夜を往く。頭上の星の無音も、頬を撫でる生暖かい空気も無視して、爛れたはだのようにぬかるんだ地面を踏みしめながら、内部への階段に辿り着く。

 思った通り、死体だらけだった。五重の層状になった廊下を進んでいくと、扉を開けたどの居室でも、人間が皮をドロドロに溶かされて息絶えていた。聞いた通りの人数、六〇人。不当に七之島オリヴィアに乗り込んだ愚かな改革派と犯罪者たちが、臓物に肉を添えた血のスープとなっている。昼間、恒星放射の直撃した瞬間を想起して、足を早める。

 吐き戻さなかっただけ理性的だった。レベッカは誰もいない第三層の厨房に引き籠ると目を伏せた。調理台の真ん中、まな板に乗ったまま死んでいる白い川の稚魚が自分の未来を暗示している気がして、顔を上げられなかったという方が正しかった。

 時間が経っていく。島は何も言わない。レベッカは頬を擦りながら、どうして妹がこんなことをしたのか考えようとして、自嘲した笑みを浮かべた。分かり切ったことだ。憎かったからに決まっている。後で聞いた話だが、一〇歳のオリヴィアは島になりたくなかったらしい。多くの人間が彼女の意思を踏みにじって、卑怯な拙速さでことに及んだ。だから、全員死なせた。たった一人の姉でありながら助けに来なかった自分も同罪だ。殺すために四之島アガトから奪った。

 沈黙の夜が去り、死の朝が来る。あと数分後。彼方から昇る恒星は、八〇万ケルビンの電磁スペクトル直射でピラの涯圏がいけんを焦がし尽くす。どうやったって、助からない。諦観に満ちた心に落ちる雫のように、島の声が響く。

『ごめんなさい』

「いいよ、私の方が悪かった」

 諸手を上げて降参の気持ちで、レベッカは言葉を返す。ずっと理不尽な態度を取っていたこと、八歳も年下の彼女に全く構ってやろうとしなかったこと。何の雑音もない二人だけの天空で思えば、どう考えても自分が勝手に悪意を見出していただけだ。

『お姉ちゃん。何で、聞こえるの』 

 言葉に耳を疑った。泣きそうな声で妹が告白したことには、こうだ。七之島ななのしまになったオリヴィアは、自分の適合値が彫られた椎骨板すいこつばんを偽装していた。大切な姉を、島にしたくなかったからだ。島と会話できない彼女にとって、第一候補者は生贄と同義だった。それを、レベッカの代わりにオリヴィアは引き受けた。

 彼女は続ける。もう二度と言葉を交わせないと思った。気持ちを伝えられないと思った。たった一人の家族だったから、仲良くしてもらうために頑張った。それだけだったのに――。

『意識がはっきりして、やっと気付いた。次に島にされるかもしれないと思って咄嗟に攫って来たけど、わたしは適合値が足りなくて、昇れるだけで降りられないの。お姉ちゃんを、死なせることになる。最低な、最低なわたしで、ごめんなさい』

 部屋の形を歪ませて何度も謝る七之島オリヴィアの声に、レベッカの嗚咽が重なった。

「いいの。ごめんオリヴィア。私が馬鹿だった。独りにして、無視して、最低なのは私よ。――だから、聞いて、この昼が沈んだら、大声を出しなさい。島たちを呼んで、触枝しょくしを繋いで降ろしてもらうの。一緒に謝ってあげることはできないけど、ずっと一緒にいるから、ね」

 星の向こう、弓なりの大気層から、蒼白い円が顔を出す。振り下ろされる明度と共に、全天をく焦熱。ふざけたエネルギー量の刃が、数千本のオーロラとして厚さ五〇〇キロメートルの涯圏がいけんを切り分ける。影など何処にも許さない。何もかもを蒸発させながら迫る死の光が湛えるのは、膨張する空気の轟音だ。壁面の気温計が異常アラートを上げる。島全体が激しく揺れる。超高温に均されていく世界で、ひしひしと感じる自分の心拍。

