あなたのもとから続く道へ

赤間 陽

真夜中にて

 徐々に夜の闇へと吐く息は荒いものとなってゆく。足には重りをつけたように、腕には電流が流れているような感覚さえした。それでも、歯を食いしばって走り続ける。やがて頑張る意味すら曖昧になってきた。

  しかし、元々運動が得意でもない俺の体は急な限界突破に耐えきれず、走っている勢いのまま足からがくりと崩れ落ちた。

  足の関節中が軋んで痛い。まるでずっと圧迫されているようだ。

 痛みに苛立ちを覚えじゃりっと一定の音しか出ない道を殴った。

 ろくに整備もされていない道に膝やら肘やらが擦れて痛い。服は砂まみれで汗が滲んでいた。やっと止まった足を見ると靴は脱げていた。学校指定の白い靴下がドロドロに汚れていた。

_あぁ、なんて惨めなんだろう。

  そんな自虐な言葉がぴったりな状態だった。いや、自虐でもしてないと心が持たない程に俺の心は荒んでいたのかもしれない。

  咄嗟に手で口を抑えた。ぎゅうと、頬が絞られるくらいに。だがそんな行動は意味も持たずに吐き出された嘔吐物によって手は半強制的に空へと投げ出される。

  盛大に吐く。一度吐き終わっても、二波、三波というように空っぽな胃から無理やり胃液を引っ剥がしてだしているようだ。

 気持ち悪い。いくら吐いても足りない。死ぬ。死ぬ。何度もそう思わされた。だが俺の体は死ぬという言葉とは真反対に、生きていることを見せつけんばかりに胃液を持ちだしてくる。

  目の前に吐き出される吐瀉物が遠く濁った。それの上に被さるように、俺の汚い涙が情けなく滴り落ちる。涙ですら俺に同情してくれず、絶えずぽたりぽたりと涙腺から無情に流れ出すだけだ。

 あぁ、情けない。惨め。そんな言葉がお似合いだ。逃げた果てにこのザマ。このまま死んでしまえばいいのに。

 そう分かっていても、俺の理性はもう既になかった。

「はは…」

乾いた笑いを零した。

「あああああああああああ!」

泣きわめく。何も気にせず、心のままに泣き叫び、喚いた。これもまた情けない。焦燥感がまどまどと降り積もる。

吐瀉物の上には俺の汚い音声も重なり、思い出したかのようにきつい刺激臭が俺の鼻を突く。

もう一度吐いた。

  吐瀉物が遠くにごった。いや、次は涙では無い。更に遠く、遠く…


_セミが泣いている。


「俺は母さんと父さんと、寧々と!ずっと一緒!」「ああ、そうだな」


_頭にきいんと鳴り響くのは救急車のサイレン。


「母さん…?寧々?」「ねえ、父さん」「お前が死ねばよかったんだ!」


_何かが脳裏でふつふつと湧き上がる。


「お前が」「お前のせいで」「お前さえ」「俺も」「俺が」「俺さえ」「俺」「お前」


 これの、正体は。


  目の前が急に明るくなった。見覚えのある天井を眼球が薄ら薄ら捉える。

  首裏も、太ももの裏も、こめかみにも何筋もの汗が通った後のひんやりさを感じ飛び起きた。至る所が湿っていて、湿っているのに蒸し暑い、そんな状態で。

震える唇と、肩の上がるような荒い息。そして震える手で首筋の汗を拭き取った。とめどなく汗は流れてくるけれど。

  おでこに張り付いた前髪を払った。まとわりつく感じが気持ち悪かったから。

  至る所に汗をかいていた。この間も、熱を持ち蒸発し熱を持ち蒸発しを繰り返していた。

「あちぃ…」

周りの音がなくなったような沈黙だった。きぃんと耳鳴りがする。だんだん高低差がなくなる肩の動作を感じつつ、俺は今までの分全てをこの息に乗せ、はぁっと吐き出した。

  俺は何をしていた?ここはどこだ?考えてみるが、どうしても頭の中の文字がはっきりしない。わからない。

ふと脳内に響いた声。なんて言っているのかは聞こえなかったが、その声を合図として、やっと思い出したかのように熱中症予防特集をするテレビの音や、セミの鬱陶しい声、そして俺の鼓動が聞こえた。

