夜さりの幕手(よさりのまくしゅ)と星の彩添(さいてん)

灯燈虎春(ひとぼしこはる)

夜さりの幕手と星の彩添

──強羅ごうら一族のさがは、人よりも獣に近いと云う。


 そんな強羅の集落に、肌の真白い女子おなごがひとつ産み落とされたのは、星降るあるのことだった。


        


 ひとりの少女が、裸足のまま険しい山道を走っていた。年の頃は十二才程、山で育ったことが一目でわかる、肌の焼けた娘である。──強羅ごうら一族唯一の少女の名は、むぎといった。


「こ、こが……境界」


 足を止めた麦は、息を切らしながら地面へと視線を落とした。若草の覆い繁る地面には、白い何かが無造作に放置されていた。白くて細長い──村長むらおさ曰く、それは人骨だという。拐われてきた里の娘たちの、成れの果て。

 季節は夏。

 じっとりと肌を焼く強い陽光の下、震える息をゆっくりと吐く。逃げ出してきたことを、集落の連中に気づかれる前に早く。

(早く、逃げなきゃ……)

 麦は今日、この境界を越えて下山する。一族から、課された薄汚い役目から、女の性から、逃げ出すためにこの場へと来たのだから。


        ◆◆◆


 渓谷に囲まれた山深い森の奥に、その一族は在った。

 広く深い野山を獣狩りに駆け、力試しと言っては一族間での殺し合いを日課にするような、荒事あらごとばかりを好む男ばかりの蛮族、強羅ごうら


『──弱い塵虫ごみむしに、生きる価値はない』


 それが一族の共通認識で、強くなければ自ら喉を掻き切ることが美徳とされる。

 気紛れに人里に下りては酒や食い物、女を奪っていく盗賊紛いの彼らに近隣の村人たちは怯え、戸惑い、怒ったが、人や馬の足では深すぎる渓谷を越えることが出来ず──強羅一族は山中に住む、強脚とされる霊獣の跳麟はりんを飼い慣らしている──一方的に蹂躙されるだけの力関係が数十年に渡り続いていた。

 そんな強羅ごうら一族に産まれる赤子は、ここ数十年男児ばかりだった。その数年前までは女子おなごも産まれていたが、男に比べ力の劣る女が産まれた場合はすぐに殺していたため、これ幸いと気にする者はいなかった。

 それが、何の気紛れか数十年ぶりに生まれた女子。それは当然のように殺されかけたが、開け放った窓から夜空をぼんやりと見上げていた、せんせいと呼ばれる男の一言に因ってその運命は一転する。


「その子、生かしてみませんか? 久しぶりに産まれた女の子でしょう? 育てば、使い道はいくらでもありそうですし」


 袂を口に当ててくすくすと笑う師は、線が細く儚げな雰囲気を纏っていた。腕っぷしが強く体格のいい男ばかりの集落では、その姿はよく目立つ。


「まぁ……師がそう言うなら」


 男たちは戸惑いながらも、最終的にはその言葉を受け入れ頷いた。集落に於いて、師の存在は村長むらおさよりも重きが置かれている。


「あぁ、それと。骨で集落を囲ってください。捨てた女たちの骨、そこここにあるでしょう? この子どもが逃げないよう、私がまじないをかけますから」


 師は瞳を細めて赤子を一瞥すると、付き人に抱き抱えられて──師はずっと昔から足が悪い──部屋を後にした。その、歌い出しそうな程に楽しげな表情の理由は、誰も知らない。


        ◆◆◆


『絶対に、誰にも話しては駄目。いつかきっと、見つけてもらえるから』


 三つの頃に母が病で亡くなってから、むぎは集落の男たちに育てられた。幼くして狩りに連れて行かれたりと豪快な育て方をされたとは思うが、大きな怪我をすることもなく少女は健やかに成長していった。母の顔は覚えていないが、野山を駆ける毎日は楽しく──下界には鬼がいるから境界線の外には出るなときつく言い含められていて、獣の骨がその目印だ──寂しくはない。

