老ホの姫

オジョンボンX

老ホの姫

【1】

 僕はかわいい。

 今日も僕はかわいい。

 よし!

 鏡の前で、はっきり声に出して、パンと頬を両手でたたいたら、もっちりした白い肌がはじけた。

 優希(78)のモーニングルーティンだった。






【2】

 住宅型有料老人ホーム「サテーンカーリ崎宿 参番館」に新たな入居者が加わった。

 新入居者は身長が185cmあり、骨格と筋肉もかなりがっしりして威圧感を与えていた。旭(72)といった。表情も言葉数も乏しく、ますます取っ付きにくい印象を他の入居者たちに与えた。


 皆が遠巻きに様子を伺う中、冬児(82)が先陣を切った。冬児は旭をカラオケに誘った。

「歌恥ずしいか?」

と無理強いはしない姿勢を冬児は見せた。

 「カラオケ」と聞いた瞬間、他の入居者たちの目の色が変わった。旭は、T.M.Revolutionの「HOT LIMIT」を選曲した。

「YO! SAY夏が 胸を刺激する」

 真冬だった。

 旭は原曲キーよりやや低く歌い出したが、瞬時にキーの自動調整機能が働き、音の外れとしては認識されなかった。

 入居者たちは、タンバリンや手拍子などで盛り上がったりもせず、異様な熱量で歌う旭を凝視した。中には手帳に何かを熱心に書き込む者もいた。旭は踊りもせず、仁王立ちで、リズミカルな曲調に似合わないたっぷりとした声量で「HOT LIMIT」を歌い上げていた。

 身じろぎもせずステージ上を凝視する観客と、恵まれた体躯をさらに堂々と見せて歌い上げる男とで、一種宗教的な荘厳ささえその場に立ち現れた。


 やがて歌が終盤にさしかかると、入居者たちは手元の紙片に何かを書き込み始め、それをロボットの職員が回収していった。

 最終盤にある「ダイスケ的にもオールオッケー!」の箇所は、しっかり「アサヒ的にも」と自分の名前で歌い替えていたが、誰も何も気にしなかった。

 歌が終わると、「超精密採点」の結果がスクリーンに表示された。89点、なかなかの高得点だった。

 点数が表示された瞬間、一人の入居者が「ウォーッ」と叫んで立ち上がった。それを羨ましそうに見上げる入居者、悔しそうな顔をする入居者もいた。奇妙なリアクションのあと、改めて皆がステージ上の旭に拍手を送った。


 入れ替わりに別の入居者が歌い始めた。NEWSの「チャンカパーナ」が選曲された。旭はその歌自体はさほど知らなかったが、2013年に発生した「パーナさん事件」を思い出していた。

 冬児が

「旭は歌が上手いんだな」

と労った。そしてA6程度の紙片とペンを旭に手渡した。

「ここに採点予想と、賭けポイントと、自分の名前を書くんだよ」

と説明した。旭はそれだけの説明で、先ほどの入居者たちのリアクションの意味をただちに理解した。

「新しい入居者には、1000ポイントが割り振られるから、その範囲でいくら賭けるか決めてくれ」

 カラオケステージの脇に、電子ペーパーで「カラオケランキング」が張り出されていた。旭は最初、カラオケの採点を集計したものかと思っていたが、今の冬児の説明で、それは採点予想で獲得したポイントのランキングなのだと納得した。ポイントの単位として「SP」とあるのは、さしずめ「サテーンカーリ・ポイント」か何かの略だろうと思った。


 「チャンカパーナ」はさして上手いとは思われなかった。音を外している気もしたが、原曲を旭は知らなかった。

 旭の前にいる者が、手帳に何かを書き付けていた。予想点と実際の得点、歌の特徴、彼独自の採点メソッドなどを書き込んでいるようだった。

 旭は予想68点、掛け点100SPとし、書き方に問題ないか冬児に見せて確認した上で、ロボの職員に渡した。

 採点結果は「68点」だった。

「うわっ旭、的中じゃん!」

と冬児が大声を上げるから、入所者たちの視線が一斉に旭に向いた。その回は、旭の他に的中者はいないようだった。

「いくら賭けたんだ」

「やっぱあるんだな、ビギナーズラック」

「100SP? もっといきなって!」

「バカ、そんな賭け方するからおめーはランク外なんだよ」

などと旭の周りで入居者たちが盛り上がった。

 チャンカパーナの歌い手に旭が礼を述べると、彼は恐縮しながらも妙に嬉しげだった。


 旭は、このカラオケ採点予想は、賭け事には違いないが、悪くないシステムだと感じた。

 普通のカラオケであれば、下手な歌を聞かされれば盛り上がりに欠けたりする。だが賭けのおかげで、歌わない者たちも真剣に聞く。下手な者でも萎縮せずに好きに歌える。

 負け続ければポイントは枯渇するのか、何か救済策があるのか、レートは変動するのか、新規の参加者でもランキング上位に入れるような調整があるのか等々、このシステムへの疑問はいろいろと湧いたが、「習うより慣れろ」かと、さしあたり旭はわからないなりに参加してみたのだった。

 このカラオケのおかげで、入居者たちに早く溶け込むことができた。


 すでに1時間が経過し、旭を含め8人が歌い終わった。さすがに老人たちだけあって、歌わずに聞くだけでも疲労が見られ始めた。

 ロボの職員から、本日のトリが宣言された。

 最後の歌手がステージに上がると、老いて疲れていたはずの観客たちの空気が、一気に色めき立った。

 ステージに立ったのは優希、選曲は松浦亜弥の「Yeah! めっちゃホリディ」だった。旭は、これも夏の歌だ、と思った。

 観客の様子がこれまでとは全く違っていた。採点を予想する姿勢ではなく、一挙手一投足を見逃すまいとするような熱心さだった。

 ほとんどイントロはなく、いきなり歌が始まる。

「Yeah! めっちゃホリデイ ウキウキな夏希望」

 老人たちが立ち上がり、「オホォーッ」「ヌォーッ」と歓声とも叫びともつかない声を上げる。車椅子の入居者までが立ち上がった。

 あややの振り付けを、優希は踊りこなしていた。


 ステージには装飾が施されているわけでもない。ライティングもない。しかしアイドルのライブに来たような感覚が、旭の身体に満ちた。

 優希はハーフパンツにスウェットという軽装だった。真冬だが十分な暖房でその程度の服装の入居者も多い。素肌の足は白く、もっちりとして、美しかった。

 旭は混乱していた。老人ホームに入居したはずだった。なのに熱狂的な老爺のステージを見せられている。これは、何だ、と思った。今見ているこれは、00年代前半に全盛期を迎えた頃のあややに、引けを取らないのではないかという思いに駆られた。そんなわけがあるはずもない、あややは、(旭当人は特にアイドルに夢中になった経験はなかったが)当時、日本全国を席巻したトップアイドルであり、それに匹敵するなど、思い違いも甚だしい、と頭で否定した。

 しかし、心が、その輝きを否定できなかった。


 旭は、優希を完璧だと思った。「完璧」とは、ダンスにキレがあるとか、トレースが正確であるといった意味ではなかった。

 自分自身がどう見えるかを完全に把握し、コントロールできているのだと思った。「かわいさ」の魅せ方を知っているのだと思った。


 4分間のステージが終わった。誰も採点予想の紙を書かなかった。採点結果の表示もなかった。全員が、このステージをただ見るためだけに、ここにいた。

 優希はうっすらと汗をかいて、艷やかだった。

「姫なんだよね、優希は。このホームの、姫」

 冬児は、放心している旭を見て、なぜか満足げだった。

「姫……」

 旭は、ステージの上の優希を、呆然と見つめていた。






【3】

 サテーンカーリ崎宿 参番館の入居者は、33名中32名が男性だった。

 優希は、この老人ホームの「姫」だった。男で、老人だったが、姫ポジションにいた。


 女子校には王子、男子校には姫ポジションの生徒が生じ得る。高身長でイケメンの女子生徒が他の女子生徒の憧れの対象として王子になり、背が低く容姿の愛らしい男子生徒が他の男子生徒から可愛がられる姫になる。サテーンカーリ崎宿 参番館でも似た現象が起きたのだった。


 サテーンカーリの職員は、センター長のQを除き、全てAI搭載のロボットだった。

 Qは巨躯の女性で、30代後半~40代前半と思われた。出身地や年齢、経歴、家族構成、趣味、その他一切の彼女の個人的な事柄を、入居者の誰も知らなかった。大半の入居者がQと喋ったことすらなかった。

 業務は全てロボたちがこなしていた。Qの存在は、ロボを管理しているのか、人間の職員を1名は置くよう法律の定めでもあるのか、入居者たちはそれぞれ漠然と解釈していただけだった。Q自身もアンドロイドではないかと疑う入居者もいた。


 老人ホームではかつて、入居者による職員への暴力やセクハラなどが問題となったが、ロボへの置き換えで劇的に改善された。

 ロボには名前あり、ディスプレイに表情が表示される。会話もできるから、入居者が愛情や反発を覚えることもあった。それでも生身の職員に比べれば入居者の問題行動も減っていた。

