G. / Epilogue

 G.

 午前八時三〇分、真駒内駅。慶一と木下のほかに東島氏の三人はたしかに顔をそろえていた。慶一が木下によく眠れなかったのではないか、と問うと、なに、一切何もかもおまえさんの所為せいじゃないか、と言って慶一に軽くラビット・パンチを喰らわすまねをした。が、続けて、瑞生のことが気になるのはおまえ一人じゃないんだからな、と付け加えた。東島氏は咳一咳がいいちがいして、さて今日は幸い天候にも恵まれたことだし、そろそろ一つ行こうかね、とのんきな声を上げた。バスはすでに停留所に着いている。三人は乗り込むと、最後部のシートに並んで腰をかけた。バスはやがて後部扉を閉じて出発したが、車内は夏休み期間中にしては慮外りょがいに空いていた。東島氏は、たけきみたちを危ないめに遭わせることはないようにとは心がけて来たつもりだが、しかすると少しばかり異常な出来事に遭遇するかも知れぬ、その際もできるだけ平常を保つようにしてくれたまえ、と東島氏は二人に静かな声で言った。木下はその傍らから、聖書、っていったい何に使うんです? とものじしない言い方で問うた。えずそれはお守りとして有用な筈だから、なくしてしまわないように大事に持っていなさい。ふーん、分かりました、と木下は分かったようなに落ちぬような顔をする。バスは本当にのどかとしか形容しようのない市街を無事に走り抜けて、目的のバス停に安着した。好天に恵まれたが、時刻のためか駐車場にも車の台数は多くない。慶一にはそれが何だか暗示的なもののように感ぜられて指図をあおぐかのように東島氏の顔をみたのだが、氏はまるで何も気にすることはない・不安要素なぞどこにもないと全身で言わんとするかのように、では行こうかと声をはげましてバスのステップをまっ先に立って降りたのだった。乗降口から下に降り立つと東島氏はバス・ターミナルの鉄板の屋根の下、もの蔭のできているところで、別に残りの二人を待つと云う風情ふぜいでもなくふと立ち止まって、さァここからが正念場だ、長丁場を覚悟だぞ、と言った。木下がその言葉尻をとらえて、いったいどういう意味です、と問うと、いやね、つまりこれから索敵さくてき行為に入らなくてはならん訳だよ、いったい今このアシリベツの滝周辺にどのくらいの人数が集まっているものかは知らないが、わたしの経験からすると敵は恐らく単独で行動している筈で、つまり我われはその単独の敵をうまくそれと特定して見つけ出さねばならぬ、失敗して下手をすると我われの方が却って妙な眼で見られ、ヘンなヒトねで済めばよいが万一変質者とかそれこそ悪魔扱いでも受けたしにゃたまったものではないからな、とうっすら笑って言った。木下は少しく怪訝かいがの表情をうかべて、テキ、っていったい何です、と問うた。氏は苦い笑みを泛べたまま、さあてその段になると、わたしにも果たして正解を導き出せるものかどうか、いささか自信がなくてね、と言った。カミ……、悪神の類か、はたまたアクマと称するべき存在なのか、一つだけはっきりしていることはだね、それが何であるにせよ我われ人類の想像力ではちょっと追いつかぬ、一種の神通力じんつうりきを持っているらしい、ということだ。それ以外のことは、目下わたしの想定の内にはない。氏がそう言うと、木下はごくりと生唾を呑んだ。聖書じゃ力が不足だったかもな、と頼りなげに言うと、東島氏は、何にせよ聖書は有効だろう、無駄にはならないと思うよ、と言い、じゃあ何ですか、若しかして〝帝都物語〟みたいな展開になるんですかね、と木下が突っかかると、東島氏はまあそうムキになりなさんな、とまず軽くなだめ、そして呼吸こきゅうおいてから、そうだな、まず控え目に見積もってその程度にはなるだろうな、と言った。木下は小さく鼻を鳴らして、夏期休暇中のいいレポート課題、ってワケですか、と言って靴の底でたばこをつぶした。ひとつ気に懸かることがあった慶一は、ねえ東島さん、ぼくらバスが着いてからもう十分もこうしていますけど、いいんですか動かなくて、と問うた。すると、東島さんはうむと点頭てんとうして、こんな時にきみは冷静でいられるね、さよう、本来ならこちらから動いて敵を探る、それが普通だ。わたしもつい今しがたまでその積もりでいたのだ、だが…、何と言うか、一種の皮膚感覚とでも言おうか、どうやら先方でもこの我われのことを捜しているかも知れないな、と云うような気もしたものでね、ちょっとだけ時間を稼いで様子を見ていたのだ、今日はこのとおり人出も手薄なことでもあるしね、とちらちら辺りをうかがいながら言った。何も来ないじゃありませんか、と木下が三本めのたばこに火をつけながら言った。――そうだな、きみがそのたばこを吸い終わるのを待ってぼちぼち腰を上げるとするかね。東島さんはそう言うとやや動こうとする気配を見せたが、慶一には氏が四囲しいに油断なく気を配っているのがよくわかった。いったい何をそんなに気を遣わなくてはならないのか、しかしながら慶一にはそこのところがいま一つよく分からないのだ。ここはまず言うまでもなく地球日本国北海道札幌市だ。なかくにではないしアースシーでもナルニア国でもない。従ってガンダルフもいないしホビットもカスピアン王子もゲドもいない。それだと言うのに天空にわかにかき曇りて妖しく闇が拡がり、稲妻走りて雷鳴轟き、血湧き肉躍る一大SFX仕立ての〝サイキック・ウォーズ〟絵巻が展開されるとでも言うのだろうか? ――この閑静な田舎町で? それは想像するだにチャンチャラ可笑おかしかった。けれども東島氏の出で立ちはと確かめると、ふくらんだリュックサックをしっかり大事そうに抱えている。全体的な様子から察するに、あの中には聖水や十字架はじめ〝七ツ道具〟が収められているのだろう。まさか東島さん、〝マッチ・ポンプ〟の自作自演などしでかす積もりではないんだろうね。慶一はリュックサックの中身を推し測ったが、多分そんなに危険なものは所持していなだろう、との推測の域を出なかった。