俺は元々汗をどばどばかくような体質では無い。昨夜と今が生きている中で1番汗をかいた。

_昨夜。

何気なく考えた一言が俺の脳をがつんと揺らした。思い出した瞬間にまた吐き気が襲ってくる。うう、と呻かざるを得なかった。どれだけ吐けば気が済むのか、俺の体は。

もうほんとに疲れた。一度吐くのだけでもとんでもない体力消費をするのに、それを何度もなんて、たしかに気を失ってもおかしくない。

  何気なく、ちらりと周りを見渡した。何気なく見ただけだった。何気なく、だが、出かけた吐瀉物はこの情景によって抑えられることとなる。

  俺が寝ていたのは小さな和室の一室。後ろには木製の棚があったを木の種類はわからないがとても濃い色。ドアや仕切りを付けずにすぐに廊下があった。まるで、歩くとぎしぎしと音がなりそうな、そんな木張りの廊下_

いや、ぎしぎし鳴ってたっけな、父さんから逃げてた時、あそこを通ったら終わりだと思っていた。

 違う。いますべきはそれではない。思い出に浸るより先にすべき事がある。いや、考えるべきこと、と言った方が正しいか。俺はなぜ、こんな所にいるのか。さっきまで真夜中だったはずだ。今は朝日の光が目に痛い。まさか外国?売られた?連れ去られた?いや。そんなはずない。だってここは和室だ。和室を作る外国の国が増えてきたにしても、こんなに1面日本ということが有り得るだろうか。有り得るにしても、時々聞こえる話し声も日本語だ。それが一番の証明だろう。

 では、ここはどこ、いつで、俺は何をしているか。無論、答えは不明だ。俺が意識を失った時に何かが起こったのだろう。思い出した、という方が不思議でならない。

  突然の出来事に目眩がした。やがてどん、どんと一定のリズムで内側から叩かれるような頭痛も参戦した。

俺はどうしたらいいだろうか。逃げる?いや、状況も分からないのに逃げるなんていいのだろうか。考える前に動いていい経験をしたことは無い。けれど、誰かが来てもう手遅れになったら…_

  その時、廊下がぎぃぎぃと鳴いた。誰かが、来る。そう察した。俺は無意識に姿勢を整え、固唾をゆっくり飲んだ。人影が見える。どくりと一際大きな脈拍が身体中を駆け巡った。俺は落ち着かせようと努力したものの動悸が収まらない心臓を抱え、瞬きひとつしないでその時を待った。

「あっ」

ひょこりと女性が顔を出す。

  こんな短い一言だったけれど、俺の心を荒ぶらせるには十分な言葉_いや、声だった。

  いや、耳だけで感じたんじゃない。目でも、しっかり捉えた。

  愛する人の姿を。

  今は亡き、家族の姿を。

  昨夜とは違う、熱い熱い涙が目の奥から溢れ出てきた。感情だけでこんなに涙の感触も違うのか、と心底人間の仕組みに感心する。

「起きたんだ」

  聞き馴染みのある声だった。

「ぁ」と声にならない呻き声を上げて俺は布団から飛び出した。飛び出したと言うよりかは、這いずって、千鳥足になりながら、だが。

もう既に目の前の人物は優しく微笑んで俺を待っていた。

  力強く抱きしめた。彼女の背中部にあたる服が捻れるほどに強く。年頃の俺だが、彼女のふっくらした胸が当たろうが何も感じなかった。気にならなかった。

  突っ張る口角をどうすることも出来ずに顔を崩した。16歳には似つかない泣き声をあげ泣いた。

  彼女は何も言わなかった。慣れているように優しく受け入れる。

あぁ。優しい。懐かしい、優しい笑顔。俺は、父さんはいつかまたこの笑顔が帰ってくると信じて、ずっと家族がいるフリを演じていたのかも知らない。そうでもしていないと、家族を失ったと認めたようで怖かったから。

