あの日の幸せを僕はまだ知らない

黒瀬早梅

とある少年の一週間

お前はきっと、幸せだよ。





 何もわからない。今の僕を簡単に表すとしたらこの一言が正しいだろう。机に置かれた一枚の紙を意味もなく持ち上げながらそう考えた。B5サイズの小さなその紙は、コーヒーでも溢したのだろう、茶色く滲んで何が書いてあるのかわからない。それでも僕は、何かに行き詰まるといつもその紙を見る。まるで何かを探すかのように。まるで何かを受け取るかのように。いくら眺めたところで何かが見えてくるわけではないし、隠れたメッセージだなんて遊び心がそこにあるわけでもない。ただ、わからないというのが今の自分と似ているから。そんな理由で満たされた気持ちになっているだけだろう。

 持ち上げたペンを意味もなくぐるぐる回してはマグカップを傾ける。カチカチと時計の針の音だけが響く中、机上に放り出されたもう一つの紙に目をやった。忘れられたかのように、それでも確かに存在しているその紙には、「進路調査票」というなんとも堅苦しい文字。そこには「二年B組十番香月陸」なんてつまらない情報しか書かれていない。

 高校二年の夏休み。そろそろ進路について真剣に考えなくてはならない時期だ。そんなとき、ふと脳裏をよぎるのは父の姿。僕にとって唯一の家族という存在だが、そこにあるのは逞しい父親の背中ではなく、くたびれた雑巾のようになんとも弱々しいそれだった。精神病を患っている父は、家に安定した収入など入れてくれない。長年解雇されることなく同じ職場で働き続けているところだけを見れば安心できるのだが、僕が普段見ている姿を鑑みるとそうもいかない。家の中に籠り何かをぼーっと眺めている日があれば、何も言わずにふらっと外出して丸一日帰ってこない日もある。また、その度に一日分の収入を使い果たしてきてしまうのだから、同居人としては困ったものだ。そんな不安定な日々を送っている僕らだが、それでも今日まで生きてこられたのは、得体の知れない救いがあるからだ。僕と父の暮らすこの家には毎月誰かからの仕送りが届く。父が言うには知り合いらしいが、顔も名前も何もかも知らない僕からすれば、不審極まりないし、それこそ不安定である。

「あ、もう無い」

 重い腰を上げ、進路調査表に取り組もうとした際に用意したミルク入りのマグカップ。全くと言っていいほどのペンの進まなさ具合とは裏腹に、だんだんと減っていったその中身がとうとう底をついてしまった。

 マグカップを片手に立ち上がる。新たに中身を注ごうと思ったのだ。ギイギイと鳴り響く階段を降りると、どこからか舞い込んだ涼しい風が優しく頬を撫でた。

 冷蔵庫のあるキッキンへと向かうには、正面からまっすぐ続いている廊下を通る必要がある。ガサツな父の影響だろう、まるで物置のようにガラクタやら置物やらが道幅を狭めているこの場所には、一つだけ、それが異質であるかのような空気を纏っている物が置かれている。

──お母さん。

 かなり昔に亡くなってしまった母親の写真だ。纏っている空気から目を逸らすように普段は視界に入れないそれが、今はどうしてか気になった。何かから忍ぶように足音を殺してゆっくりと近づいていく。マグカップを近くの棚に置き、バッと効果音がつきそうな程素早くそれを手に取った。

(これ……)

 その写真を認識した途端、強烈な程存在を主張するのは不審感だ。そこに写っているのは赤ん坊、つまり幼い頃の僕、を抱いている母親。ここだけ見れば何の変哲もないごく普通の写真である。問題なのは、母親の隣に立つ人物だ。少年と言うには大人びていて、青年と言うには幼い。照れくさそうに微笑む彼は、身に覚えが無いようで、見覚えがありすぎる人物だ。

「え、僕……?……あ」

 ガシャンと音がして、掌から写真立てが滑り落ちる。写真に写っていたのは、赤子の僕と母親と、現在の姿をした僕。フレーム越しに自分と目が合った衝撃に、手から力が抜けたのだ。

 写真立てはフレームが外れ、中の写真が飛び出してしまっている。それを直そうと慌ててその場にしゃがみ、フレームに手を伸ばす。

 カチッ。写真をはめるとやけに小気味よい音がなった。

 不思議と耳に残るその音の余韻が消えるより、それが起きたのは先だったと思う。直ったばかりの写真立てを中心に、あたりが白い光に包まれた。どこか遠くで鳴っているカチカチという時計の音。それはゴーンという低い響きと共に、徐々に近づいてくる。それらが脳全体に浸透し、自分の体が共鳴を始めたとき、光がさぁっと消えていった。

「ここは……」

 そこに広がっていたのは、どこか知らない場所なんかではなくて、間違いなく先程までいた自宅であった。





 窓から差し込む西日に照らされるのは、いつ使うのかもわからない品々。棚に飾られた木彫りの熊に大業な壺。床には中身の無い植木鉢が積まれており、誰が弾くのかもわからないアップライトのピアノは埃を被っている。こうして見ると使い道のわからないもので溢れていることに気がつくと同時に、違和感が脳を掠めた。果たしてこの廊下はこれほど広かっただろうか。少なくとも、今のように廊下の端に置かれたものまで確認することはできなかったはずだ。

「うーん、気のせいか?」

 それはそうと、とりあえず飲み物を用意してしまおう。マグカップを置いておいた場所へと手を伸ばす。しかし、その手が何かを掴むことはなかった。

「え、ここに置いたはずだよな」

 マグカップがそこから忽然と消えてしまっていた。他の場所にでも置いていたかと周りを見渡してみても、どこにも見当たらない。それどころか、ずっと手に持っていたはずの写真立てすらもなくなっていた。