さあではそろそろ行ってみようか、と東島さんは馬にむちくれるように励声れいせいすると、木下と慶一のふたりを後に従える形で日射しの強い中へとずんずん歩んで行ったから、札幌で二年と半年暮らしていながら昨日までアシリベツのアの字も知らなかった慶一なぞは、精々置いて行かれないように歩を速めて後を追うよりほかなかった。いったん動き出した東島氏はもう迷いのない足どりでぐんぐん歩いてゆく。木下も慶一も見失わないよう歩度ほどを上げるのがっとだった。そのうち息が切れてきた。道はまだアスファルトの舗装路が続いていたものの時おり挟まるコンクリートの段級を下りるたびごとに野趣が深まってゆき、両側から迫る木立も次第に三人との距離を狭めるかに思われ、そのうちせせらぎの音が耳に届くようになった。そこで東島さんはふと立ち止まり、少しばかり休憩しよう、と告げた。木下は拍子抜けでもしたかのようにたばこをパケットから振り出して火を付けると、ホントにこっちなんですか、誰もいないじゃありませんか、と、それでも余り非難がましく聞こえぬように木下なりにかなり糊塗ことしたらしい口調で言った。慶一は胸のなかでバス停からここまで来る途中で行き会った人びとを思い直してみた――、親子連れが三組、カップルが二た組、老夫婦らしいのが一と組。そして、三人の眼の前、さてそこにカギのかかったフェンスが待ち構えていた。それは白いビニール・コーティングを施した金属製の細い華奢きゃしゃそうなワイヤを組み合わせてこしらえたもので、一見すると脆弱ぜいじゃくそうに見えるのだが、その分たわむ力が豊かにあるのでぶつかって来る者を受け止めるだけの余裕があった。しかすると戦意を喪失させる力もあるのかも知れない。ここ、ここのゲート、普段はたしか開いている筈なんだがな、と東島氏はワイヤ・フェンスに二重に取り付けられた錠前――、一つはよくある南京錠でもう一つはナンバー・ロックだった――、を揺すぶった。氏は、こりゃあ一つひとっ走りその辺のホーム・センターへ行ってワイヤ・カッターでも買って来たものかなあ、でもそうすると時間が不足するし…、とぶつぶつ口の中でつぶやいている。木下が、この奥なんですか、と問うと氏はああそうだ、この戸口はさしずめ必須ひっすの一課程とでも言えるものだからねェ、と答えた。慶一は白いフェンスに触ってみてその強度とたわみ方を確かめてから、フェンスをなんとかして切ろうとしている東島さんの背中にむかって、あのう、ここをこう乗り越えてしまうのではどうでしょう、と提案した。今まで検討すらして来なかった案なのらしい。東島さんは卵を吸ったイヌのような妙なにやにや笑いをうかべて慶一を見ている。慶一はよく見ていて下さいよ、と言ってフェンスにとり付いた。氏と木下は、おうと返辞をした。フェンスはやや手に余るほどの高さで、だいたい三メートル程度だったが、登って登れない高さではない。格闘六、七分の末、どうにかこうにかてっぺんにたどり着くと、ほんの飾り程度に付けてある二重の鉄条網を乗り越え、難なく向こう側の地面にとび下りた。行けるな、次はわたしが行こうか、と東島氏はリュックサックに手を掛けた。慶一は、東島さん、そのザックこちらに投げて寄こせます、と声を掛け、気づいた木下と東島さんは力を合わせて二人分の荷物をほうって寄こし、それから東島さんが先にフェンスにとり付いた。年配の東島氏はなかなか思うように攀上はんじょうすることあたわず木下がしたから必死で尻を押す。ようやく上にたどり着いたと思ったら今度は鉄条網にひっ掛かった。木下はほぼ無難に済んだのだが、ようやくのことで三人そろってフェンスを越えた頃には三人とも疲労困憊しており気息奄々きそくえんえん、熱いアスファルトの上にだらしなく転がって息を切らし汗を流していた。東島さんはそこにあった自動販売機を指して、どうかねきみたち、一つポカリスエットでも飲んで一服しないかね、と提案した。慶一と木下は一も二もなく賛同した。東島氏が小銭入れから出した五〇〇円硬貨で三人はスポーツドリンクを買い、アスファルトの舗道の上で座り込み車座になって飲んだ。慶一が時計をみると午前十時を少しばかり過ぎていた。昼食はどうするのだろう、弁当は仕度してこなかったけれどもどうしようか大丈夫だろうか、と慶一はおかしなことを考えた。すると木下が慶一に向かって、試験対策もそっちのけでこの一週間いったいどこに行っていたのか、と不思議そうに問うた。慶一は東島さんの顔をみたが、東島氏が軽くうなずき掛けるのを見て口を開き、道北から道東、道央をぐるっと廻って帰って来たということを四、五分間の長さに手短にまとめて説明した。それを聞いた木下は、そんなに手間と時間に金も注ぎ込んだと云うのに結局瑞生を見つけ出せなかったのかい、と半ばあきれたような声を上げて言ったが、慶一が東島さんに助け船を求めて視線を送ると、東島氏はまぁカネと時間と手間を掛けたと云う事実そのものが大事なのさ、じっさいきちんと段取りをとって探索の旅に出たからこそ、こうしてこのアシリベツの滝という解答が得られたろう、木下くんも来てくれてわたしもいて、まずこれと云うに最強の布陣だと言ってよくはないかネ、と明言したので木下は納得したのかポカリスエットをすすった。慶一はいま一つ気に懸かっていたこと、つまり〝戦闘〟の長期化とその際の食糧の問題を持ちだした。木下は一笑に付して、〝戦闘〟とはいったい何のことか、戦いなどどこにもない、まだまだ始まってもいやしないではないか、と述べたが、東島氏は大真面目な顔で、〝戦闘〟であれば既に始まっているよ、ホラあそこのフェンスにダブル・ロックが掛かっていただろう、あれがいい証拠だ、と言うのはあのフェンスというものは、わたしもこの滝には過去七度か八度足を運んでいるのだが、錠がおりていたことはこれまで一度もない、それに加えて、し疑念を抱くのなら後刻実地に試してみるといいが、あの錠を解くことができる鍵、およびナンバーというものは、恐らくこの地球上広しといえどもどこへ捜しに行こうが決して見つけることはできないだろう、何となればあの錠前は人間か動物などヒトに類する存在が掛けたものではないからだ、ではいったい何がと言われれば即答はし兼ねるがけだし何らかの霊体、霊的存在が為したことだ、いいかね、敵さんは我われが今朝この公園に来ることを決して歓迎していない、我われの来訪を喜んでいない、望んでいないのだよ、これは明らかなことだ。