第4話
そんなことになろうとはつゆ知らず、吉田と森下を笑顔で送り出したが、正木にとり決して心穏やかではなかった。さもあろうと思う。今は次の気象予報の段取りに取り掛かっているから気分が紛れているが、さもなくば、気象予報会議での受けた屈辱を、間違いなく晴らしに自棄酒を飲みに行っていただろう。それが出来ぬのも、自身の性格によるものであるが、ともかく邪険を覆い隠し、懸命に予報発表の段取りに没入していた。いずれにしても、今日やるべきことは今日中に片付け、明日でも時間を作って夏美と会おうと考えていた。
いわゆる、暫らくぶりのデートということになる。デートの相手は正木の恋人である。恋人の名は山城夏美、年齢二十五歳。気立ての良い、彼が熱愛する相手である。
前回会ったのが、何日前だっただろう。いや、何日というより一ヶ月以上時間が開いていた。気象予報官として、毎日深夜まで気象の推移予想を確定するため仕事に没頭していると、毎夜デートをする時間もなかった。
本音のところは、愛する夏美と毎日でも会いたかった。夏美とて同じ気持ちでいるに違いはなかったが、二人とも我慢した。その代わり、会えぬ日々は携帯電話で互いの愛を確認し合っていた。もちろん、仕事中は電話での交信は出来ない。昼の休み時間に、メール交換をする程度である。
「夏美、今日のお昼ご飯はなにを食べたの?」
正木が同僚との食事が終わり、喫茶店でお茶を飲んでいる間にメールを入れた。彼に会えぬ寂しさを吹き飛ばすかのように、すぐに夏美からの返信メールが戻ってくる。
「裕太さんは、なにを食べたの。私はあなたに逢えない寂しさで食欲がないからサンドイッチで済ませたわ。でも、あなたからメールをいただいて、少し元気になった」
正木はその返信メールを読み、胸が詰まる。
「俺だって、すぐにでも逢いたい。出来ることなら、仕事をほっぽらかしてでも飛んで行きたいくらいだ」
携帯電話を見つめ、心の内で叫ぶ。すぐに、そんな気持ちのメールを送る。
「夏美、逢いたいよ。仕事なんか蹴飛ばして、すぐにでも行きたい気持ちだが、それは出来ない。けれど俺の今の気持ちはそういう心境だよ。おっと、君の質問に答えなければね。ええと、今日の昼飯は、居酒屋の『さくら水産』で焼き魚定食を食べたんだ。生卵と海苔が無料でさ、腹が減っていたから美味かった」
長めの文章だったが、今の心境を入れた。
「おっと、いけない。自分のことばかり書いてしまったが、夏美、サンドイッチだけでは身体に良くないよ。俺だって君に逢えないことは辛いし寂しい。けれど、俺の場合は食欲というのは別ものなんだ。腹が空きすぎると、目がくらくらしてきて仕事が出来なくなっちゃうんだよ。だからといって、君と飯を比べたら、そりゃ君の方が大好きだ。以上、愛する夏美へ」
彼女への送信ボタンを押した。何時の間にか、すぐに返事が返るのを待つようになっていた。だが、夏美からの返信メールは来なかった。焦れる正木に昼休みの時間は過ぎて行く。諦め職場に戻る。忙しさのなかで返信メールのことは忘れていた。
午後三時の休みに、息抜きにトイレへといって携帯電話を取り出し確認すると、夏美からメールが入っていた。慌てて内容を確かめる。
「ごめんなさい、すぐにメールを入れられなくて。それよりも、裕太さんって、面白いのね。私だって、食事よりあなたの方が好きよ。それに裕太さんが説明してくれたお昼ご飯のメニュー、すごく美味しそうね。私もあなたと一緒に、焼き魚定食を食べてみないな。生卵と海苔が無料だなんて嬉しいわね。裕太さん、お願いがあるの。今度是非とも一緒に食事がしたいわ。夏美より愛する裕太さんへ」
夏美の切ない気持ちが、正木の胸を揺るがしていた。
「俺だって、夏美と昼飯を食えたら最高だ。離れ離れでいるよりも、何時も一緒にいたい気持ちでいっぱいなんだ。愛しているよ、夏美・・・・・。死ぬほど愛している」
正木の胸がきゅんとなり、目頭が熱くなっていた。彼女のことを思うと、いてもたってもいられなかった。ぐっと堪え、携帯電話をしまい自分の席に戻った。
夏美と逢えぬときは、こんな感情の入る携帯電話でのメールのやり取りを続けていた。また夜になれば、深夜帰宅してから、夏美に直接電話で互いの愛を確かめ合った。
