無菌室
高黄森哉
無菌室
僕がいつから、無菌室のイメージを心に抱き始めたのか分からない。生まれた時からかもしれないし、実はごく最近のことなのかもしれない。とにかく僕は、無菌室を所望した。でも、病原菌が怖いんじゃない。ここでいう無菌室は、もっと概念的なものなのだ。
それは全ての穢れた物を通さない透明な壁。
病原菌だけではなく、あらゆる差別、偏見、主義、思想、宗教、国家、法律、条約、規則、警察、司法、行政、立法、政治、科学、医学、数学、文学、哲学、倫理、道徳、犯罪、悪意、善意、美徳、性別、身長、体重、頭髪、体毛、人体、その他、いろいろ、を通さない不可視の鉄壁。
もちろん、逃れることが出来ないことは知っている。じゃあ仮に可能であるとして、無菌室で育った牛は外側へ出れない、という問題がある。病原菌。つまり悪徳などへの免疫が衰えるからだ。
しかし、超常的な存在ならば? 全部を解決可能なのかもしれない。例えば全知全能の神ならば。その彼は、彼の出来ないことすら出来てしまう超越の存在とする。そのようななにかが、手を貸してくれたとすれば。
「その願い、かなえてあげようか」
ヒゲが長いシュナウザーのような顔の、背中から水かきのような翼がはえた、異形の怪物が、いつの間にか、ベッドで寝ていた。
「おいで」
彼は、ベロンと布団を捲る。すると、彼のヤギのような太く剛毛の足が現れた。かかとからが異様に長い、二つの蹄を持つ奇妙な生物。アニマトロニクス的でもある。
「どなたですか」
「天使だ。どうなりたいんだって」
「完全に清潔になりたいんです。心を清浄にしたい。世の中が汚れていて、自分まで穢れてしまいそうだ。僕だけは、その烏合の輪から抜け出して、愚かな者は、越えられない高潔な心の壁の中にいたい」
「ではそうしよう。しかし、取引には対価がいる。そうだね、君の最も大切な部品を奪おう」
「かまいません」
その動物は、僕の答えを了承すると、螺旋を描きながら、天上へゆっくり昇っていった。まるで犬で出来た雑巾を絞っているようだ。灰色とも銀色ともつかない毛皮が、糸杉のような形態で回転している。やがて全てが、天上へ吸い込まれた。
僕はしかし、大切な部品とは何だろうと思った。そして股間に違和感に気が付く。それは男性器だった。そこには何もなく、ただ排尿用の穴が開いているだけだ。僕は清潔な気分で、null になり性別の偏見から解放されたのだと、かえって喜んだ。
それから一週間が経った。僕は確かに僕自身から一切の穢れを取り除いたのかもしれない。だがしかし、穢れないからといって、曇らないわけではない。心は暗雲に覆われている。というのも僕がどれだけ変われど世の中はちっとも変わらなかった。つまりこの世界の沈鬱は決して、僕個人の問題ではなかったということ。
また、変わらないどころか、世界は、僕にもっと深い憂鬱を見せ始めている。僕が潔癖になる程、世界は相対的に穢れていくことに気が付くべきだった。僕が白くなるほど、汚れとは、相いれなくなっていく。僕がなにも書かれていないほど、人々は淫猥な文字をかき込もうとする。
嗚呼、どうしてあの時、あの存在に、世界で一番醜く穢れた獣にしてもらわなかったのだろう。もしそうなら、世界はどれだけ清涼に映っただろうか。叶えてくれませんか。
僕は鏡を覗き込んだ。そこに自分の姿はなく、代わりにあの畸形のヤギのような、水かきの羽が生えた、半身がヤギの、天使の姿があった。僕は願うために声を掛けようとする。すると彼の口も同じように動いた。
無菌室 高黄森哉 @kamikawa2001
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます