第3話

どかっと勢いよく席に着くやい姿勢をただし、「コッホン」とひとつ咳払いをして意気込みを見せる。

「さあ、さあ、始めるか!」

座るやいなや気勢を発し、ワイシャツの袖をまくり上げ、パソコンに向いキーボードを打ち始め、なにやら調べ始めていた。そんな別人のような様子を不可解そうにして、老眼鏡の眼鏡越しに牛田が窺い見ていた。

「なんだ、正木の奴は。あれだけ痛めつけてやったのに、けろっとしていやがって。頭がおかしくなったんじゃねえのか。まともな奴なら、立ち直れないぐらいにがっくりとしているはずなのによ。それが、うな垂れるのではなくしゃきんとしている。そうだ先ほどにしても、俺らが会議室を出るときだって、気が触れたように呆然としていたんだ。それが一時間も立たないうちに、人が変ったようにはつらつとしているなんて」

「うむむ・・・・・。これはなにかあるな。奴めなにか企んでいるんじゃねえのか?」

それとなく、様子を窺いながら思案する。

「そうか、正木はこの俺に復讐しようとしているのかもしれんぞ。先ほどの反省会議で痛めつけた腹いせに、物騒なことを企てようと考えているかもしれない。今夜あたり闇夜に紛れ、暴漢に成りすまして俺を襲おうとしているのではないか・・・・・」

そうとい言わんばかりに、うろたえる。

「こ、これは一大事だ。万が一、命を奪われることになったら大変だ。帰りはよっぽど用心せんといかんな。そうだ、この際。襲われる前に、奴の動きを阻止しなければならんぞ」

腹黒そうに心の内でそう決め、猫なで声で正木を呼ぶ。

「正、正木君、ちょっとこちらに来てくれんか」

会議の時のような蔑む態度ではなく、低姿勢で手招きした。

そんな牛田の要請に気がつかないのか、じっとパソコンを睨んでいた。再び部長が、少々大きな声で呼ぶ。

「正木君、忙しいところ悪いが。こちらに来てくれんか!」

はっとして、正木が部長を見る。

「おお、忙しいところすまんが、ちょっと来てくれ」とさらに牛田が願う。

「は、はい。申し訳ございません。気がつきませんで」

謝りつつ席を立ち、部長席へと近づいた。

「正木君、先ほどは悪かったな。局長の前で恥を掻かせてしまって、さぞ君も辛かっただろうな。本来であれば、この私が責任を取るべきところを、あのような状況になってしまってな。謝るから、気を直してくれんか。わしが悪かった。この通りだ」

座ったまま机上に両手をつき、軽く頭を下げた。驚いたように正木が告げる。

「部、部長。そのような、そのようなことはございません。元はといえば、私の予測が甘かったために気象予報が外れてしまったわけでして、すべての原因は私にあります。ですから、先ほどの反省会での部長のお言葉は正しいものであって、反論する余地はございません。部長に叱咤されましたことに、異を唱える気など毛頭ございません」

詫びつつ部長に従順し、さらに続ける。

「ですので、部長に謝られる筋合いなどないのです。お手をお挙げ下さい。私目がいけないのですから」

逆に正木が腰を折り、深々と頭を下げていた。すると、気が緩んだのか牛田が応じる。

「いやいや、正木君。君がそこまで言うなら、私の気持ちも晴れるというもんだ。あのときはわしも真剣だったので、強い口調で君を責めてしまったが、じつはこちらに戻って反省していたところなんだよ。課長が分かってくれれば、私も落ち着く」さらに続けて、

「そうか、そうか。君がそう理解しているとはな。私の意見も、たまには役に立つこともあるのかな」

安心したせいか、にやつき目じりを下げ正木に視線を投げた。

安堵したような息遣いを感じつつ、返答をする。

「は、はい。ごもっともでございます。私など尊大な部長の下に置かせていただいて、有り難いと感謝しています。今後とも、ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いいたします」

と言って、本心とは裏腹に、さらに正木は頭を下げた。

その様子を窺いつつ、牛田がうそぶく。

「うむうむ、わしこそ頼りがいのある部下を持ったことを誇りに思っているぞ。これからもしばしば指導するから、わしについてきくれたまえ」

「はい、分かっております。宜しくご指導くださいませ・・・・」

心にもないことを言って軽く会釈をし、正木は自分の席にもどって、なにごともなかったようにパソコン画面に向っていた。そんな正木の様子を垣間見ながら、満足気に頷く。

「これでいい、これでいいんだ。こう手なずけておけば、先ほどの危惧も単なる絵空ごとと化す。まあ、正木など、こうしてなつかせておけば、万が一にも俺に危害など与えまいて」

迫り来るであろうと考えていた心配ごとが、差し込む陽射しに濃霧が晴れていくがごとく、危惧が薄れていくのを感じていた。握り拳を口元に持ってゆき、軽く咳払いをひとつすると、安堵感が胸の奥に滲み湧いてきた。と、同時に下半身がむず痒くなるのを覚える。 安堵感がそうさせるのか、欲望が大きく湧き出す。