昨夜もそうだった。帰宅したのが午前一時を回っていたが、それでも正木は夏美の声が聞きたくなり電話した。夏美とて気持ちは同じである。裕太の愛を確認するため彼からの電話を待っていた。
夏美の携帯電話に着信を告げる着メロが流れる。すぐさま携帯電話を開くと裕太からだった。元気な彼の声が耳に飛び込んでくる。
「夏美、愛しているよ」
「・・・・・」
「もしもし、夏美か?」
「・・・・・」
「あれ、夏美。どうしたんだ。・・・・夏美さんじゃないのかな」
「は、はい。夏美です。裕太さん、私、あなたの声が聞けて嬉しいの。寂しかったわ。辛かった。待っている時間が長くて・・・・・。でも、嬉しいわ」
「おお、俺だって。寂しかったよ。君の声が聞きたくて、それで遅くなったけれど電話したんだ。夏美、俺のこと好きか?」
「・・・・・」
「なんで、黙っている。俺のこと好きか聞いているのに」
「裕太、あなたのことが大好きよ。でも・・・・・」
「でもって、なんだい。言ってごらん?」
「いいわ、言わない」
「言わないって、夏美、それでは分からないだろ。俺のことが好きなんだろ。それだったら、でもの次を教えてくれないか」
「そんなの、恥ずかしいわ」
「あれ、恥ずかしいって言われても、余計分からないじゃないか。夏美、俺はお前が大好きだ。愛している。世界で一番愛しているぞ」
「ううん、嬉しい。私も雄太さんのことが、世界の誰より誰よりも負けないくらい愛しているわ」
「俺だって負けるもんか。俺なんか世界よりも、もっと広いぞ。地球上でたった一人だけ永遠に愛している人がいるんだ。その人の名前は、城山夏美。心の底から愛している。どうだ、夏美。俺の方が君より数段上だろ」
「あら、裕太さん。言ったわね。私なんか、あなたよりもっと愛しているんだから。絶対負けないわよ」
「おお、言ったな。夏美になんか負けてたまるか。世界なんか狭い狭い。なんと言っても、地球規模で愛しているんだからな。地球上のすべてのもの。海あり、山あり。そこに住むすべての生き物に負けないくらい、君を愛しているんだから。どうだ、夏美。すごいだろ、僕の君に対する気持ちが」
「ええ、とっても嬉しいわ。そんなに私のことを愛してくれているなんて。私、幸せです。・・・でも、私の勝ちね」
「ええ、夏美。そんなことあるもんか。世界よりずっと広いんだぞ。地球全体ほどの愛よりも大きいものはない。そうか、夏美の言い訳だな。そうだろ、そうに決まってら。俺に負けて悔しいものだから、そう言っているだけなんだ。夏美、負けは負け。観念して、『裕太さん、私の負けです』と謝っちまえよ」
焦れたように反論する。
「言ったわね。あなたこそ、謝らなくってよ。私の方が、勝っているんですから。まだ気がつかないの?」
「ええ、なんだよ。気がつかないって。夏美より俺の方が勝っているのにな・・・・」
少々自信がなくなり、正木が声を落とした。すると、夏美が攻勢をかける。
「あら、どうしたの。裕太さん、さっきの自信は忘れたのかしら。それとも、私に観念でもしましたか?」
「なんだよ、その態度。夏美、随分自信があるみたいじゃないか。本当に俺の言ったことより、大きな例えがあるのか。あるんだったら言ってみろよ」
「言ってあげてもいいけれどな。でも、話したら裕太さんの負けになるし、どうしようかな。だって、雄太さんが負けたらがっくりきてしまうでしょ。そんなことになったら、私のこと嫌いになってしまうんじゃないの?」
「いいや、そんなことない。例え俺が負けても、君に対する気持ちは永遠に変わらないぞ。でも、ちょっと嫌いになるかもしれないな」
「・・・・・」
「あれ、どうしたんだ。なんで黙っているんだ・・・・・」
「だって、だって・・・・・。私のこと嫌いになってしまうなんて。私、嫌です。雄太さんに嫌われるなんて、絶対嫌です」
彼女の嗚咽と拒否する言葉が、正木の耳に突き刺さってきた。
「夏美、冗談だよ。君のこと嫌いになるわけないだろ。負けると悔しいから、ちょっと冗談を言っただけだ。夏美のことを愛している。だから、絶対嫌いになったりしないから安心しろよ」
