蜜を湛えて枯れていく

悠井すみれ

アングレカム・セスキペダレ

 バラ園近くの売店で、弓佳ゆみかはアイスコーヒーを注文した。一月の寒いさ中だというのに。紙コップを持つ指先の白さが心配で、思わず尋ねてしまう。


「冷たくない?」

「温室の中は暑いもん」


 ホットココアを抱えた私に、弓佳はさらりと笑う。冷気に負けずにすっと伸びた背筋。弧を描く、形良いピンクベージュの唇。高校の時から変わらない、この子は寒中に凛と咲く椿か冬薔薇だ。近づき難い高嶺の花、なのに不思議と私とは付き合いが続いている。


 噴水のれた薔薇園を抜けて大温室に入ると、果たして、もわりとした南国の熱気が私の眼鏡を曇らせた。慌ててレンズを拭う私を、ほらね、と言わんばかりの表情の弓佳が笑う。


 ふたり並んで緑滴る通路を進む間、ほかに人影は見えなかった。松が明けてからの「初詣」とあって深大寺じんだいじは比較的空いていたし、さらに神代じんだい植物公園まで足を延ばす人は稀なのだろう。暖を求めるなら、参道に並ぶ蕎麦屋でお汁粉でも啜れば良い訳で。案の定というか、温室の中心に位置する休憩室は、私たちの貸し切りだった。


 椅子とテーブルが並ぶ休憩室に、弓佳と向かい合って腰を下ろす。私たちの視線の先には、ちょうど蘭室が望める。外の寒さを知らずに咲く花の中、特に私の目を惹くものがあった。白い尖った花弁を星型に広げた、大きな花。茎に紛れてすっと下方に伸びた長い緑の管は、きょというそうだ。花の後部から垂れ下がって、その先には蜜が湛えられているのだとか。


 その花は、前にも見たことがあった。名前は、確か──


「──アングレカム・セスキペダレ……」

「ダーウィンの蘭、だね。高校の時にも見た……懐かしいね」


 記憶から掘り起こした長い名前に、弓佳はさらりと付け足した。適当な相槌ではあり得ないコメントに、思わず、驚きの声が漏れる。


「覚えてたんだ」


 そう──この花を以前見たのも、ここだった。そして、その時も私は弓かと一緒だった。


 高校の校外学習の訪問先が、この植物公園だったのだ。試験や行事の合間の何の都合だったか、今日と同じく冬の日だった。怠惰な私たちは寒い屋外を忌避して、暖かい温室に逃げ込んでいた。他愛ないおしゃべりに興じる中で、誰かがこの白い蘭に、異様なほどに長く伸びたきょに目を留めたのだ、と思う。


 案内によると、この花の長いきょを見たダーウィンが、その蜜を吸える長い口吻を持つ蝶がいることを予言したのだということだった。当時はあり得ないと笑われたけど、彼の死後、実際に異様に長い口吻を持つ蛾──キサントパンスズメガが発見された。環境に合わせて生物が姿を変える、進化論を証明する実例となったからダーウィンの蘭と呼ばれるのだ、とも記されていた。

 蘭はその蛾がいなくては受粉できず、蛾はその蘭からでないと蜜を吸えない──互いに互いの生命を握る進化を遂げた両者は、まるで運命の相手だった。恋に恋する年ごろだった私たちは、その発想を喜んで、少し盛り上がった。そんな中、弓佳は私の耳元に囁いたのだ。


『まるで私たちみたいだね』


 耳の産毛をくすぐった彼女の声、悪戯っぽく笑う息遣い。粟立った首筋。温室に満ちる土と水と緑の匂いが、いっそう生々しく感じられた。絡ませ合った指、じわりと滲んだ汗の感触。


 みんなみんな、覚えている。あれから倍近く年を重ねた今でも、頬と耳が熱くなるほどだ。誤魔化すために、私はココアを口に運ぶ。弓佳との間に、せめてもの障害物を設置しようと。


「忘れないよ。ずっと同じ気持ちだもん」


 それでも、目を覗き込むようにして意味ありげに微笑まれると、ココアのコップも眼鏡のレンズも盾にはならないのだけれど。

 逃がさない、とでも言いたげな、この眼差しに、微笑みに。慣れることなどできはしない。何年経っても、幾つになっても。弓佳は綺麗で近づき難くて、なのになぜか私と親しい。