そして糧秣りょうまつに就いてのご質問があったが、はっきり言ってしまえば食事をとる暇などないだろう、そんなゆっくりした時間はとれない筈だ。それでも空腹で困ると言うのなら、そこの自動販売機にカロリーメイトが売っていたから、そんな辺りのものを食べて腹の足しにするといい。とにかく、きみらが大学の講義や実験・実習ではできない体験になるだろうことは間違いない。との氏の言辞に対して木下は、ではいったい、具体的に何がぼくたちを待ち構えていると云うのですか、と問うた。氏は一つ点頭てんとうして、神霊だ、神の霊、恐らくこれだと思う、まだわたしにも明確に対象はこれこれしかじかだと述べることはできないのだがね。はっきり言ってしまうと、危険なことだよ。だから本心を言えばきみたちを巻き込んでしまうのはどうかとも思うのだけれども、三人いれば最小限度のユニットになるからね。行って、えず当たってみようではないか。こちらにはアイヌが祭祀さいしで使うぬさもあるし、カトリックの教会から特別に分けて頂いた聖水もある。むろんこれだけで準備じゅんび万端ばんたん整った、と言えるわけではないけれども、すくなくとも何もない場合よりかは幾分かはましだろう。すると木下が、行きますよ、それで闘ってですね、最悪の場合はどうなりますかね? 不具にでもなりますか。と問うた。明らかにことを重要視していないのである。東島氏も間違いなくそのことは木下の口調から感じ取ってはいただろうが、そのことはおくびにも出さず、最悪の場合はネ、恐らく命を失くすことになるだろうね、と言った。慶一はそれを聞いてはっとかんづくものがあって、じゃあ今ごろ瑞生は…、と口にした。東島氏はその言葉にもうむ、と一つ首肯しゅこうして、まああれこれ気に懸かって心配なのはよく分かるが、まずは行かねばならない。行って、戦って、勝って、敵さんを蹂躙じゅうりんし征服しなければならないのだ。その肝腎かんじんの敵にしたって、しかすると案外話せるヤツで、さして問答を繰り返すまでもなく瑞生くんを解放してくれるかも知れないし、その辺りの按排に関してはこのわたしにも詳しくは分からない、と云うのが現実だ。ただ一つたしかに言えることはだね…、異質性なのだ。それを聞いた木下と慶一は、まったく同時にイシツセイ? と声を上げていた。木下はた一本たばこをくわえて火をつけている。東島さんはうむ、と深くうなずいて、そう、この異質性という問題はちょっと無視できないのだよ、と言った。それから顔を上げてはるか遠くの空でものぞむかのような目つきをして、わたしもアイヌの祭りをはじめとして、この手の……イベントに参加するようになってかなりの時間が経つのだが、今回のはうまく表現できないのだけれども、これまでわたしがコンタクトをとって来た霊体たちと較べて明らかに異質なのだよ。いずれにしても油断してかかるワケにはゆかぬ、そう言ったのだが、そうするとたばこを踏みつぶした木下が昂然こうぜんと、へっ、さっきから拝聴していりゃあヌケヌケと抜かしやがるけどさ、あんたの言うこた、どれもこれも見てきたようではあるけれど、その実みんなこれ赤嘘あかうそなんじゃないのかい。調子のいいこと言って人をだまくらかして、結局何もでませんでした、その代わり見物料五〇〇〇円頂きますよ、と来るのではないかね。もっともらしいことは口になさるけどさ、とはき棄てるように言葉を並べた。東島氏は飽くまでも冷静で、その判断はこれから見るべきものを見たうえで下しても遅くはなかろうよ。たしかにわたしには、格好いい言い方をすれば時空を超えた〝第三の眼〟ともするべきものが備わっていて、この先に何やら得体の知れない存在が我われの到来を〝先ほど〟からもうかなり久しい間――、五〇年や二〇〇年ではきかない期間らしいのだが、決して歓迎してはいないのだけれど、ともかく長期にわたり待ち構えているのが見えるのだが、それにしたって人間に関する霊体や神霊とも称すべき存在であれば、そんな長期間に亘って決まった相手を待ち続けるようなことは余り経験しないしまた聞いたこともない、そう云う意味で異質性と言ったのだがね、し一緒に来るのが余りではないと言うのならここで待っていて結構だがいったいどうするかね、と涼しい顔で説いて聞かせた。木下はた次のたばこに火をつけて赤黒い顔でしばらく考えていたのだが、やがて、ではお供します、と落ち着いた声で返辞をした。東島さんは何ごともなかったように復た一つうなずいて、ではそのたばこを吸い終えたらぼちぼち行くことにするかね、と静かな声で言った。木下は極まりの悪そうな顔でややうつむいてたばこを吸い、吸い終えると立ち上がった。慶一と東島氏も立ち上がった。さて行くかね、と東島氏は空を見上げて軽く言った。慶一も、エエ今日は絶好の行楽日和ですね、と言ってちょっと笑った。東島氏は木下がついて来るのを確かめて先へと歩を進めた。慶一は何故だかわからないがアパートメントの冷蔵庫の中で冷えているはずのトマト・ソースのことを想い出していた。ホール・トマト、つまりトマトの水煮缶と大蒜と玉ネギと塩胡椒とバジルで拵えたこってりと甘いソース。塩気が適宜効いているので、その分いっそう甘みが引き立つように思われるリッチなトマト・ソース。慶一が何のゆかり因縁いんねんもなくふとスパゲッティにトマト・ソースを添えてむさぼり喰うさまをぼんやり頭の中で思いうかべているうち、国によってよく整備の手がゆき届いている観覧路、今は慶一たちご一行さま三名なりを除くとネコの仔一ぴきいない順路だが、その道はだんだん細く険しくなって道路と並行する河の流れはそれに反比例して激しくなり、そして道は河と共にかぎの手に弓手に折れ――、そしてそこに

