逆境は人を○○○○○

黒井咲夜

逆境は人を○○○○○

 俺の人生は逆境しかなかった気がする。親が教育熱心で小学校受験をしたけどことごとく失敗。それでも公立学校で頑張って中学受験で巻き返そうとしたら受験期にインフルエンザをもらって失敗。高校受験は就職率が高いからと近所の工業高専を選んだけれど勉強は正直ついていくので精一杯だったし、お袋がうちの学校の教員と浮気なんざしやがったせいで両親が離婚するとかしないとかで揉めてたから家庭環境は最悪だった。卒業してそんなに有名でもないけどまあまあ安定してる会社に就職して、そこそこ貯金もできて、ようやく逆境から抜け出せると思った。そんな矢先だった。

「墨田さん、ちょっといいかな?」

 会社をクビになった。しかも建前は希望退職だからボーナスさえもらえないらしい。人事の担当者は事業の縮小とかリスキリングして異動もできるとかどうとか言ってるけど本音は人件費削減だろう。大卒でバイタリティも家庭がある社員よりも高専卒技術職独身男性を切り捨てる判断も理解はできる。納得はできないけれども。

「まあシステムエンジニアなら再就職先もたくさんあるだろうし、頑張ってね」

 心にもない励ましの言葉と少しの退職金を受け取って、俺は3年間勤めた会社を後にした。


 逆境は人を強くする、なんてのは嘘だ。その証拠に、それを言う奴らは大体人生が順調な奴らか教師しかいない。きっと逆境を超えられるようなメンタル強者が、俺みたいなメンタル弱者を外に引きずり出すために考えた言葉に違いない。逆境が人を強くするんじゃなくて、逆境が弱い人間をふるい落とすから元から強い人間が残るんだ。

 取り留めのないことを考えながら重い足を引きずってボロアパートに帰ると、鍵が開いていた。玄関には派手な黄色いパンプスが無造作に脱ぎ捨てられている。

「おかえり〜〜。なぁに、今日はやけに早いじゃないの」

「……また朝帰りか?お袋。あと、いいかげん俺の家に入りびたるのやめてくれよ」

「それより先に言うことあるでしょ!」

「チッ……ただいま」

「は〜〜い!おかえり真純ちゃん♡」

 泥酔した母が、我が物顔で玄関に寝転がっている。トイレに間に合わなくてシンクに吐いたのか、ゲロの臭いがただよっている。

「真純ぃ〜〜、お金ちょおだぁい?ママお金なくって困ってんのぉ」

「あー、今日仕事クビになったから無理。ていうか、俺の稼ぎじゃお袋の面倒見きれないから、出てってくれない?」

 母の顔がぐしゃりと歪む。これはまずい、と思ったが時すでに遅し。

「真純もアタシのこと見捨てるのね!そういうとこほんっとパパにそっくり!なによ、アタシが何したって言うのよ!アンタを産んだのも今まで世話してきたのもぜーーんぶアタシなのよ!?その恩を返そうっては思わないの!?このっ、人殺し!」

 母はキレると手当たり次第に物を投げてくる。今日はシンクにあった皿が飛んできて、足元でガシャン!と割れた。どうせ当たらないんだから投げても無駄だってわからないんだろうか。

「人殺し!人殺し!人殺しーっ!!」

 まともに取り合っても疲れるだけだ。居間は酒の缶まみれだからそのまま風呂場に入って転職サイトを探すことにした。


 仕事を辞めてから1カ月。転職先はなかなか見つからない。俺が仕事を辞めてから母は借金をするようになった。返すあてもないだろ。


 仕事を辞めてから2カ月。ようやく面接にこぎつけたけどまたお祈りされた。借金の督促状が来ている。母が勝手に送り先をここにしたんだろうか。


 仕事を辞めてから3カ月。貯金が底をつきた。ほとんどが母の借金の返済だ。アルバイトを探さなくてはならない。


 仕事を辞めてから4カ月。最近転職サイトを開けてない。バイト探しがうまくいかない。金がないから通信費を払えないし歩いて探すしかない。


 仕事を辞めてから5カ月。ようやく近くのファストフード店でのバイトが決まった。店内でフリーWi-Fiが使えるからバイト終わりに転職サイトを見られる。


 仕事を辞めてから半年。転職先はまだ見つからない。最近SNSでしか本音を話していない。バイト終わってからずっと居座ってると嫌な顔をされる。


 借金を返せないので夜も仕事をすることにした。キャバクラのスタッフを募集していたのでそこで働くことにした。保険料が引かれないから手取りが多くていい。


 昼はファストフード店、夜はキャバクラの生活にも慣れてきた。転職は諦めつつある。正直通信費を払うのもきついけれど、ケータイがないと仕事ができないから仕方ない。


 最近まともに寝てない。昼のバイトが終わったら母の食事の用意、洗濯、掃除をしてそのまま夜のバイトに行っている。飯は一日に安売りの食パン一枚。きつい。


 寝ないで働いても借金が減らない。帰りの電車に突っ込んだら借金返さなくていいよな、と思ってホームに飛び込んだら高専時代の同級生に引き留められた。「死にたくなったら連絡してくれ」と名刺を渡された。大手IT企業の社名が書いていた。