 職員がロボか愛着の持ちようのないセンター長で、姫の対象にならなかったことも、特定の入居者にかわいさを見出して、老ホの姫を発生させる要因となっていた。


 旭は、無口だったし、それほど社交的な人間でもなかったが、人間関係の悪化が生活の質を破滅的に悪化させることをよく理解していた。他の入居者とは良好な関係を築きたいと思っていた。それでしばらくはホームの施設を一通りめぐり、イベントやレクリエーションに積極的に参加することにした。

 その先々で、優希がどれほど「姫」として皆から扱われているかを知ることとなった。






【4】

 旭が初めてトレーニングルームを訪れると、

「旭さん、やっぱり来ましたね!」

といきなり無遠慮に話しかけられた。

 その男の名が洋平(70)だと知ったのはこの時が初めてだったが、その男の存在は、カラオケの時点で認識していた。背丈はさほど高くなかったが、洋平はその年齢に似合わずゴリマッチョだったから、否応なしに目立っていた。

「いやあ、初めて見た時から、旭さんはこっち側の人だろうって思ってたんですよ!」

 洋平の決めつけるような物言いは、やや不愉快な印象を旭に与えたが、旭はそれを表に出しはしなかった。

 旭の肉体を薄手のトレーニングウェア越しに値踏みするように洋平が視線を走らせたのも、礼を失していると感じられた。


 旭は、健康維持のジム通いを若い頃から続けていた。筋肥大を目的にはしていなかったが、結果的にある程度の筋肉がついていた。学生時代に柔道に打ち込んだ時期があり、かなりがっしりした体格だった。

 入居後もその習慣を続けたいと思っていた。外部のジムの利用も考えていたが、サテーンカーリのトレーニングルームには、一般的なジムに相当する一通りの機材が揃っていた。そのことも、旭がこの老人ホームを選んだ理由の一つだった。

 本格的なウェイトトレーニングの設備も整っていた。ほとんどの入居者が軽い運動やストレッチのプログラムに参加している中で、洋平ひとりだけが、ウェイトトレーニングに励んでいた。


 洋平は、旭がどんなトレーニングをしてきたのか、何かボディビルの大会に出たことがあるか、昔スポーツをやっていたのか等、質問を重ねた。

 旭は嫌そうな素振りも見せず、丁寧に答えた。しかし旭が何かを答え終えないうちに、洋平は「僕はね」と自分語りを始めた。

 旭への対抗意識をむき出しにしていた。ここでは自分が先輩なのだ、トレーニングの量も質も、肉体も、自分の方があんたより上なんだ、という態度がありありと見えた。

「僕はね、旭さん。嬉しいんですよ。ジム仲間が増えて。お互いに励まし合いながら頑張っていきましょう!」

 洋平は明るくそう言った。洋平は自分が旭に対抗心を抱いているという自覚がなかった。


 旭は少し、面倒だと思った。いっそ外部のジムに行こうかとも思った。

 しかしトレーニングルームに通わなければ、あるいは時間をずらして洋平に会わないように通ったとしたら、この男はすぐに避けられていると気付いて平気で「なんでですか」と咎めてくるだろうと想像できた。

 入居者間の対抗意識や嫉妬心といった人間関係の煩わしさは、老人ホームには多かれ少なかれ存在するだろうと、旭は入居前からある程度覚悟はしていた。上手くいなして、やっていきたいとも思っていた。


「洋平くん、今日もいいかな」

 突然洋平へ声をかけたのは優希だった。旭も洋平も、優希がルームにいることに気付いていなかった。

「今日もやりましょう!」

と洋平は満面の笑みで答えた。洋平はその瞬間から、まるで旭など最初からいなかったかのような態度になった。

 旭は、洋平をある程度「先輩」として立て、あまり絡まれずにやっていこう、外部のジムを使うのは得策ではない、などと洋平の扱い方をあれこれ思案していたところだった。しかしその当の自分に向かう関心が、一瞬で消え去ってしまった。


 優希は、この時間にいつも洋平がトレーニングルームを利用していることを知っていて通っていた。

 洋平は自分のトレーニングもそっちのけで甲斐甲斐しく優希のためにマシンをセッティングした。まるでパーソナルトレーナーのように優希について「〇〇筋に効いているぞ」「あと1回!」などと声をかけた。

 松浦亜弥のステージでの動きから、優希の運動機能はかなり高いレベルで維持されていると感じたが、こうして鍛えていたのかと旭は感心した。優希はふっくらとした肉付きだから、一見そう見えないが、まんべんなくしっかりと鍛えられているようだった。

 握力を鍛えるために、わざわざ自前の負荷調整機能つきのハンドグリップを持ち込んでいるようだった。ここでは鍛えるより健康維持が主目的だったから、シリコン製のグリップボールしか置いていなかった。ハンドグリップなら自室でやればよさそうだが、洋平の前でやる習慣のようだった。


 優希のおかげで、旭は洋平に煩わされることなくトレーニングに集中できた。






【5】

「おい、でくのぼう。邪魔だ。どけ」

 それが旭が聖波(せな)(80)から初めてかけられた言葉だった。旭が廊下で冬児と立ち話をしていたら、突然背後からそう言われたのだった。

「旭は確かにでかいよなあ。洋平ほどマッチョじゃねえけど、ガタイはうちで一番でかいんじゃないか?」

 冬児がそう言いながらバシバシと旭の体を叩いた。聖波は舌打ちしながら通り過ぎた。


 通行の邪魔をしていたのは事実だったので、旭は特に聖波に腹を立てはしなかったが、この「不良」タイプの入居者は珍しいと感じた。

 サテーンカーリは安いプランで入居費3300万円、月額45万円程度だった。(2023年現在と比較してインフレにより貨幣価値が1.5倍程度になっている。)入居者には資産家が多かった。住宅型有料老人ホームは、介護等の外部サービスを組み合わせられ、入居者は自立から軽い要介護まで様々だが、比較的元気な者が多かった。

 金持ちの中には、自己評価が分不相応に高く、傲岸で横柄な者も多かった。社会的な地位から離れ、自分が何者でもなくなったことへの不安を糊塗するように、「この私は尊敬されてしかるべき人間だ」とアピールしてしまう。

 ただそうした横柄さは、聖波の見せる他者への攻撃性とは種類が異なる。

 聖波の「不良性」に手を焼いた彼の子供が、彼をこのホームに入れて手を離したのか、彼自身がその「不良性」で反社会的な富を築いたのか、どちらだろうかと旭は想像した。しかし勝手な憶測を膨らませるのも無意味だし失礼だと思い直し、それ以上考えるのをやめた。


 旭が聖波を「珍しい」と感じたのは、このサテーンカーリに「不良」的な入居者が存在すること以上に、他の入居者たちがそんな彼を敬遠せずに受け入れているように見えることだった。

 聖波は「うるせえ」「バカが」等、他の入居者に暴言を吐いていた。話しかけられても無視することさえあった。プライドの高そうな金持ちの入居者たちが、そんな聖波に立腹もせずに「そういうキャラ」として受け入れているのが、旭には不思議だった。


 サテーンカーリでは毎日様々なアクティビティやイベントが用意されていた。絵画、陶芸、手芸、俳句、書道、楽器演奏などの教室や、ひな祭やクリスマスなどの催しもあった。旭は冬児に誘われて、そのほとんどに参加していた。冬児はすべてが下手で、まったく上達を見せる気配はないが、いつもゴキゲンに「ヤバイ楽しい」と笑っていたから、皆に好かれていた。

 一方で聖波はそのどれにも参加していなかった。例外的に、常設のテレビゲームで気が向いた時に遊ぶくらいだった。懐かしいものから最新のものまでサテーンカーリにはしっかり揃っていた。聖波がテレビゲームに興じている時、傍らには常に優希がいた。

「聖波くん上手!」「聖波くんすごいね!」

などと褒めていた。優希は上手いプレイの時にだけ心底感心したように言うので、嘘らしさがなかった。時々優希は、尊敬の眼差しで聖波の顔をちらっと見て、ノンバーバルコミュニケーションでも相手を肯定していた。

 褒められた聖波は「おう」とか「ああ」とかそっけない返事だったが、満更でもないようだった。


 施設内ですれ違ったり顔を見かければ、必ず優希は「聖波くん」といかにも懐いているふうに声をかけ、聖波も邪険にすることなく扱っていた。聖波は優希を、直視しないように盗み見るように、しかし見たくてたまらないように見つめているのを、旭は発見した。






【6】

 洋平や聖波に限らず、サテーンカーリには様々なタイプの人間がいた。その誰もが優希に手懐けられているのを、旭は入居からほどなくして知った。

 優希が機能することで、彼らの特性がマイルドに抑えられ、全体の人間関係が良好になる構造に気付いた。それでいて誰も、自分が優希に手懐けられているのではなく、優希が自分に懐いていて可愛がっているだけだと錯覚しているようだった。


 歌彦(77)は優等生的なタイプだった。

 しかし本当に優秀で規律を重んじ、皆のリーダーが務まるタイプではなかった。細かなルールに拘泥し、それを他人に押し付ける。「ちゃんと守っている自分」「それができていないみんな」の構図を作り、自分自身を「優れた人間」と思い込んで自尊心を保とうとしていた。

