第9話 大団円

 その日は、ゆかりも、泰三もかなり酔っぱらったようだ。一日の晩餐だったとはいえ、まるで何日も歌え踊れの大宴会でもあったかのように、夢の時間を過ごせた気がした。

「竜宮城に行けば、こんな感じなのかな?」

 と思ったのは、三人とはいえ、男性が自分一人だけだったからだ。

 まるで、ハーレムのようではないだろうか。

 ハーレムというのは、別に自分だけが男であれば、女が複数であれば、何人いても、ハーレムではないだろうか。たくさんいればいいというものではない。

「痒い所に手が届く女が、二人以上いてくれればそれでいいのだ」

 と思っていた。

 あまり多すぎても却って、疲れる気がする。適度な二、三人くらいというのが、ちょうどいいのではないだろうか。

 実際におとぎ話で描かれている竜宮城にはどれくらいの女がいたのかは分からない。しかし、鯛やヒラメの踊りなどが催されたりしているのだから、晩餐会のような賑わいだったと考えると、結構な女がいたことになる。しかし、自分に侍っている女は、そんなにたくさんいないように思う。それを思うと、想像する人間が、

「何人以上であれば、ハーレムと呼べるのだろうか?」

 と、直に考えて感じたその人数に違いはないだろう。

 一般人には、そんなハーレムなど想像もつかない。そういう意味では多くても、五人までではないかと感じたのだ、自分の身体で、その部分を癒してほしいかというのを考えると、おのずと人数は決まってくるだろう。

 そして、当然、自分の好みの女を侍らせたいと思う。好きなタイプを思い浮かべると、好きなタイプが半端でないくらいにたくさんいるというストラークゾーンの広い男もいる。

 かくいう泰三も自分では、

「ストライクゾーンは広い」

 と思っている。

 それでも、ハーレムになると、二、三人がちょうどいいと思うのだから、夢に見たハーレムで、どんな身体の女性なのかというのは覚えていても、顔は忘れているに違いないと思った。

 ベールをかぶったアラビア風の女性がハーレムのイメージだが、その分、ベールが日陰となって、のっぺらぼうの様相を呈しているかのように思えて、ハーレムというものが、いかに曖昧なものなのかということを立証しているかのように思えた。

 だが、その口元からは、白い歯がこぼれている。皆綺麗な歯並びをしていて、それだけに、余計に誰が誰だか分からないような気がするのだ。

 夢に見たハーレムで、確か最後は、そののっぺらぼうになっている顔を見た時のショックで、目が覚めたような気がした。

――一体、俺は何を見たのだろう?

 と思って考えていたが。その答えはずっと分からないものだと思っていたのに、一つの閃きのようなものが、その答えを教えてくれた。

「ああ、皆同じ顔だったんだ」

 と思って、ビックリして目を覚ますのだった。

 その顔はゆかりの顔だったのだが、それとは少し話は違うが、

「一番怖い夢ってどんな夢なんだ?」

 と聞かれたとすれば、泰三は自信をもって答えることができる。

 それは、

「夢の中でもう一人の自分が出てくるのを見る夢であった」

 というものなのだが、

「夢というのは、目が覚める寸前に見るもんだ」

 と言われるが、だからこそ、目が覚めた時に、ほとんどの夢を忘れている。

 しかし覚えている夢の少なからずにあって、そのパターンはいつも一緒のように思えるのだった。

 それは、

「もう一人の自分が出てくる夢」

 であって、つまりは、一番怖いという思いを持った夢を、唯一忘れてはいけないものとして意識させることで、覚えていない夢に対しての辻褄を合わせているような気がするのだ。

 そんな泰三にとって、見たハーレムの夢で、その顔が本当は愛すべき相手であり、ゆかりであればいいと最初は思った。

 しかし、女は皆同じ顔である。もう一人の自分が夢に出てくるのが怖いのだから、自分以外の人間でも同じ顔をした人が出てきたのだとすれば、これも、相当恐ろしいと言えるだろう、

 だから、自分の中で敢えて相手の顔が見えないようにしたのではないか、つまり、顔が分からないということは、きっと皆同じ顔だということが分かり、ただ、ハーレムとして自分に快楽という癒しを与えてくれる人であることを望んでいる。