何かの間違いではないだろうか。なにかの夢なのかもしれない。それとも、俺をはめるための罠なのかもしれない。彼女をみつけ、駆け出す一瞬、そんな考えが脳裏を巡った。

  だが俺は自分からの忠告を断った。おれが、間違えるはずがない。何より愛する家族を間違えることがない。癖の一つ一つまで鮮明に覚えている。俺は胸中で断言した。

  この人は、

「母さあん…!」

母さんなのだと。


  今の年齢は16。母さんと姉の寧々が死んだのは2年前の14歳だった時だ。

  思い出したくない記憶ほど、鮮明に覚えているものである。今でも、2分前に起きたことを友人に話すかのように詳しく語ることが可能だろう。

  その日は俺の誕生日だった。他の家族より100倍ほど家族愛が強い間宮家は、誕生日への力の入れ方が半端ない。母さんと寧々は俺にしつこく何が欲しい、何がしたい、どこに行きたいと聞いてくるものだから、特に何もいらないが、痺れを切らし俺は「カナヘビが欲しい」と正直に答えた。女二人は目を見合せ力強く頷くと、それから10分も経たずに買い物行ってくる、なんてわかりやすい嘘をついて家を出ていった。

  父さんはその時畑にいた。だけど、母さん達が行くやいなや直ぐに帰ってきた。

「母さん達がいなくなったらお前は1人だろう?俺がいてやらなきゃなって思ってな」

  なんて言って晴れ晴れと笑って頭をくしゃくしゃと撫でた。「子供扱いすんな」と言いつつも、内心嬉しかった。とそう俺はこの人のような無意識に人を笑顔できる人になりたいと思っていた。

  6時頃、父さんが家を飾り付けているとき、ふとぼやいた一言。そこからもう悲劇は始まっていたんだと、2年経った今思っている。

「…遅いなあ」

  重なるようにニュースの天気予報士の声が聞こえる。「雨」「これから」というワードしか聞き取れなかった。

  それだけだった。俺は適当に相槌を打っただけだった。

  気にしてなかったのだ。どうせ大丈夫だと。いつもの様に、そこら辺で寄り道しているだけなのだと。いつも通り、明るくただいまって言ってくれるもんなのだと。明らかにおかしい点はたくさんあったのに。

母さん達は11時に出ていった。がしかし、この時はもう既に18時と、7時間以上が経過していた。

  俺と寧々が最初にカナヘビを発見し、捕獲に失敗した山までは時間がかかっても1時間で着く所にある。そしてカナヘビを捕まえる時間を、多くて3時間としよう。そう考えると往復で4時間。空白の3時間が出来てしまう。この間に寄り道をしたとしても、山から家までの間に寄り道できるとこなんてコンビニくらいしかなく、コンビニで3時間も潰せるとは思えないのだ。

  わざわざ遠いところまで行った?そんな馬鹿な話があるわけない。母さんは無駄なことが嫌いだ。人を待たせるのも嫌いだ。多少の寄り道はしようとわざわざ遠くまで行くまでして寄り道することはまずない。

そして俺はこの時はっと思い出し、手が震えた。作業にも手がつかなくなっていた。半分過呼吸に、消え入りそうな声で父さんに訴えかけた。

「あそこの山、崖あった気がする…」

  父さんの顔は見る見るうちに青ざめていき、手に持っていたテープをテーブルの上に不気味なくらいに静かに置いた。多分、あの時父も内心今の俺みたいになっていたのだろう。落ち着かせようと、必死だったのだろう。俺のために。俺を、不安にさせないために。そして静かに、「行こう」とだけ呟いた。

  車の中は、終始無言だった。外は雨が降っていて、暗い雲が俺たちの不安をかさ増しにする。車内には、父さんのまだ花粉の残る鼻水をすする音と、タイヤが地面をする音、雨が窓を叩く音が煽るように響き渡っていた。

  俺の予想は百発百中だった。

  記憶を頼りに向かった崖の下には2人の姿があった。崖の傍には4つの足が滑ったような、そんな足跡が土が固まって出来ていた。

まだ中二という幼い俺は絶句し、泣くことも出来ずただ突っ立って見下ろすことしか出来なかった。多分、あのままいたら崖の中にでも吸い込まれていたんじゃないか。そんな雰囲気があった。

 それを止めたのは父さんだった。膝から崩れ落ちた時の、ズボンと石が擦れ合う音が俺と魂をもう一度引き合わせた。

  手で口を抑え、傘は崖の下に落ちた。小さく震え大粒の涙を流す父さんの姿は、まるで今までとは違かった。

  俺はただ怖かった。目の前の父も、下で動かない2人も、体の動かない俺も。

  父さんが叫んだ。周りの音なんて何も聞こえなかった。傘がないので雨に打たれ、体温を奪われていった。俺はポケットに手を突っ込む。パスワードを打った。打てなかった。パスワードは、なんだっけ。画面が雨に濡れて押せない。手が震えて押せない。あぁ。ああ。もう。

