ラストレター

悟房 勢

第1話


 軽トラの助手席に揺られていた。運転をするのは慶治君だ。彼は、別の集落に住んでいる田中さんの息子さんだ。


 見た感じ、僕より三つ四つ下じゃなかろうか。口元をひねっていて、眉間にも皺を寄せている。いつもは不機嫌そうなのだが、今日に限っては少し怖い感じがした。


 お父さんの田中さんとは、この集落にあるただ一つのスナックでいつも顔を合わせている。慶治君はそのスナックに田中さんを迎えに来ていた。それが店のドアを開けるや否や田中さんに、僕を家まで送れと言いつけられる。


 彼もいっぱしの男である。仕事が終われば酒を飲みたいだろう。お父さんを連れて一刻でも早く家に帰り、カラカラに乾いた喉に冷たいビールを流し込みたいはずだ。


 それをも我慢させられて、しかも、よりによってこの僕を家まで送って行くことになろうとは。


 普段から僕を面白く思ってない慶治君にすれば腹立たしい話だ。田中さんも田中さんで、どんなに僕が酔っていても放置だったのに今日に限っては妙だった。そもそも僕は帰れないほど酔ってない。当然、僕は怪しんで、田中さんの申し出を断った。


 だが、思いもよらないことに、僕に賛同するはずの慶治君がなぜか、「仕方なねぇな」と簡単に了解した。二人はよく親子喧嘩をする。一言二言、言い合ってもよさそうなのだが、この時ばかりはやはり妙だった。


 僕の家は川を渡った森の中にある。緩やかな坂を少し走り、道から逸れてすぐの一軒家だった。


 森を走る軽トラの荷台には、僕の自転車が詰まれている。この自転車で普段は森を下り、橋を渡ってスナックに通っていた。もちろん帰りは充填式ライトの明かりを頼りに、坂道に逆らって自転車を押すことになる。田中さんも、鈴木さんも、山本さんもそれは知っていた。


 この三人はいつも、入口付近のカウンターに並んで座っていて、ママさんと話し込んでいる。僕はというと、席を三つぐらい離した端っこで楓ちゃんと向かい合う。


 田中さんらが僕を『作家先生』と呼ぶとき、決まって僕は弱っていた。創作に行き詰まったり、筋を考え込んで無口になったりしていると、半分馬鹿にするようにして田中さんらは僕をそう呼ぶ。


 この数日間、カウンターの向こうにいる楓ちゃんは僕から離れ、田中さんら三人とママさんの方にくっついていた。誰が見ても明らかに、僕らの雰囲気は悪くなっている。それで田中さんら三人は、僕を今日も『作家先生』と呼んでいた。


 そもそも僕は、楓ちゃん目当てにこのスナックに来た訳ではない。カップメンや冷凍食品を主食とする僕であったが、やはり、きんぴらごぼうとか肉じゃがとかが恋しくなる。食べ物にこだわっていると言うわけではないが、まともなものにありつこうとするなら川沿いに道を下って白川街道に出なければならなかった。


 楓ちゃんのスナックは、注文は出来ないけれど色々なものを出してくれた。ほぼ家庭料理だったが、結構色々な物が出てきて、居酒屋と変わりなかった。僕はそれを目当てに夕飯時になると自転車にまたがり森を抜け、川に出て、橋を渡り、スナックのドアを開けた。


 楓ちゃんとはそこで知り合った。その顔立ちからママさんの娘に違いなかったが、一旦家を出たのであろう、少し都会の匂いがした。アニメや映画、小説に興味があるらしく、エンタメにたいして持論を持っていた。


 すぐに意気投合した。ちょくちょく僕の家にやって来ては僕の書いた文章を見てくれる。感想を言ってもらったり、意見をしてくれたり、僕の創作に色々と参考にさせてもらっていた。


 酔っていたので気付かなかったが、わだちにハンドルが取られたようだった。軽トラはすでに舗装された道かられ、車体を右に左に揺らしていた。たちまち木々が失せ、視界が広がる。僕の家が月明りに照らされていた。


