遠い約束

隠居彼方

過去の約束



「これで終わり……か」


 空になった書棚。

 何も置かれない机。

 人の痕跡が一切消されつつある、王城の一室で。


 ぎっしりと書物を詰めた箱に封をし終えた彼女・・は、机に凭れ、煙管を手にした。

 煙管に詰められているのは、魔力を活性化させるための葉を彼女が調合したもので、緑の爽やかな香りが広がる。

 慣れた香りを吸い込みながら、彼女は遠くの歓声に耳をすませた。


 今日は、この国にとってまことにめでたい日である。

 新しい王の即位式が行われているのだ。


 先王アレクシス・カルヴァートが突然に退位を表明したのは、半年程前のこと。

 手腕家の若き王を惜しむ声は多かった。

 しかしアレクシスはまるで意に介さず、甥に王位を譲り、自分は一臣下に下ると、その意思を揺らがすことはなかったのである。


 もともと、アレクシスはその前の王の次男であった。アレクシスが誕生した時には彼の兄が既に王太子の位にあり、彼は王弟として国を支えるはずだったのだ。

 だが、王太子であった兄は、幼い息子を遺し、若くして亡くなってしまった。

 そのため、アレクシスが王位を継ぐこととなったのである。


 その経緯故に、即位当初から、アレクシスは自らをただの「つなぎ」である、と考えていたようだ。正当な後継は兄の息子であり、彼が王として立つまで国を支えるのが己の役目である、と。


 アレクシスの根底からその考えが消えることはなく、彼は王太子である兄の息子、自身の甥への配慮を怠らなかったし、妃を娶ることもなかった。王である時に後継をつくってしまえば、争いの火種になることが分かりきっていたからだ。


 かといって、彼の政治が遠慮や無責任の上にあったわけではない。

 むしろその逆で、彼は王としての器を備え、その統率力と決断力を以て国を導き、臣下と民衆からの支持は厚かった。


 その彼が、退位の意思を示したのだ。

 当時の国中の嘆きは、言葉に表せないほどに大きかった。


 だがそのアレクシスが太鼓判を押した、新たなる王である。

 アレクシスの退位に落胆を隠せなかった国民たちだが、今では新たなる王への期待で目を輝かせるようになっていた。


 それがこの、歓声だ。


 遥かに広がる空に響くようなその声を窓の外に見ていた彼女だが、そろそろ休憩は終わりだと、煙管の灰を落とした。


 彼女の隣には既に大量の箱が積まれており、その一番上に、最後に封をした箱を乗せる。いくつもの箱が積まれているその床には、赤い塗料で魔術陣が描かれていた。


「――――」


 淡々と、彼女はまじないの言葉を詠唱する。


 次の瞬間には、箱は全て消え失せていた。

 魔術により、彼女の自宅に転送・・されたのだ。


 彼女――セイディ・オールディスは、近衛師団に所属する、第七階級魔術師である。


 国が認める魔術師には第一階級から第十階級までの序列があり、若干二十七歳にして第七階級である彼女は、魔術師の中でも相当に優秀だと言えた。

 この部屋は、そんな彼女の所属と階級に基づき魔術研究のため与えられた一室だ。


 けれど、今日この日、彼女はここを去る。


 実験器具や書物で乱雑だった先日までと打って変わってがらんとした室内を見渡し、セイディは感慨に浸った。


 昇級し、この部屋を賜ったのは何年前のことだったか。

 あの方に少しでも近付けたと、そのことが嬉しく、誇らしかった。

 それを、思い出す。


 あの時と今とで、気持ちは少しも変わりない。

 セイディはあの方に尽くしたいと思っている。

 

 それ故、あの方がいないここに、長く留まる意味はない。

 だから、彼女はここを去る。


 そして行くのだ。

 あの方のもとへ。


 アレクシス・カルヴァートのもとへ。








『よく耐えた。よく頑張ったな。セイディ・エクランドよ――』


 低く太い声を、忘れたことはない。

 頭に乗せられた、大きくて温かい手を。

 セイディは永遠に、忘れないだろう。


 それが、彼女に初めて与えられた温もりだった。

 彼女を認める、言葉だった。

 

