五月、逃避と潮騒
「色々大変だろうけど、何かあったらすぐに相談してほしい。何でも言ってくれ」
それなら今後、もう二度と、そんな話をしないでほしい。
寸でのところで理性が働き、飲み下す。ここでそれを言えば呼び出される回数が増えるだけだと知っていた。短気を起こすより打算を取る。割と最初から、そう言う判断はできた。
担任の紺色のネクタイの結び目、その少し下に視線をやりながら、ありがとうございます、と、便利な相槌を返す。二年間、もっと言うとそれよりも前。中学にあがったかどうかの頃から延々かけられている類の言葉に、今更新鮮味はない。
物心ついた頃には、母親のいない子供だった。
そのうち父親が不在がちの子になり、他に頼れる親族のいない子になり、高校入学から間もなく、父親のいない子、ひいては、両親のいない天涯孤独の子供になった。
だからどうしたと言う話だ。
紛れも無い事実の列挙に、当事者である俺をおいて大人が眉を下げるのに、どうにもならないのだから、どうにかしようかなどと言う顔をするのをやめてくれと、ずっと思っている。そう繰り返し刷り込まなくたって、俺は俺の身の上くらい、客観的に理解しているつもりだ。
「瀬央、先生じゃなくても、副担の鹿島先生とか保健室の伊佐木先生とか。一二年の時の担任でも良い。一人でなんとかしようとするなよ」
耳障りの良い言葉に、下心も裏も表もないことは分かっている。
学校の教師たちは皆親身だった。後見人の弁護士と、施設出身の父親の友達は偶に連絡をくれる。父親がかつて世話になってた施設職員からは家庭菜園の野菜が手紙と一緒に届く。同じマンションの昔からの顔なじみの婆さんは、俺を見かけると絶対に声をかけてくる。俺の周りにはいつも、俺が助けを求めた時に最大限出来る範囲で応える準備がある人達がいて、俺は恵まれていると知っている。
知っているんだ。知った上でずっと、叫び出したくてたまらなかった。
ほおっておいてくれ。
憐れまれるのも慰められるのも励まされるのも、泣いて良いと言われるのも、嫌で嫌で堪らなかった。その感情すら同情の理由の一つになるのが分かりきっているから耐えられない。
何もない。どうしようもない。そんなことくらい分かるだろう。
「……戻ります」
「うん。じゃあまた」
職員室を後にして、教室に戻るのがひどく面倒くさかった。
まだ時間が半分残っている昼休みの廊下はどこも賑やかで、その喧騒は全部耳から抜けて行く。教室の自席に戻って、腰を下ろすことなく机の中身を全部カバンに突っ込んだ。あぁくそ。三年になってから、荷物が多い。
廊下側から二列目の最前列は出口が近くて、半端な時間にカバンを担いで出て行っても見てる人間が少なくて良い。そもそも、見てたところで俺にどうしたと突っ込んで来る奴はいないだろうけど。
「あれ、瀬央くん帰んの?」
と思ってたら、すぐ横から声がかけられた。
自分の席の椅子に後ろ向きに座って、紙パックのジュースのストローを咥えながら、小さく首を傾げてこっちを見ている。
朱原。今年初めて同じクラスになった奴。毎年クラスメイト全員は覚えていないけど、朱原曰くそう。眼鏡のレンズ越しの目がいつも少し眠たそうだ。たれ目がちなせいなのか、けぶって見えるくらい睫毛が長いせいなのか。
「あー……まぁ」
返答の相槌すら面倒くさがっている事は、隠しきれているのか。朱原は何も悪くはないが、今は口先を取り繕うのも面倒だった。
当たり障りない会話しかしたことないから、よく喋るとか、話がうまいとか、友達が多いらしいとか、そのくらいしか朱原のことは知らない。席が隣になっただけの縁だった。それでも知らないなりにあっさりした性格をしている事は分かってるから、ここで解放して欲しいと、わざと目を逸らして答えを濁す。
「先生に言っとくね。気をつけて」