 家の前に車を横付けすると慶治君は、車を降りて荷台に向かった。僕も後を追うように降り行ったが、自転車は既に下ろされていた。そしてそこに慶治君が突っ立っていて、今まで僕に見向きもしなかったのにこの時だけは打って変わって、怖い表情で僕をにらんでいた。


「作家先生、あんたには田舎暮らしは向かない。悪いことは言わない、東京に帰りな」


 そういうことか。田中さんから聞かされていたのだろう、僕が楓ちゃんに何かしたかと勘違いしているようだ。慶治君はというと、すでに結婚していて子供も二人いる。もし結婚していなければ、と本人も考えたことがあったろう。楓ちゃんは田舎ではあか抜けていたし、可愛かった。


 無理だとなれば守りたくなるのが人情だ。田中さんにうながされた通り、慶治君は僕に東京に帰れと言った。ついでながら言えば、田中さんら三人とも奥さんを失っていて、独り身のママを奪い合っているという状況だ。


 ともかく、僕としては心外だった。楓ちゃんには何もしていない。触ったこともないし、悪口も言った覚えもない。ただ、彼女が何に怒っているかは察している。僕の書いた文章。それを読んだときに彼女は僕に言ったんだ。東京に帰った方がいいと。


 実を言うと、僕は遺書を書いていた。小説を一つ書き終わって心の余裕が生まれたのだろう。以前この家の主だったおばあさんは、孤独死だったそうだ。全く知らない赤の他人ではあったが、家を借りる際、そのことを知った。東京で、おばあさんの息子さんに聞いていたのだ。


 一軒家なのに家賃が安い。おぼあさんの死に方は苦しんだ様子はなく、雪の日、寝ている間に息を引き取ったのだそうだ。安らかに逝ったのだろうから家主としては、事故物件でないと言い切れる。だから、家賃が安いのは雨漏りがするとか、何か他に問題があるのだろう。住める家だといいがなと思いつつ東京の息子さんと高山で落合い、一緒にこの家に来た。

 

 入ってすぐに分かった。仏壇を除いて家財道具、食器や布団までおばあさんが死んだ時のそのまんまだった。彼が言うには、使ってもいいし捨ててもいい、捨てる場合はそっち持ちだ、である。


 確かに東京に住んでいれば、田舎の勝手も分からないし、これだけのものを片付けるのは一苦労だろう。それを、この僕に押し付けようという算段だった。


 無論、ちょっとは考えもした。けど、稼ぎが雀の涙だったから背に腹は代えられない。要は気持ちの問題だった。僕は、死んだおばあさんを遠い親戚だと思うようにした。そしたら何のことはない。家具や、食器のどれもこれも懐かしく思えた。


 ラーメン模様が描かれた縁(ふち)の欠けたどんぶり。―――休日のお昼にインスタントラーメンでは味気ないのでおばあさんが野菜炒めを乗せてくれたなぁ。


 模様が入った大きいガラス鉢。―――夏になるとたっぷりの冷麦に、氷を沢山浮かべて皆でつついたなぁ。


 そんな空想ゲームを日々続けていると面白いもので、正解を知りたくなってくる。おばあさんの死に方も息子さんが言っているだけで実際は、どういう風に逝ったのか分からない。ひるがえって、自分の立場を考えてみた。僕が死んだらどうなるだろう。この家は事故物件になるのではないだろうか。


 人間どういう死に方をするか分からない。事故なのか、あるいは病気なのか。モチを喉につまらせるかもしれない。そしてもし僕が死ねば十中八九、誰もがこの家を気味悪がるだろう。


 あまりにも寂しいではないか。ちゃぶ台に茶箪笥、戸袋に縁側。木々の間から見える月や星は格別だった。広くはないが庭の芝生も気に入っている。


 それで、遺書を残すことにした。


 僕は、東京でサラリーマンをやっている頃、東日本大震災で実家を失っていた。それから一年もたたない内に趣味で続けていた小説がネットのサイトで賞を取り、とりあえず僕は小説家の末席に加えられた。三十になる一歩手前で、良いことと悪いことが一辺にやってきたというわけだ。


 当時は東中野に住んでいた。サラリーマンを辞めたのもあって貧乏暮らしだったが、充実した日々を送っていた。人づての紹介を頼りに、出版社に飛び込み、営業し、仕事も貰っていた。