 歌彦はかつて、上手くキャリアを盛って大手企業に部長として転職に成功したことがあった。しかし転職先で十分に職責を果たせず降格した。その経験がこの小舅タイプの性質を作り出していた。

 そんな歌彦のプライドを、優希が愛撫していた。

 そのおかげで、歌彦の周囲への押し付けが軽減されて、軋轢を生まずに済んでいた。


 蘭太郎(72)と菊次郎(71)は兄弟で同じホームに入所していた。

 二人とも同じ大学を出て、二人とも内科医として別々に開業した。

 仲が良いわけでもなく、顔を突き合わせればごく些細な話題で「自分が正しい、お前が間違っている」とうるさいくらいにまくしたてる。この「喧嘩」が二人にとっての心の安定に必要だと見抜いた優希は、上手く二人の間に入って喧嘩が大きくなりすぎないよう調整しつつ、一方で火種も供給していた。


 恭也(71)はオタクだった。

 しかし自分で何かを発掘したり、本当に自分が好きなものをひたすら愛しているわけではなく、流行りを追い、他人の考察を摂取していただけだった。

 加齢と共にコンテンツを消費する量も落ち、一つのコンテンツにハマる熱量も時間も減った。中年に至ってそんな自分に不安を覚え、コーヒーやカレーづくりに凝ったりもしたが、それも長続きしなかった。他に何もなかったから、この年になっても「オタクであること」に固執していた。

 昔のコンテンツの知識を誰かにひたすら語っている間は安心できた。AIが話し相手になってくれるサービスも存在したが、相手が人間か判別不能なリアルさが、かえって対面での本物の人間相手のサービスの価値を上げた。キャバクラのようなものだが、金を払って話を聞いてくれているだけだという虚しさに苛まれた。

 恭也はずっと独身で、そのまま独居老人として生涯を終える選択肢もあったが、親のまとまった遺産があったためにサテーンカーリに入った。優希はそういう恭也の心情を尊重した。恭也の知識を「すごい」と感心してやり、恭也を「自分は大丈夫だ」と安心させてやっていた。






【7】

 優希は、旭を落とすのは容易いと踏んでいた。


 閉鎖的な人間関係の中で、誰もが、どこかに癒やしを求めずにはいられない。あるいは年老いても、枯れることなく性愛の対象を探してしまう。そうした求めを一手に引き受けているのがこの僕なんだ、という自負を抱いていた。

 かわいさを磨き抜いてきた優希には、自信が満ちていた。自信がさらに輝きを与えていた。実際、今のサテーンカーリ崎宿参番館の男どもは、残らず優希のかわいさに癒やされていた。


 旭と目が合う。優希はにっこりとほほ笑んだ。旭はこくりと会釈を返す。しかし優希は旭に話しかけはしない。

 みんなが優希を可愛がる光景を、旭に見せる。旭は他の入居者たちと打ち解けていくが、優希は旭には一度も話しかけない。無視もせず、目が合えばほほ笑みかけるが、自分から話しかけもしない。

 優希は、男どもにかまわれて、キャッキャしている自分に、旭が無遠慮に熱い視線を注ぐのを感じて、

「ほーらね」

と思った。僕を愛でたくてたまらない視線だ。でも、まだまだ。もっと羨ましくて妬ましくなってもらわないと。


 優希は、旭に対して「導入」フェーズを完了させ、「焦らし」フェーズに入っていた。それが終われば「籠絡」フェーズに移行する。そうして姫になったら「維持」する。

 サテーンカーリで姫ポジを確立させていった過程で、優希は信者獲得のパターンも確立させていた。






【8】

 導入フェーズでのメインプレイヤーは冬児だった。

 冬児は陽キャだった。初対面でも、まるで相手が旧来の友人かのように振る舞う。それを慣れ慣れしいと感じる者もいたが、常に明るく朗らかに振る舞い、相手の嫌がる領域には踏み込まず、自分を飾ることをせず、相手を慮る態度を維持する冬児に、誰もが好感を抱いた。

 新たな入居者は、冬児のおかげでサテーンカーリのコミュニティへスムーズに入っていくことができた。

 冬児本人は、ただそういう性格なだけで、信者獲得の「導入」の役割をしている認識は全くなかった。


 焦らしフェーズでは、優希は対象者と距離を保った。

 優希が他の入居者たちから姫として可愛がられる姿を対象者に見せる。しかし優希は、対象者と交友を結ばない。だが拒絶もしない。

 優希は対象者を見かければ、にっこり微笑んだりはするが、話しかけはしない。話しかけられれば無視はしないが、会話を広げたり盛り上げようとはしない。時々、微妙に避けているような動きも見せる。

 対象者の意識が、優希の存在に向き続けるように、最適な距離をコントロールし続ける。

 対象者は、姫が自分を拒んでいるのか受け入れているのか、好きなのか嫌いなのか、はっきりせずに、もやもやとした気持ちを抱く。

 ムキになって姫にもっとアプローチしようとする者もいれば、かえって姫に反感を抱く者もいる。いずれにせよ、関心を持たせ続ける。

 対象者が姫を認識するには、そもそもこの人間関係の中に入っていることが必要で、従って導入フェーズが前提として要求された。


 籠絡フェーズでは、姫が対象者へ一気に距離を詰め、相手の心の弱い箇所を慰める。

 ずっと押し続けていた扉が突然開いて拍子抜けするように、ふいに優希が、本当に相手に好意があるような態度で接してくるから、対象者は困惑する。困惑したまま、巻き込まれていく。

 焦らしフェーズまでに、優希は相手のキャラクターや経歴などを確認し、コンプレックスやプライドのありかのあたりをつける。籠絡フェーズに入ってからは、その「ありか」を刺激し、その当否を確認しながら、さらに深掘りしていく。


 人間関係の築き方として、親密さがプラスからゼロへと時間経過で変化するタイプの人と、マイナスからゼロへと向かう人がいる。

 前者のタイプは、お互いよく知らない時は、「気に入られたい」「嫌われたくない」といった配慮からフレンドリーに接する。しかし徐々に慣れて、相手を身内のように感じると甘えが生じ、愛想の良さが落ち着いていく。本人は「気心が知れて気を遣わなくなっただけ」という気でも、相手からは「冷たくなった」「自分への好意が失われた」と見えてしまう。多くの人が自覚なくこの態度を取ってしまう。親密さが低下せず、ずっと高くプラスのまま維持して、付き合い始めからずっとフレンドリーな態度が変わらないのが理想だとすると、冬児はこのタイプだった。

 後者は、最初は冷淡だったり、仲間として認めないような態度を取るが、次第に親しくなっていく。相手は親密さを失う恐れから、その人を丁寧に扱い、この親密さを「ありがたいもの」として受け取る。聖波や優希は後者のタイプだった。聖波は敵対的な、優希は思わせぶりな態度という違いはあっても、この後者のスタイルに分類し得る。


 籠絡フェーズで対象者の姫になった後の、維持フェーズこそが最も困難だった。

 焦らしフェーズや籠絡フェーズを細かく行き来しながら、歓心を買い続ける。恋愛の物語が「距離」によって成立するように、優希は対象者との距離の調整を不断に続けた。しかもそれは、一対一ではなく、同時に一対多で成立させていた。誰かとの距離を詰めれば、その姿を見た誰かとの距離は離れる。距離を詰めるべきタイミングの人とは詰めて、それを離れるべき人に上手く見せて、完璧にコントロールしていた。

 そんな優希だったが、過去にこれで手痛い失敗を犯していた。






【9】

 きっかけは冬児が

「えっヤバ。優希かわいすぎない?」

と何気なく言った一言だった。

 ささいな言い間違いをした優希が、往年の「てへぺろ」を一瞬披露した。特に優希自身も意識してやったわけではなかった。

 小さく舌を出しただけで、フルてへぺろに対しては10%ほどのささやかなものだった。だがそのささやかさがむしろ「刺さった」のだった。わざとらしくなく、無邪気なかわいさを演出した。


 お調子者でムードメーカーの冬児が何気なく優希を「かわいすぎる」と指摘して、にわかにホームが色めき立った。優希も「自分はかわいいのかもしれない」と意識するようになった。

 優希がかわいい仕草を開発し、披露すると、みんなが「かわいいー」と褒めてくれた。服にも気を遣うようになった。


「よし! 今日も僕はかわいい。僕はかわいい。」

 鏡に向かって、じっくりと自分の顔を見て、そうはっきり口に出して言ってから自室を出るのが、優希のモーニングルーティンになった。

 みんなからかわいいと言われるようになってから、実際に肌艶も良くなり、表情もより豊かになり、かわいさが増していると自分でも思った。実際、めちゃくちゃかわいいんじゃないの僕、と日々新鮮な驚きを感じていた。


 ひたすらに可愛がられ、相手を焦らして手懐けて、思うままにできるような感覚に陥った。

 もっと可愛がられるように、入居者たちがもっと競い合うように、どんどんエスカレートさせていった。愛情と憎悪が表裏一体となり、もはや優希にもコントロールできない強度へと発展していってしまった。