 転機は、そんないつも通りのある昼下がり。

 朝から山で遊んでいた麦は喉の渇きを潤すために摘んできた桃を咀嚼しながら、腹が空いたと集落へ戻ってきた。世話になっている村長むらおさの家の扉に手を掛けた時、中から──麦、と自身の名前が聞こえ、反射的に動きを止める。興味本意で何の話だろうと耳を澄ましてみたが──その判断を、後悔はしていない。


『麦ももう十二か。子が作れる年だろ? 初めてはやっぱ村長か?』

『女の使い道なんてそれくらいだしなァ。ま、強羅ごうらの女が産むガキならよっぽど強いだろう。楽しみだな。人里から女連れてくんのも楽しいけどよォ……下手打って逃がすなよ?』

せんせいが、女たちの骨で作った境界からは出られないよう呪いをかけてんだから大丈夫だろ』


……よく、悲鳴を上げなかったものだと思う。男たちの言葉の意味を理解するまでに時間がかかったが──麦は正しく理解していた。このまま集落にいれば、どんな目に遭うか。

(逃げなきゃ……)

 足音に気づかれないように、そっと草履を脱いで草むらへ放る。静かにその場を離れた麦は、しかし視線を感じて勢いよく振り返った。

──視線の先には、集落でも一際大きなお邸があった。まぁるく取られた月見窓つきみまどに、随分と綺麗な顔立ちの男がひとり、凭れている。

(──師)

 師であると、すぐにわかった。

 実際に麦は会ったことはなかったが、話には聞いていた。涼しげな目元や、なぜか小さく振られた手のひらの柔さが荒事とは無縁のもので、この集落にそんな存在は師以外にはない。

 掛けられたまじないとやらを解く方法をぶん殴って問い質そうとも考えたが、この場を離れることを優先し、麦はそのまま踵を返した。

 ──山の中腹に、無造作に寄せ集められた骨の境界線。言われるままに、獣のそれだと信じていた自分は馬鹿だ。

(ごめんなさい)

 謝りながら、踏み越えようとした──けれど。


「……え、」


 

 誰かに、両の足首を掴まれている。目には見えないけれど、その感触は細い女の指、な気がする。


「……」


 あぁ、罰が当たったのだなと思った。

 集落に自分以外の女がいない理由を、むぎは真面目に考えたことがなかった。女がいないのに、ある日急にどこからか連れて来られた女は赤子を産んでその数年後にはいなくなる。

 顔もろくに覚えていない母も、ここにいるのだ。どれだかなんて、今さらわからないけれど。


「ぁー……」


 動かない足を抱えて、踞った。呼吸が震える。


「! あぁ、ようやっと見つけた」


──と、唐突に頭上から落とされた女の声に身体を跳ねさせた麦は、勢いよく顔を上げた。


「ッ誰だ!」


 足音も気配も、しなかった。反射的に叫ぶが──すぐに、目を丸くして言葉を失う。


ひどく美しい烏色からすいろの娘が、境界線の外側に立っていた。


 全身を黒い洋装で纏めた、腰まである長い艶やかな黒髪。いっそ青白い肌には藍色のあざのようなものが大きく拡がっており、それでもその美貌が損なわれることはない。切れ長の双眸そうぼうが和らいで、麦を見下ろしていた。随分と背が高い。

 それは野山にいるにはおおよそ似つかわしくない風貌で、周囲の温度すら数度下がったようにすら感じられた。


「──こんにちは。驚かせてごめんね。ねぇ、たまに、 ねぇ、ねぇ、私のものになる気はなぁい?」

「は、」


 集落に現在、女はいない。ならば、これは誰だ。

(人里の女……? え、そもそも人間? いや、妖精……?)