 これが最後になると思うと、何もためらう必要はなかった。ずっと話していなかった分、話題なら山のようにあった。レベッカは涙声で七之島オリヴィアへありったけの言葉を伝えた。オリヴィアは、より多くを返した。初めて出会ったときのこと、隠していた秘密、そして、改めての謝罪と、いまのお互いへの想い。喉が干上がるまで喋って、喋って、喋り続けて、気が付いたらほとんど夕方に近い時間になっていた。

「……え?」

 陽が沈んでいく。高熱に煽られた緑の帯が霧散する。さっきまで響いていたアラートも、当たり前のように白色に戻った。厨房は涼しさを維持している。呆然としたまま部屋のなかを見渡したレベッカは、澄んだ少女の声を聞く。

「いや、じゅうの内側にいて恒星放射ごときで死ぬわけないじゃない」

 まな板の上でぴちぴちと跳ねる魚が、彼女を見て呟いた。


 ・・・・・・


 沈黙があった。混乱のままレベッカはフライパンを手に取って魚の前に構えた。間違いない。いつも食べている白い川の魚だ。三〇センチほどの稚魚の大きさでも特徴は変わらない。それがいま、言葉を発した――?

「なぁにぼうっとしてんの。島も喋るんだから、魚だって喋るわよ――っと」

 魚はレベッカの顔面に向けて跳ね上がった。咄嗟に手に持った獲物を盾にした彼女だったが、その二秒後には、フライパンを貪り食う一人の全裸の少女が眼前に立っていた。目に映る柔皮に、無数の刺し傷が浮かび、白い液体が傷から、口から、股から床に滴る。夕方、いま、漁の開始の時間だ。余計な連想に頭を使ったレベッカは、ドロドロが散った床に足を染み込ませながら近づいてきた彼女のキスを防げなかった。全ての傷跡を嘘のように消した少女は、形のいい胸を揺らしながら数歩後退る。こっちの方が良かった? と紅潮した自分の頬を指さして、口を開く。

明日香完全食Asuka The Complete Meals。好きなことは、食べること、食べられること。好きなひとは、――ないしょ、きゃっ」

 わざとらしく恥ずかしそうな表情を浮かべると、潤んだ女の瞳から一筋の涙が垂れる。頬に、口に、首に、胸に、腹に、鼠径部そけいぶ。艶めかしい軌跡を追って、背中と腋が大きく開いた灰色のセーターが着こまれていく。身長は一五〇センチほど。そのオレンジの双眸と白の髪に、心拍が高まる。超然という言葉をこれほど体現した存在を、レベッカは知らなかった。言葉にも、立ち振る舞いにも、吸い込まれそうな魅力がある。彼女が魚から変容した化け物であることは明らかなのに、次の瞬間には警戒心を溶かされて、言うがままにされるかもしれない。唇を噛み、腰を落として拳を強く握る。

『お姉ちゃん、こいつ危ない! ――え、何これ、あっ……あ……』

 バゴンと厨房の扉が開き、飛び込んできた黒焦げの触枝しょくしは、丸太のようなその太さも空しく、柔らかな白い少女の手のひらに押しとどめられた。そのまま、第七島オリヴィアは小さな嬌声を上げてゴトンと指を横たえる。静まり返った部屋で、たった一人の艶めかしい横顔だけが色付いて見える。何が起こったか分からない。レベッカは咄嗟に数歩後退って、落ちていた包丁を構えた。

「そんなビビんないでよ。ちょっとイカせただけじゃん」

「お前」

「何その目。好きよ。全部出ちゃいそう」

 奔る赤い閃光。正気を保つために浅く手のひらを切ってから凄まじい速さで振り下ろした包丁は、滑らかな指先一つで防がれた。少女は顔に注いだ血を舐め取って、目と鼻の先のレベッカに三回くらいウインクをすると、階段に向けて歩みを始めた。