 とはいえ、マイナーな出版社であったからコアなジャンルの小説が求められた。ままならないのは仕方なかったとして、担当者がこう言うんだ。この小説は私どもの読者に合わないと。そして三人称で書き上げた小説を、一人称に書き換えてくれと要求してきた。


 そういうこともあって、自分の小説を失わないために好きな作家の小説は絶えず読んでおきたかった。当然、金はないので読みたい本があれば図書館に通うしかない。それが幸か不幸か東中野の図書館で、細川日向(ほそかわひなた)に出会うこととなる。


 ぶつかって、相手の落とし物を拾ったりとか、ならず者から助けたりとか、出会いには様式美みたいなものがあったりするが、面白いものでどうやら僕らの場合、本の奪い合いをしているようだった。


 読みたいと思っていた本がちょっと目を離したすきに無かったり、返却した本が棚に戻されたと思ったらすぐさま失せてしまったり。


 誰か同じ趣味の人がいるのだろうなと当時の僕は思っていた。それがある日、ふとしたきっかけで彼女だと分かった。僕が本を手に取ろうとしたその瞬間、「あっ」っという声がしたのだ。


 反射的に、僕はその声に向けて振り向いた。そこに細川日向が立っていた。Tシャツにデニムパンツのラフなカッコであった。髪は肩までで、うつ向いている。歳は僕より三つ四つ下に思えた。彼女は頬を赤らめ、大きな目を上目遣いに頭を小さく下げた。僕は手にある本を彼女に差し出した。


「どうぞ。僕はあなたの次でいいですよ」


 ちょっとドキドキした。紳士を装ったのは、彼女には悪い男だと思われたくなかったからだ。それはその後も変わらない。図書館で会うたびに挨拶をするように心掛けたし、図書館に行くにしても、近くのコンビニに駆け込むような服装はしなかった。


 趣味が同じだったのだから、図書館内での居場所はほぼ同じだった。幸いにも彼女は僕を悪い男だと思わなかったようだった。それにそもそもが、僕らは読みたい本がかち合っている。今日は何を借りるんですかとか、あの本は面白かったですよとか、挨拶だけでなくコミュニケーションも取る必要があった。


 とはいえ、もっぱら話しかけるのは僕の方だった。が、向こうから話しかけられるようになるとそれからは早かった。僕は彼女を昼食に誘った。彼女はというと、断らなかった。


 話した内容は月並みだった。小説や映画がああだこうだ。基本、趣味が同じだから、「そうそう」ってなるし、話も膨らむ。けど、最大の収穫は彼女の連絡先を手に入れたことだった。それから映画に行ったり、ディズニーランドや上野動物園、国立美術館にも行ったりした。


 彼女は僕を尊敬の眼差しで見てくれていた。僕はというと、小説でなんとか食い繋いでいるだけの社会不適合者だった。だから、その眼差しがまぶしくて仕方がない。そこにきて愚にもつかない僕の小説を喜んで読んでくれている。あまりにも良い子なので僕には勿体ないとさえ思えた。


 度々僕の部屋を訪れていた彼女は、いつしか僕と暮らすようになっていた。


 僕は彼女と結婚するつもりだった。指輪はもう用意してあった。後は言い出すタイミングだけ。そんな矢先のことである。


 ある女が僕らのアパートを訪れた。日向の友達と称する女だ。折しも日向は夜勤で不在だった。彼女のいない部屋に女を入れるわけにはいかないと僕は、近くの公園に女を連れ出した。


 誰もいない街灯の下で、女は僕に懇願した。


「結婚する気があるんでしょ。結婚してくれって、早く日向に言って」


 涙ながらに訴えてくるのだが、その目は憎悪に満ちていた。女は、ある医者と付き合っていたそうなのだが、突然別れを突き付けられ、その医者はというと、日向に告白した。


 日向がどう返事したかは分からない。だが、告白されたことは紛れもない事実で、看護婦の間でも知らない者はいない。何せその医者は医院長の息子で、すこぶるいい男だったのだ。


