女神の山

鍋島小骨

本当は私が聖女と言われても今更慈悲などありませんわ♡〜追放された悪女は極悪猟師の花嫁になる〜

 詰んだ。

 『アンチパスバックエラーです』の表示はそのことを端的に私に伝えていた。

 二十二時十八分。ここは弊社のロッカールーム。すべての扉はIDカードで通過。

 入っていない部屋からは出られないアンチパスバックエラー

 そう、私は慣習でドア開けっ放しにしてあったロッカールームにうっかりIDカード認証なしに入ってしまい、出られなくなったのだ。私より前に帰った誰かがロッカールームのドアをきちんと閉めたから。

 システム上、私はこのロッカールームに入っていない。

 入っていない部屋からは、出られない。

 そして、私はこのフロアの最終退勤者なのだった。

 自社ビルではなく賃貸なので、警備のような部署への連絡ルートもない。あったところでこの認証システムは弊社が弊社フロアのみに独自導入しているもので、ビル側はそのシステムに関知しない。なお弊社総務課は定時ですぐ帰ることで有名だ。一応業務エリアから内線をかけたがもちろん出ない、元々定時を一分でも過ぎたら出ない。他フロアに知り合いもいないし、いたところで内線番号も知らなかった。

 出ていく者が既にいないとなれば外から入る者を待つしかないが、時刻は二十二時十八分。次にここに入るのは明日の朝一番に出社してくる誰かだろう。早くて八時二十分頃だろうな。ワオ、あと十時間もあるぜ。飲み食いできないのはともかく尿意便意を催した場合に社会的な終わりが近付いてくるじゃねぇか、どうしてくれる。

 災害時に認証システムが飛んでドアが開かなくなった時どうするんだっけ。サムターンのカバーを割って手動で出るんだよな? だから絶対ここを出られないというわけじゃない。何ならドアはガラス張りだからこいつをブチ割る道も無くはない。暴力だ。暴力はすべてを解決する。

 で、実際のところどうする? 割る……? いや、説明聞いたときはふ〜んでスルーしたけど、ドアのガラスどころかあのアクリルのカバーを素手では割れないじゃん。何で割るんだよ。備え付けのハンマーもバールのようなものもありません。うーん。……ゴミ箱の角とかぶつけたらいけるかな? 金属のゴミ箱なら。

 器物破損じゃん。

 え? 自分の落ち度で閉じ込めになった時に器物破損キメて許されるんです? 壊して帰って朝まで放置して許されるんです? めっちゃ警報鳴りそうだし、夜中誰でもこのロッカールームに入れることになってしまうのだが。

 許されなくない?

 じゃやっぱ詰みじゃない?

 えっうける。うけない。引く。引いてる場合か? マジで朝までここにいんの?

 よくない。別の手を。あるか別の手。え〜。

 あっもう何も考えたくないですね。何も。何も考えたくないです。

 私は項垂れて、ロッカールームから自分の業務エリアに入った。ちゃんとカードをタッチして。誰もいないから共連れは起こらないし業務エリアのドアは開けっ放しにするとアラームが鳴るのだ。何でロッカールームのドアもそうしないんだよバカ。

 理由は分かっている。新型コロナである。

 かつてはロッカールームのドアも開けっ放しにすると数十秒でアラームが鳴る設定だったのだ。それをコロナ禍到来に伴い換気が重要とかで開放できるよう各ドアの設定を切ってしまって、決まった時間に開放・換気していた。

 今では一日二回のドア開放による換気は運用終了し、業務エリアのドアは元の設定に戻されたにも関わらず、ロッカールームのドアだけは開放できる設定もそのまま開けっ放しにする悪習が残った。なんかロッカールームは換気したいらしい。業務エリアより人が密集するし喋るでしょ? みたいなことらしい。

 まあ、それはそうなんだけどさ。

 おかげで私が今こう、閉じ込めに遭ってるわけでね?

