後編:それから──そして、お姉さまとして

 来て欲しくなかったのに、放課後は無慈悲にも来てしまった。

 そこには普段は顔を見せない顧問や教頭先生の姿もあった。


 予想はしていた。けれど学校あげての大騒動に血の引く思いだ。立っているのが辛くなり千春の肩にそっと手を当てる。


「持ち時間は四〇分です」

 三年生の先輩──生徒会委員長がこの日、囲碁部に出張ってきて審判を務めた。


 放課後のこの時間内で勝敗を決めるには、持ち時間の設定は必須だろう。

 一人四〇分ということで、対局時間は八〇分と設定される。


 しかし、時間設定をされるのは苦手だ。わたしは長考なのだ。せめてプロ対局の一手「何秒」の秒読みにして欲しかった。その方が自分なりに調整ができる。

 けれどそれでは対局がいつ終わるか読めないから、アマ対局の定番である「持ち時間」制に決めたのだろう。


 もちろん、わたしもお姉様もアマチュアだ。この制度が間違っているわけではない。むしろ常道だろう。


「美月、いいわね?」


「……はい、」

 承諾するしかない。


 碁盤を挟んで座る。

 思えば、お姉さまと正式に対局したことはこれまでなかった。私にとってお姉さまは、いつまでも導いて下さる天上の存在だったから。


「美月が黒番でいいわよ」


「え、そんな。先行はお姉さまお願いします。わたしが受けます」


「そう。ならばお言葉に甘えましょうか」


 囲碁は先行のほうが絶対的に有利な競技だ。

 上級者が「不利な後攻の白」をあえて選ぶのは、下級者へ対し余裕を魅せつける──つまりは『格好つけ』だ。平安貴族の矜持として、悠久の歴史のなか受け継がれてきた。


 とはいえ、昭和にはいってから「ゲームとして成立させる」ことを目的に日本独自のルールとしてコミが生まれた。

 コミというのは「地(領地)」のこと、つまり得点だ。

 盤面上が同点であっても、白は六目半が加算されるのだ。言い換えれば、それだけ先行は有利だったという話である。


 バシッ!


 お姉さまがわたしの手前左の星に打ち込んできた。

 わたしはお姉さまの左手前の星に打つ。


 室内は「ついに対局が始まった」という緊張感につつまれ静まりかえった。

 持ち時間は40分しかない。あまり先々の展開まで読む余裕はない。

 お姉さまの次の一手に対して、わたしも逸るように打ち込んでいく。両者とも遠巻きに相手の出方を伺っている感じだ。


 攻めあぐねている──おそらく、それはわたしだ。お姉さまは、わたしがどう動くのかをジッと見つめている。

 それはまるで、逃げ場のない荒野に一匹捨て置かれた野ウサギを、少し離れたところから睨んでいるトラだ。圧倒的な存在感に、野ウサギは自身の逃げ方すら考えが及ばない。


「ウサギって、とても走るのが速いのよ」


 いつだったか、お姉さまと動物図鑑を見ながらそんな話をした。

 ウサギの武器は小さな異変すら聞き逃さない大きな耳と、ネコ科の猛獣にすら負けない俊足だ。


「でも、」

 恐怖にうち勝つ事なんて出来るのかしら。こんなにも小さな存在が。


「存在は小さくなんて、無くてよ。ウサギはね、風を切って荒野を自由自在に駆け抜ける強い存在。弱々しいと勘違いしているのは、それは美月の心が恐怖で怯えているからよ」


 バシッ、


 わたしは白石を盤中央「天元てんげん」に打ち込んだ。お姉さまは「意外」という顔をされたが、すぐに「ふふっ」と笑顔を魅せられた。


 この盤はわたしが支配する。そう決めた。お姉さまを外国になんてやらない。


 けれど、お姉さまは迷いなく碁笥から黒石をひとつまみ、天元の手前に打たれた。それまで左辺を攻めて地を確実に広げられていたのに、それを放ってわたしの覚悟を阻止しに来たのだ。