「日向に求婚して、お願い」


 女は泣きじゃくって僕の手を取り、「お願い」を何度も繰り返し言った。お願い、をあまり連呼されると頼まれているようには思えない。まさしく女は、僕に日向との結婚をいていた。


 落ち着くのを見計らって、僕は女と別れた。だが、女の言葉、その目つきがいつも心に引っ掛かってしまう。そして、日向の答え。どんな返事をしたのであろう。あるいは断っていないかもしれない。考えさせて、と返事を引き延ばしたのかも。が、それはそれで仕方がない。そりゃぁ誰だって迷うだろう。僕なんかより医者の方が彼女を幸せに出来る。


 とにかく、忘れようとした。僕は小説に没頭し、現実逃避を図った。指輪は机の奥にしまわれ、彼女との会話は全くない。彼女は彼女で何も知らないから、小説に没頭する僕を気遣ってくれていた。


 ただ、忘れたいだけだった。僕は彼女を幸せに出来るのだろうか。


 そんなの、誰にも分かりゃぁしないのにその言葉は、頭の中から追い払おうとすればするほどしつこく舞い戻って来て、しかもそれは、死肉を食らって増える蠅のごとく日増しに僕の頭で増殖し、膨れ上がって、僕の考える余地を奪っていった。


 そして、なるべくしてなった。ひょんなことから彼女と口論になり、僕は医者ほど君を幸せに出来ない、と言ってしまったのだ。


 彼女は目を丸くして驚き、部屋に閉じこもってしまった。最近僕が一言も発しないのは創作が忙しいのではない、自分が原因だったんだと彼女はようやく気付いたのだ。閉じこもったその部屋から、すすり泣く声が一晩中、聞こえた。


 彼女にとって良いことをした、これが本当の愛なんだ。そう僕は、自分には言い聞かせ、彼女には謝りの言葉一つも掛けようともしなかった。


 創作に没頭し、自己犠牲の愛に酔っているその間にも、やはり彼女は部屋から出てこなかった。当然、病院は休んでいる。そんな数日を経て、僕と彼女の関係は解消された。僕が出版社に呼び出しをくらって出かけているすきに、彼女は僕の部屋から出て行ってしまった。


 僕はというと、仕事も何も手につかなくなっていた。出版社に八つ当たりしてもしようがなかったが、請けてきた仕事も期限通り終わらせる自信がないと断った。


 丁度、頃合いもよかった。と、いうか、破れかぶれだった。以前から考えていたように電子書籍一本で行こうと踏ん切りをつけたのだ。


 紙媒体は魅力的であったが、出版社が自らのラインナップを揃えるがためにこの僕が、あくせく働いてどうなるというのか。変わりはいくらでもいる。それに僕が書いた原稿一枚がいったい幾らになるというんだ。


 今思えば、まさに馬鹿としか言いようがない。その考えは、自分の実力がいかほどのものかということを置き去りにしている。とはいえ、僕は解放された。好きな小説を書ける。東京にいなくてもいい。それで僕は、東京を去った。


 風景を描写する時、それにふさわしい写真をネットで探す。僕は、その中で気に入った一枚を思い出していた。それは天国を描写する時に見つけた写真だ。日本にもこんな美しい風景があるんだなと思ったものだった。


 思い切って、そこに住もうと考えた。一面に広がる白い花。写真に見るその光景は、白い絨毯を思わせる平原とその向こうに霊峰白山、残りの空間は真っ青な空だけ。それは僕に、天国とはこういう風景なんだろうなと思わせた。終の棲家には打ってつけではないか。


 断っておくが、細川日向に対して未練もないし、悔いもない。すでに道はたがえたんだ。それに彼女には医者がついている。これから先、しっかりと自分の道を歩んでいくのだろう。僕も、せめてしっかりと生きて行かなければならない。






 僕の『遺書』は、このような文章がつづられているだけのものになってしまった。僕らしいとは言えば聞こえはいいが、これでは法的に効力が発揮できない恐れがある。だから、死んだ後の具体的な処置も記しておかなければならなかった。

 

 といっても、貯金は集落のために使ってくれというだけ。ともかく、通帳に挟んでおけば誰かが見つけてくれて処置してくれるだろう。そうと安直に考えていたその『遺書』を、望みもしないのに楓ちゃんに読まれてしまっていた。