「どうなってんだ……?さっきまでちゃんとあったはずなのに」

「どうしました?あまり騒ぐとこの子が起きてしまいますよ」

 不意に背後から声がした。聞き覚えのないその声に後ろを振り返ると、そこには赤ん坊を抱いた一人の女性が立っていた。

「あら?お客様かしら」

 女性は首をかしげるとゆっくりこちらへ近づいてくる。彼女の姿を見た瞬間、その場から体が動かせなくなった。母と自分が写る写真を見たときと同じような衝撃が全身を走る。

 不可思議な現象の連続に、脳が逃げろと言っている。その名を呼んではいけないと。そうなる前にこの場を去れと。

「お母さん……?」

 しかし、僕の口はその命に従うことなく言葉を発した。まるでそうなることが示し合わされていたかのように、それは自然なことであった。

「なんだかそう呼ばれると照れくさいですね。ほら、この子はまだ喋れないから」

 そんなどこかずれたことを言う彼女は赤ん坊の頬を愛おしそうに撫でた。ただ、彼女が僕の呼びかけの本当の意味に気が付かなかったのは幸いであったかもしれない。

「ああ、そうでした。君はどうしてこの家に?仂成さんのお知り合いかしら」

 仂成とは父の名前である。父の名を口にする母そっくりの女性。写真でしかその姿を見たことはないが、他人の空似としてはあまりにも似すぎているように思う。しかし、母親は十何年も前に亡くなっている。そんな母に瓜二つの彼女は一体誰なのだろう。母の親戚だろうか。それとも──

「あの、すみません。ここは貴方の家ですか?」

「ええ、そうよ。わかってなかったの?」

「はは、そうですよね。すみません」

 おかしい。自分はずっと自宅にいたはずである。その証拠に景色はちゃんとそのままで、家は動くわけもなくここにある。何も変わっていないはずなのだ。

──本当に?

「……あ」

 視界からフィルターが外れたように、瞳が、脳が変化を認識していく。

 ピアノなんてなかった。違う、まるで存在を隠すように物に埋もれていたはずだ。植木鉢だってそう。壺も、熊も。窓には見知らぬ植物がぶら下がっていて、隣には誰の物かもわからない傘がある。あれも違う。これも違う。ちっぽけな違和感なんて比にならない。ここはあの場所に似て非なる場所だ。

「あ、あ……」

 

 ここは何処だ。


「だ、大丈夫!?体調悪い?」

「ごめんなさい……!」

 僕はその場から逃げ出した。





「どうなってんだよ……」

 しゃがみ込んだ僕は頭を抱えた。見慣れた玄関の先に広がっていたのは、見慣れた街並み。あの家の出口は僕の知ったとおりの場所にあった。今僕がいるこの道だって、ずっと前から知っている。ついさっきまで僕がいた街と変わらないように思えるのに、どこか違っているこの場所は、やはりあそこではないのだろう。

「君、そんなところでどうしたんだい?」

 いきなり背後から聞こえた声に、弾かれたように振り返る。道端に座り込む不審な僕を見下ろしているのは一人の男性だ。

「迷子かな。それともお母さんと逸れた?」

「どっちも大差なくないですか。」

 高校生相手にしては大分幼稚な心配をする男性にぼそりと返す。とはいえ、今のこの状況は、それに当たらずも遠からずといった具合なので笑えないのだが。

「すみません、すぐに退くので」

「……君、香月さんの知り合い?」

 男性の視線から逃げるようにその場を退こうとしたところで彼がそんなことを尋ねた。見上げた瞳には、警戒の色が見える。どうやら簡単には振り切れそうにないらしい。

「知り合いっていうか、僕も香月ですけど」

「ああ、そうか。苗字が同じだから。じゃあ、仂成さんと菊江さん。知ってる?」

 男性の発言からして、その二人の名前は香月仂成と香月菊江だろう。仂成は父の名前だし、菊江は母の名前だ。彼が言っているのは、間違いなく僕の両親のことである。

 それはそうと、何やら勘違いをされている気がする。

「迷子じゃないですからね」

「ごめんごめん。それで、二人のことは知ってるかな?」

「……知ってる」

 果たしてわかっているのかいないのか。軽く受け流した男性に、半信半疑になりながら答える。

「そっかそっか。君が香月さんちから飛び出してくるのが見えたから何事かと思ったけど、知り合いだったんだね」

 男性のその言葉にハッと顔を上げると、穏やかそうな瞳と目が合った。

 その、胸の内を見透かそうとするような視線が、嫌いだ。

「どうかした?」

「え、あの家って香月……さんの家なんですか?」

 言葉にしてから失敗したと気づいた。男性にはあの家から出てきたところを見られている。そんな状況で誰の家かわからないなんて怪しいどころの騒ぎじゃない。通報されてもおかしくないレベルである。

「驚いた、知らなかったのかい?それじゃあ君は……」

「……失礼します!」

 咎められているような責められているような、そんな空気に耐えられなくて、再びその場から駆け出した。まるで罪を犯してしまったかのように、息がしづらかった。



 木々の合間に身を隠し、大きく息を吐き出した。

 住宅街の中に位置する公園。この場所もよく知っている。小さい頃は飽きる程駆けまわったし、今だって通学中に毎日通りかかっている。ただしここもまた、僕の知るあの場所とは違っているようだ。 

 くうを見つめる木馬の瞳。何かあるわけでもないのに、それが何故か気になって、その空虚な瞳を見つめた。あれは確か五年程前の出来事だったか。老朽化により二台の木馬が撤去された。黄色いテープに囲まれて、忘れ去られたように無くなった木馬。大好きだったものが無くなる衝撃に、その前日まで意味もなく通い詰めた。そんな木馬が今も存在するこの公園は、一体何処なのだろう。

「やっと追いついた。いきなり走り出すからびっくりしたよ」

 突然聞こえた声に思わず肩を震わせる。振り向いた先には、再会にしては早すぎる程に、一方的に別れたばかりの男性がいた。



「もしかして俺怖かった?おじさん怪しい人じゃないよ?」

「危険な人って皆んなそう言うと思いますよ」

 走って追いかけてきたのだろう、切れた息を整えながら男性が言った。彼の発言は怪しい人物のセリフそのものであると思うが、今この場で怪しいのはむしろ自分である。もしくはどっこいどっこいといったところだろうか。

「まあいいや。それで、君は何で香月さんちにいたの?」

「……他人の家に侵入した記憶は無いんですけどね」

 予想通りのその質問に、視線を逸らして答えにならない答えを返す。ただの言い訳にしか聞こえないが、嘘だって言っていない。僕だって好きであそこにいたわけではないのだ。

「あはは、まあそういうこともあるよね」

「え、あるんですか……?」

 真面目な顔でてきとうなことを言う男性に聞き返す。その内容と表情が一致しない彼に、本気なのかそうでないのか判断がつかない。

「だって君がそうなんでしょ?」

「まあそうですけど……」

「ならそんなこともあるんだよ。というか、おじさんもある」

「あるんですか!?」

 ますます本気かわからない発言をする彼に、たまらず同じセリフが飛び出る。それはそうと、男性は一体何をしたいのだろう。人の家に勝手に入ったことを問い詰められるのかと思いきや、そういうわけでもなくふざけたようなことを言う。それでもわざわざ走ってまで追いかけてきたのだから、何かそれほどまでの用事があるのだろう。

