未来の約束



 オールディス家の生活は、エクランド家とは全く異なっていた。


 オールディス家は、かつてのエクランドと比較すれば小さいが、魔術の家柄としては有数のものである。

 しかし、セイディの養父母となった二人はそれを鼻にかけることなく、慎ましやかな生活を送っていた。


 養父となったクライドは寡黙だが優しかったし、養母となったセアラは初対面からの印象と変わらず柔和で穏やかな人だった。

 仲睦まじい夫婦だったが、子宝に恵まれなかったらしい。

 喜んでセイディを迎え入れてくれた。


 これまで能無しと罵られ、見るも耐え難い容姿となった、セイディを。


 二人のもとで、初めてセイディは幸せな日常を知った。

 クライドのもとで魔術を学び、以前とは比較できない実力を身につけた。


 魔力が少ない、とされていたセイディだったが、彼女の魔力がほとんど封印されていると判明した、ということもある。

 それに気付き、クライドが魔力の封印を解いてくれたのだ。


 真実は分からない――けれど魔力の封印は、セイディの母によるものだろう、というのがクライドの考えだ。

 封印はセイディに害をなすものでなく、セイディを守るように施されていたのだという。

 おそらく、多量の魔力に赤子が潰されぬようにしたのだろう、と義父は優しい声で語った。


 ――エクランド家の思惑通りになるのを拒んだ、というのも理由かもしれないけれど……。


 それでも母の想いが感じられたようで、セイディは少しだけ泣いた。




 やがて彼女は、十五という若さで、近衛師団に志願したいと両親に告げる。


 この幸せをくれたアレクシスの役に立ちたくて。

 少しでも彼に近付きたいと、そう思って。






 だが、アレクシスはそれを一体どう思っただろうか。


 優しい両親が待つ家まで、特に急ぐわけでもないのでゆったりと馬に揺られながら、セイディは思う。


 普段はもう少し賑やかな道も、即位式のため人も見かけず静かなものだ。

 人目を気にせず考えごとをするにはちょうど良かった。


『いつかおぬしを迎えに行く。それまでおれを待っておれ。おぬしは将来、おれの妻となるのだ』


 あの言葉は、もう十七年も前のものだ。

 待っていろ、と言われ、セイディはずっと待ち続けている。


 だが、本当のところ、あれは自分のつくりあげた夢、幻覚、その類なのではないか、とセイディは疑っていた。


 あの時のセイディは、まだ十の、貧相でちっぽけな子どもでしかなく。

 身体中に傷を負っていて。

 とても気に入る要素があったとは思えない。


 大体、二回しか顔を合わせていないのに、妻、という単語が出てくるというのも、あまりにも唐突だ。

 やはり、自分が勝手に作り上げた幻だったのかもしれない、と彼女は思う。


 そうだとすれば、なんと不敬なことだろうか。


 額への柔らかな口付けの感触を思い出し、セイディはひとり顔を赤く染めた。

 あれも、夢だったのだろうか?