 そして、もう一つ感じたのは、その相手の顔が、

「まだ見ぬ理想の相手なのではないか?」

 という思いであった。

「相手が誰かということは想像がついても、その人の顔が分からない。そんな相手なのではないか?」

 と、そんな風に感じるとその人がゆかりの妹である、ちひろではないかということが分かった。

 だから、この夢は、ちひろが自分の目の前に現れる前に見た夢であり、ちひろと会った後で見た夢ではないかと感じたのは、その夢が怖い夢で、何か暗示を自分に与えるためではないかと感じたからだ。

 もし、その暗示が警鐘であって、

「好きになってはいけない相手を好きになってしまった自分に対しての警鐘」

 というものではないだろうか。

 しかも、これはただの不倫ではない、義理とは言え、腹違いとはいえ、自分の嫁の妹ではないか。

 これはハーレムではなく、処刑場における刑の執行前の、

「悪い夢」

 これは悪夢ではない、警鐘ではあるが、ひょっとすると、畜生道に勝るとも劣らないという意味を自分に教えているのではないか。

 自分の中で、

「相手が血の繋がりさえなければいいんだ」

 という思いがあるとすれば、それに対する戒めではないだろうか。

 だが、冷静になって考えてみれば、

「近親相姦の何がいけないのか?」

 という思いに至ってしまう。

 そう思って、以前調べてみたことがあった。

 近親相姦というのは、古来より、禁忌なことであると言われてきているが、日本において、近親相姦を罰する罪はない。幼女との性行為に対しての罪はあるが、近親者での性交を罪だとすることはないのだ。

 確かにそうだ。どうして近親相姦がダメなのか。医学的な見地があるのだろうか?

 日本での近親相姦は罪ではないが、これが結婚ということになれば、話は変わってくる、三親等以内では結婚できないと、民法の親族相続法で謳っているのだ。

 ただ、医学的には証明はされていたい。近親相姦を禁忌する理由として、

「近親間での出産の場合、病弱であったり、障害のある子供が生まれる可能性が高い」

 と言われているからだという説がある。

 そしてこのような出産を避けることで、ずっと系譜されてきた遺伝が強く、子孫を残してこれたことから、

「近親相姦というのは、忌まわしいものだ」

 と言われるようになったという説がある。

 さらに、

「人間というのは、本来、近親間の性交を嫌う感情を持っている」

 という説もあり、この説もあくまでも説だということで、元々は何から近親相姦を禁忌だと言い始めたのかということは分かっていない。

 そういう意味で。どこまで近親相姦というものが本当に禁忌と言われるほどいけないことなのかは分からない。

 考えてみれば、古代から受け継がれてきた、

「万世一系」

 と言われる天皇家であっても、近親相姦による血の繋がりがあったのも歴史的な事実である。

 そうやって調べてくると、近親相姦に対して、どのように考えればいいのか分からなくなった。

 確かに、近親相姦が悪いことではないと思えば思うほど、怖くなるのだ。過去から脈々と受け継がれた言い伝えを、簡単に否定できない自分もいるのだ。

 そんなことを考えていると、却ってちひろのことが気になってしまう。義理でもあるし、腹違いということであれば、近親相姦という発想はない。しかし、やはり倫理的に許されることなのかということも気になる。

 不倫というのも、自分にはできないと思っていた。もちろん、ゆかりのことを愛しているからなのだが、今回は少し違う。

「ゆかりのことを愛しているから、ちひろのことを愛してもいいんじゃないか?」

 と、到底受け入れられるものではない言い訳なのは分かっているが、一度思い込むとそうもいかなくなった。

 そもそも、倫理に逆らうことを性癖の上では間違っていないと思っていたのかも知れない。性欲というものが、あくまでも、本能から来る条件反射であるかのごとくに考えると、好きになった女性が義理の妹だというシチュエーションに、興奮している自分がいる。