 何度も繰り返し思い出す、あの日のことを、セイディはまた反芻する。


 長年使ってきた部屋に別れを告げ、城の階段を下るその足取りに迷いはない。


 最低限の人員を残し、誰もが即位式が行われている広場へ向かっているのだろう、城は静寂に包まれていた。


 人気のない石の城を行くセイディは、黒いローブを羽織り、さらに深くフードを被っている。

 魔術師といえども不審者と咎められて仕方のない格好であるが、これには事情があった。


 セイディの身体には、鋭い傷跡が無数にある。

 それは全身に及んでおり、足先から頭に至るまで、傷のない場所はない。

 傷跡をみせびらかすような趣味は彼女にはないし、周囲の者たちを無暗に不快にすることもない。

 そう考え、セイディはこれまでずっと肌を晒さず過ごしてきた。

 この格好は最早、彼女のトレードマークと言っても間違いではない。

 見張りの者も見慣れたものとして、誰何の声も上がらず、セイディは城を出た。


 愛馬の背に乗り、彼女が向かうのは、自宅である。

 馬ごと転移できれば良いのだが、彼女の実力はまだそこまでには及んでいない。

 急ぐことはないので、のんびりと歩かせ始めた。


 彼女が家とするのは、王都の端にこぢんまりと佇む、オールディス家の邸の一つ。

 そこに彼女の両親が暮らしていて、城の一室をもらうまではそこからこの王城へと通っていた。

 最近は役職に研究に忙しく、月に一度帰れれば良い方だったが、そこが今でも彼女の本当の家だ。


 彼女に家を、親をくれたのも、アレクシスだった。

 彼は、セイディに、かけがえのないものばかりを、くれる。


 彼女が、セイディ・エクランドであった時は、望むべくもなかったものを――。








 魔術の名門、エクランド家。

 セイディは、その当主の第一子として生まれた。

 だが生家であるエクランド家は、セイディにとって帰りたいと思えるような家ではなかった。

 当主の最初の子として生まれついたはずの彼女を、家人たちは蔑み、冷たく扱ったのだ。


 それは、セイディが、持って生まれた魔力が少ない――と判定されたからだった。

 強力な魔術師を輩出してきた家柄であるエクランド家は、そんなセイディを認めなかったのだ。


 誰もが彼女を軽んじ、才がないと嗤った。

 父当主は、嘲笑の的となるセイディを知っていても何も言わず、無関心を貫いた。

 セイディの両親は政略結婚で、強い魔力を宿す子を成すためだけに結ばれた二人であり、父にとって、才なき子どもは関心を向ける価値も何もなかったのだ。


 生きていれば唯一セイディを愛してくれたかもしれない母親も、産後の肥立ちが悪く、セイディを産み落として数ヶ月後には亡くなってしまった。


 セイディは、ひとりだった。


 それでも彼女は努力した。

 教師に鼻で嗤われながらも、何とか立派な魔術師になろうと奮闘した。


 父の再婚相手、継母に何度悪意をぶつけられても。

 父と継母の間に優秀な弟が生まれ、彼にどんなにプライドをずたずたにされても。


 父に一度でも振り向いてほしくて。

 冷笑してきた彼らを、見返したくて。


 しかし努力は報われないまま、彼女は十の誕生日を迎えた。

 その年に――さらなる悲劇が彼女を呑み込む。


 名声高いエクランド家――そう呼ばれる裏に、数多の憎悪が巣食っていたのだ。


 その頃、セイディは周囲からの嘲笑や悪意に耐えるのに、魔術を学ぶのに精一杯で、生まれた家がどれだけ非情な振る舞いを繰り返してきたか知らなかった。

 それを、知ることとなる厄災だった。


 エクランド家に恨みを持つ者によって、セイディと弟は攫われた。

 エクランド家の裏をかく腕前を持ち、準備を整えてきた相手に、なすすべもなく。

 彼女の弟は、いたぶられ嬲られ、殺された。


 セイディは。

 多くの男に辱しめられ、エクランド家に恨みを持つ本人に、身体中を切りつけられた。

 彼女の身体に残る傷跡は、彼の呪詛の痕であった。


 ――こんなところで、死んでたまるものか。


 自ら舌を噛み切ってもおかしくない、凄惨とも呼べるような状況で、しかし、彼女の意思は強かった。


 冷たい鎖に手足を拘束されていても。

 傷つけられ、血を流しても。

 どんな屈辱的な仕打ちを受けても。


 今まで自分を見下してきた彼らのせいで死んでいくなど、そんなことがあってたまるものかと。

 彼女は懸命に、助かる方法を模索した。


 助けが来ることは、端から期待していなかった。

 エクランド家の誰が、彼女を救おうなどと考えるだろう。

 血縁である彼らがセイディを救おうとしないのに、他の誰が彼女を助けになどと考える?


