17. パンは青臭いままがいい

 パン屋の朝は早い。


 露店の店主は屋台を引き、朝日で照らされた大通りの道端で、誰もいない町並みを見渡す。

 この時間帯はいつも人っ子一人いない。静かで厳かな雰囲気に、透き通るような空気。


 店主は木造の台に紙を敷き、そこにパンを並べていく。

 その中にはマルリ草のパンもある。

 決して売り上げはよくないが、このパンだけはどれだけ売れなくとも、パン屋を開店したその日からずっと作り続けている。


 それに最近は、物好きな少年がこのパンを買っていく。

 まずいまずいと言いながら、毎日そのパンを片手に、この大通りの先へと消えていく。


 その少年が昨日、自分の夢のために王都へ羽ばたいていった。


 もうこの店には来ないかもしれないが、少年の夢が叶うのなら、店主にとってそれ以上に嬉しいことはなかった。


 店の前に暖簾のれんをかけ、ふっと一息つく。

 そのとき、後ろから足音が聞こえ店主は振り返った。


 見覚えのある三白眼にボサボサの黒髪。


「カイトじゃねえか! お前試験はどうだったんだ!? って、どうしたその体!? ボロボロじゃねえか!?」


 頭に包帯を巻き、絆創膏だらけの体を見て、店主は驚き声を上げた。


「まあ、いろいろあってな。川に落ちたり、瓦礫に押しつぶされそうになったり、クソみたいなやつらと戦ったり、面倒な子供の世話したりな……。そんなこんなで、結局試験には間に合わなかったよ。悪いなおっさん、応援してくれてたのに……」


 カイトは苦笑いしながら頬をかいた。


「そ、そうか。大変だったんだな……。でも、無事に帰って来れてよかった。今日もパン買ってくか? サービスするぞ」


「いや、今日は買いに来たんじゃねえんだ。おっさんに渡したいもんがあってな」


 カイトは懐から一冊のノートを取り出した。


「お前……それ……!?」


 店主は驚きと疑問をはらんだ声を漏らし、目を見開く。


「いろいろあった中でな、俺はとある採掘場で、自分の子供を守るために必死に戦うやつらと出会ったんだ。最初は危険なやつらだと思ってたんだけどな、このノートのおかげで、そこに秘められた思いを知ることができたよ。そんで、もうあいつらは大丈夫そうだから、持って帰ってきちまった」


 その古ぼけたノートには、罪を背負う男が、苦しみながらも必死に生きた証が綴られている。


「あんたに返すよ。ゼイム・ラートさん」


 店主の口から、声にならない声が漏れる。


「あいつら、どれだけ地中が暗くても、どれだけ赤の記憶が残っていても、それを全部乗り越えて前に進むことを選んだよ」


 店主はノートを受け取り、パラパラとめくった。


「これからきっと、幸せに生きて行くんじゃねえかな」


 ノートの最後のページ。その下には、一枚の写真が貼られている。


 中央にカイトとエニカ。そしてその周りには、たくさんのバルシーダたち。

 子供を抱き、幸せそうな笑顔を浮かべている。


 その写真に、ポタポタと水滴が落ちた。

 まるで花びらからこぼれる朝露のような、透明で大粒の雫。


「そうか……あいつら……幸せに、暮らしてんのか……」


 どうか、幸せになってほしい。

 店主の人生における、たった一つの願い。


 涙が溢れる。


 決して消えない罪。

 暗闇をさまよった日々。


 その写真に写る笑顔が、その暗い道を明るく照らし出す。


「よかった……本当によかった……」


 かすれた声でつぶやく。

 涙がボロボロと溢れる。

 心を縛り付けていた鎖が、少しずつほどけていく。


「それと、これもな。おっさんが作ってたのを見て、あいつらも真似したみたいだ」


 カイトは布にくるんでいたマルリ草のパンを取り出した。


 形は歪んでいるが、子供のために必死に作った思いが伝わってくる。


「あんたのパンはいっつもクソまずいけどよ、どうやらそれは、子供の涙を止めることができる魔法のパンだったらしい」


 店主はそれを受け取ると、一口かじった。


 口の中に青臭さが広がり、ほのかに土の味もする。とても食べられたものではない。


 そのパンを、店主はさらに一口、もう一口とかじる。

 噛み締めるたびに、涙が溢れて止まらない。


「子供の涙は止めるのに、あんたの涙だけは止まらないみたいだな」


 店主はパンを頬張りながら、その口に笑みを浮かべた。


「やっぱり……まずいな……」


 顔をくしゃくしゃにして、店主は小さくつぶやいた。


「まずいって? そりゃそうだ、だって……」


 カイトは優しく微笑む。


「このパンに涙は、合わねえからな」



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天下一を誇る貴族学園に入学したいと願う平民は、最強の黒鬼でした 星屑代行 @hosikuzudaikou

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