 楓ちゃんはちょくちょく僕の家に来る。勝手に縁側から上がってちゃぶ台で麦茶を飲んで一休みし、僕が声を掛けなければ勝手に帰って行く。僕はいつも、出来上がった作品を印刷してちゃぶ台の上に置いていた。彼女に読んで貰って意見を聞きたかったからだ。彼女の指摘は的確だった。


 読んでいる間は、彼女をそっとしておくのがつねだった。様子は絶対に見ない。パソコンに向かい、知らないふりをしている。気を散らしたくはなかったんだ。折りわるく丁度、『遺書』がちゃぶ台の上に置かれていた。


 僕は幾つかのメールがたまっていたのでその処理に追われていた。彼女は彼女で決してモニターを覗き込まない。置かれたものだけを読む。彼女もまた僕を気遣ってくれたのだ。ふと、僕は『遺書』を置きっぱなしにしていたのを思い出した。


 そもそも『遺書』だから、いつかは人の目にさらされる。だがまだ、いくつかの点で熟考しなければならなく、作品としての完成度は低かった。現時点、人の目には耐えられるとは思っていない。僕は、メールをほっぽらかして振り向いた。


 はっと思った。水色のワンピース姿の彼女はちゃぶ台の向こうに突っ立っていた。目に涙をいっぱいにして僕を睨んでいる。下げられた両の手は太ももの辺りで強く握られていた。僕は、正直驚いた。


「えっ? どうしたの? 楓ちゃん」


 なぜ、怒っているんだい。


「佐藤さん! あなたは東京に帰った方がいい!」


 彼女はそういうと縁側を飛び出して行った。それから会っても喋ってくれないし、目も背けられてしまう。果たして、僕らの様子がおかしいと周りの方が気付き始めと、ある噂が飛び交った。どうやら僕が楓ちゃんに悪さをしたらしい。


 今までは、仲が良かったから周りは静観してくれていたのだろう。それがこの様になってしまっては黙ってはいられない人も当然出てくる。それが田中さんであり、慶治君だった。僕としては何とかこの事態を収拾したかった。それには楓ちゃんがなぜ、あんなに怒ったか、その理由を突き止めなければならなかった。


 例えばだ。楓ちゃんが僕を好きなのに、僕には好きな人がいる。僕はまだ、細川日向を忘れられない。そう誤解して怒ったのか。なら、ちゃんと、未練はないと書いてあったはずだ。それに、そもそも楓ちゃんが僕を好きだとは限らない。


 もし万が一、僕のことが好きだったとして、それはそれであの場合、あんなに怒るだろうか。いきなり東京に帰れ、である。


 普通なら、楓ちゃんは先ず僕に色々と尋ねてみて、あたかも相談を乗るかっこで僕から話を聞き出し、最後に「東京に帰って細川日向さんにもう一度会って話をしてみなよ」となるはずだ。


 つまり、これは簡単な話じゃないってことだ。僕はいきなり窮地に立たされた。気分は最悪で創作なんか手につかない。ここに住みたいのは最低条件だったが、楓ちゃんと仲良くやっていきたい気持ちもあった。僕は、楓ちゃんが嫌いではない。


 一睡もできなかった。そろそろ日の出の時刻だろうと僕は家の裏道を歩いた。森の坂を上って行くとそこにはソバ畑が広がっていた。


 標高千二百メートルの高地に、六十ヘクタールの広大な土地。昭和四十年代に開かれた耕地だった。最盛期には二十世帯が農業に従事していたが、今やたった六世帯ほどがキャベツや大根を作っている。


 人手不足もあってか、ソバが育てられていた。近年、田んぼの世話をする人が減り、土地を遊ばせておくのはもったいないとソバを蒔く農家が増えたと聞く。それと同じことがこの地でも起こっていた。


 悲しいことであるが、この地に限っては、僕はありだと思っていた。この風景に焦がれてこの地にやって来た。


 黒く染まった山の稜線が赤みを帯びいたかと思うと日が差す。それは射るように鋭い光線で、次々と周囲に色を与えていく。本来の姿を取り戻していく空や雲や木々や草花。一面広がるソバ畑は大地を覆う白い絨毯の様であった。