 それがいた。

 それは、すくなくとも見かけ上はおん歳精々六つか七つの日本髪にした日本人の童女の姿をとっていた。だが目つきが違った。下じもを睥睨へいげいする女王陛下の金色の瞳――、とでも云った風情で、隙や油断と云うものがまったくなかった。鈍いはずの慶一にも直ぐに分かった――、東島氏の言の通り、これはもうかなり長いあいだにわたって慶一を、東島さんを、あと木下のこともこの場所にたたずんでっと待っていたのだということが。慶一には又、この〝存在〟と軽々にわたり合うのは容易に死活問題になり得ることもよく分かっていた。慶一が木下の顔をぬすると、口辺にうっすらと緊張したような笑みを貼り付けて、眼はまっすぐに前を向いていた。それは真っ赤なきものを身に着けており、矢で射すくめるかの如き鋭い視線はとてもではないが真正面からまともに受け止め得べき性状のものではなかった。後日になってから慶一は木下に一点確かめてやはりふたりとも同じことを考えていたのかとにが笑いする思いだったが、その時慶一は丁度W・P・ブラッティの小説〝エクソシスト〟にでて来る悪魔パズズのことを何となく連想していた。が、何はともあれまだ距離的には直線でゆうに二五〇メートルはあるというのにこれだけの迫力で以てプレッシャーを掛けられるとはいったいどこの何という霊体であるのか、その力の凄さの所為か東島さんも押されたとみえてしぜんと足が止まってしまっている。アシリベツの滝を背景にとって仁王立ちになった少女、いや、霊体それに憑依された童女像は微動だにせず三人のほうを瞋恚しんいほむらの表れであろうか、両眼の金色に輝いているのがこの遠くからでもありありと見てとれる。東島さんは木下と慶一の二人に、さ今のうち聖書を出しておき給え、お守りになるから、と言い、それで二人とも気がついた次第なのであるが、慶一がその言葉に従っていざ聖書をとり出そうとすると、それは何と石のようにずっしりと重みを帯びていて、尚且つまるで熱をもっているかのように熱かった。慶一がっとのことでとり出したところで木下はと見ると、こちらも素手で摑むのは熱いとみえて、ハンド・タオルを使ってつまんでいる。東島氏はもの慣れていてそのまま裸本を摑んでいた。これをいったいどうするのだろう、と見ていると、何と東島氏は旧約のどこの辺りだろうか、一枚無雑作にむしり取るとそのまま折り畳んで口に入れ、もぐもぐ、っと食べてしまった。どうしようかと慶一はしば逡巡しゅんじゅんしたのだけれども、郷に入りては郷に従え、と言われているし、聖書を食べると云う経験もまた一興だろう、と思ったので、試みに見よう見まねで開き、ちょうど開いた〝出エジプト記〟を一枚破いた――、破いてみると紙質はまるでオブラートのように柔らかく、四ツ折りにして口に入れてみたところ、すぐに溶けて形も感触もなくなってしまった。味はしなかった。木下はと視線をやると、やはり同じことをしてもぐもぐやっていた。と、東島さんが慶一の方をふり返って、慶一と木下に対して例の怒れる童女に向かって力強く馬手めてを振ってみせた。前進である。三人は、東島さんを先頭に、慶一と木下が続くという陣容をとったが、進軍は非常に困難であった。と云うのは、慶一は経験するのが初めてだったのだが、三人に向かい、その進行方向すなわち童女の方角から強い圧力波とも称すべきものが〝押して〟来て、三人の通常の行歩をも妨げたからである。東島氏以下一行三名はそれでも前進を試みた。すると、不意に慶一の意識の中に〝寄ルナ〟と云う女性の声が響いたので慶一はぎょっとなってたちすくんだ。それは、その声が慶一の意識における〝場〟では、ここ十五日ほどお留守になっているけれども、精神分裂病(統合失調症)患者である慶一がいつも幻聴を耳にする丁度そこで響いたからであって、思わず幻聴と聞き違えてしまったためだった。けれども、残りの二人を見れば東島氏と木下も〝声〟を聞いたらしいことは疑いなく、その証拠に〝声〟を機に二人とも歩を止めてしまっている。慶一は冷や汗をいたが、今の〝声〟の有する声質はいつも耳馴染みになっている幻聴のそれとはいささか異なっていたようでもあったし、慶一はいま一度確りと自分の意識というものにしがみついて待ち構えた。すると、〝寄ルナ。ケガラワシイ者ドモ、近寄ルナ。〟ともう一度意識の中で女の声が響いた。その声を聞いた東島氏はリュックサックの中を引っかき回して銀色に輝く十字架をとり出して高くかかげた。するとその時、慶一が以前怪獣の写真がジャケットのアートワークにあしらってあるブルー・オイスター・カルトのレコードで聴いたヴォコーダーとそっくりな声が心の場で炸裂さくれつした――、この〝何か〟は明らかに笑っているのだ。そして〝それ〟は言った――、〝無駄ダ、ソンナモノハワタシニハ効カヌ。冗談モ休ミ休ミニスルガイイ。〟それに対する東島さんからの返辞は、慶一はこの〝何者か〟による声と同じく意識の中で聞くことになった。何だかこの〝存在〟を始めとする四者の意識が妙な按排で接続・共有されてしまったかのようだ。〝悪魔や悪霊の類ならば十字架を嫌う筈。それでないとすれば、おまえはいったいどういう形態で存在する、どこの世に属する何者だ?〟東島氏の声は朗々と響いた。――すると不意に、慶一も思ってみなかった形での沈黙が降りて来て、一行を支配した。透かさず東島氏が右手を強く前へ振った。それを見た慶一も、例の〝圧力波〟が弱まっていることに気付いた。前進だ。東島氏以下一行三名は童女の姿からおよそ五〇メートルのところまで進んだのだが、そこで東島氏が制止して立ち止まった。慶一にも東島氏の言わんとするところは何となく分かった――、罠かも知れない、と云うのだ。三人はそこで立ち尽くし、無言で童女像と対峙たいじした。おかっぱの髪型にした童女は見かけ上の齢のころ六、七歳、赤い着物を身に着けて白い足袋を履いており、顔は無表情で人形のようだが、ただひとつ金色に輝く瞳の視線は強く射るようで、ただこれだけがかかる童女の〝来意〟を如実にもの語っている。――と、不意に童女が口を開き、慶一の意識の内にその声音が響いた。〝余ハ、ココノ者ニ非ズ。〟その声音に反応して東島氏が、〝そうか。私も大方そんな所ではないかと思い始めていたところなのだが、では改めて問う。答えよ、そなたはいったいどのような用向きを持って、いったいどこからやって来たものか。〟すると、童女は、〝ソチノ目的ハ何カ?〟〝えっ?〟東島氏が思わず問い返した言葉に対して〝声〟が、重ねて、〝ソチノ望ムトコロハイッタイ何カ?〟それに対して東島氏は間髪かんはつれず、〝お前さんたちは、大体十日ないし二週間くらい前から、瑞生と云う名の青年の身柄を拘束しているだろう。いる筈だ。その男性はどのような騒ぎにも一切拘かかわりはない筈だ。今すぐ解放して欲しい。それが我われの要求だ。〟すると童女の〝声〟は、〝悪イガ、相談ニハ乗レヌ。〟〝それは何故か? どうして無辜むこの市民が巻き込まれねばならぬ?〟〝アナガチ無関係ト云ウ訳デモナイ。〟〝なに?〟〝コノ男ノ兄弟ハ、コノ星ノ成リ立チニ関シテノ学問ヲ修メテイル。ソノ為ダ。〟東島氏は慶一を見て問うた。〝そうなのか?