 攫われ嬲られたあの時以来、セイディはそういう意味で男性と触れあったことなどない。

 あの時のことも、防衛機能というものが働いているのか、思い出せることはほとんどない。

 だからそれは、知らない感触のはずなのに――。


 顔に集まった熱を逃がすように、セイディは息を吐いた。


 それに、近衛師団に勤めて十二年、アレクシスと言葉を交わせたことはろくにないのだ。

 国の防衛に関すること、魔術に関すること、仕事の上では何度か話をした。

 セイディが昇級した時も、祝いの言葉をくれた。

 けれどそれは、他の臣下に向けるものと同じであって、それ以上ではなかったのだ。

 正直なところ、少しばかり落胆したが、当然のことと思い直した。

 特別を望む方が、間違っているのだと。


 あれは甘い夢の話。


 たとえ本当に起きたことであっても、何年も前のことだ。

 王として密度の高い多忙な日々を過ごしたアレクシスが、口約束を忘れても仕方がない。

 覚えていたとしても、気まぐれだったと捨ておく方が当然というものだろう、とセイディは考えていた。


 それでも良かった。


 こんな身体になって、セイディを娶ろうなどという物好きは現れないだろう、と最初から諦めていたから。

 この心に、アレクシス以外の人間をすまわせるのは、十七年前のあの時から、不可能だったから。


 魔術師として認められ、たとえ気まぐれであっても、一瞬でも、女として認められた。

 セイディが生きていくのに、それだけあれば十分だった。


 後は、この生をくれたアレクシスに、全て返したい。


 明日、お目通りを願おう、とセイディはほんのわずか、口の端を上げた。

 どんな反応が返ってくるかは分からない。

 いらないと言われるかもしれない。

 けれど、雑用でも何でもいい。

 彼の役に、少しでも立ちたいのだ。


 ――それが迷惑となるならば、その時は……。


 だが、彼はそんな君主ではない。

 自分を慕う者を快く受け入れる、度量の広い君主だ。

 そんな彼だからこそ、役に立ちたいと、そう思う。


 明日、と考え、セイディはフードの中でアレクシスに会うことの喜びを噛みしめる。


 その時だった。

 もう少しで邸に至るところ、少し道を曲がって、彼女は気付く。

 その、人影に。


 大きな、人だった。


 セイディは馬に乗っているのに、その高い位置に届くかという長身。

 たくましい胸板に、太い腕。

 獅子のような、赤い髪。

 太陽の光を集めたような、瞳。

 真紅のマントが、風にたなびいて……。




 アレクシス・カルヴァート。




 セイディの王が、そこに、いた。






「セイディ・オールディス!」


 低く太い声に、大気が震える。

 その余波を受けるように、セイディの胸にも震えが走った。


 急におぼつかなくなった足で、セイディは大地に降り立つ。

 王の目上にあるなど、許されることではない。


 半ば茫然と見つめるセイディの前で、アレクシスは愛敬のある笑顔を浮かべた。


「約束通り、迎えに来たぞ!」

「……」


 動揺を通り越し、逆にセイディの頭は努めて冷静に目の前の出来事に対処しようとした。


 真剣に魔術を行使して、目の前の彼が本物かどうか探る。

 だが魔術を使うまでもなく、その圧倒的な存在感は偽物ではありえない。

 誰かがセイディを陥れようとしてつくりあげたものでも、彼女自身の願望が幻覚症状として現れているのでもなさそうだ。


 それではやはり――夢か。

 夢であっても、この存在感。

 さすがは、王。


 現実という選択肢を全く挙げずに、セイディは心の中で頷いた。


 その間に、アレクシスは彼女との距離を詰めている。

 その近さにセイディは胸を高鳴らせたが、それではいけないと我に返り、跪こうとした。


 セイディは女性の中でもかなりの長身の部類に入るが、アレクシスは男性の中でも異例なくらいの長身であって、頭が高すぎるということはないが、王に対する礼儀である。

 セイディは慌てて体勢を移そうとしたが、アレクシスがそれを止めるために彼女の腕を掴む方が早かった。

 ローブ越しにその大きな手のひらを感じ、セイディは硬直する。


「セイディ、」


 優しげであり、窺うようでもある、アレクシスのそんな声を、セイディは初めて聞いたと思った。


「やはり覚えてはおらんか。……あれから、随分と時が経ってしまったからな」


 あの、約束の時から――。

 告げるアレクシスのその瞳には、寂しさが宿っている。

 少なくともセイディはそう感じ、反射的に否と口にしていた。


「いえ! 王、私は……」

「待っていて、くれたのだな?」

「は、はい……」


 どうしてだろうか、素直に頷くことを妙に恥ずかしく感じ、セイディはふいと視線をそらしながら答えた。


 それをアレクシスはどう見たのか――、彼は堪え切れなくなったように、セイディを強く、抱きしめる。

 突然のそれに、セイディの混乱は度を増して復活した。


 ――こんな夢、私は一体、というかそもそも、


 この、温度が、熱が、腕の力強さが、

 本当に、夢なのか?


「夢……、じゃない……?」


 まさか、現実?