  その日、俺は家族全員失った。


  過去に、戻ったのだろうか。そうでもしなければ寧々と母さんが居るなんてありえない現実なのだ。

  2人は既に死んでいる。2年前に。俺だって、理解したくないにしろ理解はしている。

  死ぬ、とは。命がなくなる。息が絶える。そういうこと。俺がレスキュー隊と一緒に崖の下に行った時、2人は息をしていなかった。息絶えていた。あぁ、2人は死んだんだ、と思わなざるを得なかった。

  死んだらもう会えない。どこかを漂っていたとしても、会うことも、見ることも、話すこともままならない。それが可能になることを考えるとすれば。

  過去に戻ったと仮定する。いや現実的には有り得ないけど。母さんたちがいる時点で有り得ないのだから、まあいいだろう。

「もう少し寝てていいよ」と言われ、素直に布団の中で考えている今現在。

  じゃあなぜ、過去に戻ったのか。何かしら理由はあるはずだ。そうだな。それこそ、トリガー、か。トリガーがあるはず。

  頭は回らなかった。結局投げ出し仰向けに大の字になった。布団を引き剥がし、蒸し蒸しとした和室内に、「あちー」ぽつりと響いた。


 最近は夢をよく見る。

 幸せな夢だ。家族みんなで海に行ったり、ホテルに行ったり、家で誕生日パーティーをしていたり。

 昔は当たり前にできていたことだが、今となっては特別なことなので、幸せな夢。

 だけど今は夢なんてなく、ただ真っ暗な空間にぽつりと立っている。

 どうしたことだろう。早く、早く始まれよ、夢。

 胸中は叫んでいるのに、俺の顔はまるでお面のように固まったまんまだった。

 やがて聞こえてきた声。

「お前」「お前のせい」「お前が」「お前」お前。お前。お前。

 定期的に聞こえる。あの時の父さんの声。俺を責め立てる声。

「…たいき、母さんと寧々があんなとこにいた理由、わかるか」

 僕はびっくりした。恐怖を覚えた。無意識に、伸ばしていた足を胸元に引き寄せ、顔を埋める。

「知らない」

 そう言った。静まり返った家の中は、まだ母さんと寧々の匂いがする。

「…」

 父さんは何も言わなかった。ただ、棚に置かれる家族写真を見ていた。

 と思ったら、急に怒鳴られる。

「正直に言え!」

 涙がぶわっと溢れ出た。怖くて怖くて仕方がなくて、震え泣きながら俺も叫ぶ。

「そうだよ知ってるよ!!!」

 ふぅ、ふぅと荒い息を何度か往復して続ける。

「俺の…誕生日プレゼント!!カナヘビを取りに行ったんだ!!俺が欲しいって言ったから!!」

 父の顔は見えない。それをいいことに、さらに続けた。

「そうだ!!俺のせいだよ!!なぁ、一家心中しようぜこのまま!!それがいいだろ!なあ!!」

 気持ちの昂りを全て吐き出す。すぐにまた涙が溢れ出してくる。声をあげてわんわん泣いた。当たり前だ。まだ中2。家族の愛をもらっていえど、中2。まだまだ子供だ。

 子供扱い、してほしかった。

 父さんはふらふらと台所に行き、おもむろに皿を手に取った。

 その瞬間、鼓膜が破れたかと思った。

「あああああああああ!!!」

 中年男性の咆哮。皿の割れる音。俺の心は限界値を達していた。温度差がえげつない。嫌だ。父さん、父さん父さん。戻れ戻れ戻れ。

「全部!!!」

 やめてくれ。

「全部お前のせいじゃねえか!!!」

 般若より怖い面をしていた。俺はもう泣くことすらできなかった。

「お前さえいなければ!!お前さえいなければ母さんたちは生きていた!!お前のくだらねえ欲望がなければな!!」

 違う。それは違うだろ。聞いてきたのはあっちだ。俺は…

 悪い。

 俺が、悪い。

 俺が悪い。

「お前が母さんたちを殺したんだよ!!!」

 その言葉で全て、崩れ落ちた。今まで培ってきた家族愛も。思い出も。俺の心も。きっと、父さんもそうだろう。

 父さん。

 なんで、あんなになっちまったんだよ。

 父さん。なあ、母さんが死んだらもう家族じゃないの?母さんたちが死んじゃったなら、2人で頑張ろうってなるんじゃないの?もうだめなの?

