心の中の小さなバグ

エリナ

第1話

「社長!契約取れました。」

田中の明るい声がオフィスに響き渡る。


その瞬間、会社の中では、拍手喝采が巻き起こる。

「よくやった!」


勇人ゆうとは心から田中のこれまでの努力をねぎらった。

勇人の会社の規模は小さい。下請けの建設業だ。

この会社にとってこれは大きな仕事だった。

失敗するわけにはいかない、という思いが勇人の胸を熱くする。


「納期はいつだ?」

と勇人は尋ねた。


「半年後です。」

田中は答えた。


勇人の顔色が曇った。

「短いな。」

と小さくつぶやいた。


心配な点があった。

それは、資材の調達が間に合わないことだった。

設計が終わってから再度見積もりをして施工の契約を行うのが通常だ。

だが、その手続きを待っていたのでは、半年後の納期には間に合わない。


取引相手とは長い付き合いだった。

これまでもその会社は色々と便宜を図ってくれていた。

信用は申し分なかった。

設計の契約が行われてから、施工の契約がされなかったことは一度もなかった。


だが、今回は少し違う。納期が短い。

そして仕事が大きすぎる。施工契約を失注したら、会社は持たない。

時間が足りない。

そんな不安が、勇人の心をよぎる。


「前もって資材の仕入れを行うか。」

と彼はつぶやいた。


帰路の途中、勇人の頭の中は、この問題で一杯だった。


そして家に辿り着く。

娘の夏海なつみが笑顔で勇人を待っていた。


その笑顔は、仕事の重圧から解放させてくれた。


「ただいま、夏海。」

勇人は笑顔で言った。


そして、その日の夜、勇人は娘の笑顔を思い浮かべながら決意した。


前もって資材を仕入れる。



◇◇◇



日が昇り、日が沈む。

時間はどんどん進んでいく。

職場の社員は、疲労がたまっているだろう。

設計図面が完成していく。緻密に計算され尽くし美しいバランスで描かれている。


社員たちは、自分たちの役割に誇りを感じていた。

夜遅くまで働く彼らの姿には、純粋な情熱と使命感が滲んでいた。


「ありがとう、みんな。」

と言葉にして社員を労う。



外の世界ではコロナウィルスが猛威を奮っていた。



「社長。できました。最終確認をお願いします。」

完成した設計書を眺めると、一つ一つ細部に工夫が凝らされている。完成形のイメージが明瞭に浮かび上がってくる。


「ああ、良いできだ。これで進めてくれ。」




(在宅勤務も考えないとな。)