 キャバクラのバイトで客が女の子に絡んでたのを止めたら近くにあった灰皿でめったうちにされた。女の子には感謝されたけど前歯が折れた。


 金がないので冷蔵庫とテレビを売った。ついでにソファや着ていない服なども売ったが、まだまだ借金完済には足りない。もっと働かないと。


 昼のバイトをクビになった。客からクレームが入ったらしい。仕方ないので新しいバイトを探す。キャバクラで正社員になれないか聞いてみよう。


 中学時代の友人から連絡が来た。保険会社に就職したらしく、保険を契約してほしいという話だった。あいつより俺の方が成績良かったのに。どこで間違えたんだろうか、俺は。


 最近ずっとうっすらと死にたい。客の声や女の子の声がやけにうるさく聞こえる。昼のバイトは牛丼チェーン店にした。客と余計なことを話さなくていいから。


 家に帰るヒマがない。シャワーはネカフェ、洗濯はコインランドリーで済ませてそのまま出勤している。ずっと働いてると自分がなくなる気がする。


 悲しいわけでもないのに涙が出るし、ささいなことで腹が立つ。洗濯をする気力がなくて汚れるたびに捨てて新しく買い足すようになっている。


 つらい。死にたい。なにもかも投げ出してしまいたい。俺がいなくなっても、きっと明日も世界は何事もなく回ってる。


 死にたい。だれにも迷惑をかけずに死にたい。


 久しぶりに家に帰ったら、母が居間で酒をあおっていた。

「アンタが帰ってこなかったから飢え死にするかと思ったわ!早くご飯つくって!早く!!」

 怒鳴り声がうるさい。仕方ないので鍋に湯を沸かしてカレールーを入れる。冷蔵庫がないから野菜も肉も魚もない。この前帰って来た時にはソーセージとサバ缶があったはずだけど見当たらないから、多分母が勝手に酒のつまみにしたんだろう。

「ねえ〜〜、ご飯まだ〜〜?」

 ルーが溶け切るまでかき混ぜる。母が「カレーはご飯といっしょじゃなきゃ食べない!」とごねるから仕方なく用意したパックご飯を電子レンジに入れる。

「ていうかまた具なしのカレー?あ、ごめん。アンタカレーしか作れないもんねぇ?よくそんなんでアタシなしで生活しようと思ったわね」

 カレーしか作れなかったのは小学生の頃の話だし、具なしなのはカレールー以外何もないからだ。俺が料理下手だからじゃない。

「あーあ、真純が女の子だったらフーゾクでもなんでもやってもーっと稼げたのに。ね、アンタ女になりなさいよ。でもってもっとアタシに楽させてよ」

 多分他にも何か言ったんだろうけど、覚えていない。気づいたら包丁で母の背中を刺していた。胸のあたりを刺したから骨に当たって貫通しなかった。

「なに……アンタ何やってんのよ!誰かーー!助けてーー!人殺し!人殺しよぉ!」

 床に這いつくばって死にかけのセミみたいにうるさいので口をふさいで首を絞める。脚がバタバタしてて、余計にセミみたいで気持ち悪い。

「〜〜っ、〜〜!」

 暴れたせいで包丁が抜けた。血で布団が汚れる。畳に染みてなきゃいいけど。畳張り替えるの金かかるし。首を絞め続けてたらしばらくバタバタしてたけど、いきなり電源が切れたみたいに動かなくなった。一応気絶してるだけかもしれないから、ユニットバスに水を張って、沈めて首を切った。水が一気に赤くなった。

「……どうしよう、これ」

 普通に見つかったらやばいし、とりあえずバラバラにして捨てればいいのか?ホームセンターを探して、ノコギリとビニールシート買わなきゃ。でも普通に捨てたら絶対臭いでバレるし……。