「うむ、今夜は久しぶりに、もえでも抱くとするか。うふふふ・・・・・」

眼鏡がずれ落ちそうになる似たり顔を悟られまいと、部長机に顔を伏せるようにして、湧き出す含み笑いを懸命に抑えていた。そして、やおら席を立ちトイレへと駆け込む。そこで携帯電話を取り出し、小声で秘書部の谷川もえを呼び出す。

「はい、谷川ですが」

甘い声が耳に響いてきた。

「俺だ。今晩一緒に食事でもしないか。都合はどうだい?」

「えっ、急に今晩だなんて駄目よ。だって、今夜は友達と食事する約束が入っているんだから」

「そりゃあ、困ったな。もえ、それ断れよ。どうしても今晩、君と一緒にめしを食いたいんだ」

「なによ、急にそんなこと言って。部長ったら何時も強引なんだから。駄目、駄目よ」

「そんなこと言うな、今日は特別なんだから、一緒にめしを食いたいんだよ。いいだろ、うんと言ってくれ」

強引に誘った。もえが反発する。

「なによ、今日特別だなんて。なにかいいことでもあったの、教えて。教えてくれなければ、約束してあげないわよ」

「そうか、教えてやれば今夜付き合ってくれるわけだな」

「まあ、なによ。付き合うって、食事するだけじゃなかったの?」

「なにを焦らすんだ。君だって一緒に食事といえば分かるだろ。それを惚けてよ」

「なにも惚けてなんかいないわ。ところで、なにがあったのか教えなさいよ。それじゃなければ、先約が優先するんだから」

「ちぇっ、しょうがねえ奴だ。じつはな、今日正木の奴を痛めつけてやったんだ。それも、局長の前でだぞ。すかっとしたな。おっと、それはどうでもいいことだが、会議の後局長に呼ばれ、内密に教えてくれたんだが、なんだか分かるか?」

谷川に焦らすように尋ねた。

「まあ、嫌ね。なんだか分かるかって。ヒントもないのに、分かるわけがないでしょ。いったい、なんなのよ」

「そうだろうな。女というものは、もっぱらあっちの方にはえらく興味を持つが、出世に関しては、あまり興味はないだろからな」

「ええっ、なによ。局長になにを言われたのよ。もしかして、あなたが偉くなるという話しかしら?」

「おお、その通りだ。いや、まだ正式ではないが内定というところかな。今度、副局長の話をもらったんだ。今度の役員会で推薦してくれるそうだ」

「あらそうなの。それはおめでとう。よかったわね」

もえが、さりげなく応じた。

「おいおい、そんな気の抜けたような祝い言葉はないだろ。もっと喜べよ」

「それは、ご免なさいね。それはそれは、おめでとうございます!」

これみよがしに大きな声で告げた。すると、不服そうに返す。

「もえ、それだけかい。他に言うことあるんじゃないか?」

「なによ、まだ祝い言葉でも言ってもらいたいわけ?」

「いや、そうじゃない。そんな祝い言葉なんかよりも、他にまだあるだろと呆けちゃってよ。ほら、いってみろ」

「なんだか分からないわ。偉くなれるんでしょ。おめでとうじゃ不満なの、だったらどう言ってもらいたいか教えてくれない?」

「まだ分からねえかな。ほら、お祝いにプレゼントするものがあるだろ。ここまでヒントを出せば分かるよな。それじゃ答えてもらおうか」

「プレゼントって、昇進祝いが欲しいわけ?」

「馬鹿だな、そんなもの欲しいわけがないだろ。別のものだよ、別のもっと大事なものだ。君が俺にくれるものでいいものだ」

「ああ、部長って。エッチなこと考えているのね。いやらしいわね。遠回しに私の身体が欲しい。だなんて言わせることが、ものすごく卑猥に聞こえるわ。部長ったら・・・・。そんなこと、電話でなんか言えないわ。恥ずかしい・・・・・」