 そうであるならば――。


 ますます、どうしていいか分からない。


 ずっと、待ち続けていた。

 けれど、きっと来ないとも思っていた。

 だから……。


「なんだ、夢だと思っておったのか」


 その言葉に、うっかり思ったことを漏らしてしまったと、セイディは小さく呻いた。


「も、申し訳……」

「謝らんでいい。おれが来るのが遅かったのだからな。むしろ謝るべきはおれの方だ。長く待たせて、すまなかった」


 その低く優しい声がしみるようで、セイディは不覚にも目が潤むのを自覚した。


「もっと早く、おぬしが十六になった年に迎えに行こうと、そう思っとったんだが……。兄がうっかり逝ってしまって、計算が狂ったわ。まさか王位につくことになるとはなぁ」


 しみじみと、耳元で呟かれる。


 ああ、とセイディは思った。

 そうか、だから……。


 思い至ったところで、セイディははっと顔を上げた。


「王、即位式は! こんなところにいては……」

「こんなところとはなんだ、馬鹿者」


 馬鹿と言いながら、アレクシスは笑っている。


「おぬしのいる場所はおれにとって何よりの場所なのだぞ、セイディ。だというのに、これまでどれだけ我慢をしてきたか」

「……っ、」

「もう我慢しなくて良いのだから、好きにさせろ。それに、即位式の主役はあの頼もしい甥っ子だ。いつまでも目の上のこぶがいては、邪魔であろう?」


 それはどうだろうか、と逃げるようにセイディは考えた。


 新しい王は、アレクシスのことを慕ってやまないと、王城の誰もが知っている。

 ずっとアレクシスが王をやればいいというのが、新王になる彼の口癖だった。

 アレクシスの臣下であることが、何よりの喜びであると。


 その気持ちは十分すぎるほど理解でき、だからこそアレクシスが今この時ここにいることを後ろめたく感じる。


「王、しかし――」


 新王の若い面影を浮かべ(若いといっても新王とセイディとは三つしか違わないが)、セイディはアレクシスから離れようとしたが、彼の方はセイディを離そうとはしなかった。


「おれはおぬしといたいのだ、セイディ」

「……!」


 そんな風に言われてしまうと、セイディは反論の言葉を紡げなくなる。

 だが……。


「王、」

「なんだ?」

「そ、の……私は、こんな傷だらけの、見目です。女らしさというものもほとんど持ってはおりませんし、何の取り柄があるわけでもありません。王の望まれることは、私の望みでもありますが、私では……あまりにも――」


「セイディ」


 遮るように、彼女の王は呼んだ。

 呆れを含んだ、優しい声で。

 少しだけ力の緩んだ腕の中で、セイディはアレクシスを見上げる。


「第七階級魔術師の台詞ではないのう、何の取り柄もないとは」

「王や側近の方と比べればまだまだ未熟者です」

「おれの場合は王家の血筋故持って生まれた魔力が多いだけだがな。確かに側近どもが優秀なことは認めるが、おぬしとて何度もおれの暗殺を未然に防いでおるではないか」

「それはあなたの臣下として当然の行いです」

「妙なところで謙虚というか、頑固だのう」


 苦笑しながらも慈しむような眼差し。


「とにかくだ、おれはおぬしの実力を評価しておるし、これからに期待もしておる」

「あ、有難う存じます」


 素直に嬉しく思い、セイディは唇を綻ばせた。

 それを垣間見て、アレクシスはぼやくように漏らす。


「……全く、そうだというのに、おぬしは自己評価が低すぎるのう」

「え、」


 言うと、アレクシスは無造作に、けれど乱暴ではない仕草で、セイディの顔を隠していたフードを取り払ってしまった。


「王、」


 セイディは驚き、見開いた目でアレクシスを見つめる。

 アレクシスは機嫌良く目を細め、セイディを見下ろしていた。


「やはり――、美しい」


 隠されていた艶やかな黒髪が、風に揺れる。

 アレクシスは風に流されるその長い髪に指を通し、その感触を楽しんだ。


 それに、セイディは困惑する。


 普段であれば、フードに他人が触れようとした時点で即刻その相手をしばき倒すくらいのことはしてのけるセイディであるが、相手がアレクシスではそういうわけにもいかない。

 ここでアレクシスが負の感情を表に出したなら、不敬と思ってもこの腕から離れただろうが、彼はひどく上機嫌である。


 このような触れあいに慣れていないセイディはどうしてよいか分からず、その大きな手のひらの温もりを、甘受するしかない。


 しばらくセイディの髪を撫でていたアレクシスだが、やがてその頬にその手を滑らせた。


 太陽の眼差しが、セイディを強く見つめる。


 鼓動を高鳴らせながら、セイディは目を逸らさずに――正確には逸らせずに、その眼差しを受け止めた。


 何と眩く、力強い瞳だろうか!


 アレクシスの瞳は、黄金よりも美しく眩しい輝きを持っていると、セイディは確信する。


「セイディ」

「はい」


 真っ直ぐに見つめられ、名を呼ばれれば、セイディの胸はそれだけで締めつけられるようだった。


「恋に落ちるのに、理由や理屈は必要ないと、思っておるがな……」


 故意、濃い、来い、セイディの頭は「恋」という単語を浮かべるのに結構な時間を要した。


 アレクシスが――恋。


「おれがおぬしに惚れた理由をあえて言うなら、その瞳の強さ故よ」


 セイディに――恋。


 熱が顔に集まっていくのを、セイディは自覚した。


「王……、」

「絶望の中、諦めず、屈することのなかった己の輝きを、おぬし自身は知るまいのう! セイディよ、その瞳におれを映せ。そして、おれと共に、世界を見ようぞ!」

「世界を」

「そうだ。おれはずっと夢見ていたのだ。この広い世界、まだ見ぬものを見ることをな。おぬしの瞳に新たな世界はどう映るか。おれはそれをも見てみたい。きっと美しいぞ――我らが並び立ち見る世界は!」


