七夕の夜

瀬戸 夢

七夕の夜

 短冊を結ぶと、息を合わせる掛け声と共に大きな笹、いや、ほぼ竹が空高く立てられた。夕暮れの空に笹、いや、竹はたくさんの願いを支えるように大きく垂れ下がっている。


 目深まぶかに帽子を被った夏輝なつきは、つばを少し上げてそれを見上げた。隣にいる拓海たくみが尋ねる。


「夏輝は何をお願いしたの?」


 その言葉に一瞬目をぱちくりさせると、夏輝はフフッと微笑んだ。


「な・い・しょ」


 そして意味深な答えを返す。


「なんだよそれ」


「女性の願い事なんて知らない方がいいわよ」


 夏輝はそう言うと、悪戯いたずらっぽくニヤリと笑みを浮かべた。


「そういう拓海は何をお願いしたの?」


「自分のは内緒で僕のは訊くんだ」


「いいのよ、拓海のは」


 それを聞いた拓海は呆れた顔で肩をすくめた。


「じゃあ、僕も内緒。まぁ、分からない方が叶いそうじゃない?」


「フフッ、そうね」


 二人で手を繋ぎ七夕祭りの会場を後にした。真夏の日差しで熱せられたアスファルトは、まだほんのりと熱気を帯びている。



 駅前に建つこの辺りでは一際ひときわ大きなビルに着くと、最上階のレストランを目指してエレベーターに乗り込んだ。レストランの受付で名前を告げる。予約をしていることもあり、すぐに窓側の席に案内された。窓の外には遠くまで街の景色が広がっている。


 グラスにシャンパンが注がれ、合図するかのように目線を合わせると、お互いすっとグラスを持ち上げた。


「それじゃあ、夏輝、誕生日おめでとう」


「ありがとう。拓海も誕生日おめでとう」


「うん。そして、去年一年ありがとう。また一年よろしくお願いします」


「こちらこそありがとう。よろしくね」


 今日、七月七日は夏輝と拓海の誕生日であり、また、二人の結婚記念日でもある。


 二人は七夕の夜、同じ病院で同じ時間帯に産まれた。もっとも、そのことをお互い知ったのは後々のこと。


◇◇◇◇


 二人の出会いは今から約九年前、大学一年の頃だった。


 それぞれの大学のボランティアサークルに所属していた二人は、海岸の清掃活動で初めて顔を合わせる。その頃は、夏輝は大学に入って知り合ったバイト先の男性と、拓海は高校時代に同級生だったと、それぞれ交際をしていた。


 それから地域のボランティア活動で二人は度々顔を合わせていたが、卒業し社会人となってからは会うことはなかった。


「あれ? 新山にいやまさん?」


 病院のロビーで、帽子を目深まぶかに被った見覚えのある女性に拓海は声をかけた。声をかけられた女性は驚いた様子で一瞬顔を伏せる。しかし、こちらも見覚えのある顔と声だと分かると振り返った。


「もしかして……、長沼ながぬまさん?」


「えぇ、お久しぶりです。月浜つきはまマラソンのボランティア以来ですね」


「そんな前になるかしらね。本当にお久しぶりです。えっと、今日は人間ドッグとかですか?」


 パジャマ姿の拓海を、夏輝は上から下まで眺めた。


「あっ、いや、そうじゃなくて。実をいうと、大学を卒業する少し前からずっと入院してまして」


 拓海は照れくさそうに、頭をポリポリといた。


「えっ!?」


 別に隠していることではないので、彼女に事情を話すことに。


 大手電機メーカーに内定が決まり、あとは卒業論文を残すだけとなった三年前、一月ひとつきほど続く体調不良に病院を受診したところ、治療方法がまだ確立していない難病と診断された。何もしなければ三年、治療を行ったとしても持って十年の命だった。