「それじゃあそろそろ真面目な話をしようか。と、その前に一つだけ。君、名前はなんて言うんだい」

 男性の質問に、悩んだのは不思議と一瞬だった。

「陸。香月陸です」

 得体の知れない男性に、訳のわからないこの状況。おそらく母親であろう人物が存在しているこの場所で、僕という存在の扱いは定かでない。両親と知り合いであろう彼が僕を知っているかはわからないし、知っていたとしてもこれまでの話に矛盾が生まれるだけである。本名を伝えることの危険性は充分わかっているが、それでも正直に明かすべきだと判断したのは、直感としか言いようがないだろう。

 僕自身何故そう感じたのかは今になってもわからないが、一つだけ言えることがあるとしたら、このときの選択は英断であったということだけである。

「りく……。そっか。やっぱり、そうなんだ」

 男性は僕の答えに対して含んだような反応をした。顎に手を当て、意味深に呟く彼は、一つ一つ確認するようにこう切り出した。

「まず、陸君は香月さんの家にいた。これは合ってるね?」

「は、はい。いました。……何故か」 

「で、仂成さんと菊江のことを知っていて、君の名前は陸君と」

 これまでの会話を復習するかのような男性の言葉に一つずつ頷いていく。まるで悪事が徐々に暴露されていくような、僕にとって居心地の良いとは言えない空気が流れているが、ここは素直になるべきだと思った。

「でも、陸君はここが何処だかわからないんだね」

 やけに確信した響きだった。そして、それは今の僕の状態を的確に表していた。

「何で……わかるんですか」

「これはおじさんの勘なんだけどね、君は俺と同じだと思うんだ」

 僕と彼を同じだと言う男性は、遠い昔を懐かしむように目を細めた。

「おじさんも昔、知らない場所に行っちゃったことがあってね。そこは知ってるはずなのに違う場所なんだよ」

 男性のその話は、今の僕の状況と一致していた。彼は僕に向き直ると、僕の瞳を正面から見据えてこう言った。

「でもこれはただの勘だからね。いやぁ、間違えて全く関係ない子にこの話しちゃったことあるからさ、おじさん」

「いや、だめじゃないですか!」

 ここで突っ込んでしまったのは仕方がないと思う。話の緩急差の激しさに、これまでの話が吹っ飛んだ。

「うん。でも、きっと陸君はそうじゃないでしょ?」

 そうじゃない。それは、僕が男性の話と同じ状況であるということだ。

 彼なら何か知っているかもしれない。何処かに迷い込んでしまった僕を、助けてくれるかもしれない。

「はい。僕も同じです」



 男性の言葉を肯定した僕に、彼が言った。

「これから香月さんの家に行くんだけど、陸君も来る?」

「いや、何でですか」

 彼の提案の脈絡の無さにそう聞き返す。それに対して男性は何かに気がついたように声を上げた。

「あ、そうか。お母さんに会うのはまずいかな?」

「え、お母さん?」

「そう、お母さん」

 これまた突然現れたお母さんという単語。男性の発言から考えると、その香月さんちにお母さんがいることになる。僕がいた香月という人の家。そこに住んでいるのはおそらく香月仂成と香月菊江。つまり、僕の両親である。それならば、お母さんに会うという彼の発言も理解できる。ただ、その状況はさっぱり理解できない。

「ちょ、ちょっと一旦整理させてください。あの香月という人の家には僕の父と母が住んでいるんですよね?」

「うん。というか、正真正銘君の家だと思うよ?」

「それって、どういう状況ですか!?」

 僕が仮に元の場所とは違う、いわばパワレルワールド的な場所に来てしまったのだとして。この世界には母が生きて存在している。軽く流してここまで来てしまったが、これはとんでもないことなのではないか。

「どういうって、さっきまでそういう話をしてたじゃん?」

「確かにそうですけど……」

 そういえば、母親と思しき人物は赤ん坊を抱いていた。あれは弟か妹であったのだろうか。もし母が生きていたら、僕に弟妹ができていたのかもしれない。そこまで考えて、あれと思い当たった。

「お母さん、僕のこと気づかなかった……」

 あのときの母の態度は間違いなく他人に対するものであったと思う。彼女が自分の母であるならば、あの対応はおかしい。

「まあ無理もないと思うよ」

「え、そうなんですか」

「うん、だって……ああ、いや。これは俺が言わないほうがいいかな」

 状況を飲み込めていない僕に、男性は真相を隠した。

 彼は僕の母親が、僕を僕だと気がつかなくても仕方がないと言う。一般的に、その考えはずれていると思うが、それが正しいのだとしたら。僕は、何かを見落としているのかもしれない。

「とりあえず行ってみない?わかることもあるかもしれないよ」

「そう、ですね。行ってみることにします」

 どうせ他に行く当ても無い。ここは男性に従おうと思った。



「そういえば、今の俺って凄く怪しくない?」

「今更過ぎません?」

 僕の自宅であるらしい家へと向かう道すがら、いきなり我に返った男性にそう返す。彼が怪しいのは今に始まったことではない。その言動は不審者のそれであったと言っていいだろう。初対面の男性に対してなんとも失礼な物言いだが、事実なので仕方がない。

「手厳しいねえ。でも、この年になって自己紹介なんて、なんか気恥ずかしくない?」

「ちょっとよくわかんないです」

 年齢を理由に自己紹介を渋る男性だが、彼の言うことはいまいちよくわからない。年齢は関係ないと思う。

「そう?じゃあ言うけど、八雲遥人。これが俺の名前ね……ってやっぱり恥ずかしいじゃん!」

「ええぇ」

 恥ずかしいと言いながら両手で顔を覆う男性。その仕草は大袈裟だと思うが、耳の先がほんのり赤く染まっているところを見ると、彼はふざけているわけではないのかもしれない。