 未来を見つめ、セイディの王は笑う。

 王者の輝きと、子どもの無邪気な輝きをもって。

 その光を集めたような笑顔は、確かにセイディの目に、これ以上ないものと映った。


「はい。――はい、我が王よ」


 半ば無意識に、けれど確かな意志をもって、セイディはアレクシスの腕の中で応える。


「どこまでも、共に参ります」


 セイディの応じに、アレクシスは笑みを満足げなものへと変えた。


「応。それこそ、我が伴侶にふさわしい返事よ」


 その言葉に、一層セイディは頬を紅潮させる。

 しかし。


「よし。ではまず、未来の両親に挨拶へ行くか」

「は……、え、え?」


 オールディスの邸の方を指し、アレクシスはセイディを解放した。

 頷きかけて、セイディは狼狽える。


 セイディがアレクシスの妻になる。いまだに信じられない気持ちは大きいが、それはいい。それ以上のことはない。

 かといって、果たして、アレクシスに挨拶をさせるなど、させてしまって良いのか。


 セイディは真剣に悩むが、それは手遅れというか、杞憂というものだった。


 実のところ、アレクシスは先に挨拶をしてしまうつもりで、夫妻に予め訪問の旨を伝えてあったのだ。

「それでは即位式には行かずにお待ちしております。娘も帰ってくるということですし」というのが二人からの返事である。


 それらを知らないセイディの挙動不審な様子に、アレクシスは怪訝な顔になった。


「どうした?」

「いえ、あの、王直々に足を運んでいただくというのは……、両親には、その、伝えてありますし」

「そうなのか?」

「結婚……とまでは言っておりませんが」


 セイディは「結婚」という言葉だけ濁して言う。


「その……、私が王のもとへ向かうことは既に」


 歯切れ悪く告げれば、アレクシスは破顔した。


「そうか、そうか」


 と、彼はセイディの肩を叩く。

 その嬉しそうな様子に、セイディは心臓の鼓動を速めた。


「実はのう、おれも不安だったのだが……」


 不安。


 セイディのことで、と思えばそれに、彼女は申し訳なさと――同時に、喜びに近い何かを胸に覚える。

 その感情に罪悪を感じ、セイディはぎゅっと拳を握った。


「だが、おぬしが近衛師団を辞めると聞いた時、おぬしならおれの元へ来てくれるのだろうとも思っておった」

「王……」

「城でのおぬしの視線は、熱烈なものであったしのう」

「そ……、それは!」


 当然と言えば当然かもしれないが、気付かれていたのかと、セイディは顔を真っ赤に染める。


 それならば、セイディの抱える想いも、彼女がずっと待っていたことも、不安に思うことなどなかっただろうに――。

 アレクシスほどの人が、それでも、案じる気持ちを捨てきれなかったのか。

 セイディはますます堪らない気持ちになった。


「全く、我慢できぬかと思ったわ」

「我慢、ですか」


 それは先程も聞いた、とセイディは理解していない頭で思う。


「応。早くおぬしを攫ってしまいたかったわ」

「……!」

「だが、ようやくこの時が来た。これまでおぬしを預かってくれた夫妻には礼も言わねばならぬ。何より、おぬしのことだからこそ、きちんとしておきたいのだ」


 セイディの――ことだからこそ。

 その言葉に、セイディは胸を打たれた。


「おれの伴侶として、共に生きてくれるのだろう、セイディよ」

「――はい」


 声が、震える。

 そんなセイディに、アレクシスは、優しく、熱のある瞳で微笑むと、かがみこみ、彼女に一つ、口付けを贈った。


 遠い約束の日と同じ、口付けを。

 今度は、額ではなく、唇に。


「……では、行こうぞ」

「はい――」


 力強い笑みと、差し出された大きな手のひら。

 セイディは唯一のひとがそこにいる喜びと、未来への希望を胸に、その手に己の手を重ねた。


 ――これからこの方と共に広い世界を歩んでいく……。


 その先で二人の瞳が映す光景はきっと、アレクシスの言う通り、美しいものであるに違いない。

 見慣れた景色でさえ、いつもよりずっと美しくこの目に映るのだから。


 太陽そのもののような己の王が照らす、眩い未来を確信し、セイディは目を細める。


 柔らかい翠の瞳に、アレクシスも満足げに喉の奥で笑った。


 そんな二人の間、固く繋がれた手のひらは、約束が果たされたしるし。


 そしてここから、新しい約束が始まるのだ。

 それは、遠い遠い未来まで続く約束――。








Fin



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遠い約束 隠居彼方 @kanata_inkyo

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