「なにが、恥ずかしいものか。昇進祝いに一番欲しいものは、お前の身体だよ。そのむっちりとした身体を想像するだけで、俺の下半身がいきり立ってくるからな」

「馬鹿なこと言わないで。私だってそんなこと言われたら、あそこが疼いて来てしまうわよ。・・・・・意地悪な人ね」

「うむうむ、それでいい。そう言ってくれれば、こんな昇進というめでたいことだから、今夜は一緒に飯でも食いたいと思って電話をしたんだ」

「そうなの。それじゃ、先約を断らないきゃね。分かったわ。今晩付き合うわ」

「それじゃあ、何時ものところで待ち合わせをしよう。ええと、時間は午後六時丁度ということでいいね」

「ええ、分かったわ。それじゃね。崇、愛しているわ」

「おお、俺だってお前を愛しているぞ。今晩、たっぷりと可愛がってやるからな。その心算でいろよ」

「そんなこと今から言って、夜まで待てなくなっちゃうわ」

「そうかい、俺だってお前のことを思うと下半身が元気になってきちゃうぜ。仕事が手につかなくなって、どうしたらいいんだ。ほら、もう脈打ってきたぞ」

「まあ、いやね。そんな卑猥なこと言って、馬鹿・・・・・」

もえは上気してきたのか、言葉が途切れた。

「いいだろ、俺とお前の秘密ごとなんだからよ。それじゃ、今晩一緒に食事をしよう。精々スタミナのつくものを食わなきゃな」

「ええ、嬉しいわ」

「それじゃな」

「うん・・・・・」

牛田はもえの甘い返事を惜しみつつ携帯電話を切り、なにげない顔をして自分の席へと戻った。するとそこへ、予報部古株の森下杉江が、お茶の入った湯呑みを部長机へと置く。

「どうぞ、部長。熱いお茶を入れてきましたから」

「おお、有り難う。何時も気遣ってくれてすまないね。森下君はよく気が利くな。丁度お茶が飲みたいところだったんだ。有り難うな」

言いつつ湯飲みを取り一口すする。

「部長、どういたしまして。ところで、部長。いいことでもあったんですか。顔がにやついていますよ」

「おお、そうか。別になにもないけどな」

「そうですか。そんな風に見えませんけれど。もしかして、今晩いい子とお約束でもしているんじゃないですか?」

「なにも、ないがな・・・・・」

「ああ、私もたまには誘ってもらいたいな」

下腹部を部長席に擦り付け、甘える仕草をする。

「なにを言っている。そんなものあるかよ。こんな爺、こっちが望んでも誰も相手になんかしてくれるもんか。なんなら君がよければ、何時でも相手してやるがどうだ」

眼鏡越しに、脂ぎった顔で冗談を言う。

「まあ、嬉しい。でも、私、部長に興味ありませんから」

森下が、さらりとかわした。

「そうだろうな、俺が誘うと何時もそうやって断られるのが落ちなんだ。まったく年は取りたくねえな。ところで森下君、俺の午後の予定でなにか入っているかね」

「は、はい。ちょっとお待ち下さい。すぐにお調べいたしますから」

森下が自分の席に戻り、スケジュール手帳を取り出しチェックし、すぐに部長席へと近づき応える。

「ええと、午後三時に今夜報道予定の気象予報の最終チェックが入っていますが、いまのところそれ以降は、特段部長のお出ましいただく案件はございませんが・・・・・」

「そうか、それなら今日は定時で上がらせてもらうとするか。毎日遅いから最近ちょっと疲れ気味でな」

「ええ、それが宜しいかと存じます。何時も午前様ですからね。たまには早く帰って、英気を養って下さいませ」

見栄みえのおせいじを口にした。内心毒つく。

「なに、言っているのかしら。しゃあしゃあと、そんなこと言ってさ。隠していたって、顔つきみれば分かるんだから。まったく、すみにおけないわね」

そんな森下の思惑など気にも止めず、さりげなく牛田が応じる。

「そう、させてもらうか。近頃、大分疲れが溜まっているみたいなんで、早く帰って養生させてもらうことにするよ」

そんな言い訳をする牛田の心内は、定時に退社する既成事実を作り今夜のもえとの情事の思惑が熱く渦巻いていた。

「よし、これでいい。早く帰るのもひと仕事だな。部下を巻くのも苦労するぜ。女の嗅覚というものは敏感だから気をつけねえと、今晩のこともばれちゃうからよ。特に、森下の奴はな。もえと約束しトイレから戻ってきたときなんか、お茶なんか入れてきやがって、フェイントかけてきたからな。まあ、なんとか誤魔化せたからいいようなものをよ。用心、用心」

「それにしても、早くもえと楽しみてえな・・・・・」

湯呑みを両手で持ち、両肘を机につきながら思い浮かべていた。

自分の席に戻りパソコンに向いつつ、そんな部長の様子を窺う森下には分かっていた。

日頃忙しい部長が、定時で帰る言い訳を公言することなど珍しいことではない。定期的に訪れる早帰りの目的は、すでに暗黙のなかでの周知の事実であった。本人にしてみれば、隠し通していると思っているかもしれないが、部下たちからみれば見栄みえなのだ。帰宅時間のギャップで、いろいろ言い訳を告げ、一人で帰るとなれば誰でも勘ぐる。牛田部長が、今夜なにをするか素行を観察していれば、すぐに察しがつく。

森下が毒つく。

「悔しいわ。何時も私をからかうだけで、気がついてはくれない。それでいて、秘書部の谷川さんばかり可愛がっているんだから。さっき張り合って誘ってみたのに、体よく断られてしまったわ。私だって、たまには欲しくなることだってあるんだから。それなのに、つまんない・・・・・」

パソコンに向かう森下には、仕事に精を出す気分ではなかった。部長と谷川との情事を想像するだけで、下半身が濡れてくるのを感じていた。そんな嫉妬する思いを打ち消そうと、画面の文字に目を凝らし試みるが、自然とそちらの方に思考が及んでいた。

そうとも知らず、牛田は正木ことや森下の思惑など頭の隅から、すっかり追いやっていた。特に、先ほど危惧したことと、万が一を防ぐため採った行動など、瞬時に露と消えていたのである。

