レッスン

真花

レッスン

 最後の一音を弾き終えたとき、うっすら汗をかいていた。

「よく弾けてるね。どんなイメージで弾いたの?」

 先生がグランドピアノの横から僕を覗く。自分でもよく弾けたと思う。

「甘い響きは、足りなさから来ると思うんです。心の真ん中に欠けているところがあって、そこの引力に抗いながら、愛する人を求める、そう言うイメージです」

「なんか、大人な世界だね」

 先生は微笑む。僕は頷いて、手を下ろす。

「そうかも知れません。だから、想像上の大人の世界の愛を、イメージしているんですね」

「もし、大人になったらこの曲はもっとよくなるってこと?」

「はい。今は具体的な実感のない世界です」

 先生は首を振る。

「それでいいのよ。今の十五歳のナユタ君だから出来るイメージがある。大人になったら同じものは出来ないから、今は今の、自分のイメージを大切にして」

「分かりました」

「じゃあ、今日のレッスンはここまで」

 僕は返事をして用意をする。防音室を出たら、大雨が打ちつける音がした。あらら、と先生の声。

「駅まで車で送ってあげようか? 今日はナユタ君で最後だし」

 そんなことを言われたのは初めてだった。

「いいんですか?」

「いいのよ。乗って行って」

 先生はどこからかもう車の鍵を取って来ていて、右手でもてあそんでいる。頬がいたずらっぽく緩んでいる。先生はいつか年齢を訊いたときに二十八歳だと言っていたがそれは嘘だと思う。多分もう少し上で、でも、吸い込まれるような気持ちに一緒にいるとなる。ふと近くに来たときにする甘い香りにくらくらする。僕はときどき、ピアノの練習のためにここに来ているのか、先生に会いに来ているのか分からなくなる。

「じゃあ、お願いします」

 ガレージにセダン。後部座席に乗ろうとしたら、「助手席に乗りなよ」と先生が言うのでそうした。

 雨音は激しい。

 開いたガレージの外は水の壁のようになっていた。

 車がその中に進む。ワイパーが高速で踊る。

 雨の音に遮断されて、僕達はまるでこの世界から封じられた二人のようだ。

「大人になったら、また新しいイメージであの曲を弾いてみて。そのときに今日のことを思い出したらいいな」

「分かりました。きっと弾きます」

 二人の声が透明に響く。

 僕達はそれから黙って、車は進んで、踏切を越えて、また進む。

 雨足は強いまま。僕は大人になった自分を想像してそれが全然うまくいかなくて、先生を頼る。

「大人になるって、どんな感じなんですか?」

 先生は車を停める。

「ちょっとこっち向いて」

 言われた通りに先生を見ると、静かに、素早く、僕の唇にキスをした。

「これが大人の味よ」

 窓の外では雨が降り続いている。


(了)

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レッスン 真花 @kawapsyc

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