やっぱあっさりしてる。多分、空気を読むのが上手いってこう言う人間のことなんだろうな。なんでもない事で話しかけてくるのに深入りはしてこないし、かといってやり取りが途切れがちになるほど中身のない会話にもならない。
それは俺だけに対してではないから、話していて楽だった。たかが一カ月、誰とでもするような話を、ただそこにいるからって理由でしてた仲でしかないけど。
「……じゃあ」
「うん、バイバイ」
ひらひら手を振る朱原と向かい合っている、クラスメイトだか他クラスの奴らだかも、ついでのように「瀬央君じゃあね」と口にする。その顔に好奇心が浮かんでいるのは、脳を素通りした。考えるのも面倒だった。頷いた直後に顔を伏せて、教室を出る。
「……瀬央って一年の時から結構サボるよな」
「らしいな。頭良いから授業きかなくても困んないんじゃね」
「先生たちもあんま言わないもんな。いいな~俺も帰りてぇ~」
「瀬央君って確かさ」
背後の会話は足を動かすごとに遠ざかって、やがて聞こえなくなる。その中に、朱原の声は相槌の一つもなかった。
特段感想は湧かない。大体全て事実だったから。
ただ。
「帰るって、どこにだよ」
その言葉だけが飲み下せずにいる。ずっと。
大抵の感情の揺れは、寝ていれば過ぎる。過ぎた後は空になったような気になる。
そうして空になったなりに体は習慣通りに動いて、いつもの時間に居間のソファの上で目が開いたかと思うと、まともに身支度を整えて制服に着替えて、きちんといつも乗る電車に乗っていた。
頭は大して働いていないが、昨日の午後に戻ってきてからずっと寝ていたから眠気はない。昨日の朝から何も食べていないが、空腹は感じない。体調は多分良くもなく、悪くもなく。
普通だ。いたって、俺はいつも通りだ。
田舎の電車はこの時間、登校する学生で混んでいる。座れたためしがない。扉側に追いやられて、鼻先のガラスの向こう、流れて行く建物たちを眺めている。天気が良い。新年度が始まって一カ月、ずっと快晴が続いていて、目が眩むようだった。
まっさおだ。雲一つない。青い。ずっと向こうまで青い。どこまで青いんだろうな。子供のような事を考える。あまりに青くて世界中の天がこんな色なんじゃないかとか、そんなどうでも良いことを。立ち尽くしたまま、空の頭で。
気付けば、車内からごっそりと学生は消えていた。
ぽつぽつと学生ではない乗客が席に座っている。窺うような視線がちらちらと寄越されて、あぁまたやったな、と遅ればせながら察した。扉横の座席に腰を下ろす。わざとじゃないんだけどな。聞かせる人間などいないのに、脳内で言い訳をする。
稀に、どうしたの学生さん、と話しかけてくる婆さんがいるが、今日はいなかった。だからただ黙って進行方向に顔を向けて、がたがた揺れる振動と、偶に入るアナウンスと、入れ替わる乗客の気配とを、空っぽの頭の片隅で僅かに感じて、目を閉じる。眠っても良いかと思ったが、やっぱり眠気はやっては来なかった。
やがて、降車駅に電車が停まる。
降りたホームに人はいない。
俺の他に降りる奴も、入れ替わりに乗る奴も、駅員もいない。当たり前か。来年廃駅になるはすだし。
すぐ後ろで扉が閉まる。今まで意識もしていなかった時間を携帯で確認した。午前十時過ぎ。授業はとっくに始まっている。今更と思いながら、がたがた俺を置いて走り去る電車の音をバックに、学校の事務局に電話をかけた。何度も声を聞いた事のある職員に、定型文を口にする。分かりましたお伝えします。向こうも定型文で返してくる。この人も、多分まだ連絡は行っていない職員室でも、皆「またか」と思ってるだろう。俺も思っている。
「……明日も呼び出されんのめんどくせぇな……」
去年の担任なら間違いなくそうする。今年の担任はどうか。まだよく分からない。適当に流してくれるのが一番良いんだけど、どうだろうな。
電話を切ると、急に辺りは静かになった。人の気配のないホームには、夏ほどは煩くない虫の声と、最低限の手入れしかされていない雑木林が揺れる音くらいしかない。自分で吐いた溜め息ばかり耳について、ほんの少し苛ついて、がりがりと頭を掻いた。