〟慶一は正直にうなずいた。〝大学院で地球環境について研究しているそうです。〟東島氏は童女の方に向き直った。〝どうにも解せない。きょうだいがここの――、大学院かな? ――で研究活動をしているからと云って、何故拉致されねばならないのか? 正直に答えよ、そなたはいったいどこから来たのか?〟すると、今度は割と素直に返答があった。〝余ハ、ソチラノ呼ブトコロノ、コト座ノう゛ぇがカラ来タ。〟〝こと座のヴェガか。ついでに名も名乗ってもらおうか。〟〝名ハざりえる。〟〝こと座のヴェガのザリエルだな。して、そなたの願い、望みはいったい何だ? いったいどうして遠路はるばるこの太陽系第三惑星までやって来たのかね? ひとつ聞かせてくれないか?〟すると童女(或いはこと座のヴェガのザリエル)は黙り込んでしまった。東島氏ハ根気よく説得を続ける。〝そなたが遠来の客人であることは分かった。しかし、なぜ、どう云う訳合いがあっていらしたのか分からなければ何にもならないではないか。頼むからひとつ教えて貰えないものかね。〟東島氏は待った。根気よく待ったうえで、再度口を開こうとした時、不意にこと座のザリエルは沈黙を破った。ザリエルは言った。〝コノ惑星ヲ返セ。〟その言葉を聞いて思わず東島氏は突っかけた。〝なに? 何だって?〟一と呼吸おいて、こと座のヴェガのザリエルは繰り返した。〝コノ惑星ハソモソモ我ワレノモノダ。コノ度余ガコノ星ヘヤッテ来タ理由ハ、ソロソロコノ惑星ヲアケ渡シテモラウベキ期限ガ近ヅイタ為ダ。〟東島氏はじめ、慶一も(そして恐らく間違いなしに木下も)あまりの話の飛躍ぶりに、すっかり当惑してしまって眼をぱちくりさせていた。慶一など、自分の持病のことをたまた持ち出して気にしてしまった程だ。しかしザリエルは尚も、抑制の効く口調ではあったが、言いつのった。〝カカル遊星、汝ラガ地球ト称シテ現在ノコノ日ニ至ルマデ棲マッテイルコノ惑星ハ、ウヌラノ史書ヲヒモトケバ容易ニ知レテ確認ノ取レルコトト思ウガ、昔日ニハ我ワレガ住ム星デアッタ。コノ度余ざりえるガソノ地球ヲオトナッタノハ、他デモナイ、ソノ契約ノ期間ガソロソロ満了ヲ迎エルタメデアル。ソチラノ要求ガアレバ提示デキルガ、契約書モ残ッテイル。コノ星ノ現在ノ為政者、又ハ責任者ハイッタイ誰ナノカ。責任者ヲ連レテ来テ余ト話サセタマエ。〟ザリエルはこのような調子で一方的にしゃべり立てた。慶一も東島氏も調子がすっかり狂ってしまって、〝契約したんだそうですよ。東島さんその辺りのことは何かご存じないですか?〟〝…いや、正直なところ、わたしは一切知らない話だ。わたしには全く未知の話だね。初耳だよ。〟などと数度〝交信〟をした上で、東島氏はザリエルに対して口を開いた。〝ザリエルさん、このたびは長丁場をはるばるとお越しいただきまして、誠にご苦労なことでした。――さて、あなたはいま、この星は我われ地球人に対して貸したものだ、との意のことを仰せですけれども……。〟東島氏がそこで言い淀むとザリエルは、〝マッタクソノ通リデアル。ウヌラノ言葉ヲ借用シテ言ウナラ、謂ワバ我ワレハウヌラニ対シテコノ惑星ヲれんたるシテイタ訳デアル。〟とひき取ってまとめて見せた。東島氏はすっかりこうおおせたと言うように、〝それはそうかも知れないが、我われは承知していません。例えば、現代における我われは幼少期に学校と呼ばれる施設に通い、そこで様ざまなことを学び知ることになっております。そこでの社会科と呼ばれる教科のうちの一科目として歴史を学びます。ここにいる三名の地球人も歴史を学んで学校を卒業した者ですが、しかしながらザリエルさん、まことに遺憾いかんではあるのですけれど、こと座のヴェガにいる住人たちとわたしどもの祖先とが何らかの契約をとり交わした、と云ったような内容はなに一つ学ぶことなく成人して今に至っているのですよ。わざわざ遠路お越しいただいてこうしたことを申し上げるのもなんですけれども、もう一度その契約と云うものをご確認いただいた上で、できましたら……。〟すると、ザリエルは東島氏の言葉を途中でさえぎって、いかにも焦れったそうに、〝我ワレガウヌラト契約ヲトリ交ワシタトイウコトハ、ナルホド時間的ニハカナリ昔日ノコトニハナルケレドモ、動カシ難イ事実デアル。ソモソモ貸シテクレト持チカケテ来タノハウヌラノ方デアルゾ。ソレヲ……。〟と駑馬どばの声を上げたが、そこで木下が、〝契約したと言うなら、契約書が残っているんじゃないですか? 契約書を見せて下さいよ。〟と叫んだ……、いや、むろん決して物理的な意味で叫び声を上げたわけではないのだけれども、その場にいた四人に対しては同じような効果があった。〝契約書ナラアルゾヨ。〟ザリエルは言った。〝シ望ミトアルナラバ、ココニ掲ゲテモヨイ。〟それを受けて東島氏は、〝それならば是非拝見したい。〟と言った。すると、〝ヨカロウ。〟の言葉と共に、ぱッと白い紙面がザリエルと慶一たち一行の間の空間を埋めるがのごとく拡がった。もちろん、慶一にも読める文字というものはなかった。言語はザリエルらの使っている(或いは、いた)ものの他、すくなくとも地球上の言語も一種類は使われている筈なのだけれども、慶一にはどれがどれやらもうまるで区別をつけることが能わないのだ。木下はと見ると、こちらもてんで分からないらしく、頻りと首をひねっている。東島氏は暫くのあいだその怪しさ千万の怪文書をにらんでいたが、やがて、〝ありゃあ、何てこった、恐らくインダス文字じゃないかと思うが。〟との叫び声を上げた。慶一と木下が、〝インダス文字ですって!?〟と異口同音に問うと、〝そう。或いはインダス印章文字とも呼ばれる。ほら、きみらもそれこそ学校の歴史の時間で習ったことがあるだろう、モヘンジョダロなる都市遺跡のことを…。この都市遺跡は紀元前二〇〇〇年ごろに栄えたものだが、紀元前一八〇〇年頃にかけて繁栄したものの、どういう事情があったのか、その後は人が住まなくなって抛棄されたのだね。…それで、このインダス印章文字というのはそのモヘンジョダロやハラッパーといった都市から主に印章のような短文の形になって出土している表語文字の象形文字で、現在までにおよそ四〇〇文字が発見されているのだけれど、ハラッパーもモヘンジョダロも、今も言ったように紀元前一八〇〇年頃に、洪水のためとも言われるのだが、抛棄ほうきされてしまい、この文字も使われなくなってしまうのだな。その後約七世紀に亘り、この土地は文字文化を知らぬ地になってしまったのだ。――この文字には例のロゼッタ・ストーンやベヒストゥン碑文のような遺物が存在せず、従ってインダス文字は今に至るまで未解読のままなのだ。〟どうやら東島氏は、〝知られざる世界史オタク〟であったらしく、非常にこと細かな、しかも立体的で深い知識を文字通り口角泡を飛ばして滔々としゃべり立て、慶一も木下もすっかり気圧けおされてしまった。慶一はそれでもどうやら体勢を持ち直して、〝あの文書の文字は、そのインダス印章文字だと仰有るんですか?〟と質問した。東島氏はうむうむ、と仰々しくうなずき、〝もちろん、ザリエルの星の文字は読むことができないのだが、部分的に見覚えのある文字列があるような気がして、それを順繰りに見ていたら、ああこれは、と記憶に符合するところがあったからね。