 暗闇に突っ立っている俺の頬に、一筋の涙が伝った。


  何時間寝ただろうか。辺りはもうすっかり橙色に染まり、その光は和室に差し込んでいた。

  俺はゆっくりと起き上がり、久しぶりに清々しい気分で伸びをした。大きく息を吸った時、1番最近嗅いだ酸っぱい匂いとは正反対の甘い匂いが、俺の鼻を癒した。無性に泣けた。

吐瀉物の匂いしか嗅がなかった1日。人はその状態で甘い匂いを嗅ぐと泣くほど嬉しくなるのだとひとつ学ぶ。

  さて、俺はどうしようか。もう一度考え直す。…あーもう、何も考えたくねえ。そうは思ってもどうしようもないので仕方なく頭を回転させる。

  どうするのが正解なのか。また悩む。現実ではない世界に来てしまったからには、まず改善策を見つけるのが先だ。過去に戻ったのだったら、もう一度やり直せと言うことなのだろうか。それとも異世界転生?ここは寧々達が生きた世界戦で、そして…いや、有り得ない。これはあるはずがないのだ。

  過去に戻ったとて、早く帰れ方式だったらなんの意味もない。恐らく、未来を変えろ、ということなのでは。結果的にはそういう考えに行き着く。

  本当は、戻りたくない。寧々も、母さんもいるのに。父さんだって…そう思ったとこで、俺は疑問を抱いた。

「…父さんはどこ?」

  軽く周りを見渡すがいるはずは無い。

  そう考えると、もう1つの可能性も浮き上がってくる。これ自体が夢の可能性だ。それか走馬灯。その可能性も捨てきれない。

  この夢または走馬灯のシステムとしては、現在俺が会いたい人や大事な人と会う、みたいなあんばいで。父さんはもう壊れてしまって俺は尊敬の意も何も無くなったので、この世界にはいない、という説だ。

  自分で考えた説に、自分できょとんとする。

  はは、馬鹿らしい考えだ。なんて都合のいい。

  あーだめだ。わかんねえよ。

もう一度敷布団に後ろから倒れ込む。

  俺って意外と真面目なんだな、と新しい自分をこのタイミングで発見してしまい、はは、と掠れた笑いを零した。

  やはりこんな非現実的なことを考えるのには体力と頭を無駄に消費する。

  もう一度寝ようか。

  ふいに、リビングの方に耳を傾ける。食器と食器がぶつかる音がした。俺はそんな音に、口の端が上に曲がった。

  もしかしたら、俺は今、何がどうであれ幸せなのかもしれない。

  リビングの方からは、誰かの鼻歌が聞こえる。ふと、ぴたりとその歌が止んだ。そして入れ替わるように、

「たいきーご飯食べれるー?」

  たいき。自分の名前だ。俺の名前が呼ばれた、愛する人に。1番呼ばれたかった人に。それだけでも俺の黒ずみきった心に洗剤が振りかけられたようだった。

  俺は返事をしなかった。懐かしくて、どうしても涙がこぼれそうで、俺は天井を仰いだ。肩を震わせてはぁーと息を吐く。

  本当はあの日も、この声が聞けるはずだったのだ。今だって、あんなことが起きなければこんな世界に来ることも無くこの声を何気なく聞けていたはずだった。母さん達に無事に帰ってくるなら、もうそれでなんでもよかった。

  どうでもいい。

  それが俺の答えとなった。

  やっぱり、過去でも異世界でも夢だろうが走馬灯だろうが。どうでもいい。

  ただ、ふたりがいる世界で暮らせているのならば。

  もう一度、「たいきー?」と聞こえる。俺は次こそ、「今日いらない!」と元気よく、あの時のように返した。

  その時重なって、「_るな」と聞こえたのは聞こえなかったと思うことにする。

  俺は体を刺激しないようゆっくりと体を起こし、外に出た。

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