 浴室から出たら、コンロにかけたままのカレーと目が合った。


「……ああもしもし、明石先生?俺です俺。墨田。墨田真純です。今夏季休業期間ですよね?ええ、ちょっと飯作りすぎたんで食いに来ません?」

 いろいろと準備をしていたら19時を回っていた。夕飯どきでちょうどいいので、母の元浮気相手-今は事実婚状態-の先生を家に招くことにした。

「お袋?ああ、こっちにいますよ。今風呂です。はい、はい……じゃあ車適当にその辺に停めてくださいね。住所は-」

 冷めたカレーを温め直すついでに、肉を追加する。焦げないように、かつ肉に火が通るように弱火でじっくり煮込む。どうせ煮崩れるような具材も入ってないから気を使う必要はないけど。

 30分ぐらいたったあたりで、鍵を開ける音が聞こえた。合鍵いつ作って渡したんだあのクソババア。

「どうぞ上がって。さ、食べて食べて。俺1人じゃ食べきれなくて。あ、今カップラーメンの空き容器しかないんでこれ使ってください」

「ああ、ありがとう……いただきます」

「いただきます」

「ん、うまいな」

「でしょ?ほら、カレーだけじゃなくこっちも食べてください」

「これは……ホルモン焼きか?ずいぶんと豪勢だな」

「久々に肉手に入ってテンションあがっちゃって作りすぎたんですよ。傷みやすいって聞いたから早く食べちゃいたくて」

「冷凍すれば良いじゃないか」

「冷凍庫ないんですようち」

 俺の答えを聞いて、先生は気まずさをごまかすようにカレーをかき込んだ。しばらく互いに無言でスプーンを口に運ぶ。

「……ところで、夏希さんは?さすがにもうお風呂から上がってるんだろう?」

「お袋ですか?ここにいますよ」

「えっ」

 ほとんどカラになった鍋をたたいて笑ってみせた。笑えてるかは知らない。

「いやー人間って意外と簡単にバラせるんですね。首落として手脚落としたらなんか肉屋に吊るされてる豚みたいになってもしかしたら肉食えるんじゃね?って思ったんで焼いてみたんですけどいやーくっさいし脂っこくて食えたもんじゃなかったです!なんでカレーにぶち込みました!ちょっと変なにおいしてもだいたいカレーに入れときゃなんとかなるんで!ははっ。今先生が食ってんのはそれ多分太腿かな?尻肉かもしんないですけど。明石先生はお袋の胸とかケツとか好きかなって思ったんで胸肉も入れました。胸肉ってか贅肉ですけど。うまかったですよねお袋の乳とケツ。あんた大好きですもんね。ちなみにモツ焼きは子宮ですよそれ。リアルコブクロ。さすがに腸とか胃は汚かったんで捨てましたけど。あ吐きます?トイレ使ってもいいですけど内臓とか色々流したんでめっちゃ臭いし風呂場で血抜いたんで多分まだ血まみれですよ?なんで吐くならシンクまで行って吐いてくださいね。畳汚したら全部張り替えなきゃいけないんで」

 先生が真っ白な顔でシンクに走って行って、吐く。口を押さえてる手の隙間からゲロが溢れてた。

「あーあ、もったいない」

「殺したのか……自分の母親を……!」

 キレて掴みかかってきそうだったからゲロ吐いてる先生の短い髪を掴んで、頭をシンクの角に思い切り叩きつける。

「手足とか首とかの残り海に捨てに行くんで、車出してください」

「……キミが警察に行くなら車を出す」

 2、3回シンクに頭を叩きつけて、うなじを包丁で軽く切る。意外と血が出て床が汚れた。

「っ……!」

「次ナマ言ったら先生も殺します」

「わ、わかった!車をアパート前まで持ってくる!だから離してくれ!」

「じゃあ今から30分以内で帰ってきてくださいね。30分で帰ってこなかったら高専に捨てに行くんで」

 手を離したら転びそうになりながら走っていった。今のうちに風呂場と床をキレイにしておくか。


 お盆明けの国道はいくらか空いていて、日が暮れるなか車は海に向かって走っている。運転席に先生。助手席に俺。後部座席にはお袋の余りを包んだ布団とノコギリ。カーラジオからタレントの声が流れている。

「海行くのなんてガキの頃以来です。まだお袋と親父が仲良かった時に、一度だけ海水浴に連れてってもらったなぁ。俺は山より海が好きなんですけど、先生は海と山どっちが好きですか?」

 先生は答えない。運転に集中してるからか脇腹に包丁を突きつけているからかはわからない。

 対向車とすれ違う瞬間、窓ガラスに顔が映る。目の下のクマ。こけた頬。細く生気のない目。キャバクラのバイトでケガした左目を隠す前髪。伸ばしっぱなしのボサボサ髪。レンズがぼろぼろのメガネ。久々に見た自分の顔は、いかにもニュースで見る犯罪者という感じだった。