 優希を狂信的に愛し、他の入居者たちを憎み、他の入居者と戯れる優希さえも恨み、嫉妬で言動が攻撃的になっていく者がいた。優希は自分が、そのうち刺されるのではないかと本気で思ったが、どうしようもできなくなっていた。刺されて死んでも自業自得だと諦めていた。ホーム全体が異常な心理状態に至った。だが、その狂信的な男が突然死んだことでリセットできた。老人は急に死ぬ。


 その生命の危機さえ覚悟した失敗を経て、優希は距離の適切な管理に神経を注いでいた。その結果、入居者間の距離が上手く調整され、ホーム全体が円満になるのに資していた。


 小さなコミュニティに発生した姫が、安定していたコミュニティを性愛で歪ませて崩壊させる話はありふれている。

 学校の部活やサークルなら崩壊しても、その外側に高校や大学全体があり、あるいは卒業によるリセットがある。しかし老人ホームにいる老人たちには帰る家もないし生きている限り卒業もない。優希はそのことを十分に理解していた。

 特定の誰の占有物にもならず、姫ポジを強固にした。






【10】

 マッチョの洋平も、入居してすぐに冬児が

「洋平すげー鍛えてんな!」「筋肉かっけえ!」

と皆が思っていることをすぐにはっきり口にして、既存の入居者たちと新規の入居者の双方を安心させてコミュニティに受け入れさせた。

 冬児は洋平を

「うちのトレーニングルーム結構充実してんだよ」「洋平の目から見てどうだ?」

とすぐに筋トレに誘った。

 冬児もちょっと一緒にやってみたが、機器の使い方はむちゃくちゃで、筋力もまるでなかった。洋平が教えてやっても一向に上達もせず、それで本人はゲラゲラ笑っていた。


 他の入居者たちは、洋平の筋肉に感嘆して称賛した者も多かったが、一部は「あの歳であんなに鍛えて意味があるのか」と馬鹿にした。

 洋平の年齢不相応な筋肉が一定の注目を集める中、優希はほとんど関心を示さないように見えた。時々トレーニングルームで一緒になっても、目が合えば微笑んで会釈をするくらいだった。それでいて、他の入居者よりもトレーニングルームで会う頻度が高かった。

 洋平はタンクトップを着て、優希に見えるように、トレーニングルームの鏡の前でポージングをした。自分でもバカみたいなことをしていると思った。しかしお世辞の一つも言わない優希に、なぜかムキになっていった。


 トレーニングルームに二人きりだったある日、優希がふいに洋平へ近づいてきた。

「洋平くんの体、すごい筋肉だね」

 洋平は驚いて中断した。関心を買おうと手を尽していたはずが、いざ望みが叶うとどうしていいか分からなくなった。

 優希はなぜか顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに伏し目がちにしていた。

「ね、変なこと頼んでも、いいかな」

 洋平はマシンでトレーニング中のポーズのまま固まっていた。

「洋平くんの腕にぶら下がっても、いいかな」


 優希は小柄だった。洋平の太い二の腕にぶら下がるのも容易だった。

 わあーっと感嘆した後、こんな歳になって、ジジイ二人が何やってるんだろうとお互いに思って、二人して笑った。


 優希は、トレーニングの仕方を教えてほしいと言った。

 筋肉を褒められること、努力の成果を人が認めてくれることも嬉しかった。それ以上に、指導するというのは、自分を求められることで、喜びを倍加させた。認められるだけではなく、求められる。その喜びを優希は洋平に与えた。

 優希は洋平の筋肉を「かっこいい」と心底あこがれを込めて褒めた。他の入居者も自慢の筋肉を褒めてはくれる。しかし優希は「僕にも教えてほしいな」とねだってきた。そして飽きることなく洋平のコーチを受け続けた。


 優希は、80歳手前のアラエイとは思えない肌のハリを見せていた。洋平はそんなことを意識した自分自信に困惑した。盗み見ていたら、

「洋平くん見すぎだってば」

と優希が照れた様子で上目使いに咎めてきて、

「違う違う、筋肉にしっかり効いてるか見てただけだって」

とみえみえの否定をするしかなかった。

 優希はマシンを使うのは初めてのようだったが、若い頃にはかなり鍛えていたのではないかと思えた。一見すると小柄でふっくらとしてやわらかい印象だが、案外がっしりしていると気付いた。

 冷やかしではなく、真剣に取り組んでいる優希を、洋平は見直した。

 ハンドグリップを買って、自室でやれば良さそうなのに、わざわざルームに来て聖波のとなりで握っていた。かわいいと思った。






【11】

 不良の聖波も、他の入居者からその態度で敬遠されていたが、冬児はまるで関係なく話しかけ、様々なアクティビティやイベントに誘い続けていた。

 冬児は聖波を見かけるたびに、

「おお、聖波もやろうぜ」

と昔からの友達のように誘った。

「なんで俺が」「やらねえよそんなもん」

と聖波は悪態をついて断る。冬児はあっさり

「そっか」

と引き下がるが、まるで一度も断られたことがないようにまた誘い続けた。


 他の入居者に「よくめげないね」と言われた冬児は、「たまたま今日はやる気になるかもしれないだろ」とあっけらかんと答えていた。

 人付き合いを好まず、ほとんど共用スペースに出かけず自室で過ごす入居者もいたが、聖波はほぼ毎日部屋から出てきた。悪態をつきながらも人との交流を持とうとしていたようだった。


 ある日、入居者たちが懐かしのテレビゲームに興じていると、後ろで見ていた聖波がぼそりと

「それ、昔やったことがある」

と呟いた。

 スーパーファミコンの「がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス」という横スクロールアクションのゲームタイトルだった。

 冬児は嬉しそうに

「おー、じゃあ聖波もやろうぜ」

と誘うと、聖波も

「いいけど」

と応じた。入居以来初めてのことで、周囲にいた入居者が「おぉ」とかすかな驚きを漏らし、聖波はチッと舌打ちをした。

 2人プレイも可能で、冬児はゴエモン、聖波はサスケというキャラクターを選んだ。


 冬児はやはり下手くそで、死にまくっていた。「うおっまた死んだ」「えーっマジー」と悔しがっていたが、苛立ちはせず、あくまでポジティブにプレイしていた。

 聖波は上手かった。1993年発売のゲームだった。聖波が遊んでいたのは中学生くらいで、それ以来存在すら忘れていたが、当時かなりやりこんでいたから、体が覚えていた。プレイするうちに、ステージやボスや隠し要素をどんどん思い出していった。


 聖波は子供の頃からさして成績が良かったわけではなかった。学校には通っていたが、教師や学校行事とは距離を取っていた。学級や学年の単位で友人関係を築いたりもしなかった。

 親兄弟と反りが合わず、家庭に居辛かった。地元に根ざした先輩後輩の人間関係に組み込まれ、夜も家に帰らなかった。

 自分では「不良」だとは思っていなかったが、家庭や学校の枠組から外れたエリアで生きていたせいで、「標準側」からは「不良」と思われていた。そう思われると、そのレッテルを内面化して、自分で自分のことを「不良」なのだと思うようになっていった。


 聖波はサテーンカーリに来てから、腫れ物を扱うような、疎外される感覚を再び感じていた。

 それでも中学まではまだ、学校の友達がいた。友達とスーファミをやったこともあったなと、聖波は思い出していた。この冬児みたいな、俺を普通の同級生として当たり前のように接してくるやつがいた。ちょっとうるさくて、鬱陶しいようで、でもそれがありがたかった。

 聖波は、だからといってそれで涙を流したりするほど感傷的な人間ではなかったが、素直にうれしいと思った。


 遊んでいると、周りにだんだん人が集まってきた。冬児の珍プレイに笑いが起きたが、途中から冬児がギブアップして聖波の1人プレイに切り替わってからは、その上手さに感歎の声が上がるようになった。気持ちがよかった。自分が肯定されている感覚が久しぶりだった。

 その日を境に、聖波は他の入居者に馴染んでいった。大きく性格が変わったりはしなかったし、相変わらず口も悪かったが、イベントなどへも参加するようになったし、話しかけられれば入居者とも普通に話すようになった。


 しかし優希は、目が合えばにっこりと微笑むが、聖波に話しかけはしなかった。聖波が冬児と話していると、何気なく近寄ってきて、それとなく冬児との会話を奪っていく。嫌な奴だと思った。

 冬児や他の奴が、優希をかわいいかわいいと甘やかしているのも不愉快だった。嫌な人間が皆から持ち上げられて評価されているのは腹が立った。


 聖波はある夜中に、こっそり共用のゲームハードを自室に持ち出そうとした。誰にも見られず、もう少し練習したくなったのだった。上手いと称賛される気持ちよさが忘れられなくなっていた。

 持ち出そうとするのを優希に見られてしまった。優希がどうしてその時間にそんなところにいたのかは分からなかった。

「違う」

と聖波は優希に言った。その瞬間、忘れていた嫌な記憶がよみがえった。

 中学生の時、先輩に万引きに付き合わされそうになった。何とか口実を見つけて断ったが、万引きが発覚した時、かかわりを疑われた。否定したが、学校も親も聖波を信じなかった。ありがちなことだと思って、諦めた。