海が見える。
高台に作られた駅のホームからは見下ろす形で。視界を遮るものはなく、青と言うよりは藍色とか紺色の方が近いような色をした水面が、日の下で重たそうに揺れていた。
海水浴には向いていないだろうなと見るたびに思う。実際波打ち際に砂浜と言うものはなく、そこにあるのはコンクリートの飾りっ気のない堤防と消波ブロック、繋がれて波に揺れる漁船くらいなものだった。一つ二人つある人影は釣りでもしているのかもしれない。
そしてずっと遠く。目視できる限りの一番遠くに、水平線がある。上も下も同じ系統の色のくせに、目視でもその一本線はよく分かった。
緑色が褪せた古いベンチに座って、その仄かに白く光っているような線を眺める。カバンは足元に放って、背中はさらついた背もたれに預けて。プラスチックがギシッと怪しい音をたてるのは、気にしない事にしている。
「……海くせぇ」
特段、好きな匂いではなかった。そもそも海そのものが、そう好きでもない。
ざあざあ切れ間のない波の音も潮の匂いも。べたつくような空気も。寄せては返すが永劫に繰り返される、この時間が停滞したような感覚も。
ついでに言うなら、ただ板を組み合わせただけのベンチは座り心地はかなり悪い。そこそこしっかりした屋根のおかげで日は遮られているが、壁はないので秋口から春先までは吹きっ晒しになってかなり寒い。眺めは結構良いと思うけど、居座るにはろくな場所じゃない。使う人間は殆どいないから、廃駅を知っても驚かなかった。
本当に、ろくな場所じゃない。
ろくな場所じゃないから、ここに来るのはいつも、成り行きだった。
降りるべき駅で降り損ねて、通うべき場所に足が向かなくて、ようやくもう良いかと思った時には大体、この駅に電車が停まる。大体一時間半の「成り行き」。何も考えていないから、何も楽しくはない。
何も。なにも。
単に、二年前に死んだ父親が、海が好きだっただけだ。初デートだかプロポーズだかが理由だと言っていた気がする。あまり真剣に聞いてなかった。とにかく俺を産んで間もなく死んだ母親と仕事の好きな人で、俺と同じでそう喋る性格でもなかった。俺に似ているので我が子と言えど子供の相手もそう上手くはなくて、小さい頃からたまにここから見えるあの堤防に連れ出されては、あれこれと思い出話を俺一人に披露していた。父なりのコミュニケーションのつもりだったのだと思う。それを、長じてからは面倒だと思っていた。俺が高校に上がるまで続いていた習慣は、苦痛とまでは言わないが、和やかとも言い難かった。それでも今よりはもっとずっと、マシな心地だったような気もする。
好きでもなく楽しい思い出もないくせに、なにもかも面倒になった時にはいつも、行く先はここしかなかった。
他にはない。行く先も居場所もない。俺には身の置き場がないらしいと他人事のように捉えている。どれだけ空になっても、この頭の片隅にはいつも、片づけを先延ばしにし続けている自宅があった。誰もいない、一人で使うのには持て余して仕方ない広さの、全て俺のものになった家。
「…………面倒だな」
自分の思考回路の無駄さが。どうしようもない感傷が偶に吹き出る物分かりの悪さが。どうにもならないのだからと理解して、実行仕切れていない現状が。
考えない。考えるな。自分に繰り返し言い聞かせる。それでやってきたのだから、これで問題ない。これからもそうして行くのに間違いはないはずだ。現実を認める。言ってどうにもならないことを言う意味はないだろう。
惰性だけで息をしている。
それでいいと、自分で決めたはずだ。
五月の風の中、日が中天を経て西におちるまでただ、そこにいた。
ヘーゼルとチョコレイト 七川セキ @7kawaseki
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