 行き止まりの業務エリアの椅子は、割と座りやすいが一人がけだ。どうやって寝よ。結局床になるんじゃねえのかこれは。カーペットのマットだからそれほどキツくはないかもだけど。

 あーあ、私物のバッグ背負ったまま業務エリアに入っちゃったな。セキュリティ対策で普段は財布と飲み物くらいしか持ち込めないんだけど。わあ、今の私ってコンプライアンスてきにちょうやべえ。知らんけど。

 業務用パソコンの電源を入れ直した。さっきシャットダウンした時はやったー帰れるー! なんつって疲れてるなりにウキウキしてたのにな。数時間前の自分に祟られようとは。

 毎朝起動時の手癖で定点フォルダ、ブラウザ、メールソフトと手が勝手に開いていく。

 いや、しませんよ仕事なんか。死んでもやだよ。退勤切ったもん。冗談じゃねぇわ。ログ取ってるとか知るか。普通にネットサーフィン(死語)してやんよ。スマホのバッテリもったいねえからな。でもツイッターはスマホから見よ。絶対会社に痕跡掴まれたくないもんな。

 ぽこん、と通知の小窓がモニタの下角から出た。

 え、誰? この時間にメールすんの。二十二時ぞ? 働いてんの? キモいんですけど。

 誰だよクソ、在宅してる上司かな、だとしても終業後に業務端末見てんじゃねえよと思いながら私はメールソフトの受信トレイを眺めた。すると、タイトルにはこうある。


『【毎日無料!】本当は私が聖女と言われても今更慈悲などありませんわ♡〜追放された悪女は極悪猟師の花嫁になる〜【コミックベアー公式】』


 ヴァ? と獣のような声が出た。我ながら人間の出していい周波数と波形ではなかった。

 何だこのトンチキな件名は。こんなのウェブコミックアプリかラノベでしか見ないやつじゃん? 縦読みウェブコミックだったら覗いたかもしんないよ。猟師は要素としてちょっと珍しいもんな。

 知るかよ。

 なんで業務アドレスにこの手のスパムが来るんだっつう話である。弊社あれか? ついに抜かれたのか、データ的なアレを? バーカバーカ。ちょううけるー。

 まあこういうのはリンクさえ踏まなきゃいいのである。あと添付ファイルも開くのダメ絶対だがクリップマークがないから添付されてない。アホのアホみを眺めてやろうと、私はそのイカれた件名をクリックし内容をプレビューした。





    *





「私、ヴルトラン・トーマ・オルネリウスは、今日この時をもってラウライレネ・スルドミヤとの婚約を破棄する!」


 ざわ、と場の空気が波立って、私は絹の手袋に包まれた手を握りしめる。胸の底から暗い炎がめらめらと燃え立ってドレスのレースや飾りの石を飲み込み私の巻き毛を飲み込んで、私はひとつの黒い火柱にでもなってしまいそうだった。

 あの男に振られたことが悲しいのではない。

 あんな頭の悪い男がこの国の皇太子であること、私というこの国の貴重な資産をこれほど粗末に扱うことに怒りを覚えている。

 現実的に、皇太子妃となるべく十分な教育を受けた年頃の娘は私以外にもういないのだ――ヴルトランの兄、狂気の元皇太子アンビオリクスが次々と『味見』しては殺してしまったから。さすがに恨みを買ったアンビオリクスは遺族の一人に殺され、その家の者は全員が広場で処刑された。

 新たに皇太子となった弟ヴルトランには、私を婚約者とするほか選択肢がなかった。皇太子なのに結婚相手候補が残り物一人しかいない、それは気の毒だと思う。だが私が駄目なら他国の身分ある令嬢か姫を娶る他はなく、そしてそれはもう無理だったのだ。アンビオリクスとヴルトランの愚昧兄弟の名は他国にも知れてしまっていた。

 私が婚約者の座を受け入れたのは、王命には背けないのもさることながら、私なりに生家とこの国に貢献したい気持ちがあったからだ。王が愚鈍でも后が賢ければ国の民に何ができるかもしれない。彼らが少しは救われるかもしれない。ならば夫となる男の程度の低さには一旦目をつむり、国のため自分が知恵と力をつけよう。そして末には夫を葬ることも辞さない。

 これが宿命ならば、私が一命を賭してこの国の凋落を阻んでみせよう。

 そう、思っていたのに。

 まさか皇太子ヴルトランが、城下の祭りで庶民の娘を見初めて連れ帰り、妾ではなく婚約者の座に押し込もうとは、あまりにもお約束過ぎるではないか。こんな漫画、三ダースくらい読んだぞ。


 ん? 漫画?