 そこまで考えて、そうか妖精ならばと納得する。彼女は今、星を散らすとそう口にしたから。

 記憶に残る数少ない母の言いつけを守って、麦は星を空で遊ばせる特技を集落の誰にも話してはいなかった。それを知っているのだから、野山の妖精でしかあり得ない。


「あ、その前に星! 直接星見たいなぁ、駄目かな?」

「……」


 しゃがみ込み、麦と目線を合わせた妖精は小さく首を傾けた。髪が地面についているが気にする素振りはない。ふわりふわりと、なんだかいい匂いがする。

──自分はこの境界の向こうには、おそらく行けない。足を掴む感覚は今も消えておらず、半ば下山は諦めていた。

 このまま集落に戻れば、地獄の日々が始まるだけ。ならば潔くこの場で死のう。それを思えば、最期に星で遊ぶのもいいかもしれない。


「……いいよ、別に。見たいなら」


 麦は、自身の指先をゆっくりと見つめた。十本すべての指の腹に、いくつもの青い点のような模様がある。

 指先に唇を寄せて「爆ぜろ」と小さく呟いた。

──その、刹那。

 ふたりの頭上、覆い繁る枝葉の隙間を縫って広がる真夏の晴れ空に、小さな小さな星灯りが散った。

 妖精は空を見上げて息をのんだが、けれど麦は舌を打った。

(こんな明るくちゃ、ろくに星なんて見えやしな──……え?)


「……え?」


 随分と、間の抜けた声を出した自覚がある。

 だって、


「夜……?」


 夜になるまで、短く見積もってもまだ六時間はある。混乱する麦を余所に、妖精は小さく笑った。悪戯が成功した子どものような笑み。その顔からは、なぜだか痣がすべて消えていた。


「私はね、さりの幕手まくしゅだよ」

「……まくしゅ?」

「あ、幕手を知らない? 強羅ごうらの集落だもんねぇ、ここ。──幕手は、空を司る者の呼び名だよ。そして、夜の帳をね、下ろしているのが私。私がいないと夜は来ないよ。ちょっとすごいかな?」


 胸を張る妖精、もとい幕手に上手く言葉を返せない。と云うか声が出せない。今まで、朝が来て夜が来ることに疑問を持ったことはなかった。そういうものだと思っていた。それが自然と呼ばれるものだ、だのに。

──夜を呼ぶ人間がいる? ならば朝はどうなる? もしや自分が星を散らせるように、雲を流す人間もいるのか? 雨は? 虹は?

 疑問は湯水のように湧いて、わくわくと逸る動機が抑えられない。身体が震えた。もっと色んな世界を見たい。知らないことを知りたい。けれど、けれども、自分は──


「あのね、私はきみが欲しい」


 自分は外には出られない。その気持ちに被せるように、幕手が穏やかに囁いた。

 境界線の向こうから、細い腕が伸びる。すらりとした腕からは想像も出来ない程に力強く、麦の指先がしっかと握られた。

 血色の悪さに反した、暖かい指先。


「どうしても、欲しい」

「……なんで」

「私は夜の番人だから、ずっと夜を見つめてる。でもね、夜は暗いんだ。真っ暗」


 山育ちの麦には、痛い程その言葉の意味がわかった。山中の夜は本当に暗く、一寸先も見えない夜闇だ。だから集落では夜通し薪をくべているし、暗くなってからは山に入る者も流石にいない。


「星が瞬いていれば、子どもが夜に怯えなくていい。星の位置が、旅人の導になる。夜に住む獣だって、星の光に暖かさを感じてる。──みんな、星が好きなんだよ。きみのことが、好きなんだよ」

「──……」


 思ってもみなかった幕手の言葉。返答に窮し結局は黙り込んだ麦に──だって、麦は山で育ったただの子どもだ。そんな価値はないだろう、だのに──幕手は困ったように眉を下げた。


「信じられない? ね、空を見上げてごらん」


 ぎゅうと手のひらを握り込まれ、麦は促されるようにもう一度夜空を見上げた。


「……っ! ぅ、わ……」


 そして──息をのみ言葉を失うのは、今度は麦の番だった。

 今まで、気づかれないように小さな範囲でしか星を散らしたことはなかった。最期だからとできる限りすべての星をぶちまけた訳だが──先刻は夜空に気を取られていてよく見えていなかったが、濃淡の夜空に浮かぶ幾千の星の瞬きは圧巻だった。大きい星、小さな星、砂に混ざる砂金のようにきらきらと光って、吸い込まれそうな位に視界が星空でいっぱいになる。