 自らの道は自ら切り開かねばならない。

 誰に諭されたわけでもなく、セイディはそれを知っていた。

 彼女が生まれ持った孤独故に。


 だが――。


『よく耐えた。よく頑張ったな。セイディ・エクランドよ――』


 初めて、だった。


 差し伸べられた、温かな手。

 セイディを認める言葉。

 汚れるのも気にせず、傷だらけの剥き出しの肩にかけられた赤い豪奢なマント。


 全てが信じられなくて。

 涙を、抑えきれなかった。


 初めてとも言える優しさをくれた人に、全てを委ねるようにセイディは意識を途切れさせ……。






 目が覚めれば、ふかふかとした白いベッドの上だった。


 全てが夢かと思ったセイディだが、治療を施されてはいるものの身体中に残った傷が、惨たらしい時間が現実だったことを教えていた。


 目覚めた彼女がいる部屋はそれなりの広さで、ベッドを含め室内の物は全て上質なもので揃えられている。

 エクランド家に戻ってきたのか、と考えたセイディだが、あそことは何かが決定的に違っていた。


『――あらあら、起きたのね』


 目覚めてすぐ、部屋に入ってきたのは柔和な印象の女性。

 それでもセイディは、つい身体を強張らせてしまった。

 彼女はセイディの警戒に気付いていただろうが、ほっとしたようにおっとりと笑うと、医者を呼び、食事を運んでくれた。


 疑問符でいっぱいのセイディだったが、質問が許されたのは食事の後である。

 無理はしないこと、と何度も念を押してから、女性は落ち着いた柔らかな声で、セイディの疑問にひとつひとつ答えてくれた。


 ここが王城の一室であること。

 セイディを救い出したのは王太子の弟であるアレクシスであり、彼女がここにいるのは彼の采配であること。


 エクランド家については話すことを躊躇う様子だったが、セイディが引かなかったので、女性の方が折れてくれた。


 まず、セイディと共に攫われた弟の遺体は、貧民街で酷い状態で見つかった、という。継母はそれに、半狂乱となっているらしい。


 姉弟の拉致が発覚した当初、エクランド家は単独でこの件を解決するつもりだった。

 事態を察知したアレクシスの協力の申し出も断ったという。

 今回は被害者側であるとはいえ、王家に痛い腹を探られるようなことを避けたかったのだろう。

 しかし、攫われた弟が遺体で見つかったことによって、事態はさらに深刻化してしまった。


 一方で協力を拒まれたアレクシスだが、だからといって引く気は全くなく、彼は彼で解決にあたった。

 結果、エクランド家よりも余程的確で迅速であったアレクシスの行動により、セイディは助け出され、犯人たちは全て捕縛されたのである。


 そして――、エクランド家の膿が明るみに出ることとなった。

 繁栄の裏に隠されていた、悍ましい真実が。


 当主であるセイディの父親は捕らえられ尋問中であり、当主として彼がエクランド家に戻ることは最早ないだろう、と女性は淡々と告げた。

 エクランド家の他の主だった者に対しても、追及の手は甘くない、と。


 エクランド家は最早、名門と呼べるものではなくなってしまったのだ。


 あっけないものだな、とセイディは思った。


 悲しみ嘆く気持ちは浮かんでこない。

 ただただ、虚しかった。


 認めてもらいたい、などと。

 望むような相手ではなかったのだ。


 けれど、弟のことだけは、哀れだった。

