかしおちゃん、私の名前を忘れたから眼鏡呼びで乗り切ろうとしているんじゃないよね、なんて。さっき鹿角って呼んでたのに。

 眼鏡呼びは流石に嫌だな。昔のようにさゆちゃん呼びして欲しい、とまでは言わないけど。私だってしおちゃん呼びなんて中学生になった辺りから本人にはしてないし。

 けれど返ってきた言葉はある意味それより傷つくもので。


「眼鏡してるから、誰かわからなかった」

「……そっか」

 

 つい眼鏡を叩き割ろうかと思ってしまった。

 しないけれど。

「拾ってくれたお礼じゃないけど、コーヒーでも飲んでいかない? 奢るわよ」

 しおちゃんがちょうど近くに見えていた喫茶店を指差してそう言う。チェーン店ではない喫茶店。私は認識はしていたけど今まで一度も入ったことがなかった。気軽に誘う彼女は入ったことがあったり行きつけであったりするのだろうか。

 わからない。私は今の彼女のことを深く知らない。

 だから彼女が私のことを全然知らなかったのもおかしい話じゃない。

 でも、

「やめとく。今日は家族で食事だから」

 嘘だけど。適当な言葉を吐いた。昔の彼女は変に頑固だったから遠慮するより用事をでっち上げるほうが有効だと考えたから。

 この場にこれ以上いたくなかった。わかっていたつもりでいた隔絶も、実際に言葉にされてしまうと心臓を鷲掴みにされるようで気持ちが悪い。

 幼馴染としての意地か、それともストーカーと少したりとも悟られたくなかったのか、それらを織り交ぜたような感情。私の胸中を悟られたくなかった。 

「……そう」

 深入りや追求はなかった。心なしか声色は少し冷たくなっていた。距離の取り方が露骨だっただろうか。勘付かれてしまったなら申し訳ないことをしたと思う。

 彼女の表情はよく見えない。ちょうど夕日に晒されている彼女の感情は、ぼやけた度の合わないこの眼鏡越しにはとても読み取れなかった。でも、それで良かった気がした。

「またね、しおちゃん」

 つい昔の呼び名を口に出してしまったけれど、もう下手をしたら二度と会話をしない気がするからどうでも良かった。

 彼女に背を向ける。普段とは逆に私が先に歩いて帰路を辿る。彼女の後ろ姿のない道のりはなんだか色合わせて見えてつまらなかった。

 


 数学の授業中に指されて、わかる問題のつもりだったから内心胸を張って答えたらどうやら数字を見間違っていたらしく間違えてしまった。

『日頃の行いだね〜』とけらけら笑う友人の姿が頭から離れない。むむ、せっかく心を新たにしたところだったというのに。

 しおちゃんと久しぶりに会話をしたあの日から数日後の出来事。つまりは私の帰り道が何者にも縛れなくなってから数日というわけだった。

 まあ胸を張れることじゃないけれど。やるべきでないことをやめただけ。マイナスからゼロに戻っただけだから。

 ゼロということは何もないということで、胸の奥底が空っぽになって、発泡スチロールにでもなった気分。

 ただ何事もなく、本来あるべき位置に戻っただけなのに。

 あれからしおちゃんの後ろを歩くようなことはしていない。その縁を断ち切ってしまえば同じ高校に通っていても彼女との繋がりはなくて、ただの赤の他人に戻ってしまった。仕方ないとはわかっているけれども。繋がりを強く握りしめる努力をしてこなかった私が悪い。

 そんなわけで私は自由になり、放課後は特にやることのない時間帯を意味する言葉となった。数少ない友人も今日は部活らしく付き合ってはくれない。

「眼鏡、変えよっかな」

 ふと思いついたのはその程度のこと。これといって覗き込みたいものももう無くなってしまったけど、授業ですら困るとなると仕方がない。とりあえず視力だけでも測りに行くべきだと思う。

 近所のショッピングモールにでも行こう。と一人で校舎を出る。道標もなく、距離感を気遣う相手もいない道のりはとても退屈だ。

 ぶらぶらと歩く。途中までは通学路と重なっている道のり。こんなお店あったんだ、とか思うのはきっと気のせいじゃないんだろうな。

 そして大通りに出ていつもとは違う方向に曲がろう──としていたら物陰に連れ込まれた。

「えっ」

 予想してなかった方向から無理矢理身体を動かされて足取りが怪しくなる。腕だ。腕をぎゅっと握られて強く引っ張られている。逆らうのは難しそうなので、せめて転ばないようになんとか足の踏み場に気をつけてわたふたしていると、路地に連れ込まれていた。背後には壁、逃げられないように右腕私の顔の横を通過して突き立てる。

 いわゆる壁ドンってやつだった。

 そして犯人は、

「し……」

「し?」

「大御門さん」

 しおちゃんだった。そして顔が近かった。友人曰く圧の強いお顔が私だけに至近距離で向けられている。目を逸らしたくなるのに、逸らしたら何をされるかわからなくて逆に覗き込むハメになっていた。

