月夜の浜辺

碧海にあ

月夜の浜辺


 男が目を開くと、そこは見知らぬ浜辺だった。

 男には、海に来た覚えがない。つい先程まで――もっとも、自分の考えるつい先程が本当にであるかは分からないが――帰宅するため電車に揺られていたはずである。

 男は夢を見ているのかと思い、頬をつねった。痛い。どうやら夢ではないようだった。

 そうなると、どうにかして無意識にここまで来たのか、はたまた誰かに拐かされたのか。男にはそのくらいのことしか思いつけなかったが、どちらも現実的ではなかった。男の生活圏は海から遠い。一番近いところでも五時間はかかる。男は今日も遅くまで残業をしていたが、ここに来る前と同様、月はまだ高い位置で淡く輝いている。それほど時間は経っていないはずだ。全く、不可解である。

 スマホ。唐突に思い当たって自身の姿を見下ろすと、持ち物がない。ポケットに入っていたはずのスマホも財布も家の鍵も、抱えていた会社用の鞄も。何処かへ行ってしまったようだ。これじゃ帰れなさそうだ、とぼんやりした顔で男が呟いた。やっとの思いで内定もらった会社だったのに、辞めざるを得ないかな、大変だな。この男は、驚くほど気まぐれで呑気だった。

 男はコンクリートの防波堤に座らされていた。その下には砂浜が、そしてその先にはだだっ広い海が続いている。海は広くて、暗い。浪は穏やかで砂浜一帯が静かだった。


 ややあって、男はふと立ち上がった。防波堤を降り、砂浜に出てみる。革靴と靴下を脱ぎ、裸足になった。まだあたたかい海風とは対照的に、砂は少しひやりとしていた。気まぐれな男は退屈していた。そのまま歩いてみることにする。海は、男が思い浮かべるのと何ら変わらないただの海だった。変わった様子は全く無い。

 あまりにもありふれている砂浜に何処か違和感を感じ、男はそこで初めて海の反対側を仰いだ。いかにも田舎の海の町、といったような景色が広がっている。信号のない片側一車線の長い道。いつ閉まったのかもわからない何かの店。暗くてよく見えないが、後ろでどっしりと構えている山は青々としているのだろう。木々が海風に揺れていた。道路の山側には車庫の横に小舟を転がした家屋が点々としている。

 そこはたしかに人の住んでいる町の姿をしていた。しかし、肝心の人の姿がどこにも見当たらなかった。夜中なのだから普通なのかもしれない。男はちらとそう思ったが、やはりおかしい。人の姿どころか、気配さえ捉えることができなかった。

 地元の人に話を聞くこともできなさそうだな、と男は思った。そうして砂浜に向き直る。また歩き出した。


 海を眺めながら十五分近く歩いただろうか。代わり映えしない景色の中で突然、男の視界の端に何かが映った。波打ち際に、何かが落ちている。男は引き寄せられるようにそれの方にふらふらと進んでいった。近くまで来て見ると、それは何かのボタンである。男がしゃがみ込んで覗く。それは黒い箱の形をしていた。黒い直方体に一つ、緑色の大きなボタンがついている。日常では中々お目にかからないタイプのボタンである。それがどんなボタンなのか、見当もつかなかった。男が拾い上げる。思いのほか軽かった。それは古い無線機ほどの大きさで、男の手には持ちやすかった。男は少しの間、感触を確かめるように握っていたが、無機質な質感のそれはやっぱり、何かわからなかった。

 男は砂浜に座り込み、今度は月に透かすように持ち上げてみる。くるくると回し角度を変えて見ていると、ボタンのすぐ下に何か小さな凹凸があるのに気付いた。月明かりで照らして見てみると、そこには文字が彫られているようだった。"Vuoi spingermi? " 男は、そこに何と書かれているのか理解できなかった。その言語を男は知らない。男はその文字の意味するところがそのボタンの意味を示す、重要なものなのだろうと思った。男は疑問文と思われるその文字列を眺め、指でなぞる。頭を捻らすこともできず、ただただボタンと見つめ合った。


 そうして解読を諦めた男は暫く海を眺めていたが、やがて変化の起こらない時間に飽きてしまった。よく知らない、興味深いはずの世界に来たけれど、不思議とどこか見て回ろうという気も起きなかった。変哲のない月、変哲のない海、変哲のない環境。それでいて、全てが可怪しく思われる。だがその可怪しさはごく小さくてすぐに指の隙間から溢れ落ちて行ってしまうようなものだ。男の関心は、再び手の中にあるボタン一つに注がれた。男は辺りを見渡して、それからもう一度そのボタンと見つめ合う。

 押したら何が起こるのか。何も起こらないのか。男の好奇心が刺激される。男の目は無邪気な残虐さを持った子供のようだった。視線の先でボタンは、自身が押されることを望んでいるかのように月光をうけて妖しく輝いたり、また触れられるのを恐れているかのようにくすんだりしていた。

 見つめ合った後、男は一度月のある海に目をやり、ゆっくりとボタンに手を伸ばした。緑の丸に触れ、指先に少し力を入れる。男は期待に顔を恍惚とさせる。婀娜っぽい女性に見惚れる青少年の目で自分に触れられるボタンの姿を見つめていた。

 男はボタンを押し込んだ。

 その瞬間から、男には海の音が消えたように思われた。一瞬の長い沈黙の後で遠くの海が淡い白に輝く。その光は徐々に大きくなり、海から出て辺りを白く包んだ。男は思わず目を閉じてしまった。男は赤い瞼の中を見ていた。


 瞼の中が黒に戻ったあとで男は目を開いた。そして、驚いた。そこは男の家の最寄駅、いつも通勤時に使っている駅のホームである。そこに男は立っていた。

 戻ってきた。だがすぐにおかしい、と思い当たる。男にはやはり、電車から降りた覚えはない。どういう理屈なのか。見当もつかなかった。何か不思議な力が働いたのだろうか。いや、そんな馬鹿げたことがあるか、夢に違いない。しかし、あれは夢ではなかったはずで――

 そんな纏まらない思考を頭の片隅に浮かべていたが、男の心を酷く惹きつけていたのはあのボタンだった。自分は確かにあのボタンを押した。そして海が光った。それだけが、男がボタンについてわかることである。その他のことは、あの後どうなったのかは、わからない。

 あるいは、ボタンの下部に彫られていた文を翻訳したなら、何かわかったかもしれない。残念なことに、男にはもう思い出すことができなかった。あの一文がわかれば、きっとすべての謎が解けたはずだったのに!

 そして男は、あんなものを拾わなければ良かったと後悔した。男は、どうしようもなくボタンに焦がれていた。あんな曖昧な終わり方で、しかもこんなにも心奪われてしまうのならば……。男はしかし同時に、そんなことはできなかったとも知っている。浜辺で独り月光を浴びていたあのボタンは、気にせずにはいられない魅力を放っていた。一度手に取ってしまえば最後、あのときの男にはどうしても、月に向って、浪に向ってそれを抛ることができなかったのである。

 男は少しずつ冷静さを取り戻し、やがて帰路についた。やはり、よくできた夢だったのかもしれない。男はそう思うことに決めた。男は明日も、あのボタンよりずっと明解で複雑な世界で仕事をせねばならぬのだ。難解で単純なボタンに思いを馳せている暇はない。男の顔に浮かんでいたのは諦めだった。男は大人の、褪せた灰色の目をして帰っていった。

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