 流星が獣のように尾を引いて、地平の彼方へ消えていく。星灯りが暖かいことを、麦はこの日初めて知った。

(きれい……)

 それはそれは、瞬きも忘れる程に。

 握られていた手をほどいて思わず立ち上がって惚けていれば、幕手が笑って両手を広げた。


「ほら、星があればこんなに明るいんだよ。きみが、明るくしてくれた。……こんなに素敵なことが、他にある?」

「──ない、っない! ある訳ない……!」


 反射的に、大声で返していた。

 この星空を見ればわかる。素敵なもの。言葉よりも何より雄弁に、視界いっぱいの夜空が物語っていた。

 ついと、幕手は一歩後ろへと下がった。


「ねぇ、選んで。できれば、私を」

「自分の足で、こっちへおいで」

「そうしたら私は──すべて、きみの願いを叶えてやれる。ねぇ、どうしたい?」


 瞠目した麦が震える口を開きかけたその時──後ろから、幾人かの荒い足音と罵声が響いた。


「見つけたぞ……! お前、こんな所で何をしている!?」

「っ……!」


 村長むらおさと、集落の男たち。

 肩を跳ねさせ、とっさに逃げようとしたが足は未だ動かない。掴まれている。女たちの指に、強く掴まれている。

 そしてふと、手のひらの感触が背中にまで至っていることに気づいて戦慄した。全身に鳥肌を立てながら見えないそれを振り払おうと身動いだ麦の、耳に、


──いつかきっと、見つけてもらえるから。星の彩添さいてんのあんたを、誰よりも必要としてくれる人に。

それまで、生きてよ。その人に逢えたら、ここでのくそな生活なんて全部忘れて、名前も捨てていい。私のことなんて覚えてなくていい。……しあわせに生きててくれれば、それで、いいから。


 耳に響いたのは、確かに母の声だった。雑に麦の頭を撫でて、肩を竦めて笑う人。そっけない言葉で、けれど表情が柔らかいから、麦は自分が愛されていることを知っていた。

(──この人だ)

 幕手を見つめる。母が言っていた、自分を必要としてくれている人。

 男たちの怒号は最早、耳に入らない。背中が軽く叩かれたような気がして、とたんに軽くなった両足。地面を勢いよく、けれど骨を踏まないように慎重に、蹴った。

 境界を、越える!


「一緒に、いきたい……!」


 絞り出した言葉は、生きたい、だし、行きたい、だった。伝わっただろうか。

 ぐいと力強く腕を引かれ、勢いのまま幕手の胸に飛び込んだ麦は、幕手の顔を見上げる。幕手は、熾烈な光を宿した双眸で男たちを睨めつけていた。


「──強羅一族、お前たちの悪行は目に余る。夜さりの幕手、春夏秋冬音橙ひととせおとずみ並びに黎明れいめいの幕手両名の名を以て、いのちでのあがないをめいじようか」


 幕手──音澄の声はどこまでも低く、湿気しっけていて、耳障りだった。麦に対する声音とは、いっそ別人。

 麦以外の誰かがいると思っていなかった男たちは音澄の存在を認め訝しんでいたが、次いで驚愕の表情を浮かべた。

──夜さりの幕手だと? なぜ、こんな所に。


「強羅の一族は、すべて死ぬ。これは定めだ。もう覆らない」

「え」


 それは私も死ぬのでは?

 身体を硬くした麦に気づいたらしい、音澄は視線を落として囁いた。


「ねぇ、名前を教えて」

「強羅、麦」

「可愛い名前。んー……じゃあ、折節おりふし麦、はどうかな? 嫌?」

「……わかんないけど、嫌いじゃない」

「ならよかった」


 そんなやりとりの間にも、男たちは異変を感じ取っていた。


 呼吸が苦しい、皮膚が痒い、指先が黒ずんで、耳が膿み、眼球が揺れる──蝕まれる、!