「……真純くん。やっぱり、今からでも警察に行かないか」

 先生がポツリとつぶやいた。声がかすれている。

「日本の警察はキミが思うより優秀だ。どこに逃げても、きっとすぐにキミが犯人だと突き止めて捕まえに来るだろう……どうせ捕まるなら、自首した方が罪が軽くなるかもしれない」

 言葉が終わるのを待っていたかのように、雨粒がフロントガラスに勢いよくたたきつける。

「いっしょに近くの交番まで行こう。それで。今までやったことを全部話そう。オレもちゃんと自分がしたことを正直に言うから--」

 突きつけていた包丁を先生の脇腹に刺す。骨の隙間に入ったのか、今度はちゃんと刺さった。

「今更善人ぶってんじゃねえぞボケカスが!死体入りの飯食って車出した時点でなぁ、立派な死体損壊犯人隠避の共犯、真っ黒な極悪人なんだよ!いっしょに警察に行こうだぁ!?んなこと言って素直にはいそうですかって行くような人間ならわざわざ死体切り刻んで捨てに行こうとなんかしてねぇよ!寝言は寝て言えこの脳みそ万年お花畑野郎!今ここでテメーの腹かっさばいて腸でお花のバルーンアート作ってやろうか!?だいたいテメーがお袋と不倫しなけりゃ俺がお袋殺すこともなかったんだから加害者はテメーの方だろうが!違うか!?違わないよなぁ!人の家庭めちゃくちゃにした口で罪を償えとか正しいことをしろとかよく言えるな!えぇ?ふーっ……もしもあんたが本気で警察行く気なら、あんたを殺してこの包丁にあんたの指紋ベッタリつけてから警察に行ってやる。そんなに罪を償いたいならあんたひとりで罪を背負って死んでくれよ。ひとり殺すのもふたり殺すのもたいして変わらないし。ははっ」

 先生は退かない。脇腹に包丁が刺さっているのに、ハンドルを握る手は全く震えていない。

「キミの言う通り、オレも悪人だ。キミを止められなかったんだからな。だが、キミを警察に連れて行くのは正義感とかそんな理由じゃない。きちんと罪を償って、人生をやり直してほしいという、オレのエゴだ。今のキミは、本当のキミじゃない。耐えがたい逆境に押しつぶされて、すこし選択を間違えてしまっただけなんだ」

 信号待ちで車が止まる。先生が大きな意志の強い瞳で、俺の目をまっすぐ見ている。

「オレの人生なんかどうでもいい。オレは、今からでもキミを救いたいんだ」

 いまさらなんだよ。そうやってあんたも俺をコントロールするつもりか。だまされるかよ。人間なんてみんな自分が一番大事なんだろ?俺が何も知らないバカでクソ真面目でトロいからって利用するだけ利用してあとは切り捨てるんだろ?家族ですらない他人が俺のために罪をいっしょに背負ってくれるわけがない。そうだ。きっと俺を警察に突き出して自分は被害者ヅラして逃げるつもりに違いない!

「ふざけるな……!」

 信号が青に変わる瞬間、ドアを開けて道路に飛び出す。車道に止まっている車の間を走り抜ける。クラクションの音がうるさいが気にしない。

 走る。とにかくひたすら海に向かって走る。死体を捨てたかったのはうそじゃないけれど、海に行きたかった本当の理由は、死にたかったからだ。山で死んだらどこにも行けないけれど、海で死んだら死体はばらばらになって、海をただよって、どこか知らない場所に流れつくかもしれない。生きている間はどこにも行けなかったのに、死んでからもどこにも行けないなんていやだ。だったら海で死にたい。誰にも迷惑をかけないぐらい沖まで、死ぬまで泳いでいきたい。飛び込み自殺に失敗した日からずっと考え続けてた、理想の死に方だ。

 誰かの顔色をうかがっていた間、俺の人生は逆境しかなかった。自分で決めてからようやく順境に進み始めたんだ。……ああ。今、人生でいちばん自由だ!今、俺は俺のためだけに生きている!

 雨が顔に、体に、アスファルトに打ちつける。海まであとどれぐらいだろう。夢中で走ったから今どこにいるかさえわからない。ああ、波の音が聞こえる。ようやく、死


[--続いて、交通情報です。国道2号線は現在、未明に発生した事故の影響で一時通行止めとなっています。--]

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逆境は人を○○○○○ 黒井咲夜 @kuroisakuya

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