アプリコットフィズ

惣山沙樹

アプリコットフィズ

 私と奈々子ななこはショットバーに居た。時刻は夜二十三時。会社での長い長い飲み会がようやく終わり、止まり木を求めるかのようにここにたどり着いたのだ。


「あー、上田課長、やっぱりムカつく」


 奈々子はタバコをスパスパ吸いながら悪態をついた。上田課長は、私と奈々子の上司だ。さっきの飲み会では、酒を注ぐマナーがなってないだの、気遣いが足りないだの、散々嫌味を言われたのだった。


真里花まりかもちょっとは言い返せばいいのに」

「私は奈々子のようにはできないよ」


 ビール瓶の傾け方について私が叱責を受けていたとき、割って入ったのがこの奈々子だった。そんなマナーなんて今時古いっすよ。自分で注いだらどうですか? そんなことを彼女は言ってのけたのだ。私は言った。


「それに、私たち同期の中だと、奈々子がトップの成績でしょう? 上田課長が黙ったのって、その成績のお陰もあると思うの」

「だったとしたら、本当にしょうもないな」


 奈々子は背の低いウイスキーグラスを傾けた。カランと氷が鳴った。こんなに強そうなお酒を飲めるだなんて、彼女は大人だ。お互い、まだ二十三歳なのに。私はというと、アプリコットフィズを注文していた。奈々子が二本目のタバコに火をつけながら言った。


「大体、私は営業で真里花は事務だろ。比べるような仕事内容じゃないよ。あのクソ課長、事務のお陰であたしら営業が仕事できてるんだぞって散々言うくせに、事務のこと見下してるよな」

「まあ……でも、しょうがないよ。上田課長も今の支店になって通勤が二時間になったらしいし、ストレスが溜まってるんだよ」

「なんで真里花はあんな奴の肩を持つかね」


 紫煙と一緒に大きくため息をついた奈々子は、ジロリと私の顔を見つめてきた。彼女の目はややつり目で、キツネのようだ。少しだけ茶色く染めたショートヘアーも、よく似合っている。


「何さ、真里花」

「んー? 奈々子はやっぱり可愛いなあって思ってた」

「あんた酔ってる?」


 コツン、と私のおでこを軽く小突き、奈々子は唇を突き出した。そのむくれた顔が可笑しくて、私はプッと吹き出した。


「ふふっ、確かに酔ってるかも」

「介抱なんかしてやらねぇぞ」


 私はわかっている。介抱する側に回るのは、私だということを。奈々子は強いお酒を飲みたがるけど、実際アルコールには強くないのだ。

 チャームとして置かれていたミックスナッツに、私は手を伸ばした。すると、奈々子の手とぶつかった。


「お先にどーぞ」


 奈々子はそう言ったが、私はふと思い付いて、アーモンドを一粒つまむと、彼女の口に押し付けた。私は小首を傾げながら言った。


「はい、あーん」

「やめろよ」

「あーん」


 渋々奈々子はアーモンドを口に含み、ガリガリと噛んだ。彼女の瞳がとろんとし始めていた。ああもう、これは、連れて帰るしかないやつだ。案の定、奈々子は言った。


「ダメ。ウイスキーキツい」

「チェイサー貰おうか」


 私はバーのマスターの姿を探した。あいにく、他のお客さんと話し込んでいた。私は自分のカクテルグラスを奈々子にスッと差し出した。


「とりあえずこれ飲む?」

「これ……なんだっけ。真里花いつもこれだよね」

「アプリコットフィズ」

「そう、それ」


 ちびり、と一口だけ奈々子は飲み、顔をしかめた。


「甘っ」

「そうかな?」


 マスターが寄ってきてくれたので、私は奈々子の分の水を頼んだ。それをごくごくと飲み干して、奈々子は三本目のタバコを取り出した。


「これ吸ったら出ようか、真里花」

「うん」


 私は喫煙者では無いが、タバコの煙は嫌いじゃない。いや、嫌いじゃなくなった、というのが正しい。奈々子に出会ってから、私は少しずつ彼女の色に塗り替えられていったのだ。

 好きだなぁ……。

 そんな想いを私は口にはしない。まだその時じゃないと思っているから。それに、私が頼むこのカクテルの酒言葉を、奈々子が調べてくれるかもしれないと思うから。


「なぁ真里花……」

「なぁに?」


 奈々子は足をぷらぷらと動かしていた。そして、ためらいがちにこう言った。


「家、行ってもいい?」

「もちろん」


 バーを出てから、駅のトイレで奈々子は吐いた。スーツが汚れなかったから良かった。よろよろ歩く奈々子に肩を貸しながら、私の家であるワンルームマンションに到着した。


「ごめん、真里花」

「別にいいって、これくらい」


 私は奈々子のジャケットを脱がせ、ハンガーにかけた後、この狭い部屋に無理矢理置いたソファに座らせた。彼女は背もたれに全身を預け、深く息をついた。私は聞いた。


「どうする? シャワー浴びる?」

「いや、いい。もう寝たい」

「じゃあ、せめて着替えなくちゃね」


 奈々子は私よりも小さくて細い。だから、私の貸す服もダボダボになってしまうのだけれど、それが可愛い。

 恥じらうことなく下着姿になった奈々子は、のろのろとジャージを身に付け始めた。彼女のブラとショーツは色がちぐはぐだったが、それすら愛おしい。


「週明けのこと考えると今から憂鬱だよ」


 奈々子は呟いた。飲み会の席で生意気な口を叩いた分、上田課長の当たりがキツくなるであろうことは簡単に予想できた。


「私も着替えるね」

「んっ」


 私はスーツを脱いだ。フリルのついた真っ黒で扇情的な下着を身に付けていたが、それに奈々子が気を留めることはないだろう。それでも、今日はこれを着たい気分だったのだ。


「奈々子、ベッド行きなよ」

「ん……」


 奈々子はドサリとベッドにうつ伏せになり、そのまま寝息を立て始めた。すぅ、すぅ、という規則正しい音を聞いている内に、私の身体には熱がこもってきた。


「おやすみ、奈々子……」


 私はベッドのふちに腰かけ、奈々子の柔らかな髪を撫でた。今はまだ、彼女は私のことをただの同期としか思っていないだろう。それでいい。この想いは、すぐに伝わらなくてもいい。

 小さくうめき声を上げて、奈々子が仰向けに寝返りをした。そっと彼女の唇に顔を近付けると、酒とタバコの匂いがした。

 キスしてしまおうか。

 そんな悪い考えが浮かんだ。でも、取っておきたい。いつか、奈々子が私を求めてくれたその時まで。

 私は立ち上がり、奈々子のジャケットのポケットからタバコとライターを引き抜いた。そのままベランダへと出て、夜風を浴び、しばらく目を閉じて突っ立っていた。


「好きだよ、奈々子」


 夜空に想いを告げ、私はタバコに火をつけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アプリコットフィズ 惣山沙樹 @saki-souyama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説