白河紗月
今度は僕がきょとん顔をする番だった。
それじゃまるで……いや、そんなばかな。
ありえないと思いつつも確認のため向けた視線の先。さっきまで本田さんの向こうを歩いていた白河紗月の姿は、あとかたなく消えていた。
そして。
『愛里の言ってること、
声が囁いたのは左の耳元──というよりもっと奥の、鼓膜のそばまで挿入された管の先から響くようだった。寒気と同時に襲う心地よいこそばゆさが、ぞわぞわとさざ波のように全身に拡がっていく。
「なッ……!?」
慌てて左耳を抑えながら、そちらに顔を向ける。息のかかりそうな至近距離で、白河紗月の美しい顔が微笑んでいた。微かに、なまぐさい匂いがした。
『ほら、見せてあげるから……』
耳を塞いでいるのに、囁きは相変わらず耳穴の内側から響いた。なのに彼女の薄い唇は、微笑みを浮かべたままぴくりとも動いていない。
『よく見て』
口を動かさず囁いて、彼女は片手でゆっくり焦らすように、セーラー服の
露わになった青白いお腹には、紅い
『きれいでしょ? 愛里が
もう一方の手で僕の手首を掴み、お腹の方に導く。でも掴まれた感触はなくて、なのに腕が勝手に動く。それ以外の全身は、勉強しすぎた夜中の金縛りみたいに自由が利かない。声も出ない。
なすがまま導かれた僕の指先は、彼女のお腹のまんなかで縦に開いた傷痕に触れ──そのまま、なんの抵抗もなく体内にずぶずぶと、手首まで飲み込まれていく。
『ほうら。私、幽霊だから』
そして彼女は僕の手で、自分のお腹をぐるぐるとかきまぜて見せる。生温かい、ぬめりのある液体をかきまぜるような感触。おぞましい、けれど……気持ちいい……
そうだ……僕はいま、大好きな女の子の体のなかを素手でまさぐっているのだ。よく考えてみたら、それはすごく幸せなことじゃ……
「──こらっ、紗月!」
唐突に反対側の耳に飛び込んできた本田さんの声で、僕は我に返った。体の自由も──掴まれたままの左腕以外は──戻っている。
忘れていた呼吸を取り戻すように、深く息を吐いて吸った。
「ねえ紗月、なんかやらしいことしてない?」
「ご……ごめん……彼、なかなか愛里のはなし、信じないから……」
こんどは唇を動かして、いつも通りのか細い声で答える彼女。それは僕の耳の内側には響かない。どうやらあの囁きは、僕にしか聞こえないようだ。
「そっか、じゃあ許してあげる」
あっさり許可した本田さんは、僕の左側を覗き込むと「紗月ばっかずるい」と呟いて、スマホと逆の手で僕の右手を握りしめてきた。あたたかくて柔らかい、人間の女の子の手の感触に心がなごむ。
──ただし、それはおそらく白河紗月の命を奪った手。
「ちょっと……ちょっと待って、いろいろと理解できない……」
出せるようになった声で僕は、当然の主張をする。
「ごめんごめん。紗月はね、私の
本田さんはくりくりの目を見開いて、それから恥ずかしそうに伏せる。そうじゃなく、もっと根本的なことが理解不能なのだけど……告白? いったい、何を……。
「えっと、ちゃんと言うから。私……」
僕を左右から挟んだ二人の少女。右側では、珍しくかしこまった様子の本田さんが、僕の手をぎゅっと握りしめる。
『わたし、あなたに感謝してるの。だって……』
同時に左側、僕の手をお腹に
『「ずっと、好きだったの』」
そして二人の声は同じ言葉で
「きみのことが」『愛里のことが』
「すごくすごく。でもね」
『それは叶わぬ恋だってわかってた』
左右から、二人の声が僕の脳を
「私はきみが好きで、きみは紗月が好きで、紗月は私が好きだった」
『だけどね、愛里は
「紗月がいなくなれば、きみは
『かたいナイフに気持ちを込めて、わたしのからだを何度も突き刺して』
「紗月も最初は痛そうだったけど、途中から喜んでくれて」
『だって、それってもうセックスと同じことじゃない……?』
──ああ。このとき僕は唐突に理解した。
いや、経緯はどうにか理解できたけれど、彼女たちの
『あなたのおかげで、わたしは永遠に愛里のものになれたの。たぶん、守護霊ってやつかも』
「ね、昔みたいに愛里ちゃんって呼んでほしい。いっしょにお風呂もはいりたい。あとねあとね──」
もう二人の
『だからわたし、こんどは愛里の望みを叶えてあげたいの。それって、すごくあたりまえのことでしょ?』
「──私をお嫁さんにする約束も、守ってほしい」
理解を放棄したことで急激に冷静になった僕は、この異常な二人(?)からどう逃れるべきかを考え始めた。
とりあえず本田さん──愛里に掴まれた腕のほうは、全力を出せば振り払えるだろう。逆の手にはスマホを持っているから、もし彼女が凶器を持ち歩いていたとしても、すぐには取り出せないはずだ。
確認のため視線を落とした僕は、そこで愛里の手のスマホが、いつものピンクのカバー付きの愛用品でないことに気付く。そしてそれは、しばらく前に紛失した僕のスマホと同じ機種に見えた。
──まさか、そんな。
パスワードロックはかけていたが、彼女らの前で何度か解除したこともある。
だとしたら、とてもまずい。
僕のスマホのなかに紗月の死体の画像がある、というだけじゃない。カレンダーアプリには、偶然を装って一緒に帰るため、待ち伏せして作った帰宅時間予測のメモがある。
一緒に歩いている紗月の盗撮画像は、もちろん大量にある。
さらに隠しフォルダには、家まで尾けたときたまたま部屋のカーテンの合間から見えた着替えや、たまたまバスルームの窓の隙間から覗けたシャワー中の動画もある。
いつか
「──また、逃げるの?」
『逃げられるものなら、逃げてみなさい』
内心を見透かすような囁きと同時に、二人は掴んでいた僕の両腕を手離した。まるで突き放すように。
ぞっとするほど
──車道のほうへ。
横合いからのすさまじい衝撃で体がふわりと浮かび、意識が暗転したのは、その直後だった。
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