3.坂上恵子の想い

 自分の人生に後悔がないかと尋ねられれば、どうかな、素直に「はい」とは言えないかもしれません。


 それなりの良家に生まれた私が、あんなに大変なパートをしなければならなかったのはやはり私に責任があります。駆け落ち同然で家を出た私はすぐに勘当同然となり、夫に依存するようになりました。

 でもお嬢様だった私をちやほやしてくれたのは最初だけでした。結婚し子供ができると私は恋人から母に変わってしまいました。それでも夫は優しくはしてくれましたが、自分自身に妙な自信があり「私はもっとできる」と変な勘違いをしていました。年齢の割には美しく、髪も肌も綺麗だったのは周りの男性の熱い視線で証明済みです。


 だから、そんな特別な私がこんな庶民じみた生活、特にこの疲れるだけのパートを続ける生活にはうんざりしていました。今思えば父の紹介してくれていたエリートサラリーマンと一緒になった方が良かったのかも知れません。

 今となってはもう遅いのですが、私の幸せはひとつひとつ形を崩しながら壊れて行きました。



 そんな中でも最も大切にしてたのが息子の良男です。

 運よく私に似て可愛らしい顔の息子で、とても大人しくて真面目な子です。いつも「お母さん、お母さん」と寄って来ては天使のような顔を私に見せてくれます。人生にある意味失敗した私ですが、良男が私のところに来てくれたのは何よりの幸せでした。


 そんな良男が苛められていると知ったのは小学六年生になってしばらくのことです。

 同じクラスの新妻にいづま真司しんじという男の子らしいのですが、ノートに落書きするなどの嫌がらせを受けていたようです。優しい良男が学校の話をしなくなったのをおかしいと思っていましたが、ある意味子を持つ親として最も恐れていたことが起きていたのです。


 その話は保護者懇談会の際に聞いたのですが、担任にすぐに相手にしっかり指導するようお願いしました。担任は汗を大量にかきながら頷き「しっかりと対処する」と約束してくれました。

 ただ今となっては子供の苛めには大人など何の力も持たないことを知らされました。いえ、言い方が悪いですね。適切に対処できないと更に事態を悪化させるだけのことになるのです。



 偶然はまだ続きます。

 その憎き新妻真司の母親が、同じパートの職場にいることが分かりました。私はすぐに彼女を呼び出し息子への苛めを止めるよう忠告しました。彼女は驚いた顔をして話を聞いていましたが、新人とは言えなんと頭の悪い女だと思いました。

 結局私の忠告にもかかわらず息子への苛めはその後も続きました。当然私もその苛めの母親である新妻を見ると苛立ち、職場できつく当たるようになりました。これは当然ですよね。可愛い息子が何の非もなく苛められているのですから。

 しかも後で知ったのですが、この新妻という女、再婚していて父親と息子は血が繋がっていないとの事でした。

 きっとくだらない男と結婚し頭の悪い子供を産んだのでしょう。それを育てたのがこれまた馬鹿な母親だったので、もう同情しかありませんね。でなければうちの子供を苛めることなんてしなかったでしょう。再婚された旦那さん、そう新妻順平さんは本当に気の毒に思います。


 そうなんです、この新妻家の旦那さんは悪くないのです。悪いのはあの女。母親としてきちんと息子の教育ができない彼女が悪いんです。どうしてそんなことが分かるのかですって? なぜなら旦那さんとはPTAの会合で何度もお会いしているのですが、とても素敵な方だからです。


 最初会った時は心に稲妻が走るような感覚に陥りました。

 駆け落ち同然に結婚した今の夫も素敵な人でしたが、新妻さんはまた別の意味で刺激的な人でした。年齢よりずっと若く見える外見、荒々しい眼光。私を見るとても野性的な目。まるで私は身を差し出して食べられるだけのウサギのような気分になりました。

 その後新妻さんとはPTA会合の後、何度も一緒に食事を共にしました。会えば会うほど素敵な方で、もう少し早く彼に出会っていたら私の人生ももっと違ったものになっていたのだろうと妄想しました。


 ただ誤解はしないように書いて置きますが、彼とは一線を越えたことはありません。私は大丈夫と思っていたのですが、決してそのような関係にはなりませんでした。

 今思えばそれは大正解で、下手な人生のリスクを負うほど馬鹿なことはありません。ただあんな素敵な順平さんと一緒になったあのパートの女が憎らしくなりました。私も感情のままに彼女に当たる様になったことは少し反省しなければなりません。



 そんな中、命よりも大切な息子の良男が自転車事故で病院に運ばれたと連絡が入りました。自転車は原形をとどめないほど大破しており、良男は病院に運ばれたものの意識不明の重体でした。

 私達が住んでいるマンションは坂の上にあります。どこへ行くのもこの坂を下って行かなければならないのですが、どうしてもスピードが出てしまい危険な場所ではありました。良男も坂を下りきった際に、突然現れた自動車と衝突したそうです。


 幸い良男は一命をとりとめました。

 外傷は酷かったものの、命に別状はないそうで安心しました。ただし一向に意識が戻りませんでした。医者の話ではいつ目覚めるかはもう分からないそうで、もしかしたらこのまま一生目が覚めないかもしれないと言われました。

「なぜ何も悪くない良男が?」

 私は何度も病院で涙を流し世を憎みました。まだ小学生の子供で、これから楽しいこともたくさんあるはずなのに。そして思い出します。最後最後のその学校で彼は苛められていたのです。脳裏に浮かぶ新妻親子。きっとあいつらのせいだと私は思いました。



 数日病院と家を往復する生活を続けました。

 良男はまったく目を覚ます気配がありません。パートの仕事もずっと休んで看病し続けました。


 生活に、人生に疲れてしまった私は、マンションからスーパーへ買い物に出掛けようと無意識に自転車に乗りました。思えば良男が私を呼んでいたのかも知れませんね。

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