3 それが恋だった


 夏休みのあいだ朽木くちきなぎさには会えなかった。きみはほとんどまいにち部活があったけれど、彼女は学校に用事がなかったから。扉がとじられっぱなしの図書室の前をときどき通ったりしても、とうぜん彼女はいなかった。

 きみははじめて、夏休みの終わるのが待ち遠しいと思った。


「気合い入ってるじゃん。その調子でたのむよ、じき大会もはじまるしさ」と先輩から褒められたのは、夏休みさいごの日。

「明日から新学期がはじまるからかな?」

 チームメイトがよこからつついてささやいた。彼女は同じクラスの西にし杏奈あんな。ちょっと含みのある声だった。

「あの子の顔が見れるもんね。ずっと会ってなかったんでしょ? 楽しみだね」

「はあ? なに言ってんの、そんなんじゃないよ」ときみは言ったけれど、西杏奈に心中を言い当てられて、動揺してしまった。

「顔あかくなった! これは本気かもな」

「本気ってなに?」

「恋ってことよ」


 西杏奈がぽんと出した言葉を、はじめきみはうまく呑みこめなかった。だって相手は女の子だし。恋なんていままでしたことなくって遠く他人ごとみたいに感じていたし。でも恋という言葉は勝手にどんどんはじけて増えて、きみの胸はしゅわしゅわの恋で満たされてしまったのだった。


 * * *


「あなた、すこし変わったみたい」と朽木渚はあるとき言った。

 二学期に入って一週間ほど過ぎたころのことだ。きみはいっしゅんどきんとしたけど、

「夏は女を変えるからね」とかるく返した。

 朽木渚はわらいもしないで、じっときみを見つめた。

「ほら、そんな言いかた。あなたらしくないわ――じょうだんでごまかして、まるで本心をかくしているみたい。そんな話しかたする子はそりゃたくさんいるけど、あなたはそうじゃないもの。なにがあったの?」

 彼女がきみの変化に気づいてくれること、きみをそんなふうに評価してくれていることにきみは有頂天になったけれど、同時に立ちすくんでしまった。

「するどいなあ、朽木は。じつはわたし――」と言いかけて、きみは止まった。「いまは言えないんだ。まだ気持ちが整理しきれてないから」

 きみがなにに怯えていたのか、そのとききみにはわからなかった。

「かっこわるいな、わたし」

 朽木渚はまじめだった表情をくずして、首をよこに振った。

「ううん。あなたのそういうすなおで飾らないところ、すごいと思う。いいのよ、むりに聞きだそうなんてしないから」

 彼女の言葉はきみの怯えの呪縛を解いて、だからついきみは口走ってしまった。

「そのうち整理できると思う。そしたら話すから。朽木に聞いてほしいんだ」

「ん、待ってる」


 * * *


 彼女のとなりにいられれば、それで幸せだった。きみがおそれていたものはたぶん、いまの関係をこわしてしまうことだった。恋していると伝えたい。でも口にしたとたん天罰にうたれてしまいそうでこわかった。


「まだ告ってないの? 迷うなんて真樹らしくない」

「そんなんじゃないって言ってんじゃん」

 練習のさいちゅうこそっとささやいた西杏奈に、きみはつめたく返した。気が咎めるのを、強がってごまかすみたいに。

 気が咎めるのは、長い付き合いの親友にうそをつかなければいけなかったから。でも当の朽木渚に告げるよりさきに、ほかのだれかに言うのはいけない気がした。それは想いを汚してしまう行為にちがいなかった。


 * * *


 きみはおそれてもいたけれど、前にすすみたい気持ちは日に日に募っていきもするのだった。だいたいきみは、いつまでもだまっていられる性格ではなかった。

 だから図書室でふたりきりでいたとき、「朽木――」と衝動的に言いかけて、はっと口をとじたのだった。

 さいわい作業中だった彼女はちゃんと聞きとれなかった。

「なに?」と背中をむけたまま彼女は聞きかえした。

 きみは数秒まよったけれど、けっきょく言いだせずに敵前逃亡を決めこんだ。

「――朽木が好きな本って、どんなの?」

「んー」

 と言いさしたまま朽木渚はだまった。どんな本を挙げてもたいていきみにはぴんと来ないって、彼女もわかっていたから。

 やがて彼女は言った。

「『赤毛のアン』って、聞いたことある?」

 きみはほっと息をはいた。その名には覚えがあると思うと、とたんに強気になるのもきみらしいところだった。

「ばかにしてるなあ? ちょー有名じゃん、知らないわけないよ」

「んふふふ。ほんとかなあ」目尻にみをふくんで彼女は言った。

「うん。朽木はアンって感じするよ、すっごく」

 アニメみたいな明るい色の景色にとけこんだ朽木渚のすがたがきみの脳裏に浮かんだ。でも現実の彼女は苦わらいして、肩をすくめたのだった。

「やっぱりあなた、ちゃんと知らないでしょ。アンは勝ち気で夢見がちな子でね、思ったらすぐ行動しちゃうし、わたしみたいな引っ込み思案じゃないの。そう、ちょうど――」と彼女はきみを見た。やわらかな視線がきみをとらえて、きみは心臓までとらえられた気がした。

「あなたみたいに」

「わたし」

 びっくりして高い声になるきみを見て、朽木渚はわらった。

「アンは本をいっぱい読んでたけどね。あなたほんとにちっとも読まないんだもの。わたしと足して、二で割ったらちょうどアンみたいになるかもね」

 朽木渚にきみが足される。言葉からひろがる空想がきみの心を満たして、なにも言えなくなってしまった。


 * * *


 朽木渚が「待ってる」と言った言葉は、くり返しよみがえって、魔法のようにきみの胸を甘くかきたてた。

 この想いをはやく、ぜんぶ朽木に伝えたい。夜ベッドに寝っころがって、窓のそとの星空をながめるたびきみは思った。彼女はどんな顔をするだろうか。

 彼女もおなじ気持ちだったらうれしい。でもちがっていたとしても泣きはしない。いや、泣くかな。ともかく、どんな場合でも彼女がきみの想いを真摯に受けとめてくれることだけは、疑いない。


 月のない夜、眠れなかったきみは忽然、明日告白しようとベッドのなかで決めた。朝起きたら気が変わっているかもしれないし、そこは乗りこえてもいざ彼女をまえにしたらまた怖じ気づいてしまうかもしれないけれど。

 明日だ、ときみは声に出して言った。窓から星を見あげながら、きみはまだ眠りたくないと思った。

 そのときかばんのなかに『赤毛のアン』があるのを思い出したのだ。図書室で、朽木渚がさがし出してくれた本。あかりをつけると、空の星は見えなくなって、かわりにベッドのまわりがあかるくなった。きみはベッドに仰向けになって、ページをめくりはじめた。

 ほとんど読みすすめないうちきみはあっさり眠りにおちてしまったけれど、そのときにはもうアンになりきっていた。夢のなかできみを駅まで迎えに来てくれたのはおじいさんではなく朽木渚だった。馬車に乗りこんで、彼女とならんですわると、きみはすてきな冒険がはじまるんだってわくわくしていた。



(おわり)


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それが恋だった 久里 琳 @KRN4

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