考えていることは、今夜のことばかりである。

それからというもの、午後三時からの今夜報道予定である気象予報の最終チェック会議も身が入らなかった。何時もは丹念に読み、チェックし修正を加え部下に指示する。それも正木にとったようにねちっこくやるのである。

それがどうだ。牛田のやかましいほどの要求が出なかった。普段は時間と併走し、何度も加筆修正が行われる。それが、今回の最終チェック会議は、こともなくすんなりと終わってしまったのだ。

気象予報チームの部下たちは予想外であった。と言うか、肩透かしを食ったような状態になってしまったのだ。時間との戦いと部長の激のなかで、死に物狂いになり纏めてゆく、最終原稿が出来るのは、何時も報道前の数分前となることが多い。それが常態化しているのだから、今日のようなあっさりと割る事態になったことに、部長にはぐらかされたような気持ちになっていたと言っても過言ではない。

「おい、今日の部長。なんだかおかしいんじゃねえのか。正木課長の予報外れの反省会では、あれほど荒れたというのに。なんだこれは・・・・・」

吉田は的が外れたと言うか、ほっとした様子で告げた。そして、気が抜けた反動で推測し出す。

「うむ、やっぱりそうか。さっき森下さんが言っていたが、部長もすみに置けねえよな。だってそうだろ、あの歳でまだあっちの方が元気なんだからよ。毎日仕事で遅くまでやって、今晩お楽しみなんだからな。恐れ入っちゃうぜ。こんなに簡単に最終チェックが終わるんだったら、何時もこんな風に会議を進めてもらって、毎晩楽しんでもらいたいよ」

「そうすりゃ、俺らだって楽できるからな。そうなれば俺だって、毎晩彼女とエッチを楽しめるというもんだぜ。なあ、森下さんだってそうだろ。たまには、いけ面の男に抱かれてみたいと思うだろ」

振られた森下が驚く。

「まあ、なんといういやらしいこと言っているの。馬鹿、吉田君ったら。私が男に飢えているようだなんて。生娘に対して失礼だわ!」

お調子やの吉田を睨めつけた。そして訴える。

「これって、もしかしたら。セクハラじゃない。そうでしょう、正木課長。吉田君が私にセクハラ発言をしているんですが」

降られた正木が顔を上げ尋ねる。

「ううん、なんだ。吉田君、森下さんにセクハラ発言をしたんかね?」

「ええっ、そんなことしていません」

すると、森下が反論する。

「あれっ、惚けちゃって。いま私になんて言ったの。今一度言ってみなさいよ!」

白を切る吉田に向って反撃すると、吉田がうろたえる。

「いや、ただ、ちょっとだけだ。森下さんだって、臨んでいるんじゃないかと思って代弁してやっただけなのにな。それをセクハラ発言だなんて。そんな気持ちは毛頭ないのによ・・・・・」

すると正木が、

「いや、吉田君。君がそう思わなくても、彼女にとってそう捕らえられたら、それはまずいよ。女性の立場からみれば、君の発言が森下君の心を深く傷つけたことになる。ことがことだから、人事に訴えられる前に、彼女に謝って許してもらえよ」

丸く治めようと吉田に促した。正木にしても、己の部下の発言行為が大袈裟に大きな問題になっては立場がなくなる。むしろ、監督不行届きとなり、部長の耳に伝わるような事態になれば格好の餌食になる。

そればかりは避けたかった。それに、正木自身も、今晩会う夏美との約束を違えるわけにはいかなかった。

吉田に促す。

「ほら、いまのうちだ。森下さんに謝っちゃえよ」

「はい、課長。申し訳ございません。そうさせていただきます」

席を立ち軽く会釈をし、森下に向う。

「森下さん、先ほどは大変失礼なことを申し上げてすみませんでした。どうぞお許し下さい!」

深々と頭を下げ、許しを乞うた。すると森下が因縁をつける。

「あらら、なによ。その謝り方。課長に言われたからって、杓子定規な謝り方じゃ許さないわよ。この件で人事部長に申し上げれば、間違いなく吉田君はセクシャルハラスメント行為で謹慎処分を食らうわよね」

すると、吉田が慌てた眼差しで抵抗する。

「ああ、それは困るよ。そんなことされたら、俺の前途は真っ暗闇になるし、地獄に落ちることになる。これからの薔薇色の人生が台無しとなり、奈落の底に転落してしまうじゃないか。本当に困るんだ・・・・・」

「そうよね。こんなことが、彼女にばれたらどうする心算なのかしら。大変なことになるんじゃなくて。そうでしょ、吉田君」

「ああ、そんなこと言わないで下さい。もしばれたら、それこそ大変だ。破局になってしまうかもしれない」

「それもしかたないわね。セクハラ発言してしまったんですもの。あきらめたら如何かしら。ねえ、吉田君。あなた男でしょ。自分の発言に対して責任持つのが当たり前よ。きっぱりと彼女のことも、あなたの人生のこともあきらめたらどう?」