中でも、護符を象ったとされる文字、魚を表すらしい文字、人や山を示すと云われているもの、更に宮殿を示すとされる文字、この五つの文字にはよく見憶えがあったからね。恐らくわたしの見立てで間違いはなかろうよ。〟と断言した。木下はなおもやや不審そうに、〝そのインダス何たら文字、って云うのは、何語の文字なんですか?〟と問うた。東島氏はその問いに対しては、自信のありそうな声で、〝ハラッパー語を記したとされている。〟と答えた。すると、しばらくの間蚊帳の外にされて抛って置かれていたザリエルが、〝オイ地球人ヨ、マダ評定ハ終ワラヌノカ?〟としびれを切らしたような声を上げたので、地球人三人は漸っとのことで本日のメイン・ディッシュはインダス印章文字にあったのではなく、妖しい異星人、こと座のザリエルであったということを想い出した次第。それまで互いに向き合ってコソコソと(意識場の中なので当然ザリエルにも聞こえていたが)内輪の魂胆話こんたんばなしをしていた一同はふり返って陣形を解き、再びザリエルに立ち向かう姿勢をとった。東島氏がその先鋒せんぽうにたち、慶一がしんがりを務める恰好となった。開口一番、東島氏は意識場で声を張り上げた。〝ザリエルさん、お待たせしてあい済まない。契約の書面についてもしかと確認した。――が、時にひとつお訊ねするが、かかる契約はいったいどこの誰と、いつ頃とり交わしたものなのか、その辺のデータは残っていないものだろうか?〟するとザリエルは、〝ドコノト云ウでーたヤ記録ハナイガ、我ワレノ派遣シタえーじぇんとト接触シタ地球人ハ、自ラヲコノ世ノ帝王、ト称シタソウダ。〟ザリエルの言葉を受けて東島氏は後方をふり返り、にやりと二人に向かって笑いかけた。木下と慶一もその意を理解してニヤリッ、と笑み返し、いにしえの恐らく印度の、お調子者ですくなからず誇大妄想狂の気味のある都市国家の首長に対する少々ブラックな気を含んだユーモアを共有したのであった。しかしながらかかる〝帝王〟を名乗る首長は、今ごろ泉下、草葉の陰でどんな顔をしているだろうか? さて、ザリエルは続けた。〝シカシイツ頃カト云ウコトハ比較的ハッキリト記録ガ残ッテイル。大体四〇〇〇年ホド昔ノコトダソウダ。〟東島氏はそれを聞くと慶一と木下に目配せをして、〝それみろ。時期はみごとに符合しているではないか。〟と言い、再び前を向いた。〝ザリエル氏、今我われはあなたの提示して下さった契約書を読んで確認しました。その上でのことを申し上げるのですが、大変残念ながらその文書の中の地球の言葉だとされている文字は、実のところもう何千年も前にすたれていましてね、今では死語になっているのです。コンピュータまで持ちだして解読を試みようと躍起になっている研究者も数多くいるのですけれども、遺憾いかんながら目下人知を結集しても解読するには至っていない状況なのですよ。〟東島氏はこと座のザリエルにそう説明したのだが、ザリエルは、〝ソレハウヌラノ問題デアッテ、余ガ関知スルトコロデハナイ。ヨイカ、コレハ決シテ遊ビデモ冗談ノ類デモナイ。深刻ナ交渉ゴトデアル。ソノ証拠トシテ、ウヌラノ数エ方ニヨレバ五個師団カラ十個師団ホドノ規模デ宇宙攻撃軍ヲコノ第三惑星方面ヘト派遣スル準備モデキテイル。〟ことはいきなりシビアな様相を呈してきた。東島氏は諸手もろてを挙げて降参・完全服従のサインを出し、ごく下手に出て、〝ザリエルさん、あなたはどうやら大層お怒りのご様子だが、いったい何故なのですか? 何かこちら側にふつつかや粗相や措辞の悪さがあったのであれば真摯しんしにお詫び申し上げる所存ですが…〟と述べたが、ザリエルはそんな言葉ではとてもではないが懐柔かいじゅうされるものではなく、〝バカ者ガ。〟と言った。〝余ガナゼアノ余リ気ガ利カズ血ノ巡リノ悪イ若者ヲワザワザ拉致シテ俘虜フリョニシタノカ、ナニ故ニワザワザコノヨウニハルカ遠方ノ星マデ足ヲ伸バシテ交渉ゴトヲ行ウ必要性ガアルノカ、今ウヌラニ少シバカリ時間ヲヤルカラ自分ノ頭デ考エテミルガヨイ。〟ザリエルはそう言い終えるとそこで一旦言葉を切ってもだした。東島氏はた当惑したようにふり向くと、慶一・木下を入れた三人で鳩首凝議きゅうしゅぎょうぎをするていをとった。〝ザリエルは見たところ、だいぶ怒っているらしいね。それで今回はその怒りの理由というもの、何故怒っているかと云うことを我われに当てさせようとしているようだが。〟東島氏は持ち掛けたが、木下は、あっしに訊かれるのはお門違いと云うものですよ、と奇妙な開き直り方をし、慶一もちょっと考えただけではとても分かりそうになかったのでそう言った。三人は数分間に亘り互いの顔をみながら拱手きょうしゅしてはうんうん唸っていた。神の救いの手がさし伸べられてきたのはまさにこの時だった:不意に木下が、分かった!! と物理的に叫んだのである。おお、分かったのか、とか、さすが木下ちゃんだ、やったね! と本来他力本願な二人は木下に迫り、木下もやや得意げであったが、答えが重要なことを思い出してもったいを付けるのは止め、ぼくの考えが絶対と云う訳ではないですよ、と前置きした上で、人類がザリエルたちから(ザリエルの言が正しいとして)この惑星を借りてよりおよそ四〇〇〇年になる訳で、この間にぼくらはこの惑星を散々汚してきたでしょう、と自分の考えを明らかにしたが、それは余りにあざやかだったので東島氏も慶一も拍手喝采をして褒めそやすこと一と方ならぬものがあった。〝分カッタノカ?〟トザリエルが三人に催促し、三人を代表して東島氏が木下ノ考え述べると、ザリエルは、〝ヨク分カッタナ。〟と少しく吃驚びっくりしたようなコメントを吐いたきり黙り込んでしまった。そこで東島氏は、〝ザリエルさん、あなたたちの星ではエネルギー問題は存在しないのですか? どうやって解消なすったんです?〟と問い掛け、それに対してザリエルは、〝余ガ星デハ、動力トシテハ主ニ一種ノ外燃機関ヲ用イテイル。カナリ昔ニハ核燃料ヲ用イタ時期モアッタガ、コレハモウ廃棄サレテ久シイ。〟と語った。東島氏は語尾を捉まえて、〝へえ、外燃機関が普及しているのですね? この星では蒸気機関を除くと、漫画――、娯楽向け創作作品の中で見られるだけですよ。ザリエル様のお国の外燃機関は、いったいどう云った機構で以て動作するものですか?〟と問うたが、ザリエルは、〝……………………。〟ともだしたままであった。そこで東島氏が、〝――いや、むろん、特許などの機密事項に触れたりするのであれば、無理してお答え頂かなくても結構ですけれどね?〟と助け船を出すと、ザリエルの答えは、〝―――…イヤ、マア仕組ミヲ本格的・具体的ニ伝エヨウト思ッタナラソコニムロン特許上ノ問題ガ生ジテ来ルノダケド、今回ノヨウニ少シダケ教示シタリ智識ヲ開示スル上デハ特ニ障碍ショウガイハナイノダガ……。ソモソモ、余ハ根ッカラノ文系ニ分類サレ、外燃機関ノ概念ヤ機構モ若イ時ニ習ッタノダケレド、悉皆サッパリ理解デキナカッタノダ。ダカラ、ソチニウマク伝エルコトハデキナイ。〟と云うものであった。