 それは聖波にとって、大きな転機だったのかもしれない。どうせ分かっては貰えない、自分を分かってもらおうとするだけ無駄だと思うような価値観が形成された。結婚し子供も生まれたが、妻子とも折り合いはつかず、職場でも馴染めはしなかった。


 自分を泥棒と非難する言葉を聖波は予期していたが、優希からかけられたのは予想外の言葉だった。

「聖波くん、実はお願いしたいことがあるんだ」

 一瞬、この場面を見逃す代わりの脅しや強請りだろうかと思ったが、そうではなかった。

「実は聖波くんがやってるの見てたら面白そうだなって。僕もゴエモン買ってみたんだけどね、やり方教えてほしいんだ」


 そんな妙な経緯で、聖波は優希の部屋に通い、一緒にゲームをするようになった。

 ゲームをしながら、身の上を話した。聖波にとって自分の過去を他人にじっくり話す機会は初めてだった。聞いてくれる人もいなかった。


 子供の頃の記憶、懐かしい両親や兄弟の記憶、嫌なことばかりではなかった。

 地元の女と結婚した。年上のヤンキーだが、考えのしっかりした人だった。真面目に働いた。職場の人間関係はあまり上手くいかなかったが、我慢して働いた。子供たちがみな優秀だったのは嫁のおかげだ。63で先に逝ってしまった。自分の気難しさは直せなかった。子供にも疎まれてしまった。嫁との仲も上手くいっていたとは言えない。悲しい、今でも会って、あんたのおかげだったと言いたい。


 優希はうんうんと聞きながら、そしてたまに画面の中でキャラが死にながら、でも子供たち結構ホームに遊びに来てくれてるよね、ここに大金遣って入れてくれるのだって嫌いじゃできなくない? 本当は疎まれてないんじゃない、お母さんの思い出を子供らとお話したらいいんじゃないかな、直接奥さんとはもうお話できなくても、それが代わりになると思う、今でもできるよ、聖波くんが死んだら、もっと話せば良かったって同じ思いを子供たちがすることになるんじゃないかな。


 そんなことを言われて、聖波はおいおい泣くほど感傷的な人間ではなかったが、他者から改めて言われて自分を見つめ直しはした。

 自分は愛されないし好かれないと、自分で思い込んでいた節があったかもしれないと思い直した。それでも子供と腹を割って話すのは憚られたが、優希が妙な熱心さで勧めるからついにそうした。

 話をしてみれば案外どうということもなかった。子供たちも喜んでくれた。


 優希に自分の弱さをさらけ出して、恥ずかしさも覚えつつ気持ちが楽になるのを感じた。






【12】

 旭は優希をガン見していた。遠慮のかけらもなかった。優希が他の入居者と姫ムーブをしている間は、特に凝視してきた。

 まだ焦らしフェーズだったから、優希はそんな視線を感じつつも旭との接触は持たなかった。


 優希は過去の経験から、旭も落ちるだろうと思ってはいた。ただ、過去の誰よりも露骨に関心を向ける旭に、少し効きすぎているだろうかとも感じた。

 もう少し旭のことを調べてから籠絡フェーズに入ろうかと思っていたが、もう入ることにした。


 旭は日常的なルーティンとして散歩に出ている。荒天や酷暑でなければ決まった時間にホームを出る。

 ルートは3パターン存在する。どのパターンでも、元商店街を途中で通る。かつては商店街だったが、駅に近いわけでもなく、ショッピングモールも地域にあったために衰退し、建売住宅や集合住宅に変わったエリアだった。ただ当時の名残で、その通りは自動車の通交が制限され、アスファルトではなくブロック舗装になっていたから散歩に最適だった。


 商店街の角に小さな書店があった。商店街が衰退する中でかろうじて残っていた店だった。優希は雑誌を選ぶふりをしながら旭を待っていた。

 旭が来た。直接見ないように、視界の端で捉えた。旭が立ち止まった。自分に気付いたはずだ。さすがに無視はしないだろう。相手から話しかけさせようと、気付かないふりをして待っていた。

 だが旭は一向に話しかけてこないし、近寄ってもこなかった。たまりかねて優希が振り向くと、旭は道路のど真ん中で仁王立ちして、こちらを睨みつけていた。


 えっどういう感情? と優希は困惑した。しかし困惑を隠して旭へにこやかに歩み寄った。

「旭くんじゃん。こんなとこで会うなんて奇偶だね! お散歩?」

 だが声をかけられた旭は、目を剥いて優希を見下ろしていた。なんなんだ。

 腹の底から響く声で

「こんにちは」

と旭は言った。会話が成立していない。だがここで「何言ってんだこいつ」という顔をしてはいけない。

「はい、こんにちは」

と笑顔で返した。


「旭くんはこのままホームに帰るの? 一緒に帰ろっか」

 旭は驚愕した顔をする。うーん感情がわからん。

 だが歩き始めるとついてきたから、一緒に帰る意思はあるらしい。歩きながら話す。質問をすれば返すが、それ以上話が膨らまない。自分語りが好きではないのか? 旭は歌舞伎の見栄みたいに目をぐっと見開いて優希をじっと見ていた。なんだその眼力は。

「前見て歩かないと危ないよ。僕らもうおじいちゃんなんだし」

 なんだこいつ。おもしれーじゃん。






【13】

 優希は旭に積極的に話しかけた。とっくに籠絡フェーズに入っていた。

 旭は相変わらず、優希が他の入居者と話していると目で追っている。さりげなく目で追うというよりガン見している。それでいて話しかけてもさしてノッてくるわけでもない。

 当初は口下手なだけだと思っていたが、冬児や他の入居者とはそれなりに自分から話している。冬児どころか、あの気難しい聖波さえ、どういうわけか旭と気が合っているようだった。聖波は旭の硬派なところが気に入っているらしい。


 僕に興味があることは間違いない。

 でもどうしてノッてこないのか。こんなに手を差し伸べてるのに。

 優希はどんどんムキになっていった。かわいさの満漢全席を旭にぶつけたが、旭はまるでなびかなかった。しかしガン見してくる。

 明らかに自分を意識しているのに、まるでなびかない男という初めてのパターンに、優希は混乱して焦っていた。


 ちょっと待って、僕たちの時間は短いんだよ!?

 高校の3年間だって短い青春だけど、うちらはいつお迎えが来るかわかんないんだよ!?

 よく考えて! 僕もうアラエイだよ、割と死ぬよ?? アラデスだよ~


 そんな思いを抱えても、旭はなびかなかった。ただ優希をガン見するだけだった。


 鏡の前でパァンと両頬を叩いて

「よし! 今日も僕はかわいい。僕はかわいい。」

 モーニングルーティンも、試合前のような気迫のこもったものに変わっていた。


 優希は旭の経歴を徹底的に洗った。どこにプライドの源泉があるかを探るためだった。

 旭が会社経営者だったということは皆知るところだった。名前で検索すればすぐに分かる。著名な飲食チェーンの経営者だった。優希が初めて顔を見た時に、どこかで見憶えがあると感じたのも、全国ネットの経済番組で何度が取り上げられ、インタビューを受けているのを見たことがあったからだった。

 しかし、日経新聞の「私の履歴書」の連載歴もなく、著書もなかった。メディアでのインタビューでも、あくまで会社の話に終始し、自身の経歴やエピソードの話題はほとんどなかった。

 経営者としてのプライドをくすぐろうとしたが、むしろ触れてほしくなさそうだったから、優希はそのポイントからはすぐに手を引いた。


 インタビューなどに掲載された略暦から、かろうじて出身大学だけは分かった。年齢と出身大学から、当時の知り合いを探し出し、旭が大学時代に柔道部に所属し、最高で全日本学生柔道体重別選手権大会でベスト8になったことも聞き出した。ガタイがいいのも、何かスポーツをやっていたからだろうとは思っていたから納得だった。

 しかしそこにも旭のプライドの在り所はなかった。


 一見簡単だと思っていた旭の攻略が、取り組んでみたらまるで取っ掛りがなく、優希は途方に暮れそうになったが、やめられなくなっていた。

 姫ポジションを安定的に維持するため、不断に、完璧に続けていたはずの他の入居者との距離の調整も、少し疎かになっていた。優希がなりふり構わず旭にアタックし続けるから、もうその余裕がなかった。旭に入れ込み過ぎていると自覚はしていたが、止められなかった。


 ところが、それでホーム内の関係性は崩れることはなかった。他の入居者たちは、なりふり構わない優希を、むしろ応援し始めていた。

 優希の極上の「かわいい」が発動すれば、(いけー!)と思い、旭がなびかないと(くうーやっぱダメか!)と思う。優希と旭の攻防は、試合を見るような、他の皆にとっての一種のエンタメになっていた。






【14】

 単になびかないだけならともかく、旭は感情がよくわからない反応を見せて、優希を悩ませた。


 すっかり習慣になった二人での散歩中、何気ない会話を交わしている最中に、旭は突如、舌を軽く出し、白目を剥いて、絞殺される人の真似のような顔をした。はっきり優希の方を見てその顔をするから、見間違いではなかった。