「ほんと、本当に嫌いになったりしないわね」
「嘘じゃない。神様に誓って、夏美のことを愛している」
「嬉しいわ。私だって、何時までも雄太さんのことを愛し続けるわ」
そんな電話での、互いの深い愛を確認をしあっていた。そして、さらに続ける。
「それで、さっきの続きだけれど。俺の愛の広さよりも大きいものって、いったいなんなんだい?」と尋ねると、夏美が応える
「それじゃ、教えてあげるわ」
「うん、それじゃ教えてもらおうか、俺に勝る愛の表現をね」
「ちょっと待って!」と、突然遮る。
「ええっ、なんだよ。夏美。今教えるって言ったばかりで、待ったはないだろ」
「そうよね。でも、その前に。私が勝った場合、裕太さんは私になにをしてくれるわけ。それを先に、聞いておかなければならないわ」
「なに、言っているんだ。まだ、俺が負けたわけでもないのによ。それより、もし夏美が負けたときは、いったい俺になにをしてくれるんだか聞いておきたいね。俺だって勝つかもしれないし、そうなった場合は、俺にだって権利があるからな」
「あら、随分自信があるみたいね。本当に私に勝てる自信があるの?」
「ああ、俺も男だ。君に対する愛は、他のものに負けない。絶対に自信があるね。君夏美になんか負けてたまるか!」
「あら、言ったわね。それだったら約束してくれる。もし私が勝ったら、なんでも私の言うこと聞くって。出来るかしら?」
「ああ、約束する。その代わり、もし夏美がまけたら、俺の言うことなんでも聞くか。それなら、約束してもいい」
「ええ、分かったわ。私が裕太さんに負けたら、あなたの奴隷になるわ。その代わり私が勝ったら、裕太は私の奴隷になるのよ」
「ああ分かった、勝負だ!」
「ええ、迎え撃つわ!」
「おいおい、迎え撃つとの威勢はいいが、夏美が俺の愛の大きさに勝つという、大それたことを説明するんじゃなかったのかい?」
「ああ、そうだったわ。ちょっと入れ込んでしまい、教えてやるのを忘れていた。それじゃ、裕太。耳の穴かっぽじいて聞いてちょうだい!」
「ああ、なんでもござれだ」
「ところで、裕太の愛の表現ってなんだっけ?」
「おいおい、忘れちまったのかい。しょうがない奴だな。それじゃ、勝負にならねえや。まったく」
「ごめん、ごめん。もう一度教えてくれる?」
「ちぇっ、しょうがねえな。夏美に対する俺の愛は、さっき君が言った世界の誰よりも僕を愛しているということじゃなかったのか。俺はその上を行く、地球規模で夏美を愛しているんだ。これに勝るものはないと思うがな」
「そうだったわね。裕太さん、男に二言はないわね」
「ああ、決まっているだろ。俺の勝ちさ」
「それじゃ言うわよ。私の愛は、裕太の言う地球規模よりも、もっとスケールが大きいの。だって、地球は太陽系のなかの一つの衛星よね。よく考えてくれるかしら?」
「えっ、なんだよ。それって、意味が分からねえな・・・・・。太陽系の衛星か。それがどうしたんだ、夏美?」
「まだ分からない?」
「ああ、分からねえな・・・・・」
「地球というのは、ひとつの星でしょ。太陽というのは、幾つの星を従えているのよ。月を含めると十一の星を持っているの。裕太さんに対する私の愛は、太陽と同じくらい深く愛しているわ。そう、太陽系の星すべてより勝っているのよ」
「ええっ、本当かよ。それって、俺の負けということか?」
「分かった?」
「地球は太陽を中心に回る星のひとつでしかないの。と言うことは、私の方が裕太さんより大きく、そして深く愛していると言うこと」
「うむむ・・・・・。たしかに、地球は太陽系の星のひとつだ。参、参ったな。と言うことは、夏美の言うことを聞かなきゃならないということか。宇宙とは恐れ入った。そこまで考えなかったから、俺の完敗だ」
「そういうことね。それじゃ、なんでも聞いてもらえるわけだ。と言うことは、今日から私の奴隷ということね」
「ええっ、今日からかよ。それは、ちょっと早いんじゃないか。せめて明日からというわけにはいかないかな」
「駄目よ、駄目。約束なんだから、守ってもらうわ。いいわね」
「ちぇっ、けち!」
「けちも、なにもないわ。今日から私の奴隷でしょ。逆らったらひどい目にあわすわよ。言うこと聞きなさい!」