木下は、〝たしかに人類は地球上で深刻な環境汚染問題をこしましたけど、最近は自然環境の恢復かいふく・復旧にもかなり本腰を入れて取り組んでいるんですがね。〟と言った。けれどもザリエルは、〝シカシウヌラノ愚行ニヨリテ絶滅ノ憂キ目ヲ見タ種モスクナクナイ筈ダ。少シ挙ゲテ見テモ、例エバウヌラノ呼ブトコロノどーどー鳥ヤにほんおおかみヤ……〟と述べ、人類、自称ホモ・サピエンスに関する該博がいはくなる知識の片鱗へんりん披瀝ひれきしたのであった。東島氏は、〝ザリエル殿の仰有るところはよく理解できました。けれどもわたくし共は、まさに今、宇宙時代を迎えようとしつつあるのでして、宇宙進出というのはこれからの問題なのですよ。人工衛星にスペース・シャトルに……、そう云ったものをご覧頂ければお分かり頂けるのではないかと思いますが。宇宙進出はまさにこれからなのです。この星の貸借の契約が満了を迎えると云っても、この地上の六〇億人は宇宙空間にそのままほうされて一瞬たりと生きながらえることはできないのです。人類というのは、ご存知のことと思いますが、生まれてから七〇年から大体八〇年ほどで死ぬ生物です。どうやらザリエル殿のお国では寿命はもっと長いスパンにわたっているようですね。一つお願いがあるのですが、惑星の明け渡しの問題に就いては、当面のあいだ長い目でご覧頂いて、大目に見て頂く訳には参りませんでしょうか?〟と述べた。ザリエルはしばらもだしてあれこれ斟酌しんしゃくするようであったが、やがて、〝……分カッタ。星ニ伝エテオコウ。〟と答えた。〝それは誠にありがとうございます。その辺をご理解頂けると本当に助かります。――それからもう一点、よろしいでしょうか?〟〝何ナリト申セ。〟〝あのう、ザリエル殿が十日ほど前に拉致なさったところの瑞生さんという青年の身柄ですが、解放して頂く訳には参りませんでしょうか?〟東島氏がそう言うと、ザリエルは一転してかたくなな口調になり、〝アノ余リ気ガ利カズ血ノ巡リノ悪イ、愚昧グマイデ無能ナ若者カ? ナラヌ。手放ス訳ニハユカヌ。〟の一点張りであった。東島さんが根気よく、〝何故です? どうしていけないのですか?〟と問うと、ザリエルは、〝ウヌラモヤッテイルコトダ。貸財ノカタニスルノデ借リテユク。〟と述べる。すると、〝ルラーリ、ルラーリ、トッピノプウ。ラリーリ、ルローロ、ケロリバラ。〟と唐突に木下が歌い出した。〝何だ!? イッタイドウシタノダ!?〟東島氏は呆気にとられ、普段の木下を知る慶一は驚倒きょうとうする思いであったが、木下はなりふり構わずに珍妙な歌を歌い続けた。そうして、遂に木下は精神的にどうかしてしまったのかも…、と慶一が思いかけた時、木下が口を開き、なあおい、悪いけどあんたらも一緒にお願いできますかねえ? と人語じんごで言った。つまりザリエルには聞こえていない筈である。東島氏は、あ、あ、いいとも、と口頭で返辞をし、以下木下にならって繰り返し、繰り返して歌い出した。慶一も東島氏にならった。三回か四回ほど繰り返して歌った時、ザリエルが、〝今身柄ヲ押サエテイル……、瑞生ト云ったカ、コチラヨリモ今歌ッテイル個体ノ方ガ魅力的デ面白イ。気モ利クシ機転モ利クヨウダナ。〟と言った。三人は歌を止めた。木下は、〝おれが呼ばれているのですか?〟と問うた。〝ソウダ。余ハ決メタゾ。ソチヲ連レテ星ニ帰ル。〟ザリエルの言葉に、木下は唇を嘗めて、こいつは参ったな、とた口頭で言った。慶一は、そら、こと座のヴェガへ行けるチャンスだぞ、と半ば冗談めかしてこれも人語じんごで言ったのだが、木下は一と言、いやだよ、とのみ吐き棄てるように言うた。東島氏は、その二人のやり取りを受けてのことなのか、突然、〝あのうザリエルさま、わたしめでは差し障りありますでしょうか?〟と意識場の言葉で言い出した。〝何ダ?〟とザリエルが問い、東島氏はいま一度、〝あなたと一緒に星へお供するのはそこの木下くんよりもわたしの方が適役ではないかと思いましてね。いかがでしょうか?〟と提案した。ザリエルは、〝余ガ求メテオルノハ、成熟シタ若イ個体デアル。未熟ナ老体ハオ呼ビデハナイゾヨ。〟と言う。それを聞いた東島氏は、ここを先途と、〝たしかにザリエルさまの星では若さの備える完全性を以て尊しとされるのでしょうが、ここで一点勘違いをなさっておいでだと見えましてな、ここ地球に繰らす人類と申す種族は、智識の点でも、経験の点、また見識の点でも〟若者よりも老いたものの方がいずれの点においてもよりまさっているというのが動かしがたい決定的事実でございましてね、わたしをザリエルさまのお国へお連れ下されば公文書の作成などに当たりまして幾分かお手伝いしてさし上げられるかと存じます。それにこの辺りの点もお国でザリエルさまのお手柄の内として認められるのなら一層のことでございましょう。〟との調子でザリエルの説得にかかった。ザリエルは初手の内は耳半分で聞いていたようだったが、だんだん話を聞いて東島氏を連れ帰れば自分の個人的な利益になるかも知れぬと云うことを聞いて最終的に気持ちが決まったらしい。〝ヨカロウ。〟とザリエルは言った。〝余ハ今回、ソチヲ伴ッテ星ヘ帰ルコトニシヨウ。星ヘハ一人連レテ帰レバ充分ダカラ、今余ノ手許ニアル一名――、ソチラガ瑞生ト呼ンデイル者ダガ、コチラハソチラノ手許ヘ返還スルコトニシヨウ。ソレデドウダ?〟東島氏は一も二もないと言った風情で賛同し、慶一は木下を見て、本当に構わないんですか、東島さん、と口頭で問うたのだが、東島氏は額の汗を拭いながら、ああむろん構わん、わたしなんか幾らでもつぶしの効く老頭児ロートルなんだし、冥途めいどの土産話に異星人の住む世界と云うのもまた一風変わっていておつなものかと思ってね、そんなことよりかきみらこそ前途ある有望な化学徒なんだからそのことを常に頭に置いて日々是決戦ひびこれけっせんと思いながら過ごしてくれよな、とはきはき言った。〝別離ノ挨拶ハ済ンダカネ?〟ザリエルは話し続ける三人の輪の中に割って這入はいった。東島氏は、〝ああもういいとも。お待たせしたな。〟と告げた。東島さんは慶一と木下に向けて手を振った。慶一はあれやこれやで複雑な胸の内を抱えていたので振る手付きは小さくなった。木下が一体何を考えて手を振っていたのか慶一は知らないし、知りたくないと云うか知らぬ方がよいとも思うのでその後も改めて確かめた事はない。ともかくたしかなことは、慶一と木下の見守るその眼の前で、東島氏の姿は刻一刻と追うごとにだんだん薄くなって行った、と云うことである。不謹慎ふきんしんなことだが、その有り様を見ながら慶一は、ルイス・キャロルによる稗史はいしの中にでて来るチェシャ猫をおもうかべていたのだけれども、東島さんはにやにや笑いなどもううかべてはいなかったし、また後には何も残さずに綺麗に搔き消えてしまった。ふと慶一が気がつくと、それまで五〇メートルほど離れた場所に立っていたはずの、赤い着物でおかっぱ頭にした童女の姿も消えていた。瑞生も一緒に行ってしまったのかな? と慶一が考えると、〝札幌駅の十番線を午後二時十三分に発つ下りの快速電車【いしかりライナー】に乗るんだな。〟と云う声が頭の芯で響いた。言われた慶一が時計をみると、午後〇時十五分だった。