 それは一瞬だけ現れ、すぐにいつもの穏やかな真顔に戻った。歯が痛いのだろうか、と優希は思った。その顔は時々現れる。あるいはチックの一種だろうか。心配になって「病院へ行った方が良いのでは」と伝えたら、悲しそうな顔をした。


 長身の旭が、屈んで優希を睨み上げてくることもたびたびあった。猫背から上体を反らし、顔を近付けて、半笑いでこちらを見上げる。ヤンキーのガン飛ばしそのもので、ガタイの良い旭がやると相当な迫力があった。

 これもよくわからないタイミングでたびたびやってくるから意味がわからなかった。


 カラオケの時間はさらに奇妙だった。

 旭は必ずPerfumeの「チョコレイト・ディスコ」を選曲した。

 テンポを落として声量たっぷりに歌い上げ、和風な振付けで踊っていた。腰を落とし、すり足で移動して時折り足ぶみをし、手の振りは盆踊りのようだった。幇間のお座敷踊りにも似ていた。

 旭がカラオケで踊ったりするタイプとは誰も思わなかったから、最初は皆唖然とした。冬児だけが

「いいぞ!」「よッ」

などと合いの手を入れて手拍子を入れたから、皆も安心してオリジナルチョコレイト・ディスコに盛り上がった。

 旭は歌い踊るあいだ、ちらちらと優希に視線を送っていた。

 何かをアピールしているのは確かだが、優希にはその「何か」がわからず、困惑した。

 鳥の求愛ダンスのようなものか? とも思った。


 必死の攻勢にまるでなびかない鉄壁の旭。

 それでいて僕への関心はむき出しの旭。

 優希は、いつの間にか旭をかわいいと思っている自分に気付いていた。

 そうじゃない、僕が旭にかわいいと思われなきゃいけないのに、と思い直す。でも、変なやつだなあと思うと、愛らしさが温かく湧いてきた。






【15】

 また旭が、例の絞殺される顔をした。いつもは優希と二人きりの時にしか出ないのに、皆がいる場で出てしまったから優希は焦った。優希が焦る必要はないのに、何かフォローしなければ、という気持ちに勝手になっていた。

 旭の絞殺顔を見た冬児が、

「おーっ、旭のてへぺろも結構上達してんじゃね?」

と言った。旭は満更でもない様子で肯いた。

 優希は衝撃を受け、

「てへ……ぺろ……?」

と思わず口に出していた。

 これ、てへぺろ、だったのか。

 その場にいた他の者たちも、冬児の「てへぺろ説」を聞いて一様に驚いていた。

 舌をぺろっと出して、ウインクして、げんこつを軽く頭に当てる。白目はウインクのつもりだったのか。そういえばこの顔をする時、旭は軽く握った片手をこめかみあたりに当てていた。初代林家三平のギャグ「どうもすみません」みたいだと思っていた。


 根本的に優希は勘違いしていた。

 旭は姫を好きになったわけでも、姫を可愛がりたかったわけでもない。旭は姫になりたかったのだ。

 だから優希をじっと観察していた。目で追って、他の入居者とどう絡んでいるのかを見て学ぼうとしていた。かわいい仕草を実践して、しかしあまりに下手くそだから変顔や睨んでいるとか思われていた。

 旭は心の中で優希を「我が師」と呼んでいた。


 散歩していて優希が待ち伏せていたのは驚いた。雷に打たれたような気持ちでいた。一歩も動けず仁王立ちになった。

 ここまでするのか。これは偶然ではない。ルートを調査した上で、絶対に出会えて、かつ待っていても違和感のない書店で待っていた。さすがだと思ったのだった。


 それ以降の日々繰り出される師の技の数々も見事だった。

 旭はノートをつけていた。優希の技を書き留めていった。間の取り方、自分の見せ方、言葉のチョイス、抜け感。

 分析すればするほど完璧だという気がしてきた。これをただのコピーではなく、自家薬籠中の物とするのは、不可能な気がしてきた。しかし不可能だと思うと逆にガッツが湧いてきた。もうこれがラストチャンスなのだ。本気で挑まねばならない。技を盗め。


 いくつも自分なりに実践していた。だが変な顔になっていた。かわいさとは程遠い。鏡の前で練習もした。しかし上手くいかない。顔の筋肉が衰えているのか。

 長年、表情に乏しかったツケが回ってきたのだと思った。






【16】

 旭はサテーンカーリ崎宿 参番館にやってきて、姫がいることに衝撃を受けた。自分がずっと封じてきた夢の蓋が開く音を聞いた。


 旭は男子高校の出身だった。

 入学時点では150cm台の小柄な少年だった。同級生たちに可愛がられた。膝に乗っけられて、頭を撫でられた。後ろからぎゅっと抱きとめられたりした。

 1年も経たないうちに急速に背が伸びた。誘われて柔道部に入って打ち込むうちにがっしりとした体格になった。同級生たちから可愛がられることもなくなった。

 柔道は大学へ入ってからも続けた。体格に合わせて、自己イメージも無骨な人間に押し込めた。屈託なく笑うこともなくなった。


 大学卒業後は大手商社に入ったが、旭が30代前半の時に兄が急逝し、家業へ入った。旭は次男で、長兄が継ぐはずだった。

 県内で10店舗弱を経営する中小チェーン飲食店だった。現場から調達や管理まで一通りの部門を経験した。専務になり、父親から経営をこれから学ぼうという矢先に、父までもが急死した。

 旭は祖父から数えて3代目の社長になった。急ではあったが、社内をくまなく見て回った後だったのは幸いだった。


 社長となった旭は、利益率を圧迫していたムリ・ムダ・ムラを時間をかけて丁寧に解消させていった。頻繁に打っていた割引キャンペーンもやめた。看板メニューを育てながら、新規メニューの投入と既存メニューの廃止に一定のルールを導入した。

 規模を闇雲に追わず、組織体制が規模に追いつくようにゆっくりと店舗数を増やし、県下に40数店舗を持つに至った。チェーンストアの経営理論を愚直に実行した。

 県外には出店させず「ご当地レストラン」としてのブランディングに成功した。テレビの経済番組にも出演した。後継社長に経営を譲り、会長に退いた後に、県に請われて観光施策にも協力するようになった。レストランチェーン自体を観光資源に育てた手腕を買われてのことだった。

 そうした功績で藍綬褒章を受章した。


 後継者に自身の子供は選ばなかった。旭には二人子供がいたが、二人とも入社していない。子供の頃から家業を継げといったことは一切言わなかった。もし入りたいと本人が望めば、一般社員と同じ扱いしかさせないつもりだったが、二人とも自然に別々の道へ進んで、旭はどこかほっとしていた。

 後継者には自分とは異なる面で自分よりも優秀だと思える人物を選んだ。自分と同じタイプを選べば、自分の方が優れていると思い始めて変に容喙してしまう。

 会社を上場させた上で株式を売却し、経営だけでなく所有からも手を放した。一度経営から離れながら「任せられない」と再び経営権を握る経営者もいる。「会社は自分の子供のようなもの」という経営者もいる。旭は、だったら子離れすべきだ、子供を所有物ではなく一つの別人格として扱わなければならない、と常々思っていた。思っていても実際にそれをきれいにできる人は少なかった。

 兄の遺した妻子の生活と養育費は旭が支え続け、旭の家族とも良好な関係を維持した。資産も一定程度を彼らに渡し、こじれることもなかった。


 旭自身は、そうした自身の行動を、純粋に合理性からというより、急逝した兄や父への「恨み」からくるものかもしれないと時々思った。

 創業家としての地位を手放し、家業であることをやめた。父は祖父から継いだ家業を次代に託すことを使命だと感じているようだった。兄もその考えを当然のことと受け入れているようだった。継いだことで、次に継がせなければ、親や先祖に申し訳ないという負債感情が当人の意識とは無関係に発生する。


 旭は経営を引き継ぎながらも、その考えを否定していた。会社は創業者の持ち物でも、オーナーの持ち物でもなく(そうした側面があっても)やはりステークホルダー全員のもの、社会の公器だと考えていた。

 それでも自分は継いでしまった矛盾を抱えて生きていた。

 家業とは無縁の人生を送れたかもしれないが、そこに組み込まれてしまったことへの一種の復讐だったのかもしれないと旭は考えていた。






【17】

 しかしサテーンカーリに入り、優希が姫として君臨しているのを見て、旭はそうではなかったのかもしれないと思った。

 本当の自分の望み、奥底にあった願望は「自分も姫になりたかった」だった。


 社長となった旭は、むしろ周囲が自分をちやほやしてしまわないよう細心の注意を払った。意見を言えないといけない。自分の顔色を伺うイエスマンにさせてはいけない。

 よく話を聞いてやり、「どうすればいいか」と御伺いを立てるのではなく「こうしようと思うがどうか」と自分で考えて意見を言う人間を育ててきた。大きな方針は決めるが、細かい口出しはせずに任せた。飲食業にとって命でもあるメニューも、新商品開発の決定権は握らなかった。ただ方針とルールは定めた。