 死の行進だった。一層と二層の廊下に散らばった肉片を手で掬って口に運びながら、レベッカの先を往く白い髪。彼女のスカートから漏れ落ちた小魚たちが、虚空を泳ぎ、先んじて進路上の血肉を食べていく。どこ住み? 彼氏とかいるの? ふざけた質問をレベッカが無視し続けて数分後。外出用のハッチの梯子に辿り着き、撒いた魚群を足に染み込ませて取り込んだ少女は、少し残念そうにつぶやいた。

「食と衣。あたし完全食なだけじゃなく、ほとんどの環境に対応する体組成に変える力を持ってる。けど、あたしを食べたひとは、二日以内にあたしを食べ直さないと適合が切れて死んじゃうのよ」

 扉を開くと、世界は凪で満ちていた。陽は落ち、星々はいつものようにきらめいている。高度三〇〇〇キロメートル。宇宙の入り口、ガス層を遥か足元に控えさせた気圏の天井で、少女はすっと振り向いた。少し話をしてあげる。そう区切って、彼女が語ったことには、こうだ。

 二五〇年前、ある宇宙開発ベンチャー企業が三つの発明をした。それは、発明というには、あまりに悪魔的な代物だった。間もなく、当該企業コングロマリットが、その権益を奪おうとする連合組織に襲撃される形で、大戦争が始まった。血を血で洗う争いの果て、物量で圧倒されていた企業側の旗艦は、三つのうちの一つ、住――居絆島きょはんとう――を奪った連合の先回りをする形で、このガス惑星に辿り着いた。命からがら逃げ出した果ての死地。乱気流によって艦隊が爆散し、最後の一隻が恒星放射によって蒸発する直前、社長の娘だった明日香は食と衣の種を口に入れた。そうして、彼女はピラとなった。魚は一人で群れに変わり、その体液と身体で中間帯を形成し、全宇宙に向けて叫んだ。

食べてEat me食べてEat me。魚に釣られるなんて素敵でしょ。避難民も含めてやってきた連合艦隊の八万人は、あたしの覚醒――無限に増殖するってことね――を促すご飯になった。食べ残した二〇〇〇人くらいが、あなたたちの祖先になった」

 跳ねる音がする。銀の鱗を揺らす魚が、彼女の後ろに控えている。体長一〇〇〇メートルほどの白い影。それは、一口で島の半分を食いちぎってしまいそうな大あごを開け、鋭い牙を輝かせている。一匹ではない。何十匹ものヒレをもった怪物たちが、夜の彼方から押し寄せてくる。七之島オリヴィアが声をかけてくる気配はない。逃げ場もない。

「戦争が、まだ終わってないと思ってる?」

 白い少女は、無造作に髪を弄ぶ。広場の凹凸に足を取られながら、レベッカはきつく相手を睨み付けた。自分たちがこの星で食べていたのは、人であり、敵だった。その食糧が、いまにも食い殺そうとしてきている。連綿とした争いの地続きに現在がある。深く腰を沈めて包丁を構え、駆ける。明日香はまるで避けない。深く重いずぶっという音に、小さな嬌声が混じる。セーター越しに刺し貫かれた腹に手をやり、悩ましい吐息を漏らしながら切っ先を掘り出した少女は、そのまま獲物を奪い取って、抱きしめたレベッカの背後に手を回す。

 張り裂ける唸り声、奈落の底の漆黒。レベッカの眼前、明日香の背後、星の光を頬肉の向こうに覆い隠して、巨魚が大口を開ける。セーター裏の刺し傷から漏れた体液が二人の足元に水たまりを作り、艶めかしい舌なめずりの音が耳元に響く。数秒後には、食われる未来が見える。だが、まだ身体は動く。