 膝をつき「俺たちが何をした」と汚く喚く男たちへと、音澄は陰鬱いんうつに笑った。


「弱いからだよ。弱いから、死ぬだけだよ」


 終わりの時がきた、それだけだと、笑う。

 すぐに興味を失った音澄は、麦の髪を優しく撫でた。


「そのままお眠り。起きた時には、すべて終わってるから」


 瞼が、重くなる。その言葉を最後に、麦はゆっくりと意識を手離した。


        ◆◆◆


 光の浮かばない双眸そうぼうを彼方に向けていた火継ひつぎは、さりの幕手まくしゅが踵を返す様子をじっと女の腕には、集落の奥深くで育てられていた子どもがひとり。

──と。

 不意に、幕手が鋭い目線だけをこちらに向けた。確かに、目が合う。

(うっわ、バレた)

 千里眼を見抜くとは。内心で舌を出してから、さっさと千里眼を解いた。居場所まで教えてやるつもりは毛頭ない。


「──この集落も、もう終わりだな」


 部屋の外からは、男たちの濁った呻き声と怒号が続いていた。夜さりの幕手ののろいから逃れられる訳もない。自分たちは強羅ごうら一族と血の交わりはないから別段問題はないけれど。


「あーあ、そりゃあ残念。せっかく時間をかけて住み心地を良くしてきたのに」

「いや、お前があの餓鬼生かしたからだろ」

「まぁ、そうなんだけど」


 光が戻り虹彩の揺れるまま視線を落とせば、月見窓つきみまどに凭れて外を眺めていた寒凪かんなぎが肩を竦めて見せた。

 強羅の集落で長くせんせいとその付き人として過ごしてきたが、それも今日で終わりだ。大した感傷はない。


「なんであの餓鬼生かしたんだ?」


 荷物を纏めながら問えば、寒凪はこてんと首を傾げて夜空を見上げた。


「──星が、見たくて」



 人の血を啜ることでしか生きられない寒凪は、長く迫害を受けてきた。石を握って生まれてきた化け物が逃げないようにと足の腱を斬られたのは産まれてすぐのこと。罵詈雑言と暴力だけが与えられる日々の中で、雨ざらしの檻から眺める星空だけが唯一の好きなものだった。

 けれどもある時を境に星が見えなくなって、やがて絶望の内に火継と出会って救われて、星がないのは今代の星の彩添さいてんが死んだからだと教えてもらった。


──いつ、新しい星の彩添は生まれるんですか?

──んなもん俺が知る訳ねぇだろ? まぁ、生きてりゃまたいつか見れるだろ。星空なんて、いくらでもさ。


「あ? 星?……あぁ、そういや会った時にそんなこと言ってたな。そっか、あの餓鬼、星の彩添か」


 初めて会って、もう六十年程になる──幕手や彩添の他に、人よりも遥かに長命なのが自分たちのような飛礫つぶてだ。生まれつきの稀有な能力は、幕手や彩添とは違い国の保護もないから化け物扱いだけれども──正直、火継は邂逅かいこうの瞬間なぞもう覚えていないと思っていたが。


「ほら、新しい狩り場見つけなきゃなんだからさっさと行くぞ」


 纏めた荷物を肩に掛け、そうして伸びたもう片腕は当然のようにひとりでは歩けない寒凪へと向けられた。応えようとして、戯れにその動きを止める。


「このまま、捨てていってもいいけど?」


 足の動かない自分は足手まといだろう。そう言って笑えば、「何、死にたくなった?」と真顔で問われる。


「……まだ」

「ん、なら行くぞ」


 肉付きはよくないが、それでも決して軽くはないだろうにいとも簡単に抱え上げられる。火継はそのまま月見窓に足を掛けたかと思えば、おもむろに外へと身を踊らせた。重力に従い地面に打ち付けられるはずのふたりは、火継が背から生やした羽根に因ってふわりと浮遊した。魔縁まえんから奪ったと云う、硬質な白銀はくぎんの羽根。