 セイディを姉とも思わぬ態度であったが、セイディよりも小さな少年は、まだ何の罪を犯したわけではなかったのに……。


『それでは私は、これからどうなるのでしょう』

『それは――』


 女性が答えようとした時だ。

 部屋のドアがノックされた。


『ああ、ちょうどいらしたみたい。あの方に直接、その答えは聞いた方が良いでしょうね』


 彼女は言って、ドアを開けた。

 そのドアから威風堂々と現れたのが、アレクシス・カルヴァートだった。




 あの時のアレクシスは、二十になったばかり。

 当時から彼の体躯は見事なもので、巨躯と形容して全く間違いないものだった。

 彼が現れると途端に部屋が狭くなったものである。

 燃えるような見事な赤毛が、獅子のようだった。

 その髪と同じ瞳があまりに力強く優しく、それでいて獰猛で見透かすようで、セイディはアレクシスを畏ろしいと思ったのだ。


 けれど部屋に入って最初に彼は屈託なく笑い、セイディの無事を喜んでくれたので、セイディの中の怯える気持ちは萎んでいった。


 そして次には真面目な顔で、セイディに深々と頭を下げたのだ。


 アレクシスはエクランド家の隠された罪業を調査していたらしい。

 もっと早く動いていればセイディがこんな目に合うこともなかったと、アレクシスは謝罪したのである。


 それに、セイディは全く平静でいられなかった。

 謝らないでほしいとむしろ懇願した。

 アレクシスはセイディの命を救ってくれた。だから謝る必要はないのだと。


 セイディは動転していて言葉もまともに紡げなかったけれど、そんな彼女に呆れたりするような顔も見せず、アレクシスは続けた。


『それに何より、おれはおぬしの家を没落させた張本人でもあるわけだが――。それでもおぬしはおれを責めぬと?』

『それは彼らの自業自得です。殿下が気になさることではありません』


 きっぱりと瞳を見つめて返せば、何故か笑顔を返された。


『――おぬし、やはり、いいのう』

『え……、』


 そして――、気付けば、アレクシスの顔が間近にあった。

 額に、柔らかい感触。


 茫然とするセイディに、アレクシスは熱のこもった瞳でこう告げた。


『あの時の目も、極上であった。おれはおぬしを気に入ったぞ、セイディ。いつかおぬしを迎えに行く。それまでおれを待っておれ。おぬしは将来、おれの妻となるのだ』


 一方的な物言いだったが、セイディはそれを不快とは思わなかった。

 その時は茫然自失としていたため、他に何かを感じる余裕がなかったということもある。

 それより何より、アレクシスには、全てを手に入れることが許されるような、そんな威厳があったのだ。




『おれが迎えに行くまで、この者のもとで過ごすと良い』


 セイディが返答できずにいる間に、アレクシスは彼女のこれからについて、そう言い置いた。


 彼が指し示したのは、目覚めた時からセイディを世話してくれている女性だ。

 その女性の名は、セアラ・オールディス。

 オールディス家の魔術師、クライド・オールディスの妻である人だった。


 セイディは、クライド・セアラ夫婦のもとへ引き取られることとなったのである。


 その時、セイディ・エクランドは死んだ。

 書類の上でも、セイディの中でも。


 そして、セイディ・オールディスの生が始まった。



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