 それに、ちひろを見ていると、どこか自分に似ている気がした。初めて会ったようなものなのに、どうしてそう思うのかというと、第一印象からそう感じていたのだ。

 他の人には感じることのない思いを感じたのだから、信憑性はあるような気がする。まわりから見て言い訳にしか見えないことであっても、泰三にとって、

「どういう道を通ったとしても。行き着く先は同じだ」

 と思えたのだった。

 そう思えることが泰三にとっての信憑性なのだが、まわりから見れば言い訳にしか見えない。そう思って考えると、

「よくテレビのワイドショーなどで言い訳をしている人がいるが、意外とその言い訳は、真理なのかも知れない」

 と感じたりもした。

 ちひろが誘ってきたのは、そんな泰三の気持ちを思い計ってか、

「お兄さん、どうしたの? 私を見て、想像してくれているのかしら?」

 と言って、ニコリと笑う。

 まるで、女優を見ているようだ。

――この魔力のような笑みに最初から魅了されてしまっていたのかも知れない――

 と感じたが、結局何も言えなかった。

 きっと、この時何も言い返せないことで、その後の二人の関係が決定したのかも知れない。

 言いなりとまではいかないが、ほぼちひろに逆らえない感じだった。

 ひょっとすると大学で、

「私、お義兄さんとお付き合いしてるのよ」

 などと言っているのかも知れない。

 実際に大学でも話しているのだった。

「えっ、不倫の相手が義兄なの?」

 と言われて、

「うん、そうよ」

 というだろう。

「お姉さんに悪いという思いは?」

 と聞かれて、

「あるわよ。でも、これとそれとは別問題。姉が好きな部分を私は好きになったわけじゃないの。人間なんて、一面だけじゃなくて、多面性を持っているものなのよ。それに気づけるか気づけないかで、その人のすべてを愛しているかどうかが決まってくる。きっとお姉さんは、お義兄さんの影の部分を知らないのよ。いや、しているかも知れないんだけど、見ようとしていないみたいなの。だから、その部分を私が貰うの。貰うと言っても、ずっと私のものにしようとまでは思わないわ。だから、後ろめたさというのは、それほどないかも知れないわね」

 とちひろがいうと、

「でも、お義兄さんがあなたに対して真剣になるかも知れないわよ」

 と言われると、

「そのあたりは、大丈夫。お義兄さんにのしをつけて、あねに返してあげるわ」

 というと、

「でも、そのお義兄さんが逆上したりしない?」

 と言われて、

「するかも知れないけど、私もお義兄さんの一部を好きになったんだけど、でも、表の部分もちゃんと分かっているの。あのお義兄さんには、そんな度胸はないわ。私にだって遊びだと思っているのか、いつも後ろめたさを感じているようなの。それも計算ずくで、だから私が後ろめたさを出しているわけではないのよ」

 というと、

「なるほど、相手をけん制しながらだから、別れを切り出せば、少しは抵抗があるかも知れないけど、すぐに冷静になると思っているのね?」

「うん、そう。熱しやすく冷めやすいのが、お義兄さんなのよ」

 と、ちひろは言った。

 ちひろのいうことは間違っていなかった。ただ、表現が少しだけ無難なだけ。

「本当は飽きっぽいだけなんだけどな」

 ということであり。それが、却ってちひろのプライドに火をつけたのかも知れない。

 本当は、

「そろそろ潮時なので、別れることにするか」

 と思っていたちひろだったが、それは泰三にとっても同じだったようで、せっかくそのまま別れていれば、後腐れがなかったものを。ちひろが、泰三をさらに引き付けた。

 それまでとはまったく違った雰囲気を醸し出したことで、飽きっぽい性格の泰三が覚醒したようだった。

 飽きっぽいということは、逆にいえば、

「飽きるまで、徹底的でありブレない」

 ということでもある。

 そんな彼が飽きそうになった時、その同じ相手が絶妙なタイミングで違う魅力を見せてくれれば、さらに深く入り込んでしまうのだった。

 お互いに相手を打ち消そうと最初は考えたが、それが結局はできなかった。

 先手必勝だと思っていたくせに、相手に先に行かれないようにと身構えてしまったことで、お互いにそれ以上積極的に慣れなくなってしまった。

 これは、何かどこかで聴いた話を思い出すのだった。

「そうだ、二匹のサソリの話」

 泰三は、核兵器の抑止力のたとえ話にされる、

「二匹のサソリ」

 を思い出していた。

「自分が相手を殺す力を持っているのに、相手も自分を殺すことができる。相手を殺そうと先に動けば、自分も一緒に殺されてしまう可能性が実に高いのだ」

 つまりは相打ちになる可能性が高いことで、睨みあってしまうと、自分から仕掛けることはできない。唯一の戦法とすれば、相手に最初に撃たせて、それをうまくよけながら相手の背後に回って、急所を一撃にするしかない。