 とにかく自分を律してきた。自分を主役にしないように気を配ってきた。


 だが、優希を見て、ああなりたいと思った。自分はああなりたかったのだと気付いた。高校生の時、自分より大きな生徒の膝に乗ったり後ろから抱きとめられたりしたあの感触を急に思い出した。


 旭は頑張って優希の真似をした。観察した。技術を学んで練習してできるようになっていく感覚がなつかしかった。柔道を始めた頃の感覚にも似ていた。

 師も自分の努力に応えてくれていると感じた。自分が技を研究して実践すればするほど、優希もさらに新しい技を見せてくれる。優希は以前はまんべんなく入居者を相手にしていたが、今は集中的に自分に技を使ってくれているようだ。

 だいぶ自分もかわいくなってきた。






【18】

 入居者たちは、旭の奇妙な努力が、姫へのロードだとは全く気付いていなかったが、入居した当初よりも、旭の表情が自然に豊かになっていることには気付いていた。その変化を皆好ましく思っていた。


 冬児にてへぺろを褒められた旭は、本当に嬉しそうな顔をした。

「これも全て、師である優希さんのご教示のたまものです」

と謙遜した。

 旭は優希をまっすぐ見つめていた。

 旭の曇りのない視線を優希は受け止めていた。旭が姫をかわいがりたいのではなく、姫になりたくて努力していたことを、優希はこの時初めて理解した。

 そっかあ。旭は姫になりたかったんだね。すてきだね。

 でも、一つの老ホに、二人の姫はいられないんだよ。


「柔道だがね」

 突然声がして旭が振り向くと、小柄な老婆が立っていた。

「ガキどもが。柔道で決めりゃあええんだわ」

 入所以来、旭が一度も見かけたことのない人物だった。殺季(さつき)(118)という。サテーンカーリ崎宿参番館は、入居者33名中32名が男性であり、殺季は唯一の女性の入居者だった。殺季の脇には大柄なセンター長のQも控えていた。

「あんたも柔道やっとったんやろ。体見りゃぁわかるわ」

「はい」

「ほんなら二人で柔道やって決めたらええがね」

 旭は困惑した。なぜ「ほんなら」なのか。困惑した様子の旭を見て殺季は呆れた。

「たわけぇ。姫が二人もおったらおかしなってまうがね」


 どちらがこのホームの姫か、柔道で決めろという。

 旭には意味が分からなかった。姫を決めるなら、可愛さ対決とかではないのか。

 旭が困って優希を見ると、優希は淡々とした顔で旭を見返していた。既に柔道による勝負を受け入れているように見えた。

 可愛さ対決なんかしちゃったら、僕が圧勝しちゃうじゃん。

 とでも言われているような気がした。

 圧倒的な体格差があり、柔道では優希にとって非常に不利なはずだが、そう思うことさえ優希に失礼な気がした。


 ほんの1秒足らずのうちにこの逡巡を過ぎて、旭は

「わかりました」

と応えていた。

 ロボの介護士がふいに割って入り

「危険です。中止して下さい」

と二人の柔道を止めようとした。しかし最後まで喋り終わらないうちに、Qがロボの頭部を片手で掴むと、そのまま持ち上げて握りつぶした。頭を失ったロボの残骸がQの足元に転がった。老人たちはヒッと短い悲鳴を上げた。


「ほんなら1ヶ月後のこの日にやりゃあ」

と言い残して殺季は消えた。


 体をつくり、勘を取り戻すには、1ヶ月はあまりに短かった。






【19】

 ダ・シルヴァ柔道館は「楽しい柔道」「生涯柔道」を掲げて、地域の子供から高齢者まで広く集めていた。代表のアンナ・ダ・シルヴァが女性であったこともあり、中高年の女性生徒も多く、和気あいあいとした雰囲気の町道場だった。サテーンカーリ崎宿参番館からは最もアクセスの良い道場だった。


 アンナは旭を見て、最初は高齢者が健康維持のために通いたいのかと思った。1ヶ月だけ通いたいというのも、合うかどうかまずは体験したいのだろうと思った。

 アンナは1ヶ月間は無料で、週1で来てみてはどうかと提案した。しかし旭はそれを即座に断り、高額でも構わないから最も充実したプランで、毎日通いたいと望んだ。アンナは何かが違う、事情があるらしいと察した。経験者であり、1ヶ月で全盛期に近い状態まで戻したいという。並々ならぬ決意を感じたアンナは、何も聞かず旭を引き受けた。


 練習は主に打ち込みを中心として、立ち技と寝技を丁寧に体に思い出させていった。3D動画で撮影し、脳内のイメージと実際の動きの差を細かく確認し、修正した。体のスピードそのものが落ちているから、タイミングのズレが顕著だった。

 筋力・持久力のトレーニングも並行して続けた。乱取りは闇雲にやらず、アンナや実力のある生徒だけが担当した。体力や筋力は大学生の時とはほど遠いが、勘は当時を上回っているのではないかと感じた。当時はただ練習していただけだったが、より一つ一つの動きの意味を理解して、それらの動きを有機的に繋げて考えられるようになっている。瞬発力は落ちても、より効率の良い動きができている。


 道場に来ている男子高校生と組めば、相手の方が手数もパワーも上だったが、上手く受けてさばいて、それなりに戦えていた。旭が勝つこともあった。国際ルールであればどうしても体力勝負・手数勝負にならざるを得ない面があるが、たった一人を相手に一試合だけであれば、しかも相手も同年代であれば、戦えそうだという感触を得た。

 この練習でも3Dで撮影した映像を見ながら、対戦相手の高校生へも理由を明確にして改善点を指摘して、ほとんどコーチか先生のようになっていた。押し付けがましくなく、むしろ相手の意見を聞く形でアドバイスを与えていったから、高校生も素直に受け止めた。


 アンナは旭にずっと通ってほしいと言った。旭自身も、本当に久々に柔道に打ち込んで楽しさを感じていたし、元気なうちはそうしたいと思い始めていた。

 旭はアンナを柔道家として尊敬していた。年齢を重ねても向上心を持ち続け、道場の誰よりも強かった。そしてそれを道場に通う生徒へ的確なレベルで伝える方法も、常に向上させようとしていた。


 旭は物越しが柔らかく、掃除や片付けも率先して、道場の人々にもよく好かれた。中高年女性たちも旭を「おじいちゃん」と呼んで次々にかかってきたから、ちぎっては投げ、ちぎっては投げた。

 彼女らは旭を「かわいい」と言った。旭はホームでかわいさの鍛錬を続けた結果が、身体からにじみ出ているのだと思った。

 柔道に勝つ。そして姫になる。この自分はそれにふさわしい強さとかわいさを身につけた。旭からは、慢心ではない自信がにじみ出ていた。






【20】

 ホームの武道場で、柔道着を着込んだ優希と旭が相対していた。真冬の朝9時は、屋内でも吐く息が白かった。武道場の一遇では、他の入居者たちが見守っていた。Qが主審、殺季が立会人として控えていた。

 改めて正面から見ると、優希はいかにも小柄なおじいさんだった。優希はひどく穏やかな顔をしていた。かわいい姫の、ころころと豊かな表情が控えて、ただ素の、かすかな微笑をたたえた、老爺の顔だった。

 好々爺としか言いようのない佇まいだった。この人がなぜ、老ホの姫として君臨したのか、そうしようと努力を重ねたのか、不思議だった。


 Qが

「はじめぇッ」

と鋭く開始の合図を放った。

 互いに構えながら距離を取り様子を伺う。始まってもなお、旭にはためらいがあった。いかに柔よく剛を制すとは言え、体格差は厳格に有利不利を分ける。全力で優希に向かうべきかどうか、決めあぐねていた。

 すぐに組み手争いが始まると、優希の手が鋭く繰り出された。短いはずの優希の腕が、2割ほども長く感じられた。

 優希がすばやく旭の懐に飛び込んできた。襟と袖を易々と掴まれた。そして優希は立ち技を仕掛けることなく、いきなり寝技へと引き込もうとした。

 組み合った瞬間、旭の襟を猛烈な力で押し下げるように引いて頭を下げさせられた。さらに袖も手前に引かれて、旭は前のめりに姿勢が崩れた。旭の太ももの付け根あたりへ優希の足先が飛んできて蹴るような動きを見せた。

 旭は本能的に「これ以上姿勢を崩されては危険だ」と言葉にならないうちに感じてその蹴りを耐えた。優希は斜め後ろに座り込むように寝ようとした。


 ここまでがほんの一瞬の出来事だった。旭の脳内で激しく警鐘が鳴り続けていた。危険だ。引き込まれまいと頭を上げようとするとさらに畳の方へと引きつけられる。嫌って旭が立とうとすると、今度は大内刈りのような動きで足技が飛んできた。「草刈り」という技だ。旭はなりふり構わず全力で優希の両手を外して間合いを遠く取った。