 新たな婚約者イェナをドヤ顔で披露する壇上の皇太子を遠く見ながら、私は唇を引き結んだ。なんか人としてヤバい声を出しそうだったからである。

 ヴルトランは続けて、私ラウライレネがどれほど悪辣な陰謀でイェナを傷付け王宮から追い出そうと画策したか、イェナこそ大神殿が予言した待望の聖女である、と大音声で言い立てている。知るかよ。その小娘の顔見たのもまだ二回目だよ。一回目はお前らが王宮の薔薇園で立ちバックでヤッてるとこに出くわした時。アホのヴルトランはわざと私にそれを見せようとしていたのだ。

 バカすぎるのでそのまま無表情で近付いて行って教育された通りに一礼し、『ごきげんよう、殿下。新しい玩具ですの?』と訊いたのがイェナを傷付けたというのならまあそうかも知れない。私も傷付けるつもりで言った。だが婚約者の前で性交を見せるアホ二人には当然の報いでは? ってかヴルトランはほんとにバカだからそれで傷付く能力もないんだよな。私はついでに『殿下、お一人でお召し物を元通り着られますか?』とも言ったのに。その時あいつが何言ったか忘れた。忘れたってことは多分『お前のような嫌な女は見たことがない』と言ったんだと思う。あのクズは大概その台詞しか言わないからだ。

 あ、玉座の王が息子の後頭部を見つめて震えてる。分かる〜。でも助けてはあげない。どうせ止めないし息子を咎めもしないのだ。そんな事ができていたならアンビオリクスにだって説教していたはず。


 それに、私はラウライレネであってラウライレネではない。

 私はついさっきまで閉じ込められた業務エリアでメールを見ていた。

 ラウライレネの記憶があろうとも、私の記憶もある以上、私は、私だ。

 この国を救おうとかミリも考えてねえんだよな。


「婚約解消は承知いたしました」

 私、ラウライレネは歌うように述べた。

「ただし、私がそのお嬢さんを追い出そうと陰謀を巡らせたというのは根も葉もないでたらめですわね」

「嘘を申すな! お前は皇太子妃の座を手放したくないあまり卑劣な真似を繰り返してきたのだ。お前のような悪女はこの国に二人といない!」

「その悪女が、皇太子妃となる素養教養を持つ最後の一人でしたのにねえ。まあ結構ですわ。実のところ、私も殿下の妻になるのは気が進みませんの」

「黙れ!」

 言うだろ? 知ってんだよ。メールのプレビュー一瞬見えたんだ。私は活字中毒の方で、一瞥での字の掴みが多い。この部分は試し読みとしてそのままメールに画像が載っていた。正直一国の皇太子にここまで言ったら不敬罪待ったなしだろうが、エンタメフィクションだからそうはならない。タイトルの通りだ。

 かくして皇太子ヴルトランは逆上して怒鳴る。

「お前のような嫌な女は見たことがない。ラウライレネ・スルドミヤ、お前を王宮とこの城下から追放する!」

 はい、いっちょ上がり。グッバイ王宮。


 スルドミヤ家の所領のひとつが王国の辺境にある。私はその領地の屋敷に追いやられた。

 とは言えお貴族様なので、三食にお茶もいただき美しい庭を散策して暮らすことができる。結果オーライである。何しろ労働がない。最高では?

 いぇいいぇい、という感じで私は田舎の瀟洒なホテル滞在みたいなその暮らしを楽しんだ。楽しみながら勉強も武術鍛錬もした。何しろあのバカ皇太子が次代、バカを野放しにするバカが当代の王である以上、この国は近いうちにヤバいことになる可能性が非常に高い。そうなった時に頼りになるのは知識と金だ。皇太子妃教育を受け地理外交経済に明るく複数言語を使える、しかも護身術に長けた貴族令嬢というアドバンスを最大限生かし、高飛びしたい。もちろん資産はできるだけ持っていきたい。働きたくねえから。

 領地は国境に接しており、他国と行き来する商人や旅行者が通る道を含んでいた。私は出入りの業者が国境を行き来することを掴むと証文を書かせて彼らに紙幣を預け、少しずつ隣国の紙幣・貨幣と交換させた。もちろん幾許かは彼らに手数料として渡す。これである程度隣国貨幣を確保したら、飛んだ後も少しは安心だろう。


 三か月後、商人一行の一人に化けた私は隣国への国境を越え、かねて下調べの通り傭兵の口入れ屋のうち評判のいいところへ行って旅行の間の用心棒をひとり雇いたいと注文した。腕が立って二心のない者を。

 そこでようやく思い出したのが、例のタイトルである。

 