「もっと運動した方がいいわよ。あっさり連れ込めて心配になる」

「そうだね、気をつけないとね」

 全く……と目の前の彼女が呆れたように呟く。私もなんとなく笑ってみる。

 なんだろう。他人を物陰に連れ込むことはしおちゃんにとってありふれたコミュニケーションのひとつなんだろうか。悪びれるとか誤魔化すとかが何もない彼女の様子に不安になってくる。

「鹿角」

「は、はい」

 迷いのない彼女の声色に私はたどたどしく返す。壁ドンはまだ続いていて、多分彼女に塞がれていない左側から抜け出そうとしても逃げられない気がする。金縛りにでもあったみたいだ。

 ……怒ってる?

 不思議とそんな気がした。昔から彼女は頑固だったけど流石にこんな行動には移らないと思う。私の知ってる昔の彼女の延長線が今の彼女とは思わないけれど。これはあまりにも、だ。

 それに、昔から怒った彼女の姿は……可愛かった。威風堂々とした目の前の彼女の姿、声色の中にほんの少しだけその香りがのぞいている気がしてならなかった。

「昨日、鹿角のお母さんに会ったんだけど」

「……あー」

 ぐいっとさらにしおちゃんが私の方へ踏み込む。近すぎる。互いの吐息すら感じられるような距離感。だったけれど彼女の前髪が私の度の合わない眼鏡のフレームに触れて、「いたっ」半歩分だけ距離を取った。

「邪魔ね、それ」

「無いと見えないし」

「そう。それで昨日鹿角のお母さんに会ったけど、全然家族で食事なんてしてなかったじゃない」

 話の芯は折れることなく、真正面から私へ投げかけられる。ばれたかと思った。どうせばれるわけないと高をくくって雑な嘘をついたことを少し後悔した。彼女は怒ってる、と言外に私に伝えてくる。変な感じだ。昨日まで彼女とあれだけ物理的にも距離を保っていたのに今は逃げ場がないくらいに近い。心は、わからないけど。

「そんなに私とお茶したくなかった?」

「そういうわけではないよ、大御門さん」

「なんで嘘なんてつくの」

「……勘違いしてて」

 予定の勘違いなんで嘘だ。しおちゃんとの関係性を勘違いしていて。私は今でも未練たらしく彼女に何かを望んでいたのに、彼女にとっては眼鏡一つでもやのかかるような関係性だって言われて、目を逸らしたかった。直視するくらいなら自分から逃げ出してしまいたくて嘘をついた。

 今だってそう、彼女に怒りの感情を向けられていてもなんだか嬉しくて変に希望を持ってしまう。でも同時にそれが嫌だったから。自分から離れてしまいたくなる。

「そんなに大したことをしてないのにお礼をされるのと悪いかなって」

「私がそうしたかっただけだから。鹿角にも文句を言わせる気はないわ」

「……強引だね」

 そうね、としおちゃんは悪びれずに言う。舌戦だと彼女の力強さに適う気がしない。のらりくらり誤魔化そうとしてしまう私とは対極でそれがまぶしく感じる。だけど今となってはあまり向き合いたくない性質だった。

「今日、眼鏡替えようと思ってて。忙しいんだよね」

 本当のことだ。でも嘘かもしれない。眼鏡を新調したところで私が本当に見つめたいものはもう縁遠いものになってしまっているから。

「駄目」

 彼女の言葉を聞かなかったことにする。なんだか今なら逃げられる気がして彼女の左側に身を乗り出そうとして上手く出し抜いて──制服の袖を引っ張られる感覚。でも、ここへ連れ込まれた時ほどの強引さはない。腕を振り払えば逃げられる、だから私はそうしようとして、


「……嫌いになったならそう言いなさいよ」


 彼女らしからぬ弱々しい声を耳にして、ばっと声の出所を振り向いた。 

 切れ味の鋭い彼女の視線は下を向いていて伺えなかった。それでも私と話す時にずっと私のことを射抜いていたあの視線から解放されているというだけで違和感を覚える。私は彼女の視線から解き放たれるくらいなら、刺し殺すように見つめられていたい。昔のように。

 後ろ姿ばかり見ていたから気づかなかったんだ。彼女が何を思っているかなんてわかるわけがなかった。後ろ姿は綺麗だけど何も伝えてくれないから。ストーキングして彼女のことを想っていたなんて変質的な詭弁だ。

