5
朝早いということもあって、俺に与えられた選択肢は限られていた。俺は香ばしい匂いに釣られて、開店したばかりに見える魚料理の屋台に入った。屋台を覆う防脂布をくぐって、藻をまとった巨大な川魚の愚鈍な目を見てようやく後悔した。この街が無政府状態になるはるか以前からこの街の生態系のほうはずっと不法移民で溢れ返っていたのだ。店員の青年が、朝だというのに気持ちのいい笑顔で俺を迎え入れてくれた。青年の手前、店を出るのも憚られ、俺はしぶしぶ焼き魚を注文した。
一分と待たずして、目の前に焦げ目のついた魚の切り身が置かれた。身の真ん中あたりを箸で割ってみる。モウモウと湯気が立ち上ったのを確認してから、俺は魚を口に運んだ。味付けは塩だけで、身の淡白な味わいが引き立っていた。口に入れた瞬間から爽やかなハーブの香りが鼻を抜ける。おかげで川魚特有の生臭さを感じることはなかった。多国籍だか無国籍高わからない料理だったが、思いがけず満足できた。
背後で防脂布がめくられ、朝の賑わいが大きくなる。入ってきた客は俺の隣に、乱暴に腰を下ろした。箸がぶれて腹が立った俺は、抗議するように隣を睨みつけた。隣に座っていたのは、細身の若い女性だった。長い髪を大雑把に後ろでまとめ、化粧っ気のない顔の下に、無意味な柄のシャツを羽織っているところを見ると、彼女は旧東京の住人のようだった。しかし彼女は鬼ごっこの鬼が犠牲者を見つけた時のような目で俺を睨み返した。
「彼と同じのを一つお願い」
彼女は店員の青年に、滑らかなベトナム語で注文した。だが生粋の江戸っ子だったのだろう青年は、呪文を掛けられたように困った顔を浮かべていた。見かねた俺は、彼女の方を指さしながら、口を開いた。
「
青年は愛想のいい返事をして、すぐに調理に取り掛かった。
「ここの暮らしも慣れてきたみたいだな」
彼女に横目で睨みつけられたが、俺はそれを無視して続けた。
「あんたを怪しむ者は誰もいないぜ」
「まあ人の温かみが感じられるのは悪くないわね」
「壁の中にずっといたわけじゃないだろう」
「向こうじゃ民生品の自律ロボットが普及しだして、生者と関わる機会が本当に少ないの」
首を振りながら彼女は答えた。
「チキンレースみたいなものだろう」
彼女はピンと来ていない様子で、それよりも、と俺を指さした。
「昨日はやってくれたわね」
彼女は低い声で俺に言った。発音がきれいすぎる日本語だった。その分、聞いているだけで威圧感があったのか、一瞬青年が魚を焼く手を止めたようだった。
聞き覚えのある声だと思った。記憶を探ると、義鵬会の総裁邸に忍び込んでいたスパイだと気が付いた。雰囲気が全然違っていたが、顔の輪郭を見れば確かにそうだった。昨日、廃ホテルの五階にある一室でシャロン・ロドリゲスを待ち構えていたのは彼女だったのだろう。
「復興府がきちんと仕事をしてくれるおかげで、僕たちがこうやって油蝕症に怯えずに生きていけるんですね」
俺は口いっぱいに焼き魚を頬張りながら、冗談めかして言った。彼女は正面を見たまま、深くため息をついた。
「自分が何をやったか、キチンと理解しているの?日本政府はあの女を死刑に出来っこない。大方、懲役刑でしょうね。でも女の持ち物に目が眩んで大幅に減刑する可能性も無視できないわ。結局あの女はすぐに娑婆に出て、同じことを繰り返すでしょうね」
「その時は君たちが殺すなり捕まえるなり引き入れるなりすればいいさ」
「あなたは何がしたかったの?」
青年が、話の邪魔をしないように、そっと皿を彼女の前に置いた。焼き魚の香ばしい匂いを無視して彼女は続けた。
「シャロン・ロドリゲスはあなたの奥さんと息子さんを殺した犯人に、二人の所在を教えていた。あの女はあなたの家族を壊したのよ。それなのにどうして……」
「俺は、妻と息子と築いた家庭を守りたかったんだ」
「あなたのご家族はもう亡くなっているのよ」