 

 ソバは一つの茎から複雑に枝を伸ばし、そのそれぞれに小さな花を無数につける。それが広大な土地に群生しているとなればその光景は壮観というほかない。そこに高地特有のもやである。


 大地に広がる白は、もやに淡くにじむようで、しかもその花の一つ一つが水滴をまとう。花はまるで王冠に宝石が散りばめられたようで、それが鋭い朝日に照らされる。いたる所で光が反射し、靄で覆われたソバ畑は一面淡いきらめきを放つのである。


 幻想的な風景だった。霊峰白山を背景に見ると神々しいとも思える。かつて松尾芭蕉も与謝蕪村も、小林一茶も、ソバの花を詠(よ)んだ。中国の白楽天もその美しさに心惹かれ詩を作ったとされている。ソバの花は美しさだけでない。何か特別の魅力を兼ね備えていた。


 僕は、ソバ畑のあぜを進んでいた。六十ヘクタールに及ぶ耕地にはその真ん中を突っ切る舗装された道路があり、八本の樹があった。五本、三本と二組に分けて植えられている。あぜからその道路に出ると僕は、三本の方の下に腰を下ろした。


 実は、あの『遺書』は真っ赤な嘘であった。といっても全てが嘘ではない。東日本大震災で実家や家族を失ったのは間違いではなく、東京でサラリーマンをやっていたことも、この風景が好きでここにやって来たのも本当だった。だが、細川日向のくだりだけが全くの創作だった。


 なぜ、そんな嘘を着いたのか。『遺書』を書こうと思った時、どういう風に書こうか考えた。けど、僕には何もなかった。津波が僕の心までごっぞりさらって行って、残ったのは荒野とガラクタだけだった。


 そのことを書こうとも思った。だが、あまりに残酷過ぎて、それは明らかに逆効果だった。この世に恨みがある僕が幽霊になって出て来ると、かえって皆に思わせてしまう。そうなれば、おばあさんが残してくれたこの家は誰も寄り付かず、結果、家も家具も食器も風雪に耐えきれず、それこそガラクタになってしまう。

 

 さて、どうしたものか。僕は夜、一人縁側で月を眺めた。そのまま書くことが出来ないというのが辛かった。つまりそれは、僕の想いを誰にも伝えられないってことだった。

 

 独りぼっちなのを実感させられてしまった。心は沈むばかりで、知らない間に僕の目から涙が溢れ出していた。


 結局、得意な創作に頼る他なかった。ネタはロマンチックな、というか、恋愛沙汰で都落ちするのがいい。


 それも不倫とかじゃなく、当たり障りがないところで物語を創作しよう。それが『遺書』という作品だった。デティールを出し、主人公の心理を深く掘り下げる必要があったが、どの程度でそれを止めるか悩み中だった。あまりに小説小説し過ぎたらかえってリアリティーをそこねてしまう。


 けど、全くの駄作だった。楓ちゃんは怒ってしまっていた。僕はまた、別の土地に移らなければならない。名残惜なごりおしかったが仕方がなかった。


 少しだるくなってきた。徹夜慣れはしているはずなのに、ことのほか体が重たかった。丁度、気持ちいい風が吹いてきている。少し休もうかと思う。






 どれくらい寝ただろうか、五本樹のところにワンボックスカーが止まっていた。カップルのようで笑い声が聞こえて来た。二人は、クーラーボックスやらバーベキューテーブルやら、車のバックドアから仕切りに運び出している。僕はまた、眠りに落ちてしまった。


 再び起こされてしまった。ああでもないこうでもないと二人はしゃべくりながら、ひっきりなしにアウトドア用品を車に運び込んでいた。エンジンをかけているので車のオーディオなのだろう、起こされたのはその音楽が原因のようだった。洋楽の、それもヒップホップだ。


 完全に目が覚めてしまった。ぼーっとした頭と、押さえられない怒り。僕は、その葛藤を抱きかかえながら彼らの様子をうかがっていた。やはりゴミは置いて行くようだった。


 このソバ畑は、その景観のすばらしさから観光地として開放されていたのだが、以前は立ち入り禁止区域になっていた。


 心無い訪問者のせいである。獣害対策でぐるりを電柵で囲っていたのをソバの花見たさで彼らは入ってくる。不法侵入でさえ罰せられるのに、そのうえ柵の扉を閉めて行かない者がいた。


