暗い世界に際立つ、あざやかな光。

 流れるスカーフは、水平線へと向かうように、私の視界から消えてゆく。


 あの日とは、まるで逆だ。


 二年生に進級して以降、灯里が、学校で、あるいはそれ以外で、どんな時間を過ごしていたのか、私はほとんど知らない。お互いが会おうとしなくて、クラスも違えば、自然と相手の顔さえも見なくなってくる。誰かを挟んで、彼女のことを聞く機会は何度かあった。所属していたブラスバンド部を辞めたらしい、とか、髪を染めて登校し、先生と口論になった、とか、だ。良い話はあまり聞かず、耳に届いてくるのは、嫌なことばかりだった。そもそも学校も休みがちだったみたいだ。


 ずっと気になってはいたけど、話すことのできない状況にあった私には、どうすることもできない。無理やり彼女の心に土足に踏み込むなんて柄じゃないし、もし私が灯里だったなら、絶対にそんなことはしたくない。


 もちろんこの感情は嘘ではない。だけど一番は、灯里に対する憎しみにも似た感情があったような気がする。確かに灯里の父親の出来事があって以来、私と灯里の間には溝ができてしまったかもしれない。それでも私は、灯里に悪意や敵意をぶつけたことは一度もない。なのに、なんでここまでひどい態度を取られなきゃいけないんだろう、と理不尽にも感じていたのだ。


 もう私たちの人生に敷かれたお互いのレールが、どこかで交わることはない。

 納得しているわけではないが、諦めはあった。


「久し振り、ねぇ、会えないかな」

 私の自宅に、一本の電話があった。灯里からだ。去年の最後にふたりで会った時と同じように、雪の降らない冬で、冷たい風か吹いていた。


 灯台の見える夜の海岸に、私たちは立っている。


「また、距離がすこし遠くなったね……、ううん、もう、すこし、じゃないか」

 ほほ笑む灯里は髪を赤く染めていて、メークを施した顔は、私よりも大人びて見えた。だけど似合わないな、と思った。本人がそれを望んでいない、借り物のような雰囲気があったからだ。


 あの日、彼女の周りには、ほのかに死のにおいが漂っていた。


「話すの、久し振りだね」

「どきっ、とした? 私から急に電話が来て」

「そ、そんなことないよ」

「そんなことのある言い方だよ」

 と、灯里が、からかうように笑った。


「寒くて、うまくしゃべれないだけ」

 そう私が答えると、灯里が私のそばに来て、両手で、私の手を握る。


「これで、すこしは温かくなった」

「やめてよ。恥ずかしいから。私のこと、嫌いなくせに」

「嫌いじゃないよ」

「避けてたくせに」


「お互いさまでしょ。それに、必ずしも嫌いだから離れるとは限らないもんだよ。前も言ったでしょ。あの灯台と一緒で、近くにいると大切なことを見逃しちゃうから。だから私たちの一年は、この距離で良かったんだよ」


 見上げる灯里の視線の先にあるのは、円筒形に高くのびた灯台の放つオレンジ色の光だった。


「今年は、柚子にとって、どんな年だった?」

「何、それ。普通だよ」


 普通、と言いながら、私にとっても悩みの多い一年だった記憶がある。灯里との関係を抜きにしても。たとえばあの年、私ははじめて失恋を経験した。穏やかな雰囲気で、勉強もスポーツもできる、そんな男子生徒だった。彼女がいることも知らずに、私は勢いのまま告白して、そして撃沈したのだ。できるだけ私を傷つけないように、と彼の断りの言葉は柔らかかった。でも優しい言葉を掛けるくらいなら、いっそ冷たく突き放して欲しい、と思った。


