放課後の化学室で

平沢ヌル@低速中

放課後の化学室で

「うー、なんでこんなことに……」

 あたしは思わず呟いて、それからしまったと思って、横を見た。

「…………」

 実験パートナーは無言だった。あたしの呟きが聞こえていたのかどうかは分からない。


 今からする話は、別に大した話じゃないのだ。

 まず、化学実験。

 高校化学の授業で、酢酸とエタノールを脱水してエステル化する、そんな実験だ。クラスメートはみんな授業中に終わらせた実験だったけど、あたし、織田百合花はその日、学校を休んでいた。だけど、この実験のレポートを出さなければ成績が取れない。うちの高校はそういうことには厳しかった。出していないのはクラスであたし一人だった。

 それで、この居残り実験があたしには課せられていた。先生がパートナーに指名したのは、片桐仁史。化学部の部長だという男子だ。化学部は部員が少なくて、二年生は片桐だけらしい。


 片桐とあたしはクラスメートだったけど、ほとんど話したことはなかった。片桐は身長一六一センチメートル(これは後で聞いたのだが)の、長めの前髪を真ん中で分けた男子。あたしは一六五センチあるから、片桐よりも背が高い。それに、あたしは片桐がクラスで誰かと会話しているところを見たことがない。そもそも、片桐に注目したことはなかったけど。

 それでも片桐は眼鏡はかけていなかった気がするけど、今日は実験用ゴーグルの下に眼鏡をかけていた。ということは普段はコンタクトレンズなのかもしれない。片桐みたいな陰キャっぽい奴でも、実は見た目に気を使っているのかもしれない。よく見ると片桐の顔は端正な方で、前髪もサラサラだった。だからって別にあたしの好みではないってことは付け加えておきたい、背は低いし、モヤシみたいな細い体だし。


 片桐についてはこんなところだ。

 とにかく、化学室とこの実験、あたしは苦手だった。

 だって、いつも変な匂いがするし。テーブルを触った手で飲食するなとか、どんだけ危険な薬品使ってんのって感じじゃない?

 それに、この実験では氷酢酸を使う。氷酢酸は蓋を開けると、濃縮したお酢みたいな、でもそれとも少し違う、そこはかとなくやばげな匂いが漂う。でもうっかり鼻を近づけたら、強烈な揮発臭でノックアウトされそうになる。というか、なった。

「薬品の匂いを手で扇いで確認するのは、そのままでは分からない場合だけだ。氷酢酸の匂いは嗅がないで」

 片桐はそんな風に、あたしに注意をするのだ。同級生なのに。

(……偉そうに)

 なんてちょっと、あたしは思ってしまう。


 正直なところ、片桐にも、それから化学って科目自体にも、あたしは苦手意識があったのだ。うちの学校は進学校で、入試にはそれなりのレベルを要求されたし、あたしだってそれを通過してきたわけだ。だけど、入ってしまえばまた、その中で順位が付けられる。中学では成績優秀ギャルだったあたしは、高校では成績中の下ギャルだ。レア度で言えばSSRがRになった感じだろうか。それに化学教師の高田って、やたらと細かく部分点下げてくるし。


 そんなルサンチマンに満ちた考えを浮かべながら、いい加減に作業していたのがそのときのあたしだった。

 だから、うっかりしていたのだ。


「あ……!」


 実験の触媒で使う濃硫酸を、溢してしまうなんて。

 しかも溢した先が、白衣の前が開いていて、スカートにそれがかかってしまうなんて。


「やだ、どうしよう……」


 さすがのあたしも動揺して、水を蛇口から勢いよく出して、スカートの濃硫酸がかかった部分を洗い流そうとしていた。

 それから、片桐が口を開いた。そうして、言ったのだ?

「……脱いで」

「は?」

「濃硫酸がかかったんでしょ。そのままにしておいたら危険だ」

「いや、ちょっとだけだから! 別に脱ぐほどじゃないから……」

「濃硫酸には脱水作用がある。ちょっとでも残っていたら危ない」

「いや、だからって……その」

 あたしは狼狽える。その辺りでやっと、片桐もあたしの狼狽の理由に気がついたみたいだった。だけど、片桐ときたら、言うことが奮っているのだ。

「ああ。……それだったら、白衣の前閉じていて」

「……それでも、透ける!」

「分かった。……そっち、見ないようにするから」

 そして、片桐は本当に、あたしの方から顔を背ける。それであたしはスカートを脱いで、白衣の前をしっかり閉じる。だけど、そういえばあたしは、スカートの下に短いスパッツを履いていたんだったと、脱いでから初めて気がついた。だから、別にこれはエロいシチュエーションじゃなかった。


 それから、片桐はあたしの方は見ないままで、あたしからスカートを受け取って、大量の流水で洗い流していた。だけど、なんであたしは自分で洗わず、片桐にスカートを洗わせていたのか、後で考えてみると分からない。それを促す片桐のいかにも自然な動作に、あたしが思わず流されてしまったんだと、今のあたしは思っているけど。

 そうしながら、片桐は言うのだ。

「実験中は、白衣のボタンはしっかり下まで閉じておいた方がいいね。今日みたいなことがあったら、何のために白衣を着ているか分からない」

「ーーーッ!」

 あたしは歯噛みする。なんであんたに注意されないとならないのと口答えしたくなるけど、どう考えても片桐が言うことの方が正しいのだ。

「……ごめん、なさい。これからは、注意します」

 それがあたしの返答だった。それから、片桐の返答。

「僕に謝ることじゃないよ」

 それから片桐は濡れたスカートを私に手渡して、化学室を出て行く。

「ちょっと待っていて」、と、それだけ言い残して。

 あたしは茫然と、片桐の背中を見送る。


 二、三分ほどで戻ってきた片桐が差し出したのは、ジャージのズボンだった。

「え……。これ、片桐の」

 あたしは思わず、そう呟く。実際、ズボンの腰の辺りには、『片桐』という名前の刺繍がされている。

「これ履いてて。それから」

 そう言って、初めて片桐は、あたしから目を逸らす。

「ごめん。……デリカシーなくて」

 それは、いかにも恥ずかしそうで、小さな声で。

「ーーーッ! 別にッ!」

 あたしの方が恥ずかしくなって、それを受け取って、片桐に背中を向ける。

「気にしてないからッ! だから、早く実験やろ」


 そんなこんなで、実験が終わったのは、夕方も遅くになってしまったし、結局スカートは乾かなくて、あたしは片桐のジャージで家に帰ることになってしまった。それに、スカートには小さく、変色のシミが残ってしまった。最初思ったより、かかった部分は小さかったんだけどね。


 そして、それが片桐とあたしの馴れ初めだったと、そういうわけ。

 なに、文句ある? 


(了)

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