「はぁー。あ、そうだ。菊江は俺の姉ちゃんだから、おじさんは陸君の叔父さんね」

「ええ!親戚だったんですか!先にそれを言ってくれれば良かったのに」

 全く関係ない近所の人だと思っていた。どうりで距離が近いわけだ。彼のそれは元々のものかもしれないが。

 八雲さんは確かにその通りだと笑った。



 再び辿り着いた香月家。どうやら自宅であるらしいこの家を、改めてじっくりと見回した。当たり前と言うかなんと言うか、表札には香月と書かれている。

「心の準備とか必要だった?」

 既にインターホンを鳴らした後の八雲さんが言った。何年も会っていない母であること以前に、一度逃げ出してしまった相手である。必要かと言えばもちろんその通りであるが、今からできる準備など無いに等しい。もうどうにでもなれといった気分である。

 僕が大丈夫ですと答えるのと、玄関の扉が開くのは同時だった。

「いらっしゃい、今日は何の用?」

「出張から帰ってきたからそのお土産と、彼を紹介したくて」

 ほら、と押し出されて一歩前へ出る。母は僕の姿を視界に入れると目を見開いた。

「貴方はさっき会った子よね?遥人の知り合いだったのね」

「えっと、まあ。……さっきはすみません」

 それなりに覚悟はしていたが、この場の空気がかなり重く感じる。テストで赤点を取り、学校に保護者を呼ばれていた友達の気持ちが痛い程よくわかる。

「彼を責めないでやってくれると助かる。初対面だったの忘れて先に行かせたおれが悪い」

「何もされてないし、そういうことなら今回は見逃してあげる。それに遥人の知り合いならそんなこともあるわよね」

「ありがとう、ございます」

 許してくれるらしい母にぎこちなくも礼を伝える。それはそうと、八雲さんの知り合いだからと納得されるのはどうなのだろう。彼がよほど規格外なのか何なのか。

「でも、もうしちゃだめだからね」

「あ、はい。もうやらないです」

「うん。よろしい」

 そう言うと母は人の良さそうな笑みを浮かべた。

 僕の返答は答えというより願望だ。この場所に来たのだって突然で、どうしてこんなところに今いるのかもわからない。いきなり知らない場所に飛ばされるなんてことが再び起きないとも限らないのである。

「ああ、そうだ。陸君の様子はどう?元気?」

 不意に八雲さんが尋ねた。突然飛び出た自分の名前に体が反応するも、この状況からしてその陸君は僕のことではないのだろう。

「ええ、今は眠っているけど、普段は元気いっぱいよ。よかったら会っていく?」

「だってさ、どうする?それとも答え合わせには早すぎるかな?」

 意味深なことを言って八雲さんが僕に判断を委ねる。「陸君」が一体何のことなのか、気にならないと言えば嘘になる。母の言い方から考えると、彼女の知り合いという可能性はないと見ていいだろう。ペットでも飼っているのか、はたまた小さい子どもだろうか。どちらにせよ、僕と名前が同じであるのは引っかかる。

「そうですね。見させてもらってもいいですか」

「ええ、もちろん」

 母はそう答えた後、あ、と何かに気づいたように声をあげた。

「廊下汚いけど気にしないでね」

「こう見えて菊江はずぼらだから。置く場所に困ったもの全部廊下に置いちゃうんだよ」

「余計なこと言わないでください」

 自宅のあの惨状は、なんと母によるものだったらしい。



 案内されたのは僕もよく知る見慣れたリビング。その中に一つだけ、見慣れないものがあった。

「この子が陸。可愛いでしょ?」

 リビングの一角に置かれたのはベビィベット。そこに眠っているのは言わずもがな、小さな赤ん坊だ。

「久しぶりだなぁ。前より大きくなったんじゃないか?」

「そんなすぐに成長しません」

 八雲さんと母が何やら話しているが、その内容は頭に入ってこない。僕の脳内は、目の前の状況を理解するのに精一杯だった。

「実際に見てみてどうだい?陸君」

 八雲さんの尋ねる声に、じっと赤ん坊を凝視していた視線を上げる。

「えっと、この子って……」

「私の息子よ。陸って言うの」

「は、はい。そう、ですよね」

 悩み事なんて何一つ無いみたいに穏やかな寝顔を見せる赤ん坊。僕を現在進行形で悩ませている張本人だと言うのに、随分呑気なことだ。

 香月家もとい自宅にいたのは、僕と同じ名前の赤ん坊。その正体は母の言葉の通り、両親の息子である。ここまで材料がそろえばもう答えはでているようなものだが、それはなんとも理解し難いものだ。

 この赤ん坊が僕なのだとしたら、今、高校生であるはずの僕はどうなったのだろう。それとも、自身の年齢もあちらとこちらの違いの一つなのか。

「陸君って?」

「ああ、そうそう、彼も陸って名前なんだよ」

 二人の会話が頭上を通り過ぎていく。

──君は一体誰なんだ。

 今の僕では、彼の問いに答えることは叶わないようだ。



「あの、八雲さん。さっきはありがとうございました。僕のこと庇ってくれましたよね?」

 香月家を後にした僕は、八雲さんにそう切り出した。思い起こされるのは少し前のやり取り。香月家に無断で侵入してしまった僕を、自分の落ち度だと彼は庇ってくれたのだ。

「いいよいいよ。陸君の場合は不可抗力だからねぇ」

 礼を言う僕に、八雲さんはなんてことはないと言うふうに返した。そんな彼にもう一度ありがとうございますと伝えると、苦笑した八雲さんはそう言えば、と話を変えた。

「ここが君にとってどんな場所かわかった?」

「えっと、これは僕の予想でしかないんですけど……」

 まるで答え合わせをするようにそう尋ねる彼に、ずっと脳内をぐるぐると回っていた答えを口に出す。僕にはもう、それ以外考えられなかった。

「過去の世界、とか?」

 その言葉に八雲さんは含んだような笑みを浮かべる。

 存命している母に赤ん坊の僕。記憶と違う家の廊下に、撤去されたはずの木馬。現実にはありえないような話だが、口に出してしまえば不思議としっくりくる気がした。

「なるほどね、そう考えるかぁ」

「ち、違いますか」

 はっきりしない物言いに、先程までの自信が薄れる。御伽噺のような話をしているだけに、そんな反応をされるとなんだか恥ずかしい。高校生にもなってファンタジーの世界に憧れているようでいたたまれない。