 胸がドキンッと跳ねた。


 持ち時間は40分。すでに10分近くが経過している。臆病に怯えている時間は無い。こうしている間にも時計の秒針は進んでいるのだ。


 斜めに切る。お姉さまはすかさず反対面を切る。早い。石を取られないよう伸びる。お姉さまがピタリと横につなぐ。


 気づけば盤の中央に黒と白の石で形作られた風車が出来上がっていた。

 いつもなら「盤上の芸術ね」と顔を綻ばせもするが、今はお姉さまに誘導されていたようで悔しかった。わたしが対局をコントロールするんだと意気込んでも、結果、お姉さまの手のひらに乗せられている。


「こんなお遊びに興じている暇なんて……」

 つい本音が漏れた。


 ちらりとお姉さまの顔を見あげる。聞こえなかったのか、気にしないのか、お姉さまは、さっさと次の手を打ち込んで盤を見つめるだけ。わたしがどう対応するか、興味はそれだけ。


 ならばと白石を打つ。

 お姉さまも打つ。

 互いに打ち合う。


 囲碁に口頭での会話は必要ない。囲碁は互いの心を読み合う競技だ。


 忘れていたわ、なにを浮ついていたのだろう。定石じょうせき通りやれば良いだけ。

 と、冷静になってから初めて気づいた。お姉さまの仕掛けられた罠に。


「見えていなかった……」

 また声が出た。


「……美月はいつもそうね」

 お姉さまが初めて呟かれる。


 それは独り言のようにも思えた。視線は盤上を見つめられたままだった。けれど、その言葉は確実にわたしへ向けられたものだ──わたしは周囲が見えていなかった。

 愕然とした。

 ひとりで焦って、ひとりで騒いでいた。相手の気持ちも考えずに自分のわがままだけを突き通そうとしていた。


 でも、本当はとても簡単で単純なことなんだ。

 落ち着いて考えれば大した問題じゃなかったのよ。

 そして、これらは中等部時代にお姉さまが教えてくださった事だった。


 すっかり忘れていたわ。

「一見難しく見える問題も冷静になれば解ける」


 問題は──時間。

 持ち時間の残りは五分を切っていた。



   ○●○●   ○●○●   ○●○●   ○●○●



 桜が満開の日。

 和やかに卒業式はおこなわれた。在校生代表として、わたしは先輩たちへ祝辞を述べた。当初は断ろうと思っていたのだけど、もはやそれは許されない。


「でも、やっぱり泣いてしまったわ」


 最後のほうは涙で何を喋ったのか──桜並木を見あげながら後悔した。

 救いは、お姉さまが微笑まれていたことだけ。


「感動的だったわよ」

 千春はいつもわたしを勇気づけてくれる。


「ありがとう」


「それで、弘子さまとは?」


「……何の話?」


「いやだなぁ、あの対局のあと弘子さまに何をお強請りしたのよ。美月が勝ったでしょう」


「うん、半目はんもくだけ。でも、勝ちは勝ち」


「なのに、よく弘子さまに海外留学を辞退させなかったね。代わりに何をお願いしたの?」


 桜の木の下に立ち止まる。

 千春を「ちょいちょい」と真横に寄せて、彼女にだけ見えるようにスマホを取り出した。


「あ、校内では禁止だよ。美月が不良になっちゃったわ」

 言いながら、千春は太陽のような笑顔でニンマリ表情を崩した。


「お姉さまと毎日メールで交換日記をするの。原稿用紙10枚以上って条件でね」


「え、その文章量ってどうなのよ」


「平気よ、わたしは」


「いや、弘子さまのほうよ。美月はいつもノートにびっしり書き込むタイプだけど」


「それでお姉さまは困惑されていたのかしら。でも、約束だもの」


 ──それと、もうひとつ。


 わたしは唇を軽く撫でた。お姉さまの香りがした。


「なあに?」


「ううん、何でもないわ。さあ、部室へ急ぎましょう」


 わたしたちは最上級生になる。

 弘子お姉さまのように振る舞えるか、正直自信はない。

 けれど蔦の絡まる、あの歴史ある部室棟で下級生たちは待ってくれている。

 わたしの碁を心待ちにしてくれている。


 そして──盤上での会話を楽しみにしている、わたしがそこにいる。


「「「美月さまっ」」」


 子犬のように駆け寄ってくる後輩たちをみて、安心している自分がいる。


「さあ、囲碁をはじめましょう」





 了

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【短編】どこまでも麗しき無彩色【読み切り】 猫海士ゲル @debianman

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