それから

「──もう、それは言わないって約束したじゃないですか」


 なだらかな坂道の途中で足を止め、彼女はハンズフリー会話の相手を、優しくたしなめる。つば広の白い帽子にノースリーブのワンピースがよく似合う、洗練された大人の女性だ。


「あの事故は、たしかに彼が私をかばってくれたようなもの・・・・・だけど。それを負い目に思って、一緒にいるわけじゃないんです」


 彼女は傍らを通り過ぎた乗用車を、目で追った。この坂道は傾斜がなだらかなぶん、無意識にスピードを出しすぎてしまうドライバーも多い。


「それに、あの事件……紗月のことだって、私は彼が犯人じゃないって信じてる。スマホの中の写真も、誰かがでっちあげたに決まってる。だからお母様も、自分の息子こどものこと信じてあげて」


 話しながら彼女はゆっくり屈みこんで、押していた車椅子の前を覗き込む。座っているのは、小ぎれいなシャツを着せられて、虚ろな目で空中の一点を見つめる青年。


「……あら、またよだれ……」


 彼の半開きの口元に、ひとすじこぼれた液体を、自分の親指で優しく拭う。その指を自分の紅い唇にはこんで、舌でねぶりまわす。恍惚の表情を浮かべながら。


「……ううん、なんでもない、大丈夫。それにね、彼が命だけ・・でも助かったのは、きっと紗月あのこが守ってくれたからだと思うんです」


 彼女は──すっかり大人の女性になった本田愛里は、長い黒髪を左手でそっと耳にかけた。薬指で、清楚なデザインのリングがきらりと輝いた。


「明日でちょうど十年になるのだし、もう泣かないでお母様。だって私たち・・・は、これが幸せなんだから」


 ほどなく数年ぶりの実家に着くことを伝えて通話を終えた彼女は、何もない空中の一点を見詰めながら、やわらかく微笑む。


「ぜんぶ、紗月の計画通りいうとおりになったね。──ありがとう、大好きだよ」


 初夏の微風そよかぜが彼女の頬を、いとしむようにふわりと撫でていった。

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恋獄坂の告白 クサバノカゲ @kusaba

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