「でも、そんな話になるってことは、それなりの根拠があるわけだ」

「……そうですね」

 失言をしてしまったようで落ち着かない僕を横目に、八雲さんはふむふむなんて頷いている。その余裕が恨めしい。

「まあ、確かにそういうこともあると思うよ」

「あ、違うんだ違うんですね!?」

 チェックメイト。完全に僕の負けである。

 八雲さんはあははと笑うとゲームの勝敗を告げるように答えを言った。

「うん、その通り、過去で合ってるね。陸君だいせいかーい」

「違わないじゃないですか!」

 揶揄われた。そう気づいたときには既に声をあげていた。

 彼はきっと、僕の反応を見て楽しんでいたのだ。まだ彼と出会って大して時間は経っていないが、八雲さんはよくふざけたような事を言う。彼の話を真に受けるのはやめようと思った。

「ごめんごめん。でも、これでわかったかな?なんでお母さんが陸君に気がつかなかったのか」

「……まぁ。ここの僕はまだ赤ちゃんですもんね」

 それならば、わからないのも仕方がない。自分の息子と二十近く年の離れた高校生を前にして、彼が未来の息子なんですと言われたところで信じる人はいないだろう。ましてや自ら気がつくなど不可能に等しいのではないか。

「そういえば、今どこに向かってるんですか?」

「俺の家。しばらく過ごすことになる家だから、ちゃんと道覚えてね?」

「……ん?」

 そのまま聞き流せてしまいそうな程、自然と発せられたその発言の内容の中に、聞き流せないものが引っかかる。彼の様子は冗談を言っているようにも揶揄っているようにも見えない。ならば、今回は本気なのだろうか。

「あの、過ごす……ってなんですか。八雲さんの家で〜なんて言いませんよね」

「いや、言うよ?だって陸君帰れる家ないでしょ?」

「た、確かにそうだ……!」

 八雲さんの言い分に、自分の状況を今理解した。本来自宅であるはずの香月家には帰れない。あの家族と今高校生である僕は他人という扱いなのだ。

「ほらね。でも大丈夫、優しいおじさんが泊めてあげるからね」

「ありがたいとは思ってますけどその発言危ないですからね?」

 不審者まがいの発言をする八雲さんにそう伝えるも、彼はあははと笑うだけだ。まったく、頼れる親戚の叔父さんであるというのに、こういうところが気の抜ける人である。

 それでも、彼との接し方というのがわかった気がした。

「おわっ」

 隣から聞こえた声に振り向くと、八雲さんが崩れたのであろう体勢を立て直していた。

「あー、俺坂道苦手でさ」

 もしやこの緩い下り坂でつまずいたのだろうか。

 前言撤回、どうやら八雲さんを理解するのは思ったよりも難しいらしい。





 八雲さんはドジっ子なんだそうだ。彼の年齢で「ドジっ子」はないだろうと思わなくもないが、何故かそれがしっくりきてしまうのが八雲さんという人である。

「いくらドジっ子と言っても料理はできるから安心してね」

 八雲さんはそう言っていたが、目の前でフォークが宙を舞っているのだから、それを信じろと言う方が無理があるだろう。彼が手にしていたものが刃物の類でなくて本当によかったと思う。ただ、たとえフォークであれども凶器になりえることには変わりないのであるが。

「足りなかったら遠慮なく言ってよ。若い子の食欲は三十路のおじさんとは全然違うからね」

 いっぱい食べてね、とテーブルに置かれたのはたくさんの唐揚げ。ドジっ子が油なんてものを扱って無事でいられるのだろうかと不安になるが、八雲さんに火傷を負ったような痕跡はないし、唐揚げにも外傷はないようである。彼の言う通り、意外と料理はなんとかなるのかもしれない。

「あの、八雲さんも僕と同じ状況になったことがあるんですよね」

「ん、そうだね」

「それじゃあ、どうやって帰ったんですか」

 彼にそう尋ねると、八雲さんは箸を止めて顔を上げた。

「俺の場合は鍵だったかな」

「鍵、ですか?」

「そう、鍵」

 箸で唐揚げをつんとつついた彼は、僕に向き直るとこう続けた。

「鍵でドアを開けたらさ、過去の世界に繋がってたんだよね。で、帰ったときはオルゴール。鍵付きのやつね」

 そう言うと八雲さんは目を細めた。彼のそんな表情を見るのはこれで二回目になる。

「だからたぶん、キーになるアイテムは行きと帰りで同じ。陸君は何だった?」

 彼の質問に、ここに来たときのことを考える。あれは確か、外れた写真立てをはめ直した後のことだった。周りが白い光に包まれて、気がついたらこちら側にいた。

「写真立て、ですね。その中に入ってた写真の方かもしれないですけど」

「そっか。それじゃあ、今度写真撮ろうか」

 写真立ても買わないとね。そう付け足した彼は唐揚げを一つ口に入れた。ゆっくりと咀嚼して、ゴクンとそれを飲み込む。もったいぶるように箸を置いた八雲さんはもう一度僕の方を見た。

「さっきのダジャレじゃないからね!?」

「……いや、わかってますよ!?」

 彼が言っているのは、おそらく「キーになるアイテムは〜」のくだりのことだ。鍵とキーをかけたシャレではないよと、そういうことだろう。

 彼の気持ちはわからなくもないが、格好つけるなら最後までそれを貫いてほしい。

「んんっ。まぁ、こっちに来ちゃった以上、悩んでもしょうがないし楽しんでよ。君が来たことにはきっと意味があるからさ」

「意味、ありますかね」

「うん、あるよ。少なくとも俺はそう思ってる」

 自分が過去に来てしまったと知ったとき、言いようのない不安が僕を覆った。僕がこの世界で行うことは、少なからず未来に影響を及ぼす。過去の僕を知る人がいるこの場所で、母が生きているこの場所で、これから僕がどう生きていくのか。僕には一体何ができるのか。何が許されて、何が許されないのか。迷子のような僕の心は、どこに行き着くのだろう。