 彼女に近づきたいなら一定の距離なんて保っていたらダメだった。踏み込むべきだったんだ。たとえば今日の彼女が私を連れ込んだみたいに。

 彼女は強引なのに少しだけ臆病だ。

 その少しだけを埋めるくらいは私がしないといけない。

「好きだよ」

 もう一歩、踏み込む。心も、物理的にも。

 彼女へ踏み込むと近すぎてまた眼鏡のフレームに前髪が振れる。日頃から彼女のストーキングはしていたけれどこんなにお近づきになりたいなんてカケラも思っていなかった。

 それでも後ろへ下がらなかった。


「好きだよ、昔からずっと。毎日ストーキングしちゃうくらいに好きだよ……しおちゃんのこと」


 彼女の瞳が驚いて丸くなる。

 私も驚いた、というより思い出した。私が本当に好きだったのは、なんだったのかを。


「なら、いいわ」

 ストーキングだって別に構わない、と付け足すしおちゃん。

「いいんだ」

「ええ。その程度には好きなのよ、あなたのこと。知らなかった?」

 それは知らなかったな、と思った。今のしおちゃんのこと、知らないことは間違いなくたくさんあるんだろうな。でもその中身を知ろうともしないで悲観しているのは間違っていたんだと思う。

 それに私だってしおちゃんに毎日ストーキングされたってきっと悪い気はしないなとも思った。

 しおちゃんの顔がほころぶ。切れ味の落ちて丸くなったその表情は久しぶりに見たもので、きっと学校の誰も見たことないんじゃないかな、なんて。



「じゃあお茶しに行くわよ」

「あっうん」

 当然のようにしおちゃんは私の分まで予定を組み上げているようだった。迷いのない彼女の足取りに今までより近い距離でついていく。

「眼鏡の新調はまたの機会でもいいしね」

 残念、と心の中でつぶやく。明日も数学の授業があるから刺されないことを祈っておくしかない。なんて思っていたらギロリと彼女の視線が私へ突き刺さる。

「だから、それは駄目」

 彼女らしい頑なな主張。けれど日常生活に支障があるのでそう要望に応えてもいられない。友人に笑われるのはもうごめんだ。

 それに、と私は心の中のしこりを少し撫でた。

「……眼鏡付けてたら私のこと忘れちゃうもんね」

 おどけたように口に出したつもりがなんだか不貞腐れているような響き。まあ何も間違えていないと思う。実際不貞腐れていた。なんだかいい感じの雰囲気になっているけれど実際にあの程度のことで顔を忘れ去られてしまうと、悔しい。

 そんな私の内面なんて知ったことではないらしい。ああ、と彼女はあっさりと声に出して、

「あれは意地悪よ。眼鏡似合ってないもの。好きじゃないわ」

「えぇ……」

 他人の恰好をよくもそこまで自分色に染めようと出来るな……と、さんざんな言われようの眼鏡のフレームを憐れんで指で撫でていると無理やり彼女に奪い取られた。そしてそのまま顔を突き合わせてくる。もう隔てられるものもなくて勢い余って額を打つ。

「か、返してよ。それないと見えないんだって」

 嘘、というより誤魔化し。

 近い。近すぎて、言葉とは裏腹に彼女の瞳がよく見える。強い眼差し。そらすことを知らないような芯のある視線。さっきはその場のテンションに身を任せていたけれどふと我に帰れば近すぎて何だかほおが燃え上がる気持ちだ。

「私のことを」

 彼女は言う。私のこのオーバーヒートしそうな気持ちと似たものを彼女を抱えていたりしないのだろうか、わからない。

 しおちゃんが私の熱い頬を手で触れた。彼女の指先から熱が伝わって火傷しそうになる。けれどそっちの方は些事だった。覗き込む彼女の瞳の温度が熱くて、


「眼鏡が無くてもしっかり見えるくらい。焼き付けなさい――――ねえ、さゆちゃん」

 

 ああ、思い出した。ふわふわと柔らかい記憶の海の中の奥底から浮かび上がるそれ。逃げようもないこの距離で彼女の瞳を見てようやく思い出せた。

 小さい頃の彼女は私に笑いかけて言っていた。

『わたしのめ、きれい?』

 私はしおちゃんの瞳が好きだった。昔からずっと好きだったのにいつからか正面から見つめることができなくなってしまって、後ろ姿を見つめていた。妥協だったはずなのに手段と目的が入れ替わっていつからか後ろ姿ばかり追うようになってしまったけれども。

 綺麗だった。昔と変わらず、彼女の瞳は。

 そしてきっと彼女もそうなんだろう。彼女の視線が鋭いのは私の瞳を見つめているんだ。

 だから私も彼女に応えてこれからは目を逸らさないようにしよう。とりあえずは、コンタクトレンズにでもしようかな、なんて。

「うん。もう後ろからじゃなくて、ちゃんと隣で見つめてるよ」

「そうね。毎日手を繋いで一緒に帰りましょう」

「……しおちゃん、重くない?」

 返事はなくて代わりにしおちゃんは私の方は手を差し出す。

 目と目が合ったので私はその手を握り返して歩き出した。昔のようだ、とふと思った。

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