「ちゃんと掴まってろよー」


 木にぶつかりたくないと、どんどんと空高く上がりながら滑空するから集落はすぐに豆粒程になり、やがては見えなくなった。跳麟はりんたちに自由に生きていいよと伝え忘れてきたことを後悔するが、頭のいい子たちだから大丈夫だろうと思い直す。強羅の馬鹿どもは跳麟たちの恭順さを自分たちの強さ故だと思っていたが、実際は寒凪が頼んでいただけだ。茶番に付き合わせてしまい申し訳ないことをした。


「……」


 夜空を背にする、火継の横顔を見上げる。

──死にたい。この生に飽きた。そう一言言えば、火継は直ぐ様寒凪を殺してくれるのだろう。そしてすぐに自死をする。互いのいない生に、すでに意味はないから。


「──なぁ、お腹がすいた」

「今!? 飛ぶ前に言えよもー……。いいよ、そのまま吸ってて」

「落ちないでくれよ」


 たとえ、飛礫同士は能力を得た代償故に傍にいればいる程互いの未来を潰し合うだけだとわかっていても。

(今さら、離してなんかやれない)

 火継の首筋に歯を立てながら、寒凪はきつく瞑目した。明日の夜からはきっと、星が見れる。生きる楽しみなんて、そんな些細なことでいいのだから。


        ◆◆◆


「──大丈夫。星の彩添さいてんは、また生まれますから」


 さりの幕手まくしゅ代々春夏秋冬だいだいひととせ家の人間が担うが務めであり、先代幕手は音澄おとずみの祖母であった。

 厳格で、自身にも他者にも厳しく、夜の幕を下ろす時間には寸分の狂いもなく──まるで、機械のような女だった。音澄は祖母が笑っているところを見たことがない。

 夜空には星を散らすことが義務だと感じていたらしい祖母は、幕手を継いですぐに臣下に見つけ出させた星の彩添を無理矢理に幽閉した。逃げないようにと、彩添の産まれ育った村は焼かれた。

──大切に、されることのない彩添だった。

 そうまでして手にいれた彩添を、当主業に追われる祖母は昼間は構うこともなく、夜に酷使された身体の弱い彩添は眠ることばかりの日々だった。

 永い年月の後、やがて病に冒されひとりでは起き上がることができなくなった彩添に、それでも星を散らす務めを頑なに強いる祖母に人の血はきっと流れていなかった。

 まだ幼い音澄が初めて彩添に会ったのは、綺麗な星空の下。祖母の膝にすがるよう痩躯そうくを寄せ淡く星を散らすその姿はひどく可憐で、どくんと大きく心臓が鳴った。たぶん、初恋。



「私の、彩添になって」


 一輪の花を片手にこっそり彩添の部屋に忍び込んでそう伝えれば、返ってきたのはやんわりとした拒絶の言葉だった。


──まだ幕手じゃないからかな?

──おばあ様が怖いのかな?


「私のために星を散らして」と願おうとして、咳き込んだ彩添を前に口をつぐんで音澄は部屋を後にした。幕手になってからもう一度、来ようと思って。

 何度も祖母に彩添の待遇の改善を訴えたが、鬱陶しがられてしまいには仕置きと称して地下牢にぶちこまれた。

 そうしてその間に──高い高い塔の一室で、星の彩添はひとり静かに息を引き取った。その後を追うように、祖母もまた。


「……」


 国がてんやわんやしている中で牢から出されたが、音澄はひたすらに納得がいかなかった。幕手と彩添が同時期に亡くなるのは深く結ばれた絆の賜物だと、まるで純愛のように城下で嘯かれていることが。