「お父さんやお母さんと話をしてみるといいよ。きっと何かがわかるから」

 例えば、両親と出会うこと。例えば、親戚と話すこと。僕は既に間違えているのかもしれないし、これから何かを間違うかもわからない。

「未来で陸君がどう暮らしてたのかはわからないけど、ここは過去だからさ。今だからできることってあると思うよ。……熱っ!」

 どうやらコーヒーを溢したらしい。慌てた八雲さんが椅子から立ち上がろうするも、ゴンという鈍い音と共に再び椅子の上に元通り。台布巾を取りに行きたかったのだろうが、この様子ではしばらく立ち上がれないだろう。涙目になっている彼の代わりに腰を上げる。ドジは連鎖する。今は大人しくしていてもらおう。

 今だからできることがある。テーブルを茶色く染め上げるコーヒーを見つめながら、何故か彼の言葉を反芻していた。



 カーテンの隙間から溢れる月明かりに、深い意味もなく手をかざす。暗闇に浮かび上がる自身のそれは、やけにはっきりしていた。

 今日出会ったのは、八雲さんという親戚の叔父さん。彼の話は嘘のような映画のようなものばかりだった。ただ、それと似たようなことが自分の身にも起きていることから、それらが真実であるとして、不審な点は他にある。それは、僕が八雲さんの存在を知らなかったことだ。母の弟であるという彼。親戚という括りの中で、決して遠いとは言えない彼とは、あれが確かに初対面であった。そうは言っても、母の旧姓は八雲であるから、彼の話が嘘であると決めつけることはできないし、そもそも母は僕が赤ん坊の頃に亡くなっている。父親と母の話をしたことはほとんどないから単に僕が知らなかっただけかもしれない。

 そう考えれば考えるほど、それが正しいように思えてきて、まとまっていた思考が散り散りになっていく。やがて考えることを放棄した僕が、微睡に沈んでいくのは、それからさほど時の遠くないことだった。





 過去の世界に迷い込んで三日が経った。僕は八雲さんの家で驚く程何の変哲もない日々を送っている。

 僕がこちらに来たあの日、カレンダーは八月と告げていた。八雲さんに伝えられた日付によると、どうやらあちらとこちらでそれは一致しているらしい。時の流れについては未だ定かでないが、こればっかりは帰ってからでないとわからない。あちらで大事になっていないことを祈るばかりである。

「そういえばさ、明日香月家でバーベキューするんだけど、陸君も来る?」

 キッチンで洗い物をしている八雲さんが言った。

 彼はドジっ子だが、洗い物をしていて皿を割る、なんて典型的なドジは踏まないらしい。八雲さん曰く、毎日行う家事は動きが身に染み付いているのだと。そのため彼の場合、他人が下手に介入する方がドジは起きやすいそうだ。見ていて心配になるが、僕の手伝いは不要、むしろいらない親切なのである。

「菊江には陸君も連れて行く、って言っちゃったから、君の分も用意してあると思うけどね」

「それだと選択肢ないじゃないですか。……僕、お邪魔していいんですか?」

 バーベキューは気になるが、言ってしまえば僕は部外者である。それなのに着いていってしまってもいいのだろうかと不安がよぎるが、八雲さんは特に気にしてなさそうだ。

「問題ないよ。仂成さんも会いたがってたしね」

「お父さんが……?」

 彼の口から飛び出た父の名に、思わず体が身構える。あちらの僕は、父と上手くいっていたとは言えない。衝突こそなかったけれども、僕と父の間には冷戦のような空気が漂っていた。ただ、こちらでは母がまだ生きているから、あちらの父の姿とは違うのだろうとわかってはいる。それでも、なんとも言えない気分になってしまうのだ。

「うん。だから、陸君が気にすることないよ」

「そうですか……。それじゃあ、行ってみます」

「良かった良かった。じゃあ明日、楽しみにしててね。菊江達気合い入ってたから」

 そう言う彼に頷くと、丁度洗い物を終えた八雲さんは部屋を出ていった。

 たった今参加することになった両親とのバーベキュー。八雲さんの言う通り、僕が彼等に歓迎されているのだとしたら、これはチャンスかもしれない。





 炎が燃えて、熱気と共に煙が上がる。続いて漂う香ばしい香りに、ぐぅと小さく腹が鳴った。

「良かったぁ、陸君が来てくれて。見て、仂成さん張り切ってる」

 母がコップにジュースを注ぎながら言った。ありがとうございますとそれを受け取って、肉を焼いている父を見る。頭にタオルを巻いた彼は、確かに気合が入っているように見えた。

「本当ですね。普段は違うんですか」

「そうだねぇ。いつもはここまでじゃないかも」

 母は苦笑しながら僕のおかげだと言った。今日は客がいるから張り切っているのだと。

 母は皿を机に並べており、父は肉を焼いている。そして八雲さんはと視線を向けると、丁度こちらを向いた彼と目が合った。

「あ、陸君。丁度良かった、写真撮らない?」

 先程まで父にカメラを向けていた彼は、手を挙げながら僕と母の方へと歩いてくる。

「菊江もどう?陸君ズと三人で」

 八雲さんはなんと写真家らしい。そんな彼は今日、本領発揮と言わんばかりにずっと写真を撮っている。

「いいんじゃない?陸君はどう?」

 小首を傾げた母が僕を見つめる。八雲さんをチラリと見ると、彼は任せろとでも言いたげな表情をしていた。

「はい、お願いします」

 赤ん坊を抱いた母の隣に立つ。それにしても、写真というものはいくつになっても慣れない。うまく笑えているだろうか、なんて考えていたら、シャッター音が響いてフラッシュがたかれた。照れ臭くささにどこか居心地の悪さを感じていたというのに、あっという間に終わったそれが、何故だか少し寂しかった。