 それだけの度胸があるだろうか。

 ちひろは、泰三が最初に動いたのを見て、相手の動きに感づいたことで、ちひろが攻撃をかわすかのように、泰三の感情を擽ったのだ。

 これは泰三の気を引こうとしたわけではなく、泰三を自分の射程距離から離さないようにして、

「もし、殺すことができなくても、相手の動きを止めることができれば、自分に勝機がある」

 と思ったのだろう。

 お互いに相手を殺すことしか考えていないサソリなので、どちらかが、

「殺されないようにしよう」

 と考えたとすれば、そこで動きが変わったことになる。

 将棋で一番隙にな布陣は何かと聞かれて。

「最初に並べた形なんだよ。一手打つごとに、そこから隙が生まれる」

 と言っていたのを思い出した。

 もし、殺されないようにしようと気持ちが変わったのであれば、相手に付け入る隙を与えてしまったことになる。後は自分が後手に回ってしまうということであり、せっかくの、

「二匹のサソリ」

 という均衡が破れることになる。

 だが、結局のところ、

「二匹のサソリは二匹のサソリ以上でも、それ以下でもない」

 完全に抑止力のための均衡でしかない。

 その均衡はいつになったら崩れるのか、時間が解決してくれるものなのか、まったく分からない。

「歴史が答えを出してくれるのだろうか? いや、すでに答えは出ていて、そのことに気づいていないだけなのか?」

 つまりは、歴史の勉強の究極はそこに至るということである。

「どれが答えなのか?」

 ということを知るには、歴史すべてを知る必要がある。

 それはまるで底なし沼のようだ。入って見なければ、最後に行き着く場所など分かるはずもない。死の世界を知りたければ、死ぬしかないという理屈と同じなのではないだろうか。

 考えてみると、ゆかりとちひろの二人の比較をしたことがないと思っていた泰三だったが、実際には最初から比較ばかりしていて、その対象が何であったのかすら分からなくなってしまっているような気がした。

 感覚がマヒしてしまったからであって。それこそ、考えすぎて、飽きてきたのではないかと思えたのだ。

 別れることができなかったのは、

「似ているわけでもない二人を、自分の中で似ている二人だということを納得させることで、不倫への正当性を持たせようという理屈になっていたのかも知れない」

 と考えていた。

 ところで、どうして不倫に手を染めてしまったのかというと、やはり、新婚生活に幸せを感じすぎて、幸せそのものにマヒしてしまっていtあのかも知れない。

「平和ボケ」

 と言ってしまえばそれまでなのだが、そこには自分の最大の短所である、

「飽きっぽい」

 というところがあるのだろう。

 それを、別の意味で解釈し、

「熱しやすく、冷めやすい」

 という表現をした、ちひろに惹かれてしまったのも、無理のないことなのかも知れない。

 しかし、泰三を含めた他人に対して、高圧的な態度を取り、人に何かを任せることはせず、絶えず自分が中心に居座るという態度を一環させていた。しかも、それをまわりから疎まれないという彼女にとっては、再考に都合のいい性格だと言ってもいいのかも知れない。

 しかし、姉にだけは頭が上がらないようだ。そして感じていることは、

「姉との間に年齢以上に差を感じてしまう。私は姉には逆らえないんだ」

 という思いが、反動となって他人への態度になるのだが、泰三との間にだけは、ジレンマを感じているようだ。

 ちひろは、ゆかりに対して、自分のことを、

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」

 と感じていると思っている。

 しかし、ちひろは、他人に対して、

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」

 と感じているようだが、泰三に対してだけは違う、

「鳴かぬなら 鳴かせて見せよう ホトトギス」

 と感じているようだ。

 その感覚が、高圧的な姉が、本当は自分のことを自分が泰三に感じている思いと同じことなのだと感じることができないことが、一番の問題であり、トラウマになっていることだろう。

 泰三が、この不倫から逃れられるかどうかは、ゆかりの思いをちひろが理解できるかにかかっている。

 そのためには、泰三自身の中で、ちひろに感じているトラウマの正体が何であるか、それを知る必要がある。

 そのトラウマとは、やはり、

「二匹のサソリ」

 という事情が、ジレンマを引き起こしていて、身動きが取れない原因になっているということであろう。


                 (  完  )

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トラウマの正体 森本 晃次 @kakku

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