 今逃れられたのは、優希がわざと握る力を緩めたのだと思った。まだ様子見だったのだろうと思った。


 旭はちらりとQと殺季を見たが、二人とも何の反応も見せなかった。旭はただちにこれが「普通の柔道」ではないと理解した。

 講道館のルールや国際ルールでも、今優希が見せたような「立ち技を経由しない、直接寝技への引き込み」は禁止されている。しかし優希はそれを当然のように繰り出して、審判であるQも認めた。

 これはいわゆる「高専柔道」と呼ばれるものだ。戦前の旧制高校・大学予科・旧制専門学校の柔道大会で行なわれていた柔道で、引き込みが認められる他、寝技に待ての宣告がなく、技有り・有効・効果といったポイントもなく、ただ一本だけが認められる点などが一般のルールとは異なる。

 寝技技術の発達した柔道で、あまりに強かったために講道館の側が引き込み禁止や待てを導入していき、そちらが「スポーツ」としての柔道の主流となっていった経緯があった。

 現在では旧帝大にこのルールが引き継がれている。優希は旧帝大の柔道部出身なのだろうか、と旭は想像した。


 優希は、よっこいしょという感じでゆっくりと立ち上がった。

 寝てはいけない。立って、立ち技で仕留めなければいけない、と旭は強く思った。背筋を伸ばし、上半身を引き込まれないようにしなければならない。

 引き込みが禁じられ、立ち技から寝技への移行しか許されていない通常のルールでは、必然的に寝技は上にいる者が攻め、下にいる者が守る形となる。そして立ち技をかけられた側の、下にいる者は待てがかかるのを待つ。

 しかし引き込みを許されたルールでは、引き込もうとする下にいる側が攻める。上下が逆転した攻防に、通常のルールに慣れた柔道家がただちに対応するのは難しい。

 上から攻めるには、むやみに相手の上半身へ手を出してはならない。関節技が来る。相手の脚を越えてから攻めなければならない。そのためにはまず崩されないようにしなければならない。先程の優希の引き込みの動きを、旭は脳内で素早くシミュレートしながら、対応策をいくつも思い巡らせた。


 だが、勝負が再開されると、立ち技で仕留めるという思惑も、引き込まれた後の攻防も、何の意味もなさなかった。優希は「そんなこと知っている」とばかりに、旭の対策を全て上回って対応した。

 引き込まれて、旭はただちに上からの守りに入ろうとしたが、すぐに下から脇をすくわれ、ほとんどなすすべもなくひっくり返された。

 ただちにカメになって防御に徹した。しかし旭が防ごうと体を動かすたびに、意に反してどんどん不利になっていった。寝技に関する緻密な技術体系は、対策に対する対策、そのさらに対策が長年に渡って蓄積された賜物であり、相手のわずかな動きや呼吸に即応して、相手の意図や目的を先回りして封じていく。何かをしようとしても、どんどん寝技巧者の有利な形へ追い込まれていく。もがけばもがくほど沈んでいく蟻地獄のようだった。

 四つん這いの旭の背の側に回った優希が、体を回し、脚で絡めるように旭の左肘関節を極めた。


 旭は一瞬、呆然とした。

 何も考えられなくなった。ただ、子供の頃の記憶や、高校で柔道をしていた時の記憶、商社員時代の記憶、経営者だった時の記憶、妻子の記憶、サテーンカーリでの記憶などが、さっと撫でるように順不同で想起されていった。


「タップしろ、参ったしろ!」

と叫んでいたのは、優等生の歌彦だった。

「肘が壊れるぞ!」

 そう警告したのはマッチョの洋平だった。

 しかし旭は参ったもしなかった。激しい痛みに顔を歪ませながら、何もしなかった。この形から逃れることは不可能だと知っていたから抵抗もしなかった。負けの受け入れを拒んでいるようでもあったが、本人自身にも分からなかった。

 歌彦は苦しそうに呻いた。


 オタクの恭也が興奮したように小声の早口で急に話し始めた。

「挌闘技には大別して立って戦う打撃のストライキングと寝て戦う極め技・絞め技のグラップリングがあるのだが、実戦である戦争での白兵戦はどうかというと、イラク戦争・アフガン戦争から帰還した米国陸軍兵1千名以上に調査した結果では、7割強がグラップリングで、ストライキングは5%に留まるという。なお銃や武器の使用は2割弱と低いのはアーマーの発達による。これほどグラップリング技術は重要なのだ。一方でアーマーを身に着けない総合格闘技ではどうかというと寝技へ引き込ませない『際』の技術が発達して明確なグラップラー有利のデータはない。この試合でも寝技巧者の優希氏に対して旭氏は様々な防御の技術を駆使しているが優希氏は全てそれらを無効化して寝技に引き込んでいるようだ」


 誰も恭也の解説風のひとり言を細かく聞いてはいなかったが、みんながかわいいかわいいと愛でていた優希が、この場にいる誰よりも戦闘能力が高かったのだとは理解した。かわいがっていたのではなく、自分たちが手のひらの上で転がされていたのかもしれないと思い始めていた。


「そもそもなんで柔道やってんだっけ?」

「さあ?」

と蘭太郎・菊次郎兄弟は言った。


 旭の左肘靱帯は損傷し、肘関節は脱臼骨折した。優希は極め技を解いた。もはや試合が続けられる状態ではなかったが、参ったをしなかった以上、試合は続行していた。二人は立ち上り、道着を直した。旭は右手だけで直すから時間がかかった。優希は何の感情の起伏も見られない、ただ穏やかで暖かい湖面のような眼差しで待っていた。


 歌彦は

「もういいよっ、終わりにしろ!」

と泣き出しそうな顔で叫んでいた。

 冬児が

「無理だ」

と諭すように言った。

「見ようぜ……」

 静かに冬児が言うと、歌彦はまた苦しそうに呻いて黙った。武道場が静かになり、旭の道着を直す布の擦れる音だけが聞こえた。

「おいでくのぼう! 根性出せ!!」

と突然、聖波が旭に声援を送った。

「頑張れ!」「ファイト!」

と次々に声援が飛び、バンバンと床を手で打つ者もいた。


 Qが「始め」と宣告し、試合が再開された。

 旭は一瞬で優希に寝技へ持ち込まれ、絞め技が決まった。旭も無為に立ち向かったわけではなく、様々な抵抗を試みたものの、腕一本ではどうしようもなかった。場内もまた静まり返った。

 旭は今回もタップをしなかった。意識が遠のいていく。頭の中で「Yeah! めっちゃホリディ」が大音量で流れていた。優希が歌っていた。完璧な振付けで踊っていた。奇妙なかなしさに胸をつかれた。旭はふっと笑顔を見せて意識を失った。






【21】

 旭は病室で朝のワイドショーを見ていた。老人ホームで起きた「決闘」は世間の注目を浴びていた。

 殺季と優希は決闘罪で逮捕された。旭は入院していたため逮捕はされなかった。

 旭が気を失った後、すぐに救急車が呼ばれたが、それと同時に歌彦が警察に通報したのだった。


 決闘罪はその古めかしさから逮捕者が出るたびに解説と共に報道され耳目を集めやすい。まして今回は老人ホームという、およそ「決闘」とは似つかわしくない舞台で起きた事件で、そのきっかけが「姫」にまつわるものだったから余計に話題になった。

 旭が著名な飲食チェーンの創業家元会長だったことも火に油を注いでいた。


 「決闘罪」は明治22年に制定された6条からなる特別法「明治二十二年法律第三十四号(決闘罪ニ関スル件)」で規定されている。

 決闘を挑んだ者・応じた者(第1条)、実際に決闘を行った者(第2条)、立会った者・立会いを約束した者(第4条1)、決闘場所を提供した者(第4条2)が処罰の対象となる。法律上は「決闘」の定義はないが、最高裁判例では「決闘とは当事者間の合意により相互に身体又は生命を害すべき暴行をもつて争闘する行為を汎称するのであつて必ずしも殺人の意思をもつて争闘することを要するものではない」(昭和26年3月16日)とされる。

 格闘技の試合などは、日時や場所を事前に定めて行われるため、形式的には「決闘罪」に該当するが、スポーツとして違法性が阻却される(刑法35条「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」)。サテーンカーリ崎宿 参番館で起きたこの決闘は、柔道の試合の形を取っていたが、その正当性は認められなかった。


 殺季と優希は逮捕されたが、不起訴(起訴猶予)となった。

 殺季は、118歳での世界最高齢の逮捕者としてギネス記録に認定された。認定証を持ってピースサインで記念写真に応じ、批判を浴びたが、本人はどうとも思っていない様子だった。

 Qも場所を提供して仕切ったことで罪に問われたが、事件直後に逃亡し、行方不明となっていた。いくつもの防犯カメラに、ものすごい速さでQが町中を疾走する姿が捉えられ、その映像も繰返し報道された。美しいフォームだった。

 優希は逮捕期限の72時間が過ぎてサテーンカーリに戻った後、急性心筋梗塞で死んだ。79歳だった。旭はあの柔道の後、優希とは会わず仕舞いだった。


 旭はテレビを消し、病室の洗面所で鏡の前に立ち、自分の顔を真っ直ぐに見た。右手でパンと頬を叩き、

「よし! 今日も僕はかわいい。僕はかわいい。」

と小さな声で言った。

 実際、旭はかわいかった。

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