「こんな感じでどうだい」

「うん、可愛く撮れてる」

 こちらに向けられたカメラの画面を覗き込む。その瞬間覚えた既視感とその正体に、声を上げそうになった。

 写真に写っているのは赤子の僕と母親と、現在の姿をした僕。つまり、八雲さんはあちらに帰るキーとなる写真を撮ってくれたのである。

「あ、お肉焼けたみたい。陸君、行こうか」

 母に言われて席に着くと、父が皿に焼けた肉を置いてくれた。

「足りなかったら遠慮しなくていいからね。若いんだからいっぱい食べて」

「それ、八雲さんにも言われました……」

 それを聞いた母は、姉弟だからねと微笑んだ。そんな母を見ていたら、今まで感じることのなかった兄弟への憧れが、僕の中でチラリと姿を現したのは、ただの余談である。



 庭の端で片付けをしている父の元へ歩いていく。邪魔をしたいわけではないが、今しか話せるチャンスはないのだ。

「ああ、陸君。もしよければそこの炭取ってくれない?」

 近づいたはいいものの、話しかけるタイミングを失っていた僕に父がそう投げかけた。

「あ、これ、ですか?」

「そうそう。ありがとね」

 炭が入った容器を渡すと、彼はそれを地面に埋め始めた。彼は今まで、その為の穴を掘っていたようだ。

「今日は楽しかったかい?」

「は、はい。お邪魔させていただいて、ありがとうございました」

 スコップを動かしながらそう尋ねる彼に答えるも、それはなんともぎこちないものだった。彼に話しかける為に自分から近づいたのに、これでは情けないだろうと自身を叱咤するも、いざ口を開こうとするとなぜか言葉が出てこない。まるで勝ち筋の見えない敵と相対したみたいだ。

「陸君、何かあった?」

「え……?」

「悩みでもあるのかい?」

 父が発した予想外の質問に、無意識下で俯いていた顔を上げる。視界に入った彼は、相変わらず腕を動かし続けていた。

「えっと、その」

「ああ、ごめんね。無理に言う必要はないんだけど、そうなのかなって思ったからさ」

 俺が勝手に悩んでるのかと思ってただけだし。そう言った父は、僕の方を振り返った。父のその表情を見つめていたら、彼の瞳が僕を心配だと言っているような気がして、それが僕を不思議な気持ちにさせた。知らないはずなのに懐かしいこの感覚がむず痒くて、だけれど同時にそれが嬉しかった。そして彼は、香月仂成は、本当に僕の父親なのだと思った。

「あの、僕の母親は遠い昔に亡くなったんです。父は生きてるんですけど、亡くなった母の影響で精神を病んでしまっていて」

 そうしたら、先程までずっとつっかかっていた言葉が、するすると滑り落ちていった。

「僕、父の考えていることがわからないんです。その、仂成さんだったら、どうして欲しいですか」

 父は考え込むように黙ってしまった。困らせてしまったかと不安になって、それをどうにかしようと口を衝いて出たのは、自虐のようなものだった。

「父にとって、僕は邪魔なのかなとか、思ったり」

「陸君」

 そんな僕を咎めるように、父の言葉は重々しかった。

「自分の息子を邪魔だなんて思う父親はいないよ。もし仮に、陸君のお父さんがそう思っていたのだとしたら、君は彼を親だと思わなくていい」

 父は確かに、そう言い切った。親を親だと思わなくていいと、それが言える彼が、僕にはなんだかとてつもなく凄い人のように思えた。

「何かあったら、いつでもおいで。歓迎するから」

 そう言って僕の頭に手を置いた彼に、ずっと埋まらなかった穴が満たされた気がした。

「そうさせてもらうかもしれないですね。それに僕、兄弟欲しかったんですよ」

 冗談混じりにそう言えば、一瞬目を丸くした父が、ぷっと吹き出した。

「それはまぁ、なんとも紛らわしい兄弟だ」

 そんな風に笑ってくれる父を見て、彼が僕の夢見た父親の姿そのものなのだと思った。

「ちゃんとお父さんと話すんだよ。それと、俺だったら息子が生きてくれているだけでいいかな」

 父がそう言ってくれることが、どうしようもなく嬉しかった。



「それじゃあ俺達は帰るよ。今日はありがとうございました」

 香月家の玄関先で八雲さんがそう告げる。礼を言う彼に合わせてお辞儀をすれば、父と母もこちらこそと頭を下げた。

「あ、そうだ。陸君、おいで」

 母に呼ばれて一歩踏み出すと、途端に視界が黒く染まった。何事かと身構えるも、背中と頭に感じた温もりで、抱きしめられたのだとわかった。

「私達のことはいつでも頼ってくれていいからね。お母さんは陸君の味方ですから」

 ぽんぽんと、背中の上で暖かいものが弾む。

 これはきっと、彼女なりのユーモアだ。初めて会ったときの僕の発言を覚えていただけだろう。そうだとしても、彼女は僕の母親のようで母親じゃない存在で、それでもやっぱり僕のお母さんだ。僕の知らない母という存在は、彼女その人のことだった。

 でも僕は、それが叶わないであろうことを知っている。

 母の温もりに呼応するように、ひっそりと流れたそれは、いつの日か僕が抑え込んだものだった。





 あのバーベキューから更に二日経った朝、僕の頭の中はいつになく忙しかった。

 八雲さんにこちらの日付を伝えられたときから、常に脳内に巣食って離れないものがある。ただそれは、こちらに来てから現れたのではなく、元から存在していたものが、こちらに来たことで肥大化したものである。僕の人生にとって重大なもの、そう、母の命日が明日に迫っているのである。

 これは要するにどういうことか。まず、母が亡くなったのかこちらで言う今年だ。そしてその命日が明日。つまり、何もなければ明日、こちらの母は亡くなるということだ。

 だからと言って、僕にどうこうすることはできない。母の死因は交通事故だ。僕に止め切れるものではないし、そもそも人の生死なんていうものを生半可な気持ちで変えてはいけない。母の死は、そんなに軽くないのだ。

 ただ、僕だって母を見殺しになどしたくない。何が悲しくて、人生で二度も、己の母を失わなくてはならないのだ。もし神がいるのだとしたら、その神は最高に性格の悪いやつなのだろう。タイムスリップの行き着く先に悪意がありすぎる。

 そしてもう一つ、僕を悩ませるのは八雲さんについてだ。彼は今日、母を車で病院まで連れて行くと言っていた。これのどこが問題なのかというと、「母を車で」の部分である。母が亡くなったのは、事故に遭った翌日だ。つまり、その事故が起きるのは今日のことなのである。僕はあちらで八雲さんのことを知らなかった。何故かというと、一度も会ったことがないからだ。それでは何故、会ったことがないのか。