『本当は私が聖女と言われても今更慈悲などありませんわ♡〜追放された悪女は極悪猟師の花嫁になる〜』


 残り要素は聖女と極悪猟師だ。すっかり忘れていた。忘れていたが思い出したのは、口入れ屋がこいつなら間違いないと手配した用心棒の通り名が『猟師』だったからだ。

 あのタイトルだから女子向けの悪役令嬢ざまぁモノだと思うじゃん。てなると恋の相手は通常イケメンじゃん? それがまあ聞いてくれ。

 顔が見えねえ。

 いやマジで。顔が虚無。暗闇。辛うじて口があるのは分かる。他真っ黒。でも周りの人は何も気にしてない、ってことは私にだけそう見えている。

「俺の顔が見えない……? つまりあんた、聖女か? 俺は先月、神殿で神託者にそう予言されたんだ。聖女はお前の顔を見ることはできない、お前の姿ではなく魂を視るゆえに、と」

 急に話を詰めてくるのをやめてくれ。リアルな視界の話として間近にいる人間の顔が真っ黒な靄というのはなかなかに怖いのである。魂? 闇しか見えんが? この猟師の魂は闇そのものなのか? ちょっと近くにいたくないな。

「聖女は女神と交渉し外世界への扉を開けさせることができる唯一の存在。俺はあんたを待っていた。この世界を出て元の世界に戻らなきゃならない」

「は?」

「元々こっちに来たのがあんたの転移の巻き込み事故だったんだ。なのに神託者の野郎、『お前がこっちに入った記録はない。いないものは扉を通れないから、お前は自力で出られない』だと。現にここにいるのにだぞ!? なら聖女に扉を開かせるまでだ!」

 あー?

「アンチパスバックエラー……?」

 猟師はぱかりと口を開けた。

 そして数秒ののち。

「あんた、俺と同じ時代の人間か?」

 雑。

 物語の! 設定が! 雑!!!

「まず何だ女神って。私は会ってない」

「俺も見てはいない。気付いたらこっちにいた」

 何もわからない。おれたちは雰囲気で転生追放悪女モノをやっている。

 やってられるか。

「ねぇ女神ってボコったら言う事聞く?」

 私が余程凶悪なツラをしていたのだろう。猟師は暗闇の顔の口元をやや引きつらせていた。


 猟師の情報から私こと聖女は祈りの力で女神を呼び出せることが分かったので呼んだ。超呼んだ。

「だってさっきから聴こえてくんのあの言葉が。『今日、ケンタッキーにしなぁい?』が」

「やめろ発作起こる。帰れない限り食えないもののこと思い出させるなバカ」

「レッドホットチキン! ダブルチーズバーガー! クアトロチーズワッパー! キンキンに冷えたペプシ!」

「ぶっ殺すぞてめええ!」

「え、わたし女神なんだけど」

 は? と振り向いた私と猟師の目の前に、栗毛の美人がいた。

「何でわたし殺されることになってんの?」

「殺さねえけど殴らせろ。あと扉だかなんか開け」

 数ヶ月の異世界暮らしですっかりトンチキや暴力とお馴染みになってしまった私は思い切りよく振りかぶった拳で女神を撃ち抜いた。





    *





 確かにサムターンカバーを何で割ろうかな、って私は考えていた。金属製のゴミ箱ならいいかなって。

 でも屋内で猟銃出るとは思わなかったわけ。思わないでしょ普通。というか弾丸と銃に先立ちまして、クマが出た。

 冷静に考えるとヒグマとは引き戸を開け冷蔵庫を開けて中身を喰らう程度には知能ある獣である。みんな何故気づかなかったんですか? クマは自動ドアを通れる。

 ヒグマが来たりて弊社正面エントランスの自動ドアを通り、エスカレーターをくまくまと登って弊部署フロアまで到達あそばしたのである。ここが蝦夷地で弊社が山に近い立地である以上、可能性はゼロではなかった。

 ヒグマはロッカールームの硝子ドアを殴り破壊したらしい。らしいというのは私はそれを見ていなかったからで、理由はロッカールームから業務エリアに入って寝こけていたからである。業務エリアのドアは硝子張りではないし、それなりに防音なのだ。

 でも、銃撃音にはさすがに目が覚めた。

 私はハワイに行って実弾撃っちゃうタイプの人間ではないので現実に銃声を聞いたことがなかった。だから最初は自分が殴られたのかと思ったが身体に何の衝撃も痛みもない。むくりと起き上がった時にそれは再度鳴り響いた。

 寝ぼけていたのである。そうでなければ外から聞こえた大きな音を恐れて、業務エリアとロッカールームを繋ぐ扉を開けたりはしなかったはず。

 でも寝ぼけていたので、開けてしまった。

 そしたらバキバキに割れて外れた硝子ドアを下敷きに、でかくて茶色いヒグマが伸びていたというわけ。成体ヒグマのサイズ知ってるか? 詳しくはググれ。とにかく、

「は?」

としか言いようがないのである。このクマ、跳ね起きてきたらその瞬間終わりだ。私とて北海道育ちの田舎者である。そのくらいの教養はある。

 詰んだのか? 深夜の社屋で間近にヒグマ。

 いわゆるひとつの『終わり』では?