彼女は俺を嗜めるように、ゆっくりと言った。そして何か恐ろしいものでも見るような目で俺を見つめていた。俺は誤解を解こうと軽快に笑い声を出した。
「アイビーとライアンが死んでいるのはわかっているよ」
そう言ったが、まだ彼女は疑念を拭えないでいるようだった。不安げなまなざしを向ける彼女に、俺は説明を続けた。
「ただ家庭にはまだ俺がいる。一緒に醸成してきた考え方やしきたりはまだ俺が守っている。社会の掟を平気で破るシャロン・ロドリゲス自身というよりも、彼女の周りでルールが力を失ってしまうことという点で、俺たちの家庭に脅威だったんだ」
俺は言い終えたことに独りで満足して、最後の一切れを頬張った。
「じゃあどうして私たちに任せてくれなかったの?」
「俺が先輩なんだろう。年功序列ってもんだよ」
俺は彼女をからかいながら席を立った。二人分の小銭を青年に渡して店を後にした。防脂布に遮られながらも、彼女が毒づく声が聞こえてきた。
「やあ探偵さん、ちょっと寄って来ませんか」
屋台を出てすぐに、向かいの珈琲屋台から声を掛けられた。出鱈目なニホンゴが溢れ返るアジア人ばかりのこの辺りで、ほとんど唯一の白人を呼ぶときだけは流暢な日本語を使うから、名前を呼ばれなくてもすぐにわかる。
高級そうなスーツを、汚れ一つつけずに着こなしている男が屋台の珈琲を飲んでいた。この街ではあまり見かけない格好だが、ヤクザの幹部のようないでたちは目立ちこそすれ、街の光景に馴染んではいた。
「取材ははかどっているかい?」
俺は珈琲を待ちながら、朝井篤に尋ねた。
「まあ、ボチボチといったところですかね」
丁寧な口調はおなじみだったが、彼は以前よりも生き生きとしゃべっているように感じた。
「そういえば、マルはどうしている?」
俺は思いもよらぬことを尋ねたようで、朝井はしばらく目をしばたたかせて、質問を反芻していた。
「吉田組の丸虎号ですか?」
「土佐犬みたいな名前だな」
「ああ、尻尾は切ったみたいですけどね、それ以外は特に」
彼はフフッと笑みをこぼして続けた。
「なんだか嬉しそうですね」
俺は返事をせず、珈琲カップで口元を覆った。彼に言われて初めて俺が微笑を浮かべていたことに気が付いた。彼は戸惑う俺を嬉しそうに眺めていた。しかたなく、俺から話しを切り出すことにした。
「それで、何か用でもあるのか?」
「そうそう。今日の朝刊は見ましたか?」
「まだだ」
シャロンは油蝕症患者として復興府に収容された。油蝕症の発生を執着的に見張っている復興府の療養所は網走やアルカトラズも並ではないと聞いている。彼女を追う必要もなくなり、必然的に街の些細な変化に気を配る必要もなくなっていた。
すると彼は珈琲カップに口をつけながら黙って新聞を渡してきた。この街ではおなじみの報杉並だった。横に折られた新聞は、誌面の下半分を上に向けていた。求人広告が集まっている部分だった。
部隊杉並が主導する道路整備工事への日雇い労働者募集の広告は相変わらず掲載されていた。女衒が女を募集し、闇医者が薬に手を出していない健康な成人を募集するなかで「阪本総合調査――事務求ム」という文章を一番端の欄に見つけた。
屋台では、聞き覚えのあるポンチャックが流れていた。この街で流行っていたが、それ以前にどこで聞いたかは思い出せないでいた。サビに入って、安っぽい電子音が印象的な旋律を奏で始めた。
ふと脳裏に、社長が応接用のソファに寝転んでいる光景が浮かんだ。彼女が暇に堪えかねてテレビを観るときはいつもその体勢だった。その光景と、ポンチャックのメロディが重なったところで、はっきりと記憶がつながった。今流れている曲は、社長が気に入っていたバラエティ番組のテーマソングだったと思い出した。
電脳興信所のささいな事件簿 厠谷化月 @Kawayatani
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