受胎

受胎

 早朝に目が覚めたのは、ボロアパートの錆びついたドアが閉じたからだ。

 けたたましい音にびく、と震えた寝不足の眼を擦る気にもなれなかった。寝入ったばかりのはずだった。酒を飲んで、青白く光りだす窓から逃げようと無理に目を瞑って。だから同じように目を瞑ればいい。入ってきたのが誰であろうとどうでもいい。目を瞑ってしまえばいい。

 鍵と、丁寧にチェーンまでかけて、侵入者は薄い布団の横までやってきた。誰が来ようと構わないが、それが誰かは手に取るようにわかった。いつだかに合鍵をやった記憶はあった。一度だってやってきやしなかったが。狸寝入りをする背中はさぞかし滑稽に見えるだろう。それもすぐ嘘ではなくなるのでどうだってよかった。

 何を言うわけでもなく、恐らく背中に爪先を向けて立ち尽くしている。もしかして眠っていると思い込んでいるのだろうか。それなら都合がいいと回らない頭が睡眠を引っ掴むほんのちょっとの隙間、ふと鼻先を掠めた臭いに目蓋が跳ね上がった。

 がばりと起こした身体がまだ寝かせろと視界を眩ませたが、それを無視して背後に向き直る。果たしてそこには見知った顔があった。見ない間に伸びたのであろう髪が耳を隠し、肩口に差し掛かっていた。そんなことはどうでもよかった。

 まだ布団に半分寝そべっているような状態ではその全貌を見ることは叶わなかった。ただ、見なくともわかった。少し後悔する。見もしない夢に滑り込めばよかったのだ。異様な臭いはもう六畳一間の部屋中に蔓延していた。肌が粟立つ。安物の薄っぺらいシャツに染み込んだ赤は地面にぶちまけたペンキより余程どす黒く鮮やかだ。そこから剥き出しの腕が、何か抱いている。

 「おい」

 絞り出した声は掠れて、ざらついていた。当然だ、寝起きなんてこんなものだ。だがみっともないほどに震えてもいた。不規則に跳ねる呼吸を押さえつける。冷静になれ、と誰かが言う。しかしあってはならないものを眼前に突きつけられて、誰が平常でいられるというのだろう。

 「ど、どっから連れてきやがった、おい」

 「産んだ」

 「あ?」

 「おれが産んだ。お前のこども」

 腕の中のそれをあやすように揺すり上げる姿に血の気が引いた。何をどう間違えばそんな馬鹿げた台詞が飛び出すのか。お前が親になどなれるわけがないだろう。それにお前は男で、男がこどもを孕って産むなんて世迷言があるわけがない。そろりと後方に腕を伸ばす。割って中身を見てやろうと思った。床に直置きした灰皿をひっくり返して、頭でも叩き割って、その上から酒でもかけよう。そうすれば少しはマトモなことを言うようになるだろう。あと少しで敷布団の隅に手が届く。爪がせり出たステンレスに引っかかる寸前だった。

 カーテンのない窓から、白む空のはっきりしない光がスフマートのように白い肌の輪郭をぼやかした。優しく揺すった腕を微かに持ち上げて、頬を寄せる。昔見たロマンス映画のどのワンシーンより鮮明だった。一瞬、頭にあった血生臭い妄想が何もかも消え失せる。聖母というやつは、きっとこういう顔をしている──聖書なんざ読んだこともないが。

 乾いた咳が落ちる。笑おうとしたのかもしれない、自分ではわからなかった。聖母が血塗れになどなるか、全く笑えない冗談だ。何故お前がその顔をするのか。何故そんな愛おしいものを見る目をしているのか。そんな、母親のような。

 何をしてもまるで能面で、毛程も表情を変えなかった男が満面に露呈させた感情に酷い違和感を覚える。やはり頭を割ろう。一度で割れなければ、割れるまで振り下ろせばいいだろう。ようやく灰皿に指がかかった。何も考えずにシケモク混じりの灰をぶちまける。異常だと指をさされたところで失うものもない。何がおかしいかと問われれば全てがおかしいのだ。こんな早朝に、もうすっかり音沙汰がなかった男が血塗れで。

 そこではた、と思考が立ち止まる。柔らかな笑みの端々に飛び散り乾いたそれは、雨垂れの如く不恰好な線を描いて腕を這った血液は誰のものだろうか。目の前で母親を装うその腕の中には、誰の。

 胃が痙攣して、抑える間もなく布団の上に嘔吐する。爆発的に広がった想像に脳味噌から感情から胃までひっくり返ってぐちゃぐちゃに溶ける。そんなわけがあるか、そんなわけが。しかしないとは言い切れなかった。最後に見たのがいつなのかもはっきりしない男が、何をしでかしてきたかなんて考えたくもなかった。水っぽい吐瀉物と鼻水と滲みるような涙が顔中をべたつかせ、犬のように舌を出してぜいぜい呼吸を繰り返す。それでも取り憑かれたように幸せな顔で、こいつは目の前に膝をつくのだ。

 「抱いて」

 「は…」

 「だっこ。してあげて、ほら」

 ぐいぐい押しつけられたタオルの、その血がこびりついて固まった感触に怖気が立つ。嫌だと喚くはずの舌は痺れて言うことをきかない。そのくせ突きつけられたそれを受けとめるためにブリキより軋んだ動きで腕が持ち上がる。もう自分が何をしたいんだかわからなかった。腕の上に乗せられた布地の向こうにふやけたような生温かさを感じて、ただ悪夢だと思った。例えばこれが事切れたただの肉の塊ならどんなに幸せか。それが僅かに蠢く。生きている。

 「よかった」

 訳のわからないことばかり言う唇から奇妙に澄んだ喘鳴が聞こえた。赤子を預けて空になった腕が伸びて、頬を包まれる。そのまま口元を擦った指先は吐瀉物のかけらを拭う代わりにぬるつく血液を皮膚に残していく。恍惚と微笑んだまま、目の前の身体が奇妙に傾いだ。

 「え」

 ど、と重い音がする。間抜けな声はどうやら自分のものだったらしい。頽れた身体を視線だけで追う。血を擦り付けた指は傷だらけの床の上に中途半端に曲がったまま落ちていた。ぐにゃりと弛緩した身体は動かない。閉じきらなかった目蓋の下からビー玉が覗いて、ついさっきまで膝をついていた場所には真新しい血溜まりができていた。輪郭が定まった白い横顔に、不意にこいつを最後に見たのが去年の秋口だったことを思い出した。

 ふにゃ、と腕の中で泣き声がする。ガスを吹かしながら外をバイクが通り、雀だか何かの囀りまでが耳に入る。今になって止まっていた全てが動き出したようだった。小さな赤子は泣き続ける。耳障りな叫びだが、何故だか投げ捨てようとは思わなかった。茫然と名もない子を抱きかかえたまま宙を眺めていた。


 横倒しの肩を押すと呆気なく真っ赤な腹が天井を向く。奇妙な予感があった。乾いて身体に張りついたシャツをたくし上げる。嗚呼そういえば、こいつは臍の下辺りにほくろがあったんだったか。もう見えなくなってしまったが。

 腹に開いた穴は、丁度ひとり分の隙間だった。

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受胎 @nanath_suke

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