事の重大さに、さすがのお調子やの彼の顔が蒼白になり、益々ちじこまって懇願する。

「ごめんなさい。許して下さい、森下様。あなた様がお許しいただけるなら、なんでもします。机上を毎日雑巾掛けしろといわれるなら、お許しいただけるまで掃除します。それでも駄目なら、一週間に一度は昼食を奢ります。これで、どうでございましょうか?」

「あっ、待てよ。一週間に一度ということは、一ヶ月に四回になる。それでは俺の給料がもたないので、なんとか二週間に一度では如何なものでしょうか・・・・・?」

腰を折り、上目遣いで尋ねた。

森下が怪訝そうな顔になる。そして、一気にぶちまけた。

「なにを、馬鹿なこと言っているのよ!」

「雑巾掛けを毎日する?」

「昼食を毎日奢るだと!」

「そんなもので、私を騙そうなんて考えが甘いわ。そんなちちゃなことで、私があなたを許すとでも思っているの?」

「阿呆!」

「すぐにトイレへ行って、顔を洗ってらっしゃい。分かったわね!」

そこで、正木が割って入る。

「まあまあ、森下さん。あまり吉田君を虐めないで下さいよ。彼も気が弱いから、それ以上追い詰めると、なにをしでかすか分からんからな。このビルの屋上から飛び降り自殺でもされたらことだぞ。その辺で手を打ってくれないかな」

すると、すかさず吉田が許しを請う。

「課、課長。申し訳ございません。私の軽はずみは発言で、森下さんに大変迷惑をかけてしまいまして、不徳の致すところでありまして・・・・・。森下さん、お許し下さい。先ほどの約束は、必ず守りますから」

反省しきりに、詫びを入れた。

吉田に対する強い言葉も、成り行き次第でこんなことになってしまったのだが、心内ではむしろ彼の真面目さに驚いていた。気持ちとは裏腹に、森下は正木の仲介に折れる。

「分かったわ。課長がそこまでおっしゃるなら仕方ないわ」

「ええっ、許してくれるのか。有り難う、森下さん。助かった。やっぱり森下さんは優しい人だ。感謝します、有り難う」

吉田が顔を緩めて頭を下げた。

「ちょっと待って。あなたのこと許してあげるけど、一つ条件があるわ」

「な、なんだよ。条件って。すぐそうなんだから、森下さんって怖い人だな」

「あら、そんなこと言うんだったら、反故にするのよそうかしら。ちょっと甘やかすとこれだからつけあがるし、反省の色がないんだもの」

「そ、そんなこと言わないで下さい。今、許すといったばかりじゃないですか」

「なに言っているのよ。吉田君、許してもらいたいんでしょ」

「ああ、許して欲しい」

「それじゃ、私の条件を呑むのね」

森下が高飛車に出た。すると、吉田が不安げに伺う。

「そうは言うけれど、その条件ってなんだよ。俺が出来ることなんか?」

「ええ、簡単なことよ。だけどいまは言えないわ」

含みがあるように焦らした。

「なんだよ、それって・・・・・」

不服そうに言葉に詰まった。

「そうね、それだったら今夜付き合ってくれるかな。お酒をご馳走して欲しいの。そのとき話してあげるから。それでいいかしら。そうそう、あなたのおごりでさ」

「ええ、それはないよ。割り勘ならばなあ・・・・・」

「なに、けちなこと言っているのよ。さっきの約束ごと、忘れたわけではないわよね。まさか口から出まかせの、嘘ということなのかしら。もしそうだとしたら、あなたの人生が台無しになるかならないかの瀬戸際なのよ。それをけちってどうするの。分かったわね」

「ううん、森下さんにそこまで言われちゃ、いやだとは言えねえよな。ああ、俺の不用意な発言が自分の首を絞める羽目になってしまった。後悔先に立たずの心境だな」

「 なに、ぐずぐず言っているのよ。男らしくないわね。いいわね」

「はいはい、分かりました。おごればいいんでしょ。おごれば」

「そうよ、それじゃ今日は、部長と同じく定時で仕事を終わらせるのよ。分かったわね、吉田君!」

「ちぇっ、分かったよ。定時で上がればいいんだろ。部長と同じによ。弱みを掴まれた男は辛いよな」

半ば諦め観念するように応じた。そして、定時で終わらせるための仕事の段取りをし始めていた。そんな気乗りのしない吉田の様子を伺いつつ、正木が言葉をかける。

「まあまあ、仕方ないじゃないか。吉田君、君が蒔いた種だろ。丸く納めるためには、森下さんの要望を受け入れなきゃなるまいて。これでセクハラ発言を人事部に訴えないでくれるんだ。有り難く彼女を夕食にお誘いしなければな。そうだ、仕事の方は俺に任せておけよ。気象予報の最終打ち合わせも、部長のお計らいで、ほぼ無修正で報道できることになったし、私一人で最終原稿の方は充分こなせるから安心してくれていい」