 それからしばらくして、異母兄のひとりに幕手の証の痣が出たと知ったその日。音澄は、その異母兄を殺した。そして同日夜半の内に、十一人いた異母兄姉弟妹もすべて。

──確実に幕手になるには、春夏秋冬家の血統を減らすのが手っ取り早かったから。

 躊躇いはなかった。次代の星の彩添を決して不幸せにしないために、音澄は幕手にならなくてはいけない。


(幕手になって、あの星を、もう一度)




「音澄様って、星の彩添が彩添になること拒否したらどうするんですー?」


 幕手兼当主になった途端にたくさん与えられた臣下のひとりが、そう口を開いた。


「……。ちゃんと、その意思を尊重するよ」


 いや嘘だろ。その間はなんだよ。臣下はそう思いはしたが、口には出さない。出さない代わりに、見も知らぬ星の彩添に願った。──どうか、この不器用で一途で向こう見ずな夜さりの幕手様のことを好きになってあげてね、と。

 

        ◆◆◆


 強羅麦ごうらむぎ折節おりふし麦となったあの日から、数年の後。

 天蓋のついた寝台で麦は、うつらうつらと微睡んでいた。夜になれば星を散らすお役目があるから、太陽の出ている時間は基本的に就寝時間だ。


「──麦は、夕暮れを知ってる?」

「……ん、……? ゆう……?」

「ふふ、眠い? ごめんね、返事しなくていいよ」


 音澄おとずみの柔らかく澄んだ声が、すぐ後ろから聞こえる。それはそのはずで、今の麦はふかふかの寝具の上で音澄に後ろから抱きすくめられている体勢だった。

──暖かくて、うれしい。

 幕手まくしゅは基本的に家の当主業も継ぐものだから、彩添さいてんの麦とは比べ物にならない位忙しい。その内容はいまいち理解し切れていないが、こうして共寝をしてもらえるのは毎回ではないので当主業は大変なのだろうと感じていた。

 ぼやけた頭で夕暮れ、と音澄の言葉の意味を考えるが、揺れる思考の前に簡単に霧散する。


「昼が過ぎたら、すぐに夜になるでしょう? でもね、本来はその間に夕暮れがあるんだ。綺麗な橙色の、空の幕だよ」

「だいだい……」

「えっと、蜜柑みかんの色だね」

「──みかんいろ……? え、瓶ラムネ色と烏色からすいろの間に、なんでそんな明るい色があるんですか?」


 けれど、続けられた音澄の言葉に思わず目を丸くする。ほんの少し眠気も忘れて首だけで振り返るが、視線の先の音澄に嘘をついている様子はない。


「さぁ? 私も幼い頃に数回しか見たことがないんだけど……綺麗だったよ、いつか一緒に見たいね」


 俄にも信じがたい、蜜柑色の昊天こうてん。全く想像はできないが、音澄が瞳を楽しげに細めたからそれはいいものなのだろう。途端に楽しみになる。


「はぁい!」


 つながれた手が暖かい。抱きしめられれば安心する。目が合えば笑いかけてくれる眼差しは穏やかだ。

(好き……)

 もしかしたら、言葉に出していたかもしれない。表情を緩ませた音澄が麦の前髪を柔く掻き上げて、額に唇を寄せた。


「可愛いね、私だけの星の彩添。……そろそろ、眠ろうか」

「はい……」


 振り返っているのも首が痛いから、麦は姿勢を戻した。枕に顔を埋めればほんの少し遠ざかっていた眠気がすぐに戻ってきて、麦は瞼をのろのろと下ろす。


「……まだだいぶ後ででいいけど、私の跡継ぎはふたりでつくろうね」


 春夏秋冬ひととせ家お抱えの医者には飛礫つぶてがいて、性別に関わらず子を設けることができるようになるらしい。

 眠気の中でこくりと頷けば、音澄から嬉しげな吐息が漏れた。音澄の手のひらに優しく腹を撫でられながら、楽しみがまたひとつ増えたと口元を緩ませる。

 音澄の子が欲しいと喚く獣染みた欲は今は身体の隅に放って──麦は今度こそ、暖かな眠りについた。



               (了)

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