 一度入った猪やら鹿やらが、出口が見つからずに暴れ回る。作物がどうなるかは想像にかたくない。まさに人害であったが、猪やら鹿と変わらず作物を勝手に持って行くやからもいた。逆に、要らなくなった物を置いて行くという輩もいる。ゴミを詰めたコンビニの袋やら缶やらペットボトル。ワンボックスカーのアウトドアカップルは今まさに生ごみを置いて行こうとしていた。


 僕は二人に近寄って行き、大声で注意した。彼らはビックリし、忘れていた! みたいな小芝居を見せ、男の方がすいませんと謝った。そして一言こう付け加えた。


「あまりにも臭かったもんで」


 ソバの花はその見た目からは想像もできないほどの臭い匂いを放つ。例えるならば、肥溜(こえだ)めの匂いだ。あるいは、生ごみが腐った匂いだといってもいい。だから、集落近くの田んぼを転用して植えられている場合、花の咲く頃には住民から多くの苦情が農家へと寄せられる。


 つまり、カップルの言い訳は臭かったから生ごみに気付かなかったということだ。ワンボックスカーは去って行った。それを呆然と見送った僕はふざけんな、もう二度と来るなよと思った。が、ふと、自分をかえりみた。僕も、楓ちゃんや慶治君に東京へ帰れと言われた。


 ふつふつと、何やら怒りが沸いてきた。僕は、ワンボックスカーの彼らみたいに悪いことをしているわけではない。ここを去るにしろ、それだけは分かってもらいたかった。『遺書』で嘘を書いたのが罪ならば、真実を描いてそれを晴らすまで。


 そう思うや否や、僕の脚は家へと向いていた。それから僕は、丸一日かけて自分の物語を書き、丸一日かけてそれを推敲した。そして、楓ちゃんのいるスナックへと向かった。






 スナックに着くと、その小さな建屋から歌声と伴奏が漏れ出していた。しかし、こんなところで演歌とは。全く知らない人が聞くと耳を疑うだろう。僕も驚いたものだった。まるで山向こうで盆踊りが催されているようである。


 何にもない山間やまあいにポツンとある一軒のスナック。昼間来るとよく分かる。欠けたモルタルにはげた塗装、看板は少し傾き、配線がむき出しになっている。


 ずっと昔は繁盛したそうだ。農業が盛んで世帯数がずっと多かった頃は会合や仲間の飲み会が頻繁に行われたそうだが、今や自転車が二台。鈴木さんと山本さんの物だ。言うまでもなく田中さんは、白川街道を下った別の集落に住んでいて息子さんが送り迎えしている。


 ドアを開けると歌声はピタリとやんだ。伴奏だけ流れる中で僕は田中さんらの後ろを通り、奥の、いつもの席に着いた。カウンターの向こうをママさんが僕を追うようにやって来た。


「今日あたり来るかと思った。佐藤さんの好きなキャベロールツ、作ったから」


 ママさんが楓ちゃんを見た。楓ちゃんは田中さんらの方に居て、こっちに目を向けるでもない。ママさんとの会話も聞こえてるであろう、だが、聞こえていない風を装っている。


 田中さんがその楓ちゃんに小声で言った。


「大丈夫。行くことない」


 僕も聞こえてない風を装った。


「いや、ママさん、すいません。今日はゆっくりしていくつもりはないんで。焼酎を一杯だけ貰えませんか」


「あら、そうなの。せっかく作ったのに」


 ママさんが残念そうに焼酎を作った。僕は、グラスをかき回すドラマーに視線を落とし、氷が鳴るのを聞いていた。ママさんが、「はい」ってグラスを僕の前に置くと、僕はすぐさまそれを取ってグイっと一気に飲み干した。