正木が、吉田に促した。

「とほほほ・・・・・。それじゃ、課長に甘えさせていただき、今夜は森下さんとデートさせていただきます」

仕方なさそうに吉田が、森下の半ば強制的な要求を飲んでいた。

そんな部下たちの出来事など眼中にないのか、はたまた話し合う内容など耳に届かなかったのか、牛田はとにかく早く仕事を片付けもえの下へと飛んで行きたかった。牛田の性欲は桁外れにすごい。精力的に仕事に向っているように見えるが、まったく身に入っていなかったし、没頭しているようにパソコンに向かい、なにやらキーボードに打ち込んでいるように伺えるが、時々指が止っては視線が天井に向かい大きく息を吐いていた。

それも、そのはずである。

パソコンの画面をみていると、何時の間にかもえの肢体が脳裏に浮かび上がっては、なまめかしく動き回る。終いにはパソコン画面のなかで活字に変って、彼女の裸体が踊っていた。

はっと気がつくと、顔が赤くなっている。正木らに気づかれまいと手のひらで頬を叩いては、背筋を伸ばしパソコンに向いなおす。そして、気を入れなおし仕事をする振りをして、時間の過ぎるのを待った。

ようやく、終業のチャイムが鳴る。

タイミングを計り、牛田が気もそぞろに告げる。

「それじゃ、今日は定時で上がらせてもらうから。正木君、後はよろしく頼むよ」

浮き上がりようになる足を押さえつつ、そぞろ席を立った。

「失礼致します。今日はゆっくりとご養生して下さいませ」

正木が起立し、送るべく頭を下げた。

「それじゃな」と言い残し、牛田は部屋を出て行った。

すると、部長が去るのを確認し、森下が声をかける。

「さあ、私たちも出ましょうか」

吉田をせっつく。

「そうだ、吉田君は森下さんとデートだったな。二人で楽しんできてくれたまえ。お疲れ様でした」

正木が笑顔を作り促した。

「さあ、吉田君。行くわよ。お先に失礼します!」

森下にせっつかれ、吉田がけだるそうに席を立つ。

「なにを、ぐずぐずしているの。早く行きましょう」

吉田の手を引っ張り、急かすように部屋を出て行った。正木は顔をほころばせ、急く二人を見送った。

「なんで急ぐんだ。そんなに慌てることなんかしなくたって。別に急ぐわけじゃないしゆっくりでもいいじゃないか。なあ、森下さん。それに俺の手を離してくれないか」

吉田が、急く森下に不服そうに告げた。

「あらいけない。気がつかずご免なさいね。でも、いいじゃないの。こうして手を繋いで歩くというのも。なんだか、本当の恋人みたいな気持ちになってきちゃうから。どう、吉田君。このまま手を繋いでいてもいいかしら。それとも、腕組みしてもいいかしら?」

「うんまあ、俺には負い目があるから。森下さんから頼まれちゃ断るわけにはいかないよな。そんなことしたら、セクハラ発言をぶり返されて、えらい目に合う可能性があるから、ここは素直に従っておくよ」

「そう、それならそうさせてもらうわ」と言いつつ、繋いでいた手を解き吉田の腕に絡み付けていった。

「あれ、手を繋いでいるんじゃなかったんか。腕組みするとは気がつかなかった。まあ、どちらでも同じことか」

森下が急ぎ足になると同時に、絡みつけている腕に力を入れる。すると、森下の胸が吉田の二の腕に当たってきた。ふくよかなふくらみが吉田を刺激する。さらに森下の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。思わず腕に力が入った。

「痛、痛いわ。吉田君、そんなに力を入れたら私の腕折れちゃうじゃないの」

「おっと、いけねえ。つい力が入ってしまった。悪かったな・・・・・」

照れ臭そうに腕の力を抜いた。すると、甘え声で森下が吉田に打ち明ける。

「急ぐ理由を、話してあげるわ」

「おお、そうしてくれるか。今夜はたっぷり時間があるんだから、そんなに急ぐこともないはずだからな」

吉田が、森下の顔を伺う。

「それじゃ、これから部長を尾行するわよ」

「えっ、なんだって!」

驚き足を止めた。構わす森下が急く。

「さあさあ、急がないと見失ってしまうわ」

腕を引く森下に、吉田が不快感を表わし尋ねる。

「部、部長を尾行するって、どうしてそんなことするんだ。部長は自宅に帰えるだけだろ。そんなことしたって、しょうがないじゃないか」

「なに言っているのよ。部長がこのまま、まっすぐ家に帰るわけないでしょう」

「ええっ、それってなんだよ」

「決まっているでしょう。あなた昼間、部長のなにを見ていたの。なんにも気がつかなかったわけ?」

「なにが、気がつかなかっただ。なにかあるのか?」

「そうよ、だからこれから部長の後をつけていって調べるんじゃないの。あなたも鈍感ね。それじゃ、種明かししてあげるわ」

「おお、種明かしでもなんでもしてくれ。聞いてやる。ははん、それを肴に酒を飲むというのか。森下さんも趣味が悪いな。そんなことするから、男が出来ないんだよな」

「あら、吉田君。なにか私の悪口言ったかしら?」

「あいや、なにも言わないぞ。森下さんのことなんか、なんにも喋ってなんかいるもんかいな」

慌てて言い逃れた。すると、懐疑的に疑う。

「そうかしら。聞き捨てならないこと言ったような気がしたけれど。まあ、いいか。そんなこと気にしていたら、それこそ部長を取り逃がしてしまうもの。部長が定時で帰る目的は、愛人と会うことよ」