「積極的なのね。でも、ヤッたらあんたが先にイッちゃうわよ」

「妹に手は出させない」

「あら」

 一拍置いて、かつてないほどの怒声が響く。いま尽くせる全霊を、レベッカは腹の底の決意と共に振るった。細く白い首を掴み上げ、肉を押しつぶす感覚。もっと前から、まともに話をしていれば、妹が不完全な島になることも、こんな事態に陥ることもなかった。全ての後悔をくべて、指先に力を籠める。魚は魚だ。くびり殺す。全く抵抗せずに上を向き、頬を紅潮させた少女の目に、ギラギラした快感の光が灯る。恍惚のエネルギーに満たされた視線がレベッカへと下ろされる――その瞬間。

 最も近くに控えた巨大な魚を、超高速で吹き飛んできた何かが横合いに弾き飛ばした。それは島だった。威厳のある列柱槍れっちゅうそうを構えた、最も旧い島は、凛々しい女性の声を下ろす。

『明日香。見つけたならまともな報告をせよ』

「やだ、モラったら。探して見つけて知らせてあげたのよ。こんなにたくさんのおっきなあたしで。ギンギンの愛を感じてほしいわ」

『評価する。――が、わらわは貴様ほど下品ではない』

「やだー、セックスさせろー!」

 当たり前のように腕を振り払った女は、レベッカからさっと離れて一之島モラに飛び乗り、広場に寝転がって駄々をこね始めた。唖然とするしかない。何十匹もの巨魚が身をひるがえして眼下に泳ぎ去ったあと、最後に残った一匹が二つの島を周遊する。

 すぐに白濁を始める怪物の目。ヒレを動かすたびに、鱗が剥け、肉がそぎ落とされ、死に近づいていく。三周目、腹椎骨ふくすいこつから尾椎骨びすいこつまで数十個連なった背骨が露になったとき、そこに彫られていた文字に、レベッカは目を奪われた。


 遥前歴ようぜんれき二八二五年四月七日を、終戦日とする。

 両者の代表に以下の契約を設ける。

 一、暈神明日香かさがみあすかは、終戦日以降、旧連合側の食糧として振舞うこととする。

 二、Mora・Kasagamiは、終戦日以前の明日香の捕食行動を海容かいようする。また、終戦契約の存在を秘匿する。


「ぴえぴえ。戦争なんてまだやってるわけないじゃん。二四〇年前、残った二〇〇〇人を守って最初の島になったモラと、それはそれはビチャビチャで最高にヌけるズッコンバッコンをして、おしまい。あたしはあなたたちをイかしてあげることにしたのよ。良い女は過去に拘泥しないの」

 視線を戻すと、大きく伸びをする明日香が目の前に立っていた。天空を泳ぐ剥き身の魚は、方向転換の後に牙をそちらに向ける。圧倒的な質量の横凪ぎのままに、その華奢な身体が飲み込まれる寸前、口元にシーっと指をあてた白い髪の少女は、ふふっと純粋な笑顔を浮かべた。

「あたしとモラの秘密。あなたたちも内緒にね。ミステリアスさは、無用な混乱を避けるし、エロスを高めるから、あと」

 ――姉妹は、なかよくしなくちゃ、ね。

 七之島オリヴィアが目を覚ましたのは、一之島モラ触枝しょくしで牽引されて、瘴圏しょうけんに降りてから、しばらく経った後だった。同情の余地があるとはいえ、多くの死人を出し、自力降下もできない。しかし、独りにされかけた不完全な島は、一人の搭乗者と共に、翌日も、その次の日も、また天空へ向かうことになる。時が全てのわだかまりを溶かして、賑やかな人々のなかに二人の姿を許すまで。

 

「――通訳兼巫つうやくけんかんなぎ、レベッカ。上昇します。行くよ、オリヴィア」

『うん、お姉ちゃん』

 惑星ピラ、星が夜を飾る三〇〇〇キロメートルの気圏の果て。

 たくさんの魚を串刺しにして、今日も七つの島が列をなす。

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島は夜に昇る Aiinegruth @Aiinegruth

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