告解(後半)
「三十三歳までそのような生活を続けていたある日、その日は休日でしたが、夫の方に急な仕事が入ったため、私は以前から気になっていた美術館に一人で行ってみることにしました。
クリーム色の内装を基調としたその美術館を見て回っていた時、私の足は二階へと続く階段に向きました。
短い階段のその上を見上げた時、私の瞳は凍りついたかのように固まりました。ある一人の女性へと目が釘付けになったのです。
その女性はちょうど、階段を上から降りて来るところでした。年の頃は私と同じくらいで、パーマがかかった肩ほどの茶色い髪が揺れていました。細身でスタイルが良く、洗練されたオーラが私を惹きつけました。昔の言い方をすると、モダンという感じでしょうか。その彼女が幅のある大階段をゆっくり降りて来る様は、スターといいますか、さながら大女優のような雰囲気を纏っていました。彼女の履いていた赤い細長いヒールの靴が、彼女の動きに合わせて階段を鳴らしました。
私が彼女を見ていた時間は、一、二秒ほどでしたが、彼女の所作はスローモーションのように私に焼き付きました。すると彼女の方も、私を振り返りました。私達はその空間に二人しかいないかのように、お互いを見つめ合っていました。彼女も私から何かを感じ取っているようでした。
私達はまるで以前からの知り合いだったかのように言葉を交わしました。そして美術館を見ることもなく二人で外に出ると、近くの喫茶店で二時間ほど時を共にしました。そこで私は彼女が松下里絵という名前で、年齢は私の一つ下だということを知ったのです。
当然のことであったかのように、私と里絵は恋人関係になりました。里絵は私と違ってもともと男性を愛する人でしたが、私達は深く恋に溺れました。
里絵はネイルサロンで働いていて、そのせいかいつも洒落た雰囲気を醸し出していましたし、銀行員という堅い仕事をしていた私は、彼女のそういったところに憧れを持ったものでした。
私と里絵は仕事の後に食事に行ったり、休日に水族館や映画館に出掛けました。里絵の家に行ったことも一度や二度ではありません。そのような二人の逢瀬が二年続きました。夫への罪悪感は勿論感じましたけれども、里絵に溺れていた私は自分を止めることが出来ませんでした。三十年以上生きてきて、初めて恋愛という面においての倖せを感じたのですから。あの時、あの二年間だけが、私の人生において幸福といえる時間だったのです。
けれども、崩壊の時は訪れました。夫に、私が里絵に送った「愛している」というような意味合いのメッセージを見られてしまったのです。指摘してきた夫とすぐ話し合いになりました。
前に触れたように夫は善良な人でしたから、私を感情的に
しかし問題は両親です。夫と離婚したとなれば、当然彼らに隠しておけるはずもありません。私は夫と別れるにあたってはまず、両親を説得しなければいけませんでした。
実家に一人赴き、全てを告白した私を、両親は激しく
両親は私だけでなく里絵のことも責め、離婚して里絵と生きていくのであれば、里絵に多額の賠償を請求するとまで言い出しました。私はそれはさすがに過ぎた仕打ちではないかと言い返しました。しかし彼らは、私の順風満帆な人生を里絵が壊したと言うのです。順風満帆どころか私の心は空洞だらけだったというのに、そして私達はお互いの意思で交際していたというのに、両親は里絵を一方的に悪者扱いにしたのです。
私は泣きつくようにして里絵にそのことを話しました。里絵は真面目な顔で相槌を打ちながら話を聞いていました。そして彼女は少し考えた後、賠償を支払うのは構わないけれども、香子は両親に冷たい目を向けられながら自分と生きていけるのかと問いました。私は少し自信がありませんでした。決して両親に依存していたわけではありませんでしたが、家族というのは何かと人生から引き剝がせないものです。ですから彼らに嫌われる勇気はありませんでした。
そのことを伝えると里絵は、では自分を選んでくれるのであれば共に命を絶たないかと提案してきたのです。当然私は驚き、逡巡しました。けれどももう、私にとって里絵のいない人生は有り得ませんでした。彼女と一緒に死ねるのであれば本望だと思ったのです。決心した私が真剣な面持ちで承諾すると、私達は心中の手段と日取りを決めました。あとは、あなたの知る通りです。
以上が、事の顛末です。ここまで読んでくれてありがとうございます。最後に、なぜ十八歳まで待ってほしいと言ったかというと、あなたが物事をよく考えられる年齢になってからこの手紙を読んでほしいと思ったからです。
なぜあなたにこれを書いたかというと、あなたが私と同じような苦しみを抱いていたならば、里絵と会う前の私のようにはならずに、後悔の無い人生を歩んでほしかったからです。
あなたの祖父母は古い考えの人ですが、私が自ら命を絶ったとなれば、考えを変えてくれるかもしれません。また、時が経つのを待てば、時間が人間性を変えてくれるかもしれません。あなたのお母さんは同性愛者ではありませんが、きっと祖父母よりは理解のある人でしょう。
・・・では、話はここでおしまいにします。瑠衣ちゃんと話すのはとても楽しかったです。お別れの挨拶をしたいけれど、出来ないのが淋しいです。私の選択に悔いはありません。最後の二年だけでしたが、やっと幸福を手にし、その人と一緒に逝けるのですから。友人や姉、瑠衣ちゃんともっと一緒に居たかったけれども、私は最愛の人と散ることを選びます。私は倖せでした。
・・・それでは、瑠衣ちゃんも、どうか幸せに」
読み終わった私は、手紙を持ったまま気が抜けたように虚空を見上げていた。
私には数年前から好きな人が居た。美咲という、中学一年からの友達だった。確か香子さんが私の家に来ている時に、美咲をうちにあげたことがあったと思う。
手紙の最後の“あなたが私と同じような苦しみを抱いていたならば”という部分。香子さんは、私の美咲に対する様子を見て、私の感情を見抜いていたのだ。だから自分と同じようにはならないようにと、この膨大な手紙を書いてくれたのだろう。
気づけば、私の頬を雫がつたっていた。やや黄味がかった、無地の白い便箋を埋める綺麗な文字を眺めた。それをなぞり、「香子さん」、一言だけそう呟いた。呟いた私は彼女の優しい微笑みを目の奥に映し、手紙を静かに折り畳むとそっと引き出しの奥に仕舞った。
桔梗に願う 深雪 了 @ryo_naoi
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