 死に方として結構嫌なヤツなのでは?

 そう思った瞬間。


「あぁ、なんだ。あんたか」


「は?」


 ……としか言いようがなかった。

 ブチ破られたロッカールームの入り口には、なんかその、猟銃? みたいなやつを手にした男がぬぼっと立っていたからだ。

「俺俺。俺だよ、猟師」

「顔あるじゃん。それよりクマ」

「安心しろ、急所は外した」

「え何で外すの」

 バカじゃないの信じられない、と続けようとしたが相手が猟銃を持っているという事実がでかい。ここは逆らわないほうが賢明だけど、何で外すの? は口から出ちゃったな!

 自称猟師は怒らなかった。にこりと笑って答えることには、

「だってこのクマ女神だぞ」

「何て!?」

「クマ。女神」

「そんなはずがあるか」

「あるよぉ」

 クマの大きな顔が上を向いて私を見ていた。クマの顔の特徴は案外鼻が長いことである。

「わたしさぁ」

 クマの口が動いている。喋ってんのか? これクマの声なのか? いや、問題はそこじゃねえの。クマ日本語喋るの? そっちのほうが大問題なの。どの程度わかるの? ちょっとセンター試験を。共テって言わないと年がバレるか?

「女神なんだけど、何でわたし殺されることになってんの? ねぇマジで撃ったよね、当たったじゃん! 塞がんなかったらどうしてくれんの」

「塞がるだろうよ。俺たちは創造主に傷を付けられないんだろ」

「何だ、ルール覚えてんのか。とにかくこれで落とし前ついたでしょお? デントコーン食べたい」

「ここ札幌だぞ。あとでスイカ買ってやるから」

 ぶるる、とヒグマは鼻を鳴らした。どこを撃たれたものか、その素振りもなくのっそりと四足で起き上がったクマは、それはまあデカい。

「スイカよりさぁ、今日、ケンタッキーにしなぁい?」


 殴るところだった。生のヒグマを、素手で。

 私の世界は完全にどうかしてしまっている。




 つまりね、とレッドホットチキンをバーレルから一気飲みしたヒグマは言った。

「わたしは女神だからいくつかの世界を渡れるんだけどぉ、この世界でヒグマやりながら悪役令嬢ざまぁモノのアース錬成してて、聖女と猟師を組で造ってたわけ」

 おん、と言いながら猟師はダブチ三個の後のクアトロチーズワッパーに噛みつきペプシを吸い込むように飲んでいる。

「そしたら別の創作世界に接触される貰い事故があって、ちょうどそん時わたしが見てた人間のあなたがなんか玉突き事故みたいな感じでわたしのアースに入っちゃったのね」

 えっどっから見てた、と私は言い、あなたんち私の寝場所からよく見えるんだよぉ、とヒグマは言った。怖すぎるだろ。そういえばベランダから見える川の向こうは木の生い茂った山裾だ。立地ヤバかったのか。明日にも引っ越したい。

「でぇ、本来、世界を渡るにはこのわたしでも扉を通らなきゃならないのに事故るとそれ無しに入っちゃうんだ、で設定上、聖女がこっち世界の人間の魂持つなら同時製作の猟師も一緒にそうならないとだから、この近所で猟師要素のある適当な人間が適当に飛ばされたってワケよ。向こうで猟師の頭部映像がバグってたのも転移処理全般やっつけすぎたせい。ウケるねぇ」

 ウケねえよ。ただしチキンは旨い。

「だから二人とも向こうではアンチパスバックエラーにかかったわけ。あれは神官や神託者じゃどうにもなんないの。ルール外の扉の開閉はわたしにしかできないから、わたしを召喚できる主役級じゃなきゃ出らんなかったと思うよ。で、扉開ける代わりに辻褄合わせの後追いでこっちの世界でも『理不尽な逆境』『猟師と聖女の出会い』『女神降臨』とかを無理やり起こして今ってわけ〜。向こうでは聖女がわたしを殴る、こっちでは猟師がわたしを撃つ、ってちょっと要素は反転したけどね。ねぇ、オリジナルチキン取って」