 治療をしながらどうにか卒業はしたものの内定は辞退。卒業後は延命治療のため、この病院にずっと入院している。


 恋人は最後まで一緒にいたいと言ってくれたが、未来のない自分に付き合う必要はない、君が幸せになることが自分の幸せだと説得して別れていた。


「そんなことがあったんですね……。なにも知らなくてごめんなさい」


 夏輝は気まずそうに頭を下げた。


「いやいやいや。別に新山さんが知らなくて当然ですし、もう三年になりますので自分もそれほど悲観はしていないですから。えっと、新山さんこそどこか悪いとか?」


 逆に訊かれ夏輝は戸惑った。拓海のように不治の病とかではないが、人に話せる内容でもない。しかし、拓海は正直に話してくれたし、それにどうせ後々バレること。


 二人は夏輝の提案で、病院のロビーから人気ひとけの少ない中庭に移動した。ベンチに腰掛け帽子を脱ぐ。夏輝の素顔を見た瞬間、拓海は言葉を失った。


 夏輝の額には見覚えのない大きな傷跡。頬や顎にもいくつも小さな傷跡が見て取れる。


「長沼さんも知ってるかもしれませんけど……」


 傷跡を見られたくないのか顔を伏せながらそう前置きをすると、夏輝は話し始めた。


 二年前、当時付き合っていた恋人は、交際して半年が経つと人が変わったように暴力を振るうようになった。それに耐えきれず、別れを切り出したところ事態は悪化。


 連日の付きまといや度重なる電話やメッセージでの脅迫が続き、身の危険を感じた夏輝は警察に相談することに。警察は昨今のストーカー被害での不始末もあり、幸いすぐに対応してくれた。


 そして、警察から元カレに警告。それにより、一旦は元カレからの接触はなくなった。平穏な日常を取り戻した夏輝はホッと安堵する。


 ところが数ヶ月後、事態は急変。


 待ち伏せていた元カレにナイフで何ヶ所も刺され、更には旅行先などで撮ったものから裸や卑猥ひわいな格好の写真、また、行為中の動画がいくつもネット上にばら撒かれてしまった。


 最終的にこの事件は元カレの逮捕という形で終結。センセーショナルな事件に、各マスコミは大々的に報道を行った。


 そのことで、幸い命は助かったものの、ネット上にばら撒かれた何百枚もの写真や動画から、本人の特定がされるまでに至ってしまう。そして、それらの写真や動画は永遠にネット上に残ることになった。


 拓海もこの事件自体はかなり大きく報道されていたので知っていたが、それ以上の情報は特に検索などしていなかったので、この事件の被害者が夏輝だとは知らなかった。


「それで、傷の方はほぼ完治したんですけど、一部の刺し傷は内臓まで達してて、こうして何ヶ月かに一度はまだ検診を受けているの」


「そうだったんですね……」


 傷は徐々に癒えていっているが、デジタルタトゥーは永遠に消えることはない。人目を避けるように夏輝は仕事を辞め、こうして何ヶ月かに一度の病院以外は外出することなく、家に引き籠る生活になっていた。


 未来のない拓海と、過去を消したい夏輝。


 二人はお互いを励ますかのように会う回数が増えていった。そして、拓海の体調が落ち着いて自宅療養となったのを機に交際をスタート。更にその一年後には、夏輝からプロポーズされた。


 最初、拓海は未来のない自分と結婚したら不幸になると断ったが、たとえ拓海がすぐに死んでしまったとしても、結婚したことを絶対に後悔しないと力強く語る夏輝に根負けし、プロポーズを受け入れることにした。


 お互いの両親も思ったほど反対はせず、二人を見守るように祝福。そして、二人の誕生日である七月七日に籍を入れて今日で丸二年になる。


 医者から当初告げられた寿命でいうと残りはあと二年ほど。ここ一年は拓海の体調が少し悪く、先月まで検査と治療のため入院をしていた。


◇◇◇◇


 食事を終え家路へと寄り添って歩く。田舎とはいえ、それほど暗くはないので天の川は見えない。


「ねぇ、相談があるんだけど」


 夏輝が顔をうかがうように切り出した。


「どうしたの?」


 小川に掛かる石橋のちょうど真ん中で歩みを止めると、夏輝は拓海の両手を取った。見上げるその顔は真剣そのもの。


「あのね、子供が欲しい。拓海との子供が」


 拓海はその言葉に目を見開いた。


 結婚した際、拓海は重荷を残したくないと考え、子供は作らないと話していた。そして夏輝もそれに一度は納得。拓海がいなくなった後、子供を一人で育てていく自信がまだ夏輝にはなかった。