 私たちは同性愛者ではない、と思う。弓佳は大学で知り合った彼氏と、卒業して二年後にあっさり結婚した。一方の私は、今に至るまで男性とも女性とも交際という意味で付き合ったことはない。他人の肌や体温や粘膜を感じたのは弓佳のそれらに対してだけだ。


 温室の蒸し暑さと、ココアの甘さが思い出させる。ファーストキスの味、なんていう恥ずかしくも馬鹿馬鹿しい概念を。実のところは甘くもなく酸っぱくもなく、せいぜい直前に噛んでいたミントのタブレットの味だっただろう。ただ、それでも初めての記憶は鮮烈で特別なものだ。

 夏期講習が終わった後の、誰もいない教室。空いた窓から聞こえる蝉の声、翻るカーテン。頬を上気させた弓佳の顔。唇を拭う指、手首を彩るリストバンドの色。それらの感覚と、伴って蘇る感情を総括すれば、ひたすら甘酸っぱくて懐かしい。幼い私たちにとっては、軽く唇を触れ合わせるだけのことが、一線を越えるに等しい、あるいはそれ以上の刺激だったのだ。


 女子高時代のそんなこんな──唇を重ねたりとか、ふたりで手を繋いだり顔を寄せ合ったりとか──は、思春期ならではの熱や好奇心を手近で満たしたというだけだろう。次第に大胆さを増した私たちは、舌を絡めるキスさえ試すようになった。ただの色恋沙汰ではない、特別な関係を気取っていただけ。少なくとも私はそうだったし、今も違うとは言い切れない。


 アングレカム・セスキペタレどキサントパンスズメガ。本当に、私たちによく似ている。


 華やかな花のようでいて、蘭と蛾の関係で言うなら、弓佳は蛾のほうだった。地に根を生やした私は待つだけで。弓佳は、いつも気まぐれに飛んではひらひらと舞い戻り、私にねだる。勉強でも、部活の人間関係の仲裁でも、職場や家庭の愚痴でもそうだった。都合の良い時にはねを休めては、私の蜜を、時間や気力や好意を吸い取っていく──そんな、干乾びるような不公平感を覚えながら、私は少しずつ少しずつ、きょを伸ばしていったのかもしれない。弓佳という蛾が喜んで口吻を伸ばすように。また、来てもらえるように。


 今日もきっと、弓佳は私から吸い取ろうとしているのだろう。ただの初詣のはずがない。わざわざあの時と同じ植物園で、偶然にあの花が咲く時期だったなんて。


「私が神頼みなんてね。こういうの、信じないほうだったんだけどなあ」

「そういうのも大事なんでしょ。ストレスの軽減というか、気の持ちようが」


 弓佳が本題に入ろうとしているのに、気付いているから、私は身構えて、慎重に言葉を選ぶ。視界の端にアングレカム・セスキペダレの白い花、その長いきょを映しながら。温室の高い湿度に、ぬるま湯の膜につつまれたような気分。


「気持ちだけじゃね。私、自分に問題があるなんて思ってなかった」


 自嘲して目を伏せる弓佳は、確かにらしくない。何ごとも最終的には思いのままにするのが弓佳だった。でも、この歳になると分かる。そうは行かないこともたくさんあるのだ。特に、授かりものと言われるようなことは。

 深大寺は、縁結びで有名だから、もしかしたら弓佳の夫やその実家からの、圧力めいたこともあったのかもしれない。弓佳がそんなことに思い悩むなんて、信じられないような気もするけれど。


「卵子提供じゃないとダメみたい」

「そう」


 さりげないようで、弓佳は私を狙うように睨んでいる。私は、気付かない振りをする。


「大変だね」

「本当に。精子と違ってドナーもなかなか見つからないし」


 ピンクベージュの唇で、弓佳はストローを咥えた。私にはそのストローが蛾の長い口吻に見える。蘭の距の奥深くに潜んだ蜜を暴くための。弓佳はそれを、私のお腹に突き立てようとしているみたい。上目遣いで、吸わせてちょうだいと言ってるみたい。


 私たちは、アングレカム・セスキペダレと蛾みたい。互いが互いの運命の相手。でもそれは、両者が対等であるということでは決してない。


 私は、たぶん結婚も恋愛ももうしない。できない。弓佳との思い出があまりに鮮烈で大切で、それを薄れさせたくない。弓佳は、それを分かっている。だから代わりに、と言いたいのかも。