ニュースを見ながら考えていた。

設計業務は可能だろう。

だが、施工業務は・・・。

外での作業はマスクを着用しなければならず、それが負担となるだろう。

だが、何があろうとも、仕事は止まらない。

人々の生活を支えるために。




◇◇◇



「社長!施工契約が・・・失注しました。」

田中の報告は、閉ざされた会議室に響いた。

勇人は一瞬、言葉を失った。


「なに?どういうことだ?」

驚きと混乱の色を隠せない声で尋ねる。


田中の声は震えていた。

「コロナウィルスの影響で、需要が見込めないとのことで、

 プロジェクト自体が中止になったとのことです。」


施工に必要な資材は、すでに発注してしまった。

もう発注の契約は終わってしまっている。

発注した資材が不要になる。事態は最悪だった。

倉庫はいっぱいになるだろう。

その影響が他の仕事にも出ることは明らかだ。


勇人は静かに深呼吸をした。

そして、経理担当に自分でも結論のわかっている質問をした。

「資金的に持つだろうか?」


「どうにもなりません。」

経理担当の答えは、勇人の心に重く突き刺さった。


「そうだよな。」

勇人はつぶやいた。


会議室の空気は凍りつき、何の音もない静けさが広がった。



◇◇◇



それから勇人は、日々懸命に資金繰りに走り回った。

しかし、結局、全て実を結ばなかった。


「社長。お世話になりました。」

目の前に置かれていたのは、『退職願』だった。


「新しい職場でも、頑張れよ。」


彼らが去って行くたびに、会社はさらに静まり返った。

次々と社員が辞めていく。


そのたびに、会社の中心であるはずの『社長』の存在が、少しずつ色を失っていくように感じた。


勇人は、残った社員を全員集めて語った。

「もう、打つ手がなくなった。すべて、私の責任だ。会社を終わらせる。」


その言葉は、全社員にとって最悪の結末を告げるものだった。

社長の話が終わると、社内には無言の時間が広がった。


いくつかの涙が見えた。

しかし、社長を責める声は一つも上がらなかった。


涙する社員の前で、勇人は何も言うことができなかった。

ただ、目の前の現実を受け入れ、彼らに深く頭を下げた。



◇◇◇



夕暮れ時、いつものように静かに食卓を囲んでいる。

勇人は、重々しく言葉を吐き出した。

「大事な話がある。」


「どうしたの?暗い顔して。」

紗香あやかは勇人を見上げた。


勇人の口が動き、紗香の想像を超える言葉が飛び出した。

「会社が倒産する。」


「は?」

紗香は驚きの表情で声を漏らした。


勇人は深いため息をついた。

「多額の借金を背負うことになった。この家からも出ていかなければいけない。」


「夏海の教育費はどうするの。」

紗香の声は、混乱と失望が混ざり合っていた。


「まだ義務教育期間だから、なんとかなるだろう。」

と、勇人は応えた。


「塾やお稽古ごとのことよ。」

紗香の声は、今や怒りと絶望で震えていた。


「それは、難しいだろうな。」

勇人はうつむき、声に力がなかった。


「私、今度、友達の結婚式に行くのよ、なんて言えばいいのよ?」

紗香の声は高く、怒りが感じられた。


「すまん。」

勇人は頭を抱え、ため息を吐いた。


「すまん、じゃないのよ。なんて言えばいいのって聞いてるの?」

紗香は、限界を迎えていた。


「何も話さなければいいんじゃないかな。」

勇人の声は穏やかだったが、顔は苦痛で歪んでいた。


「そういうことじゃなくて、いつも私がおごっていたのよ。

 お金を出せないって言えばいいの?」


「ああ、そういってくれないか。」


「私の立場はどうなるのよ。信じらんない。」

紗香は立ち上がり、椅子を蹴った。


その音は、家族の未来が砕け散る音だった。



◇◇◇



次の日、朝食の時間になっても紗香の姿は見えなかった。


食卓には彼女の作る朝食の匂いではなく、静寂が広がっていた。


彼女がいないのは、オレにとっては新鮮な光景だった。

彼女がいなければ、いつものような教育が行われない。

夏海もその厳しさから解放されるだろうと、オレは安堵していた。

オレの目に映ったのは、生命保険証だった。

保険証を手にすると、オレは心が安らいだ。


この保険証を使う時が来るとは思っていなかった。


だが、今はこの保険証が全てをリセットする唯一の方法だ。


保険金で借金を返し、残ったお金で夏海の教育費も賄える。


彼女もこれで安心するだろうと、オレは思った。


保険証を見つめながら、オレは希望の光を見つけた。

オレ自身もこの苦痛から解放される。


(なんていい方法を思いついたんだろう。)

とオレは自分を褒め称え、口元には笑みが浮かんだ。


家族全員の問題が一気に解決できる方法だ。オレの心は軽くなった。

たった一枚の紙切れで、全てが変わる。


それはまるで、魔法のようだ。



◇◇◇



朝、夏海が目覚めてきた。

「おはよう、パパ。」

と、声を上げる。


夏海の声がリビングに響く。


「おはよう、夏海。」

オレは笑顔で答える。


「ママは?」


「ママは、ちょっと出かけたみたい。」

と、オレは答えた。


夏海は口を開いた。

「ママ、昨日すっごく怒ってたね。」

彼女が怒るのはいつものことだ。

夏海はそれを無邪気に言ってのける。


勇人は頭を下げた。

「ああ、そうだね。」


夏海が心配そうに言った。


「パパ、大丈夫?」

いつも怒られているのは夏海だ。昨日怒られたのはオレだった。


「ああ、大丈夫だ。問題ない。すぐに解決できる。」

オレは笑顔で答えた。


夏海はニヤリと笑い、興味津々で尋ねた。

「ねぇ。パパ。何やらかしたの?」


「パパはな、仕事で失敗しちゃったんだ。」

とオレは率直に言った。


夏海はほんの一瞬、目を見開いた。


「あは、パパでも失敗するんだね。でも仕事のことでしょ。なんでママは怒るの?」


オレは苦笑した。

「それはな、お金がなくなっちゃったんだよ。夏海が使うお金も、ママが使うお金も。」


夏海は眉をひそめた。

「私べつにお金使わないよ。」


「あぁ。夏海がお勉強するお金だよ。私立の中学校に行くためにお金を使ってるんだよ。」


「えっ。じゃあ、みんなと一緒の学校に行けるってこと?」

その無邪気な問いが、オレの心のどこかを突き刺した。


「いやいや。ちゃんとお金はなんとかするよ。」


「え〜。そんなことしなくていいのに。」


「えっ。」

オレは答えにつまった。


「なんで。」

オレは夏海に向かって問いかけた。


夏海は眉間にしわを寄せた。


「こっちが聞きたいよ。なんで?みんなと別の中学に行かなきゃいけないのよ。」

夏海の問いは、純粋だった。


「それは、良い学校に入っていい教育を受けた方が良いんだよ。

 それが幸せになる方法なんだよ。」

勇人は言葉をつまらせながら言った。


「私は、ママが怒らなくて、パパとお話ししてる時がよっぽど幸せを感じるな。」

夏海の言葉は、自然に出たもので、心の底からの言葉だった。


「パパは、お金ないんだぞ。」

オレはムキになっていた。


夏海は少しの沈黙を挟んだ後、静かに言った。

「会社で失敗したから。」


「そうだ。」


夏海は、オレを見て言った。その声は優しかった。

「大丈夫だよ。泣きたい時は泣いていいんだよ。」


オレは、自分の涙が頬を伝っていることに初めて気づいた。

あっ、オレ、泣いているのか?


夏海はオレをゆっくりと抱きしめた。


「よしよし。」

それは、いつもオレがいつも夏海を慰めるときに言う言葉だった。


「誰でも最初は同じなんだよ。」

夏海はオレに向かって言った。

それも、オレが夏海によく言う言葉だった。


オレは、夏海の優しい言葉に心を動かされた。


そっかぁ、最初はみんな同じか。


オレは、これまで、多くの物を手に入れた。ただ、それがなくなっただけなんだ。


『プライド』


これがオレを縛り付け、邪魔をする。


かつて、オレの中で、大きな存在のはずだった『プライド』は、とても小さく、取るに足らないものだった。


ちっちゃなプライドだな。

オレは、心の中で苦笑した。


小さ過ぎて、見つけることができなかったよ。



私は、夏海に微笑みかけながら言った。

「もう、大丈夫だ。見つけたよ。邪魔なものと、とても大切な物を。」


その言葉は、私の心の底から溢れ出るものだった。


私が見つけた邪魔なもの、それは自分の中の小さなプライド。


そして、大切なもの、


それは金銭や社会的地位ではなく、家族との時間、愛情、そして夏海の笑顔だった。

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