【短編】どこまでも麗しき無彩色【読み切り】

猫海士ゲル

前編:お姉さまから挑戦状──囲碁少女の決断

 母の車を降りると冷たい空気が肌を刺した。

 吐く息が大げさなほど白くて戸惑いを感じた。首をマフラーに埋める。


 星空を見上げれば、外縁ふちから少しずつ白百合しらゆりに染まりつつあった。ほの暗い薄明かりのなか、苔で湿った門扉の向こうへ眼を凝らす。


 当たり前のように直立する人影がいた。

「どうか、わたしを無視してください」

 つま先をそっと敷地内に入れた。けれど、小さな願いは毎朝裏切られる。


 精悍な顔立ちをした門番は黒ずくめの女子高生を見逃すことなく、背筋をピンッと伸ばした兵士のように敬礼した。


 わたしは狼狽えながら、


「あ、あのぉ、ご、きげんょぉ……」

 父から叱られそうな小さな声で、守衛所の前を逃げるように通り抜ける。

 まるで不審者だ。

 生徒手帳の提出を求められないのは、わたしの顔を覚えているからだろう。


 それを考えれば、囲碁をやっていて良かった……とも、思えるのだが、

 ──西園寺さいおんじ美月みづき

 我が聖女学院せいじょがくいんで「名前を知らないものなどいませんっ!」と歓迎会の席で叫ばれたときは心臓が跳ね上がった。


 一斉に拍手をしたのは入学まもない新入生たちだった。恥ずかしくて消えてしまいたかった。


 やはり目立ちすぎているのだろうか。


「はあ、」

 嘆息は白いもやとなって冷たい空へと昇っていく。


 毎朝繰り返されるルーティンワーク。

 毎朝悩まされるわたしの日常。


 虚ろな視線を校舎脇の旧館へと向けた。

 アールデコ調の水銀灯が、部室棟に絡みつく蔦を照らしていた。

 その建物は大正時代以前のものと聞いている。曾祖母──大婆様おおばばさまよりも、さらに年長な存在だ。


 清掃の行き届いた玄関をくぐると、碁盤を叩く軽やかな石音が一番奥の畳部屋から響いていた。鏡のように磨き上げられた大理石の床を、スカートの裾を気にしながら駆け抜けた。