「それは駄目だって。約束したでしょ?」


「そうだけど……。でも、このまま拓海がいなくなって一人になったら、逆に生きていけないと思うの。私を一人にしないで」


 縋るように見上げる夏輝の潤んだ瞳。拓海は困った顔で頭をポリポリと掻いた。


 拓海も愛している夏輝との子供が欲しい、自分が生きていた証を残したい、そんな想いはあった。


「お願い!」


 夏輝が拓海の胸に抱きつく。その想いに、拓海は優しく包み込むように夏輝を抱きしめた。


「わか――っ」


 返事をしようとした瞬間、拓海は背中から大きな衝撃を受けた。実際には何も音は出ていないが、ズドンという大きな音が体中に響き渡ったかのよう。


 ゆっくりと振り向くと、ハァハァと息が荒く瘦せこけた男が背中に張り付いていた。焼けるような感触に目をやると、脇腹のあたりに刃物が刺さっている。


「夏輝ぃー!! なんだこの男は!? 俺以外の男と抱き合ってんじゃねぇー!!」


「た、た、竜也たつや!?」


 夏輝が竜也と呼んだ男は、殺人未遂で逮捕され収監されていた夏輝の元カレ。刑期を終え、先日出所したばかり。


 竜也が離れ際にナイフを引き抜くと、拓海はどしゃりと崩れ落ちた。


「キャー!! 拓海!!」


「夏輝……。に、逃げ、ろ」


 脇腹を押さえながら、か細い声で叫ぶ。その叫びも虚しく、今度は夏輝にナイフが突き刺さった。


「浮気女には制裁が必要だ!」


 鬼の形相で竜也は何度も夏輝の腹にナイフを突き刺した。夏輝も拓海の脇に崩れ落ちる。


「夏輝ーーーー!!」


 すでに意識はないのか、拓海の呼びかけに反応はない。


「この間男にも制裁だ!!」


 狂気の顔で竜也は拓海に馬乗りになると、何度も凶刃きょうじんを振るった。


 意識が遠のく。すでに痛みはない。二人とも目の光が失われ、魂が七夕の夜に溶けていった。


◇◇◇◇


『――み、――くみ、拓海。目覚めなさい、拓海』


 男とも女とも言えない、聞いたことがあるような無いような、『何か』の不思議な声で拓海は目を覚ました。


 上も下も前も後も右も左もない、目も開いているのか閉じているのかも分からないが、なんとなく真っ白な世界に漂っている感じがした。


 ここは……。


『拓海、答えなさい。あなたの願いはこれでいいのですか?』


 感覚的に『これ』と示された方を向く。見覚えのある紙。


『もし変えたいのなら、新しい願いを言いなさい。でも、一つだけ』


 薄れそうになる意識との狭間で必死に考える。それは本能に近い感覚だった。


「僕には……、僕にはそれ以外の願いはありません。夏輝の――」


 全てを言う前に、『何か』は光り輝き拓海を包み込んでいった。


◇◇◇◇


『――き、――つき、夏輝。目覚めなさい、夏輝』


 男とも女とも言えない、聞いたことがあるような無いような、『何か』の不思議な声で夏輝は目を覚ました。


 上も下も前も後も右も左もない、目も開いているのか閉じているのかも分からないが、なんとなく真っ白な世界に漂っている感じがした。


 ここは……。


『夏輝、答えなさい。あなたの願いはこれでいいのですか?』


 感覚的に『これ』と示された方を向く。見覚えのある紙。


『もし変えたいのなら、新しい願いを言いなさい。でも、一つだけ』


 薄れそうになる意識との狭間で必死に考える。それは本能に近い感覚だった。


「私には……、私にはそれ以外の願いはありません。拓海の――」


 全てを言う前に、『何か』は光り輝き夏輝を包み込んでいった。


◇◇◇◇


 ぼんやりと目を開くと白い天井が目に入った。見慣れない天井、嗅ぎ慣れない空気。拓海は何度か目をぱちくりとさせた。


「お、お母さん! お兄ちゃん起きたよ!! あっ! 夏輝ねえちゃんも!!」


 甲高い声の方を見ると、一人の少女が誰かに向かって叫んでいる。


 遥香か……。


 意識がはっきりしたところで話を聞くと、拓海と夏輝は石橋の下で二人寄り添って倒れていたという。通り掛かった人が救急車を呼んでくれて、この病院に搬送されたとのことだ。