 慶一と木下は来た道を戻った。けっきょくウエソヨマではなかった。慶一は急に力が抜けた。ふたりは自販機でポカリスエットを買ってごくごく飲んだ。あのフェンスをのぼるだけの体力が残っているか一抹いちまつの不安があったのだけれど、鍵は二つとも外れていて好きに出入りの可能な状態だったので何も問題はなかった。

 バス停にたどり着くと、真駒内行きのバスが既に停まっていたので、二人はよろめくように乗り込んだ。

 ぼくはこれから【いしかりライナー】に乗るつもりだけど、と慶一が言うと木下は、ああおれ、昨夜はほとんど一睡もしてないんだわ、それにもう少し勉強しておかないとな、まず帰って寝るわ、と言った。慶一は、忘れるなよ、今日ぼくらは人類を救ったんだ、と言った。木下は疲労のいろ濃い顔で、ああ、そうらしいな、と答えた。

 ふたりは真駒内駅前で別れた。慶一は取り敢えず地下鉄南北線に乗って札幌駅へ向かった。空腹だったのでラーメンでも食べようかと思ったところで慌てて気がついて財布の中身を確かめると、五〇〇円硬貨が二枚光っているきりだったので、不意に慶一は泣き出したくなった。【いしかりライナー】に乗ってどこまで行けというのだろう。札幌の次の停車駅は大麻だから、えずそこまで、金額にして二三〇円なりの切符を買っておくことにした。


 Epilogue.

 残った七七〇円から何をどう買うか。札幌駅の駅弁なら四〇〇円のすし弁がいちばん廉価れんかだが、それなら立ち喰い蕎麦のかけそばの方が安い。

 慶一はかけそばを一杯食べて早めに十番線にあがり、列車の到着を待った。【いしかりライナー】は定刻の午後二時七分に入線した。ここで六分停車するのである。列車内は比較的空いていて、慶一はボックス・シートの通路側に席をとることができた。

 電車(いや、正しく北海道人ふうに言うと、汽車)は定刻に札幌を発ち、よく晴れて気持ちのよい石狩平野を一路東へ向かった。白石駅を通過した頃に車掌が巡回して来た。

 慶一は切符を岩見沢まで精算して貰おうと思い、車掌のやって来るタイミングで顔を上げ、すいませんと声を掛けて胸ポケットから乗車券を出した。

 その時通路を挟んだ隣のボックス席の客と眼が合った。

「あっ」

 瑞生だった。

「お兄さん、お兄さんの切符、いいですなァ。その切符なら、この道内どこまでだって行けますぜ」

 誰かの言う声がぼんやり聞こえた。

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Poisoned Youth ――毒されし青春―― ~或いは一九八九夏、北海道~ 深町桂介 @Allen_Lanier

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