「ええっ!愛人と会う。本当かよ・・・・・」

思いもよらぬ森下の言動に、言葉を失った。そんな吉田の驚きなど気にもせず続ける。

「あら、あなた。知らないの?」

「そ、そんなこと。俺、知らないよ。部長に愛人がいるなんてさ。てっきり疲れて家に帰るもんだと思っていたのに」

「あらあら、吉田君ってうぶなのね。そんなところが可愛いわ」

「なに言っているんだ。こんなときに。ところで、その愛人って何処の人なんだ?」

興味本位に尋ねた。

「まあ、それは。後をつけて行って、覗ってみれば分かるわ。でも、直接会うわけじゃないわよ。見つからないように窺うだけだから、それまでお楽しみにね」

「おっと、忘れていたわ。ただ、二人して並んで歩いていては、夜の道にそぐわないわね。それに尾行をするときは、人通りに紛れなくては駄目よね。先ほどのように、恋人同士のように腕を組んで歩きましょうよ。そうすれば、怪しまれないから」

森下の誘いは嫌ではなかった。先ほど腕を組みし、ほのかに感じていたことを思い起していたが、照れくさそうに跳ねつける振りをする。

「なんだよ、それって。別に離れて尾行すればいいじゃねえか」

「あら、吉田君。私に逆らう心算かしら。それだったら考えがあるわ。例の件を人事部に訴えてもいいのよ」

「ああ、それは困る、困るよ」

「それだったら素直に言うこと聞いて、腕組みして歩きましょ」

森下の手が、強引に吉田の腕に絡みついてくる。

「分かったよ。仕方ねえ、まったく辛いもんだよな。弱みを掴まれていると、いざというとき強権発動されるんだからさ」

言い訳しつつ、二の腕に押し付けられた森下の豊満な胸の触れる感触が、伝わる時めきを内心楽しんでいた。二人は密着し、牛田から少し離れ後をついていった。そうとも知らず、牛田はみわと密会し絡み合う情事のことをしか頭になかった。

「うふふ・・・・、今晩はねちっこく攻めてやるぞ。それと、何時もとちょっと変え焦らしを入れて、思いっきり高ぶらせておいてぶち込んでやるとしようかの。なんだか今日の俺は、何時もと違って異常な興奮を感じるぞ。一体どうしてだろうか・・・・・」

「妙に他人に見られているような気がするが、気のせいだろうか。いやいや、みわの肢体を想像していると高ぶってくるからだな。そのせいだろうて」

人息を感じてか後ろを振り返り、さらに周りを見回し特段変わりのないことを確認して、原因が自分の胸の内にあることに納得していた。

「それにしても思い浮かべるだけで、俺の下半身がこんなに固くなってきているんだからな。あの胸の膨らみ、絞られたウエスト。それになまめかしい尻といい、なんとも情欲をそそる罪な女だぜ」

歩きながら、そっと片手で股間を弄っていた。そして、午後六時頃にはイタリア料理のレストラン「クチュール」へと駆け込んでいた。逢いたさ一身で周囲に注意することなく、みわの待つテーブルへ向った。

森下、吉田が後に続いた。牛田に気づかれないように別のテーブルに着く。そして牛田らを覗い、森下が小さな声で告げる。

「ほら、見なさいよ。あの女が愛人よ」

視線で合図をし、吉田に覗うよう促す。

「部長の相手が、誰だか分かったかしら」

吉田が目を凝らし女の顔を凝視する。すると、突然吉田の顔が目を剥き、悲嘆の声が口を突く。そして身をかがめ呆然と覗き込んでいた。

「み、みわ・・・・・」

動揺し口ごもった。吉田の急変に気がつかず、念押しをする。

「どう、吉田君。部長が定時で帰った理由と、密会している愛人が何処の誰だか分かったでしょ」

そう言いつつ、興味本位に吉田の顔を覗き込んだ。ただならぬ様子に気がつく。

「あら、どうしたの。吉田君?」

「いいや、なんでもない。なんでもないんだ。森下さん、早くここを出よう。こんなところに居たくない」

そう言いながら、吉田は森下の手を掴んで強引に席を立とうとした。森下が慌てる。

「どうしたのよ。急に出ようなんて。もう少し様子を覗ってからでも遅くないんじゃないかしら。それにお腹も空いているし、食事していきましょうよ」

「いいや、すぐに出よう。ここには居たくないんだ。だから、森下さん出ようよ」

吉田の狼狽する目がせっつく。さらに森下の腕を掴み席を立った。吉田の異常さに圧倒され仕方なく従う。

「吉田君、なんだか分からないけど。しょうがないわね」

吉田は顔面を硬直させ口をへの字に結び、強引に森下を店外に連れ出していた。

少し歩いたところで、二人が立ち止まる。吉田の呼吸が荒れていた。蒼白になった顔面が引きつっていた。さらに森下の掴んだ腕を離そうともせず、目が血走っていた。

「どうしたのよ、吉田君。顔色が悪いわよ」

「・・・・・」

「なによ、どうしたの?」

心配そうに吉田の顔を覗き込む。すると、吉田が遮るように顔をそむけた。

「なんでもないって言っただろ。なんでもないんだ。さあ、帰ろう」

ふてぶてしそうに発し、森下の手を引っ張り歩き出していた。吉田の態度が急に変わったことに、森下は戸惑いを感じていた。何故、急変したのか原因が分からなかった。黙り急ぎ足て歩く吉田。引っ張られるようについてゆく森下。急変した原因がなんであるか分からないまま、吉田のなすがままについていった。