 特に外傷はなく、原因は分からないがしばらくすれば目覚めるだろうということで、この病室に二人して寝かせられていた。


「まったく、なにがあったか分からないけど心配かけて」


 拓海の母がやれやれとため息混じりで言うと、夏輝の父が何か思い出したように顔を上げた。


「そういえば、二人が幼稚園の頃、暗くなっても帰って来なくて心配してみんなで探したら、同じあの石橋の下で二人くっついて寝ていたことがあったな」


「あー、そんなことがあった!」


 拓海の父も思い出したようで声を上げた。


「あん時の二人を見て、将来一緒になるんだろうなぁと思っていたけど、本当に結婚して、まさか子供の時と同じことをするとはな」


 そう言うと、拓海と夏輝の父はガハハと笑った。


「そんな昔のこと憶えてないよ。まぁでも、この度はご心配をおかけし申し訳ございませんでした」


 拓海が頭を下げると、それを見て夏輝も一緒に頭を下げた。


 拓海と夏輝の二人は七夕の夜、同じ病院で同じ時間帯に産まれた。家も近所で二人はまるで双子のように育ち、中学に入ると双子から恋人に、そして大学卒業と同時に恋人から夫婦になった。今日の七夕で、結婚して六年になる。


◇◇◇◇


 七夕の夜、白寿を祝う会場のリビングから、海を臨むベランダに二人して出てきた。気持ちのよい夜風が、酒で火照った体を適度に冷ましてくれる。


 足元に気をつけながら、いつも二人で座っているベンチに並んで腰を掛けた。


「ばあさん、改めて誕生日おめでとう」


「ありがとう。おじいさんもね」


 二人はぽつぽつ明かりが灯る夜景に目を向けた。灯台の光も、もうかなりめしいた目にはぼんやりとしか映らない。


 夜景を穏やかな顔で見つめていた夏輝ばあさんが、ゆるりとした口調で話し始めた。


「そういえば、最近思い出したんですけど……」


「どうした?」


「昔ね、ほら、二人して石橋の下で寝ていたことがあったでしょ?」


「あぁ、そんなことがあったなぁ」


 そう言いながら、拓海じいさんは懐かしそうに目を細めた。


「あの時ね、私、変な夢を見ていたの」


 少し笑みを浮かべながら夏輝ばあさんがそう言うと、話を聞こうと拓海じいさんは顔を近づけた。目も悪くなったが、耳も遠くなっている。


「うん、どんなだ?」


「それがね、願い事はこれでいいのかって誰かが言ってくるんですよ」


 夏輝ばあさんの言葉に拓海じいさんは目を見開いた。


「わ、わしも同じような夢を見てた気がするぞ!」


 拓海じいさんは久々に大きな声を出した。そのせいで少しせき込む。すると、夏輝ばあさんが優しく背中をさすった。


「そうなの? フフッ、私たち昔からずっと一緒だったから、同じ夢を見ていたのかしらね。ところで、おじいさんの願い事は何だったんですか?」


 拓海じいさんは毛のなくなった頭をポリポリと掻いた。


「それがな、憶えてないんじゃ。わしが何をお願いしたのか……。ばあさんは?」


「私も憶えてないのよ」


「そうか……」


 ため息混じりにそう言いながら拓海じいさんは肩を落とした。しかし、笑みを浮かべると話を続ける。


「まぁ、いいじゃないか。わしはお前と幼馴染で、そして一緒になれて本当によかったと思っとる。ありがとう、ばあさん」


「そうですね。たくさんの孫やひ孫に囲まれて、白寿までおじいさんと一緒にいられて私もとっても幸せですよ。ありがとう、おじいさん」


 微笑みながら拓海じいさんを見上げると、恥ずかしそうにまた禿げ頭をポリポリと掻いていた。


◇◇◇◇


「あっ、いたいた。主役がいないと駄目なのに」


 ベランダに二人を見つけた息子がぼやく。


「お義父さんもお義母さんも、ちょっと疲れちゃったんじゃない?」


「そうかもな。まぁ、もう少しだけこのままにしておこう。まったく、何歳になってもラブラブなんだから。息子のこっちが恥ずかしいよ」


「あら、いいじゃない。私たちも二人を目指しましょう」


「うーん、まぁ、そうだな」


 二人を起こさないよう、静かにガラス戸を閉じた。


 過去を願った男、未来を願った女。手をつなぎ寄り添って眠る二人の上には、輝く雄大な天の川が流れていた。

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七夕の夜 瀬戸 夢 @Setoyume

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