待合室にて

岡田旬

待合室にて

 待合室には人が大勢いる。

ざっと見まわすと高齢者が多いような気もする。

男女とも若者は余りいない印象だ。

人々は天井の高い大きな部屋に設えられたベンチに、少し間を開けて座っている。

疲れた顔をして口をつむぐ人がいる。

何かを期待しているのだろうか。

目を輝かせてワクワクした様子を隠そうともしない人がお喋りに興じている。

 入り口から少し離れた所に、わたしと同年代の女性が座っているのを見つけた。

いつまで待たされるのか見当もつかない。

そこでとりあえずは、話を合わせ易そうなその女性の側に行くことにする。

「ここ空いてますか?」

わたしは三十台半ばと思しき女性に声を掛ける。

「どうぞ」

女性は和らな笑みを浮かべると少し座る位置をずらす。

豊かな髪をハーフアップにまとめた綺麗な女性だ。

化粧っ気はないが澄んだ大きな瞳と形の良い唇が印象的。

『こういう人のことを明眸皓歯と言うのだろうな』

ふと四文字熟語が頭に浮かんだ。

人を四文字熟語で分類するのは国語教師でもあるわたしの悪い癖だ。

「こちらには今日ついたのですか?」

女性がほほ笑みながら話しかけてくる。

透明感のある品のある喋り方で、真っ白で小さい歯が唇から覗く。

『やっぱりね。

明眸皓歯』

わたしが視線と返事に一拍置いたことに、その女性が戸惑うのを感じる。

そんな様子が伝わってくる。

「・・・ええ。

そうだと思います。

・・・そうだったのかしら」

わたしは愕然とした。

わたしはいつこの待合室に入ったのだろう。

わたしはいったい何処からここにやって来たのだろう。

そもそも何のためにわたしはこの待合室に居るのだろう。

記憶が曖昧?

いいえ、わたしにはここに来た経緯の記憶がまったくない。

それにわたしは、どうしてここが待合室であることを知っているのだろう。

 「あの、失礼ですがここは待合室と言うことで間違いないですよね?」

女性は訝しげに少し首を傾ける。

「そうですよ。

ここは待合室ですよ」

「・・・あの変なことを言うようですが。

わたしったらここへ来るまでのこと何も覚えていないんです」

女性はただでさえ大きな目を更に見開いて視線をわたしのそれに合わせた。

するとすぐに笑みを浮かべ、優し気な様子で口を開いた。

「稀にそういう方もいらっしゃるようですね。

ですが仕方ありません。

死は人によって様々な形で訪れますからね」

この人は何を言ってるのだろう。

死?

身体を電撃が貫く。

そんな気がした。

だがその電撃は熱くない。

冷たく凍り付くような衝撃だった。

「わたしは・・・。

死んだんですね」

「そうです。

わたくしもあなたも。

この部屋にいらっしゃる方々は皆さま亡くなった方だけです」

女性は自分が死んだというのにちっとも悲しそうではない。

むしろ穏やか、いえ安らいだような自然体だった。

 「落ち着いてらっしゃいますね。

・・・わたしなんだか動揺してしまって」

「そうですか。

わたくしも落ち着いているわけではありませんよ?

むしろワクワクしています」

この女性は何を言っているのだろう。

自分が死んでしまったのにワクワクしている。

なぜ?

女性はわたしの顔にありありと浮かんだクエスチョンマークが読み取れたのだろう。

クスリと上品に笑った。

「だってここは待合室ですもの。

亡くなった人は誰でも自分が一番幸せだった頃の姿でここに来るのです。

そうして自分が一番幸せだった頃に愛し愛された人に迎えに来てもらうのですよ。

わたくしは遠い昔、夫とまだ小さかった娘を事故で無くしました。

だからこの待合室のことを知った時、どれほどここに来るのが待ち遠しかったことか。

あっ!」

女性はいきなり立ち上がると入口の方を見つめ、わたしに一顧だもせず走り去った。

女性が真っしぐらに向かう先には、長身の男性が幼女を抱いて立っている。

男性は顔中が弾けるような笑顔だ。

幼女は男性の腕から乗り出すようにして両手を広げて笑っている。

手を取り抱き締めあう三人に涙はない。

幸福な再会にはお日さまのような笑い顔と弾けるばかりの喜びがあるだけだ。

ひとしきり再会の嬉しさを楽しんだ後、女性がこちらに振り返り大きく手を振った。

わたしはこわばる頬に流れ落ちる涙を止めることができない。


 わたしには確か、夫と小さな息子がいた。

それを思い出した。

今、思い出した。

わたしは彼らを愛していたのだろうか。

待合室に居るわたしは、わたしが一番幸せだった頃の姿をしているという。

自分が一番幸せだった頃の姿になり、その姿でわたしが愛し愛された人が迎えに来てくれるという。

あの女性はそうわたしに教えてくれた。

事実、あの女性は愛し愛された人たちと再会したみたいだ。

 だけどわたしは夫と小さな息子の、名前はおろか顔すら思い出せない。

・・・夫と小さな息子は亡くなったのだ。

そうだふたりは亡くなったのだ。

わたしの今のこの姿、この年恰好の頃に。


・・・あの大震災だ。

夫と小さな息子はあの大震災の津波に飲み込まれて行方不明になった。

 あの女性は夫と娘さんを事故で亡くしたという。

わたしはあの大震災の時、夫と小さな息子・・・ふたりと一緒にいなかった?

わたしはあの大震災が起きた時、何をしていたのだろう。


・・・わたしは男といた。

同僚の男とホテルにいた。

男の胸で甘い陶酔に浸りながら淫らな夢を見ていた。


 あの時のわたしは誰を愛していたのだろう。

あの男がわたしを迎えに来ることは決して無い。

そのことには絶対の確信がある。

それなら夫と小さい息子は、わたしを迎えにきてくれるのだろうか。


・・・わたしは夫と小さな息子の名前はおろか顔すら憶えていないというのに。

どうしてもわたしは夫と小さな息子の笑顔を思い出せない。


・・・いいえ違う。

わたしはふたりの顔を思い出したくないのだ。

 あの女性は夫と娘さんを亡くした後でも、自分に対して誠実に生きてきたのだろう。

誰に恥じることもない生涯を終え、愛し愛された人に迎えに来てもらったのだろう。

そうでなければ、あんなに透明で無垢な笑いを弾けさせる。

そんなまねができるわけがない。


 今のわたしにはあの女性みたいな。

あんなにも美しく清澄な笑い方はできない。

 わたしは大震災の、あの日の姿でこの待合室に居るのだ。

わたしは、夫と小さな息子の顔を、いつか思い出したくなるのだろうか。

もしわたしがいつの日かふたりの顔を思い出したくなったら。

わたしはふたりの顔を思い出すことができるだろうか。

ふたりの顔を思い出せたなら、わたしもあの女性のように笑うことができるだろうか。


 夫と小さな息子は、わたしを迎えに来てくれるだろうか。



 


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待合室にて 岡田旬 @Starrynight1958

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