しばらく黙って歩く。

そして、森下が吉田の手を引き、立ち止まり尋ねた。

「どうしたのよ、急に怒り出してさ。なにかあったの。・・・・・もしかして、谷川さんって、吉田君と関係があるの?」

吉田は応えず黙っている。

「・・・・・」

その様子に森下は察知した。

「そうなの、そうだったの。これはとんでもないことをしてしまったみたいね。部長を尾行するなんて。それも私の悪知恵で、吉田君を巻き込み見せてはならないものを、見せてしまったんですもの」

「・・・・・」

「ごめんなさい、私がいけなかったのね。私がこんなことしなければ、あなたを傷つけることがなかったのに。本当にごめんなさい」

森下の顔が蒼白になり、吉田に詫びた。詫びてすむものでないことは、動揺し呆然とする様子を見れば分かった。けれど、詫びずにはいられなかった。吉田を奈落の底に落とし入れてしまったのだ。

「ごめんなさい・・・・・」

いくら詫びても、し尽くせない。まさか、吉田の恋人が田口部長の愛人だったとは、考えも及ばないことだったのだ。それを探偵ごっこのごとく、興味本位に吉田を強引に尾行の伴にしたなんて、許される行為ではなかった。

「吉田君、本当にごめんなさい」

森下は深く頭を下げて詫びた。すると、意に反し突然笑いながら吉田が叫ぶ。

「がははは・・・・・、俺も馬鹿な男だよな。よりにもよって、探偵ごっこに付き合って、興味本位に部長を尾行し、愛人が誰かを探ろうなんて、うすのろのようなことしてさ。逢い引き現場を押さえて覗き込んだら、こともあろうにみわが田口の愛人だったなんて。まったく笑えねえよな」

悔しいのか、それとも己の不甲斐なさに腹を立てているのか、夜空に顔を挙げ、涙を浮かべていた。

「それにしても、みわが部長の愛人だという現場を押さえちゃうんだから。疑うより安しだよ。これぞ現行犯だ。証拠のなにものでもない。わはははは・・・・・」

よろりと、吉田の身体が傾きかけた。

「あっ、危ない。吉田君!」

森下が抱えるように彼を抑えた。ちょうど抱き合うちょうな状態に、二人はなっていた。森下の胸が、吉田の顔にあたる。瞬間に、そのまま森下がぎゅうっと抱き締める。吉田の顔が豊満な胸の谷間に埋まった。

「ううう・・・・・」

涙腺が切れていた。森下の胸に涙が溢れていた。温かい涙が森下を刺激する。

「吉田君、ごめんね・・・・・」

抱える腕に力を込めていた。吉田の鼻腔に甘い香りが漂い、さらに脳裏を刺激するように森下の胸の膨らみが顔を埋め尽くした。みわを失った反動が女を求める欲望に変り、思わず森下を強く抱き締め、自ら顔を埋め込んていた。

周りのことなど気にならなかった。恥も外聞も、この現実の悲しみのなかに埋没していた。森下とて同様だった。他人の視線などより、犯した過ちに対する懺悔が優先した。慰め合う二人の横を、怪訝な顔つきで通り過ぎる人。はたまた興味深そうに垣間見る視線が射られても、一向に気にする様子などなく二人は大胆に抱き合っていた。

「み、みわ・・・・・」

寝取られた牛田に対する恨みなのか、己の不甲斐なさに悔しさが残るのか、嘘であって欲しいという未練なのか。嗚咽とともに名前を呼んでいた。

「うああん、あああ・・・・ん」

嗚咽が、森下の感情をくすぐった。胸の谷間に吉田の顔を呼び込み、頭を優しく、そして詫びるように撫でていた。森下の頬に詫涙が流れる。

「ごめんなさい。吉田君、ごめんなさいね。私が悪かったわ・・・・・」

吉田を強く抱き締めた。そして、意を決したように促す。

「さあ、行きましょう。いいところへ連れて行ってあげるわ。そしてこの私の胸で、あなたを慰めてあげるわ」

「ううん」

吉田がさらに顔を埋め頷いた。

二人は歩き出す。そして、近くのラブホテルへと吸い込まれていった。

そんなことになっているとは知らず、牛田は有頂天だった。愛人との食事もそこそこに、みわを連れ立って、偶然にも吉田らが入ったラブホテルへと消えていったのだ。



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