「「「ごきげんよう、美月さま」」」


 ドアを開けるや間髪入れず、一斉に声をかけられた。私の足音に耳を澄ましていたのだろう。手を止めるどころか立ち上がり、子犬のように駆け寄ってくる一年生までいた。


「練習を続けてちょうだい」


 靴を脱ぎながら慌てて諭す。これも毎朝のルーティンだった。全国大会まで日もない。貴重な練習時間を、上級生が入室したからと止める必要など無い。


 冷気で凍えた髪を手で拭いながらマフラーを首からほどく。

 視線に気づいて振り向くと未だ立ちつくして見つめる下級生がいた。

「ほら、はやく練習に戻って」と急かす。白い頬には薄く紅がさしていた──風邪かしら。彼女は深く一礼すると自分の対局相手のところへと戻った。


 ざわつく場の空気とは一線を画す一角があった。密やかな正座で冷徹に盤上だけを見つめられている。

 背中を流れる黒髪に部屋の照明が染みこんできらきら小川のような美しさを醸していた。横顔はルーブルに居並ぶ彫刻像のように整い、氷細工のように清んでいた。


 わたしはつま先立ちで近づくと、その先輩の横にそっと膝を着いた。


「ごきげんよう、弘子さま」


「ごきげんよう、美月」


 膝立ち姿のまま、視線をざっと盤面に流す。

 詰碁つめごだ。

 驚いたのは弘子さまの棋力きりょくからは考えられないほど、初心者向けの問題だったことだ。


「あのぉ、これは」


 わたしの動揺をまるで楽しむように「一緒にやりましょう」と誘ってこられた。


 弘子さまの長い指がスッと対面へ招く。

 魔法にかけられたようにからだは立ち上がり、碁盤の横を歩いて正面へと移動した。


 他の部員たちも、ようやく練習を再会したようだ。

 那智黒なちぐろはまぐりから加工された碁石が、本桂の碁盤を鳴らす。軽く目を閉じ、しばし石の音に耳を潤していると「美月が解くのよ」と弘子さまは不満げに仰られた。


 囲碁を打つうえで重要になってくるのは、石の「生き死に」だ。

 盤上に繰り広げられる白と黒の世界。平安のいにしえより綴られる合戦場だ。

 そこには「生きている石」と「死んでいる石」が存在する。

 自分の石を生かしながら、相手の石をどう殺していくか──それが囲碁の勝敗を決める。


 その力をつけるうえで「詰碁」問題はとても大切だ。けれど──


「これは初心者向けですわ」


 わたしの抗議に、

「そのとおりよ、まさか解けないなんて事はないわよね」


 盤の下辺には、二重の輪が描かれていた。

 一一個の黒石を、一七個の白石が、ぐるり取り囲んでいる。

 その中心が三目分空いていた。

 空いている部分は「L」の形になっている。


 何のことはない。

 左下の角に黒石を置けば、残された上の地も右の地も黒石が囲う「聖域」になる。これで白石は黒石を取ることが出来なくなる。


 つまり「黒が生きた」わけだ。


 これを別の場所、つまり「L」の右端や上端に打てば、白石は中心に打ち込んでくる。

 外縁は白石が囲っているのだから、内側にある一一の黒石は全て白石に取られる。


 つまり「黒石が死ぬ」わけだ。


「ふんふん、」

 弘子さまは御機嫌に鼻歌を奏でつつ「よぉし、次はねぇ」と碁石を並べ変えて新しい詰碁問題を披露された。


 また初心者向けの簡単なものだった。

 それも難なく解くと、また新しく並べ直して問題を出される。わたしは、それをまた解く。


 少々苛立って「先輩、これでは朝練の意味がありませんわ」と強い言葉が出てしまった。


 はっ、として俯いた。

 弘子さまは抗議などどこ吹く風で淡々とお話しされた。


「美月ちゃん、囲碁は楽しい?」


 唐突な質問に、どう答えたらよいか考えた。

 それを弘子さまは、「楽しくないの?」と心配される。


「楽しいです。とっても、」


「そう、良かったわ。美月とは中等部からのつきあいよね。わたしが囲碁に誘っちゃって……あなた、それからずっと囲碁しかやってこなかったでしょう。申し訳なく思っているのよ」


「そんなことありません」


「どうして棋院きいんの誘いを断ったの?」


「……えっ、」


「外来向けのプロ採用試験の話。美月の実力と実績があれば楽に通るでしょう」


「わたしはプロ棋士きしになりたくて囲碁をやっているわけではありません」


「この詰碁はね。中等部の頃に教えてあげた問題よ。忘れちゃったのかしら。一見難しく見える問題も冷静になれば解ける」


 お話の意図が読めず首を傾げた。


 弘子さまは盤上の石をいったん碁笥ごすへ戻される。

 それから黒石をひとつ摘まんで、左隅の星──わたしから見て右手、利き手側へ打ち込んで来た。


 バシッ!


 かなり強い音が響き部室の注目を集めた。

 驚き目を見開く者、怯えたように躰を震わせる者、何事かと耳打ちする者。場の空気は緊張感に包まれる。


 紳士淑女のスポーツとして発達した囲碁において、初手から相手の利き腕側に石を打ち込むのは礼儀知らずの無法者といわれる。


「……弘子さま?」


「次、どう打つ?」


 これは挑戦だろう、と理解はしていた。

 けれど、わたしは弘子さまが打ち込まれた「無邪気」な黒石を、愛おしくたぐり寄せた──つまり、手前で抵抗すること無くわたしの白石はそっと奥の地へと捨てられたのだ。


 弘子さまの顔色が変わる。

「美月、あなたが囲碁を辞めたがっていると聞いたわ」


 心臓が「どきんっ」と大きく鼓動した。


「誤解しないで欲しいの、怒っているわけじゃなくてよ。わたしたち三年生なんて色々理由をつけて、こうして朝練に顔を出しているのはわたし一人だけ。二年生だって、ねぇ」


この場にいた同級生に微笑まれる。


「ち、ちがいます」


「違う、の?」


 わたしは言葉に詰まる。弘子さまに聴きたい、ううん問い詰めたい。

 でも……


「美月の考えがわからないわ」


「わたしは……、どうして、どうして外国なんですかッ!」

 ようやく吐き出せた自分の気持ち。


「美月、あなた……」


「進学先は垣根かきね越しの学舎だと思っていました。他の大学へ行くなんて、しかも海外留学だなんて。わたしは弘子さまに……お姉さまに憧れて囲碁を始めたの。お姉さまと一緒に囲碁を打ち続けたいの」