「これを楓ちゃんに」


 出来立てホヤホヤの原稿だった。タイトルは『月にしか言えなかった』である。






 二日続けてほぼ徹夜だった。なのに、その日の夜も寝られなかった。また、いつものように朝日を待って、裏手の山道をソバ畑に向けて上がって行く。


 山際が赤く染まっていく。稜線から日が射すその光景は、何度見ても飽き足らない。広がる白い花の絨毯や赤く染まる空の模様。それが刻一刻とその様相を変えていく。ここにいるとやはり心が落ち着くようだった。やっと眠気が襲ってきた僕は、体の要求に逆らうことなくそのまま眠りに落ちていった。


 目覚めれば、楓ちゃんがいた。白いワンピースで僕の横に座っている。僕はまぶしさに目をこすりながらゆっくりと身を起こした。


「あれ、私の話なの」

「私の話?」

 

 何の話だろうか。


「初めに見せてくれたやつ。『遺書』。わたし、ずっと待ってたんだ、わたしの彼」


 はっとした。楓ちゃんが僕を怒った理由わけ。それは心ならずも彼氏からの離別。何かすれ違いがあったのだろう、楓ちゃんの彼は楓ちゃんを信じ切れなかった。だが、楓ちゃんは彼を信じている。

 

 楓ちゃんが言った。


「きっと細川日向さんも東京のどこかであなたを待っていたはず。それであなたに帰れと言ってしまった」


 知らず知らずのうちに、僕は楓ちゃんを傷つけてしまっていた。楓ちゃんは『遺書』の“僕”ではなく、細川日向の方に共感してしまっていた。


 僕はなんてことをしてしまったんだ。


「ごめん、思い出させてしまって」


「いいえ、いいの。結局わたしの彼は来なかったわ」


 だが、楓ちゃんはニコッと笑った。そして、言った。


「でも、あなたがここに来た」


 どういう意味でそう言ったのか。少し混乱した僕であったが、冷静になって考えた。つまり、それはそういう意味でしかない。僕は、その言葉の意味を噛み締めた。するとどういう想いが僕の感情を揺らしたのだろう、目から涙が溢れ出てきた。それから僕は、声を上げて泣き、気が付けば楓ちゃんも泣いていた。






 あれはもらい泣きだったのだろうか。ここまで長々と書き続け、いたずらに紙を費やしてしまったのを許してほしい。あの数日間の出来事は、僕の物語には絶対に欠かすことのできない場面だったんだ。言うまでも無く君は、真実の僕を知っている。あの涙はきっと君のやさしさだったんだと思う。真っ直ぐな君は、月を眺め一人泣いていた僕を、温かく包んでくれて、すさんだ僕のこころをその涙でうるおしてくれた。


 覚えているかい。いつだったか、二人でソバの花を見ていた時だった。君を見て、綺麗だと言ったら、君は自分のことだと思わず、こう返したんだ。


「あなたは天国の風景だって言ってた」


 その答えに多分、僕は微笑んだのだと思う。


「ああ、そうだな。美しい場面を描くときには今もここを想像して書いている。本当はちょっと臭いけど」


「ええ、だから、ここは天国じゃない。私たちは生きているんだって。この匂いはそれを教えてくれている」


 この時すでに僕は君と結婚していて、君のお腹には新たな生命が宿っていた。東京にいた時分には、人の親になるなんて想像だにしていなかった。それを君は嬉しいことに、二つも、僕に幸せを与えてくれた。


 にしても、悠真も結衣も、元気だというか、やんちゃだった。色々なことがあったけど僕は、ただただオロオロするばかりで君に謝ってばかり。その子供たちも健やかに育ち、立派に巣立って今や人の親だ。すべてが君のおかげだ。僕は、君がいなければずっとガラクタだった。


 春が来て夏が過ぎ、秋が来て、冬となる。君と行くところはどれも綺麗だった。新穂高ロープーウェイも平湯大滝も北アルプス大橋も。


 君は僕の人生に鮮やかな色を与えてくれた。貰ってばかりだったけど僕は、君に何が出来ただろうか。君のことだから居てさえしてくれればいいと言うだろう。振り返ると僕は、何も出来なかったように思う。ごめんよ。僕はただ、ずっと君の笑顔を見ていたいだけだったんだ。










愛する妻、佐藤楓へ


2050年8月1日 記



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