 蘭が蜜を吸う蛾に花粉を託すように、私の卵子を弓佳にあげる? 弓佳の子宮で育んでもらう? 私の遺伝子を分けた子を、弓佳が慈しむ? それは素敵な考えだろうか。弓佳は、私がそう思うと信じているようだけれど。まったく惹かれないとは、言い切ることはできないけれど。でも、蜜を吸い尽くされた花は、枯れていくだけじゃないのだろうか。愛、みたいなものに殉じるなら良いだろうと、弓佳は言うのだろうか。


「身体の負担も、男の人とは違うんだろうしね」

「そう。こっちだって、誰でも良いって訳じゃないし……大変なの」


 本当に、と繰り返しながら、弓佳はもうひと口、コーヒーを啜る。ストローを咥えて。私のお腹の奥底の、卵子という蜜を狙って口吻を伸ばす。私だからこそ欲しいのだと、共依存の進化を辿った蘭と蛾になぞらえて、甘くねだる。そうされると、吸い尽くされても良い、それも悪くないと、思いそうになってしまう。


 でも、私はずっと密かに考えている。長い距の奥底に蜜を湛える蘭の花は、こんな進化を望んでいたのだろうか、と。世代を重ねるうちに、より深く、深く──隠していった蜜をどこまでも追う蛾の口吻は、恐ろしくはなかっただろうか。もちろん、虫や植物の生殖を、人間の感情で考えるのは間違っているのだろうけれど。でも、私は人間だから、思う。


 私は、怖い。弓佳に何もかもを啜られるのが。そうなったらそうなったで、喜んですべてを差し出してしまいそうな、自分自身が。弓佳は確かに私の特別で、彼女もそれをよく知っている。アングレカム・セスキペダレにとってのキサントパンスズメガ、あるいはその逆のように、離れがたい存在だと。恋や愛とは違う、特別な繋がりがあるのだと。弓佳はそれを突き付けるためにここに来て、その上で卵子提供の話を匂わせている。


 私は、嬉しい。弓佳が蜜を狙うのは私だけだから。彼女は友人も知人も多いのだろうけど、ここまですべてをさらけ出してあけすけに強請ることができるのは、たぶん私だけだ。ほかの人が相手では、弓佳はここまで弱みを見せない。そうなるように、長年かけて私が仕向けた。私は、花ではなくて人間だから、子孫を残すことは唯一無二の命題じゃない。それよりも、弓佳を捕らえていたい。


 だから──


「良いご縁があると良いね」


 私は、私と弓佳の間にシャッターを下ろした。当たり障りのない、相槌のような慰めの言葉で。愉悦を伴う冷酷な拒絶を、弓佳の仄めかしにどこまでも気付かない鈍感と装って。


「良いね、って……他人事みたいに」


 なじるように、というよりは不思議そうに。そして不服そうに、弓佳は呟いた。実際、他人事なのにおかしなことだ。私たちは互いに運命の相手なのだと、決して断ち切れない絆で結ばれているのだと、信じているのだろうか。なんて無邪気で可愛らしい。そんなことなら、とても嬉しいけれど。


「あの花──私とは違うんだよ」


 アングレカム・セスキペダレに目を遣って、呟く。日本の温室には、当然のことながら蜜を吸ってくれる蛾はいない。だから、星のように白い花弁を開いたあの花は、ただ咲いて枯れるだけ。子孫を残すことはないのは、私と同じだろうけど──でも、私には弓佳がいる。私から蜜を吸うことに慣れ切った、愛しい貪欲な蛾が。


「どういうこと……?」


 怪訝そうに眉を寄せる弓佳に無言で微笑んで、私は冷めかけたココアを啜った。


 沈殿した甘さと、少しの苦さの塊。それは弓佳への想いの結晶。私の蜜。喉を通って胃の底に落ち着くそれを、私は誰にも渡さない。渡したくない。弓佳にだって。種を結ばず、蜜を湛えたままで立ち枯れる。そのように生きて死んでいこう。弓佳が飢えていくのを、見守りながら。


 きょの奥底の蜜を追って、どこまでも口吻を伸ばしてしまった蛾は、花に拒まれても余所に行けない。満たされない飢えを抱えて、いつまでも私を求めて虚しく翅を羽ばたかせて欲しい。


 飛べない花には、蛾を追いかけることはできないけれど。繋ぎ止めて、ともに滅びることはできるから。それが、私と弓佳の運命になれば良い。

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