 もはや他の部員のことは気にもならなかった。噂話になろうと関係なかった。弘子さまが遠くへ行ってしまう寂しさに心が潰れそうだった。


「お姉さま、行かないで、美月を捨てないで、」


 弘子さまは何も言わず、ただわたしを見つめた。憮然とした表情にも感じたが、どうやら機嫌を損なわれてしまったのは確かなようだった。


「美月、わたくしと対局して頂戴。逃げることは許さなくてよ」


 発した言葉には険があった。

 わたしは嫌われることへの恐れから躰を震わせた。

 弘子さまは、わたしから視線を外すと立ち上がり、集う部員全員を見渡しながら仰った。


「本日、放課後に西園寺美月アマ五段と、わたくし華森はなもり弘子アマ三段の対局を行います。見届け人となってちょうだい」


 一気にまくし立てると、再びわたしを見下ろし「懸賞を賭けましょう」とほくそ笑んだ。戸惑うわたしを無視して「美月が勝てば、わたくしは何でも一つだけ言うことを聞いてあげる」


「え、なんでもですか?」


「そうよ、なんでも良いわ。わたしに留学を辞めさせたいのなら、それでも構わない……ただし、」

 弘子さまの瞳は上機嫌だった。


「あなたが負けたら、わたしから卒業してもらいます。わたくしも、美月という後輩のことはすっかり忘れて外国へ行きます」


「そんな、嫌です!」


「勝てばいいのよ。棋力は、あなたのほうが上よ。負かしてごらんなさい」

 ざわめく部室で、ぼろぼろ涙が流れ続けた。



   ○●○●   ○●○●   ○●○●   ○●○●



 皆が学食へ出かけていったお昼休み。


 午前中の授業内容を「覚えていない」自分に当惑しながらも、ひとりベランダに設置されたオープンチェアに腰掛けパンを千切った。

 機械的に喉へ押し込むだけの動作に自分でも可笑しくなって、そのままうつ伏せになる。涙が零れた。


「美月、」

 声をかけてきたのは同級生のたちばな千春ちはるだった。

 同じ囲碁部の部員でもある。


「今朝は、一年生もびっくりしてたよ」


「……ごめんなさい」


「ああ、ちがうちがう。非難しているわけじゃない。美月が大きな声を出したの、一年生は初めて見たからね。あたしは二回目だけど」


 千春の顔を見あげた。太陽のように明るい笑顔がそこにあった。

「後輩たちを驚かせてしまったわね」


「っていうか、美月に憧れている一年は多いからさあ。お淑やかなお姉さまが取り乱す姿は衝撃だったでしょうね」

 言いながら横に坐り、お弁当箱を広げはじめた。


「そうなの?」


「そうだよぉ、自覚無いの?」


「全然」


「困った子だねぇ。とにかく、弘子さまとの対局は頑張りなさい。一年生は殆どが美月の応援団だから。あたしもね」


「そんなことを言われても……、」


「弘子さまが留学する理由知ってる?」


「愛想がついた」


「んなわけないでしょう。お父さまと一緒に暮らすためみたいよ」


「え?」


「植物学者でしょう、弘子さまのお父さま。去年からロスの……ええっと、なんとかいう大学の教授になったの。お父さまを尊敬されてたからねぇ、弘子さま」


「それでロサンゼルスなんだ。わたしには、なにも教えてくれなかった」


「はい、あーん、」

 千春がウインナーを箸でつまむ。タコさんの形に切られたウインナーだ。

 わたしは「いらない」と首を横に振る。


「あたしに遠慮は必要なし。美月の好物は知ってるよ、ほら口を開けなさい」


 キツい塩味が舌の上を転がる。

 苦みを我慢して飲み込むと、千春は満面の笑みになった。


「あたしの自信作。どうよ」


「他の方には食べさせないほうが良くてよ」と呟きと共に笑いが込み上げてきた。


 しかし、気づけば千春の胸で泣いていた。


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