第6話
背中のあたりが泡立つような感覚とともに、アレスは身を起こした。
(……夢、夢など、いつぶりに見たかな)
アレスは寝台の上で身を起こす。落下する夢は少なくとも快いものではなかった。
思えば腹が立つのは、単純な悪意をぶつけてくるアルテミスのほうではなく──もちろんもう一度会えば自慢のツインテールを燃やしてやりたいが──自分を突き落として晴れがましく笑うフォボスのほうだった。
「自由におなり、アレス!この天上の檻は、お前にはちいと小さいようだからね!!」
(檻……檻か)
(ではあれも、囚われているのか。なんのために……)
アレスがかぶりを振ると同時、ノックもなく部屋の扉が開いた。
「よぉアレス。起きてるか」
「殿下」
慌てて立ち上がり、アレスは頭を垂れる。
「おはようございます。わざわざ御足労いただかなくとも、お呼びくださればこちらから参上しますものを」
「お。今のいいな、騎士っぽいぞ。寝巻きじゃなければ」
「……恐縮です」
「そう嫌そうな顔をするなよ、別に怒ってないぜ」
アレスが地上に堕ちて一週間。
最初ほどは周囲もうるさくなくなり、シャウラの日常業務にも余裕が戻ってきていた。早朝からこうして会いに来るのはその証拠だろう。
「して殿下、何用で?」
「大事な用事だ。寝巻きのままでいいから来なさい、もう先方は来ているのでな」
シャウラはにやにやと笑っている。なんとはなしに嫌な予感がしたが、アレスに断れるわけもない。しぶしぶ、アレスはシャウラに従い、部屋を移動することとなった。
◇
「殿下ぁ」
「なんだ」
「私は何をさせられているんです?」
数十分後、アレスは多くの人々に囲まれていた。
彼ら彼女らは忙しなく周囲を行き交い、やれこの生地は合わないだ、違うこの色味のものを持ってこいだと、やいやい騒いではくるくると広間を移動している。
最初こそ大人しく人の手を介して受け渡されていた布地は今や中空でキャッチボールされるようになり、意見交換は果てのない議論になった。アレスは巻尺で身体のあちこちの長さを図られるどころか、目の前で翼のスケッチを描き出す者までいる始末だ。アレスも最初こそ周囲と大人しく会話していたが、ここまで白熱してくると渦中でありながら蚊帳の外といった風情であり、こうしてシャウラを睨みつけるに至る。
「アレスの着るものを作ってやっているのだぞ」
「頼んだ覚えはありませんし、着るものにこだわりもありません」
「城に来てから適当な服ばかり着せていたからな。お前には翼があるし、不便だったのではないか?」
「いままさに不便ですが」
「いいか、お前は自分の顔と体格の良さを自覚すべきなんだ。わかったら、いいから今日は大人しく俺の着せ替え人形になれ!」
「最初からそう言ってくださればこちらも素直に罵れるものを。殿下、ついに阿呆になりましたね?」
シャウラと不毛な会話をしていると、ふとアレスは一人の針子が己の背後に近寄ってくることに気づいた。歳はまだ若い。見習いといったところか、と視線を向けると、怯えたような──あるいは、
「……何か?」
「すすすすみません!!……あっ、あの、アレス様、耳に着いているそちらは……?」
「ん」
針子の言葉にアレスは己の耳たぶを確かめる。硬い金属の質感が手に触れた。
(──クリップか。そういえば、捨て損ねていたな)
クリップと呼ばれるそれは、天使たちが使用していた連絡用の小型の機械だ。どうやらつけっぱなしにして持ってきてしまったらしい。見た目は銀色のシンプルなイヤーカフに似ている。針子が気にしたのは、もの珍しいアクセサリーに見えたからだろう。
「綺麗な耳飾りだと思って……。素材は銀ですか?」
「素材は知りませんがそれなりに大切なものではありますね」
「左様ですか……、あ、そうだ殿下!耳飾りで思い出しました! アクセサリーもたくさんお持ちしたのですがご覧になられませんか?」
「念の為申しますが装飾品は好みませんよ、動きづらい」
「晴れの舞台の時は着飾る騎士の方は多いですよ!鮮やかな金などは如何ですか?想像しただけで推せる……!ああしかしシャウラ様の瞳に合わせた空色も、白い翼と対になる黒なども捨てがたいですねぇっ……!」
先程まで固まっていたのはいずこやら、ずいぶん情熱的なファッション感覚を持っているらしい針子の熱気に押されたか、シャウラも苦笑する。
「そこまで言うなら見よう」
「はい!」
「既に
「お任せください!鎧と剣につきましても必ずやご満足の行くお品物をお作りします!なにせ、殿下の
針子の何気ない言葉に、アレスの背筋がひりついた。
(聞いてないぞ)
という視線をシャウラに向ければ、
(言ってないからな)
と言わんばかりに肩を竦めて、知らぬ顔をしてアクセサリーを眺め始める。
シャウラが話さぬ以上、ここで大っぴらに突っ込むわけにもいかない。そもそもアレスの現在の立場は「殿下が気に入った客人」以上ではないのだ。
シャウラはアクセサリーに夢中で、こうなれば文句を言える相手もいない。アレスは気持ちを持て余しながら、布を当てられては外されを繰り返していた。すると一人の妙齢の女性がにこにこしながらアレスに近づいてきて言う。
「アレス様が城にいらして良かったです」
「……とは、何故」
「いいえ。我々も仕立てをさせて頂くことは何度かあったのですが、最近の殿下のお召し物と来たら喪服ばかり、こうして華やかな色をお運びするのももう何年以来か」
「ああ、なるほど。……まぁ、私もそのようだったとは。若干ですが、殿下から聞いております」
「ですから、こうして殿下やアレス様の晴れ着を作れることは我々の喜びです。とても嬉しく、誇らしゅうございます」
女性の言葉に周囲も賛同する。にこにこと笑う彼らにの表情に偽りは見えない。これからの政治に多かれ少なかれ不安はあるのかもしれないが、職業に対する喜びも紛れもない事実なのだろう。殿下が陛下になった暁にはぜひ結婚式にも、と口にしてはしゃいでいる様子にはいささか気が早すぎると口を挟みたくはなるが。
(しかし、戴冠式か)
(おおかた、正確な日取りも決まらぬ未公表の話ではあろうが、この調子なら早晩周囲の貴族たちにも伝わるだろう)
アレスがひとりごちていると、アクセサリーを見終えたシャウラが今度は服の方に行って、やれこれは丈が長すぎるだのこのデザインは直せないかだの小難しい話を初めている。長らく喪に服していたゆえに城には装飾品がほとんどないが、本来のシャウラは美意識が高いというか、こういったものに感心があるらしかった。
(……近々一波乱あるやもしれぬな)
アレスはなんとなくその場を離れる気分になれず、わぁわぁと布地の山を捌いているシャウラをずいぶんと長いこと眺めていた。
シャウラの猟犬 たいてい @rabi_unus
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