ネガティブエッセイ『エゴママ』

村上 耽美

卑屈なナルシシズム論

 そっと目を閉じる。誰かが僕を呼んでいる。誰かは分からない。ただそこで声がするだけ。息を吸う。空気は肺を汚染する。自分のからだの中が、どんどん腐っていくのが分かる。煙草の吸殻のように黒く、心も燃え尽きてしまった。疲れた。この世に疲れてしまった。自分自身が許せなくなってしまった。この広い世界を、この狭い心を、許せなくなってしまった。純度の高い苦しみの海。道に生い茂った嫉妬の茨。空が泣いている。蛹は枯れ、卵は割れ、夢は散った。井の中の蛙、でも僕はそもそも井の中にいる蛙にすらなれなかった。僕はいま、どこにいるのだろう――。


 他人がいる限り、絶対評価というものはない。人間はあまりに惨いことを、残酷な概念を作り出して世の常識や人間としての共通認識にする。破天荒な人間を「出た杭」と言い集団で打つ。己を取り巻く人間の出来不出来を「スペック」とし、それが自身の「合格点」に達する者以外を排斥する。それが人間である。

 正しいものはない。そもそも「正しい」という言葉はあまりに軸がぶれる。振りかざすと思わぬ方向に当たってしまう。そこに自身が含まれていることに気づかない。それが人間である。


 人間はあまりに難しすぎる。自分のことについても碌に理解を深められず、他人の感情を無視し、都合よく自分を偽り、都合のいいものに変換する。人生に初志貫徹などありえない。それをわかっているのか、まったくわかっていないのか、人間というものは頻繁に形や性質を変える。そういう生き物なのである。


 人間は卑怯な生き物である。弱い(と自認している)人間はそれについて同情や慰めを求めている。自認すべきはその狡猾さではないか。またそこに漬け込む人間がいる。嗚呼なんという醜さたるや! 人間はあまりに欠陥が多すぎる。

 全くの善い人間はこの世に誰ひとりとしているはずがない。「善」は「悪」の裏である。「悪」の裏は「偽善」である。表裏一体であるなら、この世に善い人間などいるはずがないのだ。


 僕たちは、どうやって生きていけばいいのですか! 神が死んだというのならば、この責任は誰がとってくれるのでしょうか!

 生まれることが罪で、生きるということが罰で、死んでもなお赦しはない。人間はあまりに悲しすぎる。


 誰ひとり幸せになれない世界で、たった独りになって、すべての罪と罰を背負った気になって、唯一神のように死んでいくのが、僕であればいいのに。

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ネガティブエッセイ『エゴママ』 村上 耽美 @Tambi_m

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