──彼も母と同様に、亡くなっているのではないのか。

 これはあくまでも予想でしかない。ただ、悪い予感というのは当たるものだ。

 母と八雲さん。二人が巻き込まれるであろう事故は、いくら悩んだところで今日起きることに変わりはないのである。



「陸君、手出して」

 彼に言われた通り右手を差し出すと、そこに冷たい感触が広がった。

「ロケット……?」

「そう、菊江から陸君に。お古らしいけどね」

 八雲さんに手渡されたものは白いロケットペンダント。少しくすんでいるが、それが却って年季ものとしての味を出していた。

「自分じゃなかなか使えないから、だってさ。それにしても陸君、随分気に入られたねぇ」

 ロケットを開くと、そこには既に写真が挟まっていた。赤子の僕と母親と、現在の姿をした僕。先日のバーベキューで撮った写真だ。

「それとこれも。写真立て、買ってきたよ」

 八雲さんはじゃーんなんて言いながらテーブルに写真立てと写真を置いた。

「それじゃあ俺はもうすぐ出るから。それは自由に使って」

 そう言うと彼は荷物をまとめ始めた。彼等から貰った写真と八雲さん。それらは僕に、答えのない問題のヒントをくれたような気がした。

「あの、紙、一枚貰えますか。小さいやつでいいんですけど」

「ちょっと待ってね。これとかどうだい?」

「ありがとうございます」

 彼に渡されたB5サイズの紙に、近くにあったペンで文字を書く。これがきっと、僕の今出せる最大の答えだ。

「これをこっちの僕に渡して欲しいんです。僕が行くと怪しいので」

「今の君なら大丈夫そうだけど、わかったよ。責任もって届けてあげよう」

 八雲さんは折りたたまれた紙を鞄にしまった。これでこちらの僕の悩みを、少しでも減らすことができればいいと思った。

「じゃあ俺は行くけど、陸君も迷子には優しくするんだよ」

「……事故には気をつけて、行ってきてくださいね」

 彼との会話は、これが最後かもしれない。



 八雲さんは家を出ていってしまった。まるでお別れかのような言葉を残して。

 彼の中ではきっと、もうそのつもりなのだろう。あの人は湿っぽいものが苦手だから。面と向かってさよならをするのが嫌だから。自分が家を空けているうちに帰れるようにって、あからさまなタイミングでその為のキーを寄越すなんてして。

 彼の言葉が脳をよぎる。確かに彼は迷子の僕に優しかった。ただそれを自分で言うのはどうなんだと思わなくもないが、八雲さんはそういう人である、なんて、せっかく彼のことがわかってきたのに。

 彼を止めなかった僕を、それが正しかっただなんて思わない。臆病な僕には、正解なんてわからないし、そんなものは選べない。それでもやっぱり、僕が僕を許すことができないのは、いくつになっても変わらないのだろうと思う。

 母はこのまま、亡くなってしまう。八雲さんだって、きっと無事ではいられない。僕に母を教えてくれた人が、僕を助けてくれた人が今、失われようとしている。

 気がついたら僕は走り出していた。玄関の扉を開けて、道路に飛び出す。ザーザーという耳障りな音と共に、体の熱が奪われていった。

 これが偽善だとわかっている。意味の無いことだとわかっている。車を出す彼を、止めようなんてしなかったくせに。あれこれ理由をつけて、見殺しにしようとしていたくせに、今更気づいたってもう遅い。それでも走ることを止めない僕は、なんて滑稽なんだろう。自分本意で調子のいい。そんな自分に吐き気がする。どうせ何も、できないのに。

「あ……」

 無様な僕のことを神すらも嘲笑っていたのだろうか。段差に躓いた僕のポケットから、母に貰ったロケットが飛び出す。地面に打ちつけられた拍子に蓋の開いたそれを拾った。

 カチッと音が響く。その音の余韻が消えるよりも先に、あたりが白い光に包まれた。カチカチと針の刻む音と、ゴーンという低い響き。徐々に近づいてくるそれらが脳全体に浸透し、自分の体が共鳴を始めたとき、光がさぁっと消えていった。

 道端にポツンと座り込む少年は、まるでその場に取り残されてしまったかのようだった。





 ふらふらとおぼつかない足取りで門をくぐる。玄関の扉を開けて靴を脱いでいると、リビングに繋がる扉がバーンと勢いよく開いた。

「陸、お前っ……!今までどこに行ってたんだ!」

 弾かれたように僕の元まで来た父が、目を見開いて肩を揺すってくる。ここまで動揺した父は初めて見た。

「どこって……。今何時?」

「馬鹿野郎、一週間も行方不明になっておいて何言ってるんだ!」

「一週間……」

 答えにならないことばかり言う僕を見て、父は悲しそうな顔をした。

 一週間もの間行方不明になっていたということは、あちらとこちらで時間の流れが一致していたということらしい。御伽噺のように、都合よくはいかないみたいだ。

「何かあったのか?頭をぶつけたとか……って、全身ずぶ濡れじゃないか!」

「大丈夫だよ、お父さん」

 心配してくれているのだろう、早口になる彼に、語って聞かせるようにゆっくり話す。

「急にどっか行ってごめん。でも今は、ちょっと……」

「……そうか。とにかく今は休め。詳しいことは後で聞くから」

 しかしそれも、長くは続かずに決壊した。そんな僕を父は優しい顔で見ていた。

 そんなふうに、父が僕のことを想ってくれることが、場違いにも嬉しかった。



 自分の部屋に入って最初に目についたのは、あの日のままになっている机だった。筆箱と、進路調査表と、茶色い紙。それを見た瞬間、僕の中で一つの可能性が浮かび上がった。

 シミで硬くなっている紙を手にして階段を駆け降りる。ドアを先程の父のように勢いよく開けると、彼は驚いた顔をした。

「ど、どうした。もう大丈夫なのか?」

「お父さん!」

 紙をぎゅっと胸の前で抱き締める。期待と興奮と恐怖で声が上ずった。

「毎月仕送りしてくれる人って、誰!?」

「ああ、八雲君っていう、お母さんの弟君だけど」

 その答えは僕が求めていたものそのものだった。急激に訪れた安堵から体の力が抜ける。

「生きてたのか……」

 染み付いたコーヒーの跡が、今の僕を見て笑ってくれたような気がした。





 僕が持つ幸せが、どんなものかはわからない。どんなカタチで、どんなイロで、どんなアジがするのか。未熟な僕では、まだ。ただ、一つだけ言えることは、あの日も今も、僕は幸せであるということである。


あの日の幸せを、僕はまだ知らない。


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あの日の幸せを僕はまだ知らない 黒瀬早梅 @101511

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