「はいよ。シンプルにムカつく」

 夜明けの公園であった。当地には深夜営業のケンタッキーがないため女神はその力を乱用し、最寄りの店舗に勝手に入って通行人を『店員』に錬成し勝手に肉を揚げまくってバーレル三十五パックとペプシ約八リットルなどを持ち出した。窃盗である。結構時間が掛かったのでその間にマックとバーキンにも行った。

「しょうがないじゃん、貰い事故のせいだよぉ。向こうの女神とは過失割合十ゼロで話がついた」

「巻き込まれたこっちの身にもなれよな。鉄砲撃てなきゃ野垂れ死にだったわ」

「私なんか初手王宮でクソ男に婚約破棄された。そのストーリーも全部クマの妄想ってことかよ……」

「クマは世を忍ぶ仮の姿! わたしは女神!」

「マジでムカつく。いやちょっと待て。五万歩譲ってクマが女神とする、猟師は鉄砲撃てるし猟師とする。私は?」

 聖女。クマと猟師が声を合わせてそう言った。頭が痛い。肉の食い過ぎのせいばかりではないと思う。

「現世に聖女概念ないんすけど……」

「なくはないよ。アレクサンドリアのカタリナ、ジャンヌ・ダルク、」

「死ぬやつじゃん!」

「誰でもいつかは死ぬじゃん」

「死に方のことを言ってんの!」

 にかぁ、と女神は笑った。私はヒグマの笑顔というものを初めて見た。これは顔面闇男より怖い。

「苦しまずに死にたい? わたし、創造主だよぉ。乞うてみ〜?」

 厶、ムカつく。ものすごく。でも悲惨な死に方はしたくない。転生モノのお約束、ギロチンなんて最低よ。痛くないとか関係ねーの、そこまでの過程が怖いでしょうよ。

「くそっ……何が望みだ」

「定期的に四十バーレルとペプシ十リットル貢いでほしい」

「いや自分で窃盗しなよ。雀の涙の夏ボが飛ぶじゃん」

 ヴォヴォヴォ、とヒグマは笑った。

「バーレルじゃなくてもいいよ。私が野放しにしてる間に人間はおいしいものたくさんつくった。たくさん教えてよ」

「ハァ? ジビエ屋のヒグマ肉の話すっか?」

「お、それ俺の持ちネタだわ。結構仕留めて卸してっから」

 すね肉がうめぇんだって、と話す猟師をヒグマはその巨大な手でぶった。顔が剥がれて飛ぶかと思ったが猟師は無傷だ。爪を掛けずに弱くうまくやったらしい。続いて私の頭にもヒグマのやけに強そうな肉球がゴリッとすり付けられた。まさか撫でてるつもりなのか。

「今後もわたしと遊んでくれるなら、わたしの世界が全部終わる時、あなたたちはわたしを喰べていいよぉ。そしたら今度はあなたたちが次の世界を造り続ける神になる。神の死に方って結構安らかで美しいし、神って美味しいんだよぉ」

 つまりそれは、この女神がかつて別の神を喰って女神になったということなのだろうか。

「血腥いオファーだな。私はヒグマよりチキンが喰いたい」

 ヴォヴォ、とヒグマの笑い声がする。たらふく肉を食って眠くなってきたせいか、それがとても心地よく聞こえた。よく見るとこいつ、並のクマより懐っこい目つきじゃん。

 いや、並のクマってなによ。

 アホか、と思いながら私はうとうとと睡魔に誘われ目を閉じる。



 目が覚めるとそこは自分のアパートで、ソファには猟師が寝こけていて、開けっ放しの窓からは川向こうに木の生い茂った山裾が見えた。なるほど、そこから見えるっつうわけか。

 何とはなしに手にしたスマホを眺めると、昨夜未明に近所のケンタッキーから大量の肉などが奪われた事件が報じられている。

 夢ではなかった。

 大変残念である。

 そしてタイムラインに挟まるプロモーションツイートは、いかにもありそうな追放悪役令嬢ざまぁモノのウェブコミック。


『本当は私が聖女と言われても今更慈悲などありませんわ♡〜追放された悪女は極悪猟師の花嫁になる〜』


 ヴルトランあのクソ皇太子、どんな落ちぶれ方するのかだけは見てやろう、と私は画像をタップした。

 ヴォヴォヴォ、と山から女神ヒグマの笑い声が聞こえた気がした。





〈了〉




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女神の山 鍋島小骨 @alphecca_

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