2.我妻美穂の手記
今、正直に思えば怖かったんだと思います。
私は前の夫に捨てられるように別れ、まだ幼かった真司を連れて途方に暮れていました。だからこんな私と一緒になってくれた順平さんには心から感謝しています。残念ながら彼との間に新しい命は授かりませんでしたが、私はこの今の生活を壊したくなかったし、どんなことがあろうとも守ろうと思いました。
順平さんは飲食店勤務で仕事もシフト制でした。土日に出勤する事や、バイトさんの急な休みで突然仕事に行くことも良くありました。私はそれを信じていたし、不自然な出勤でも彼のことを疑うような真似はしませんでした。
ただそれは自分に言い聞かせる為の大義名分が欲しかっただけなんですね。心の奥底には寂しくて狂うほど嫉妬が蠢いていたのかも知れません。今となってはそれを何となく認めることもできます。
ある日ひとり我慢しながらこの生活を守っていた私に、新しくパートに出掛けた先で知り合った坂上さんから意外なことを言われました。
「お宅の息子がうちの
私は頭が真っ白になりました。なぜなら真司はとても良い子で人様の子を苛めるようなことは決してしないと思っていたからです。
確かに体は大きくて少し圧のある子ではありましたが、最初は何かの間違いだと思いました。ただ同時に思いました、「私の愛情が足らなかったのではないか」と。
息子の真司と義父である順平さんとの間に、会話らしい会話はほとんどありませんでした。
私はそれについては年頃の男の子特有のものだと決めつけていました。息子にとって順平さんはやはり義理の父親。あまり家にはおらず真司と仲良く遊んだ記憶ももうずっと昔になってしまいます。
でもそれで良かったと思っていました。無理に仲良くするなんてできないし、何より私は今のこの生活を守りたかったからです。
だから保護者面談の際に担任から「真司が良男君を苛めている」と同じように聞かされた時も、自分でもびっくりするほど冷静にそれを聞いていました。もちろん家に帰ってから真司にこの件を尋ねましたよ。でも真司は「そんなことはしていない!」と言って悲しそうな顔をして部屋に籠ってしまいました。
でもその後夕食にハンバーグを出すと「美味しい美味しい」と言って喜んで食べてくれました。男の子って単純ですね。
しかし色々な意味でこの幸せな生活に破滅の足音が近づいていました。
その兆候のひとつに息子が苛められていると言って来た坂上さんが、パートで私を苛めるようになった事です。彼女はパートの中でもベテランパートで、ある意味社員よりも発言力が強い人でした。
最初はシフトから。その後私のところに来てから「遅い!」とか「違う!!」とかわざと大きな声を上げて私に恥をかかせました。新人だった私はただただ耐えるしかなく、家に帰って来てからはひっそり涙を流したことも良くありました。
でも私はパートを辞める気はありませんでした。仕事は大変だけど時給がとても良かったからです。最賃ばかりでこき使う他の職場に比べて明らかに高い時給はとても魅力的でした。
順平さんも飲食店勤務で決して良いお給料をもらっていた訳ではありませんし、彼の希望もあって私も必死に家計のために働き続けなければならなかったのです。
良家のお嬢様っぽい坂上さんのような人がなぜこんな大変なパートをしていたのかは分かりません。彼女とはそれほど年齢も変わらないのにとても綺麗にしていて、同性から見て『男を惑わす女』であろう魅力の持ち主。最初会った時からずっと羨ましく思っていました。
順平さんのことは愛していましたが、やはり私は便利な女だったのかも知れませんね。都合の良い時に会えるだけの女。それでもまだ女として扱ってくていた時は幸せでしたが、結婚してからすぐにそれが無くなると私は自分を否定するようになりました。
理由は何だろう。坂上さんのような魅力がないのかしら。もっと明るく楽しい女になるべきだろうか。毎日必死に悩み苦しみました。そして私は決して抱いてはいけない思いを持つようになります。
「
恐ろしい考えです。本当に恐ろしくて涙が出てしまいそうです。とは言えお腹を痛めて産んだ子供。彼をどうにかするようなことは決してしませんでしたが、もしかしたら私のそんな気持ちを真司は感じ取っていたのかもしれません。何せ実の子ですから。
その後、坂上さんの息子の良男君が自動車に撥ねられて意識不明の重体になったと知りました。坂上さんはそれ以降目を覚まさない息子のため病院に籠り、パートには来なくなりました。
ちなみにうちのマンションは立地もよく便利なんですが、坂の上にありどこへ行くにもその急な坂を下って行かなければなりません。真司に自転車を買ってあげたのが高学年になったからだったのもその為です。彼には何度も坂には気をつけるよう注意しました。良い母親でしたね、あの頃は。
事故に遭った良男君は可愛そうだと思いましたが、結果として坂上さんがパートに来なくなり私は助かりました。
ただ崩壊はもうすぐそこまで迫っていたんですね。
今でも忘れません。いえ忘れることなどできないでしょう。随分久しぶりに家族三人でテーブルを囲んで話し合ったあの日。楽しい話ではなかったのですが、家族ごっこを続けたかった私は別の意味で興奮していました。
でも真司の話を聞いて血相を変えて出て行った順平さんを見て「やっぱりあの女の所へ行くんだ」と心底悲しく思ったし、それよりもまさかこれ以降彼と二度と話が出来なくなるなんて思ってもみなかったからです。
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