「はいはい、分かりました。ご主人様」
「そうよ、最初から素直になればいいのよ。裕太奴隷さん、それじゃ命令するわよ」
「おいおい、もう命令かよ」
「あらら、また逆らう心算ね。お仕置きしたいけれど、電話じゃ出来ないわ。今度逢ったとき、お仕置きしてあげる・・・・・」
言葉が詰まり、嗚咽に変る。すると裕太が驚き、優しく言葉を添える。
「あれっ、どうしたんだい。急に泣く奴があるか。あれほど元気だったのに。夏美、愛しているよ」
「うん、私だって。あなたを愛しているわ」
涙声で返した。すると、急に元気な声で告げる。
「そうだった。裕太は私の奴隷だったんだ。言うこと聞いてもらわなきゃね。命令するわよ。今度逢ったとき、私を優しく抱いて下さい!」
「ええっ、抱いてくれって。・・・・・それが命令かい?」
「・・・・・」
「なんで黙っているんだ。夏美、それが命令か聞いているんだ」
「馬鹿、裕太の馬鹿・・・・・。なんども聞かないで。恥ずかしいでしょ。でも、どうしてもそうして欲しいの。それじゃなければ、私、寂しくて。あなたの胸に飛び込み抱き締めて欲しい。そして、ずっと離さないで欲しい・・・・・」
「ああ、分かったよ。今度逢ったら、君を抱き締めてやるから。そして、君の唇が腫れるほどキスをしてあげるからね」
「まあ、恥ずかしいわ。でも、嬉しい・・・・・。愛しているわ、裕太」
「夏美、愛しているよ。今からでもすぐに逢って、君を抱き締めたい」
「嬉しい。でも、今日は遅いから、今度遭うときまで待つわ。辛いけどそうする。近いうちに必ず逢ってね」
「ああ、決まっているだろ。約束する。今日は我慢するから、今度逢ったときは、息が出来なくなるほど強く抱き締めてやるからな」
「・・・・・」
「・・・・・」
感極まったのか二人は、電話口で会話を止めた。正木の胸は激しく燃えていた。どうにも抑えきれない欲望が、頭のなかを駆け回っていた。夏美とて同じである。携帯電話を握る手が小刻みに震えていた。思い切って胸の内をさらけ出し、欲望を裕太に伝えた。なんとしても実現して欲しかった。愛する彼の息遣いが耳奥に響いてくる。それに合わせ、夏美の胸の鼓動が激しくなっていた。言葉にならない激動が涙を誘う。嬉しさが込み上げてくるのと同時に、大粒の涙が頬を伝って流れ落ちていた。
「裕太さん、私を嫌いにならないでね。愛しているわ、裕太」
嗚咽とともに、それだけ言うのがやっとだった。夏美の耳元に優しい言葉が注がれる。
「俺だって、夏美。誰にも負けないほど君を愛している。好きだ、大好きだよ」
「うん、嬉しいわ」
「君を絶対離さないからな。覚悟して置けよ」
「分かったわ。それじゃ、今日は遅いから電話切るわね」
「おお、そうだな。また、明日電話するから」
「ええ、待っているわ。その前に昼間は必ずメール欲しいな」
「ああ、昼休みにメールするから」
「裕太、なんてメール入れてくれるの?」
「おお、決まっているだろ。愛していると入れるんだよ。それに、君の身体が欲しいと入れてやんのさ」
「まあ、裕太ったら。恥ずかしいわ、そんなこと入れられたら。でも・・・・・」
「冗談だよ。君の身体が欲しいなんて、そんなこと入れるわけないだろ」
「馬鹿っ、裕太の馬鹿。本気にしてしまったのに、裕太なんか嫌い、大嫌い!」
望んでいたことを、ずばり言われて戸惑ったのか、自分の気持ちと正反対の言葉を発した。冗談にしても、そうして欲しいと望んだ。本心から裕太に抱かれひとつになりたいと願っていた。涙声で訴える言葉が、正木の胸に楔のように打ち込まれる。
冗談だと言ったが、それは嘘である。
本心から、愛しい夏美を抱き締めたかった。今しがた別れの挨拶をしたばかりだというのに、電話を切りがたい気持ちが、互いに何時までも二人を覆っていた。
こんなことの繰り返しが、何時の日も続く。逢えないときは、たわいのない内容のメール交換や電話での愛の交換と、毎夜続けられていた。慈しみ合う二人は、このようにして互いの愛を確認し合い益々深まっていった。
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