 たとえば、かつての灯里が、そうしたように。


「そっか。……私、さ。お母さんに、引っ越さないか、って言われてるんだ」

「どこに?」

「お母さんの実家がある新潟のほう。まぁお母さんも嫌だよね。変な噂ばっかり立てられたら」

「遠いね。行くの?」

「お母さんは、間違いなく行く、と思う。もう限界みたいだから」お母さんは、という言葉を強調する。「もし私も行くとしたら、どんどん遠くなるね。心も肉体も、私たちは」


 彼女の手が、私から離れる。


 灯里は着ていたブルゾンのポケットに手を入れると、赤いスカーフを取り出した。鮮やかな赤を成すそれは、私たちの中学校で指定されている制服のスカーフだ。


「これ、もらって欲しいな、って思って。持ってきたんだ」

「いきなり……。なんで」

「ほら、卒業をする時に、女の子、って好きな男の子から第二ボタンをもらいに行く儀式あるでしょ。逆も、あるのか。好きな女の子に、男の子が第二ボタンを渡す、とか。あれ、むかしからちょっと、ずるいなぁ、って思ってたんだ」

「ずるい?」

「だって、女の子が女の子を好きになったとしても、もらったり、渡したりできないから。代わりになる物がないかな、って考えたら、このスカーフが思いついて」


 ねぇ柚子、もらってくれない。

 波音にかき消されそうなほどちいさな声で、灯里がささやく。


 私の手に握らされた、赤いスカーフには、かつての持ち主の手のひらの体温が残っていて、しっとりとしていた。


「私は、きょうで卒業するから」

 その、卒業、という言葉が何に対してのものか、灯里は言わなかった。


「嫌だ」

「もう決めたんだ。私が、柚子と会うのは、きょうが最後」灯里が私の目じりに触れる。「本当は、ね。前みたいに抱きしめてあげたいんだけど、私もこれ以上、心残りはつくりたくないから」


 近すぎたからこそ、気付くのが、すこし遅れてしまったのかもしれない。自分たちがどれだけ相手をよすがにしていたのか。自覚した時には、もう遅かった。すくなくとも、もう遅い、と思ったからこそ、一年生の時の冬、灯里は私から離れたのだろう。


 灯台の下は、いつだって暗い。私はその夜の闇に、もっとしっかりと目を凝らすべきだったのだ。


「じゃあね、私、帰る」

 そう言って背を向けた彼女は、私の目の届かない世界へと消えていった。


 行方不明となった彼女が、生きているのか、あるいは死んでしまったのか。私には知るすべがない。私だけではない、おそらく誰も彼女の行方を知らないはずだ。灯里の母親から居場所を聞かれたこともある。私は正直に、知らない、とだけ答えた。生きてはいないだろう。そう思ったが、口にすることはできなかった。


 そして私だけが中学三年生、十五歳になった冬、私はたったひとりであの海岸を訪れた。


 三年生に進級したあと、私の心にはつねに灯里のいない空虚な気持ちがあった。それは確かだ。だけど充実してようと、満たされない気持ちを抱えていようと、時間はひとりの人間の感情なんて無視して進んでいく。私は他のひとと関わる時は、空っぽの感情を外に出さないよう、心掛けた。


 私にはじめて彼氏と呼べる相手ができたのも、この時だ。

 嫌いではなかった。どちらかと言えば、好きだった。だから告白された時、私は彼の言葉を受け入れた。だけどその、好き、にライクをこえるような特別な感情があったか、というと、自信はない。


 彼は、私の心に最初から気付いていたような気もする。


「もしかして、なんだけど、他に好きなひと、いたりしない?」


 付き合いはじめてすぐの頃、そんなことを言っていたからだ。いないよ、と私は答えた。嘘をついたつもりはない。彼はそれ以上、聞こうとはしなかった。もしも灯里の存在がなかったなら、彼はもっと特別なひとになっていたはずだ。そのくらいには、彼は私にとっていくつもの素敵な魅力を持っていた。その証拠、というわけではないけれど、彼は夫に似ている。


 結局、彼とはすぐに別れてしまった。

 進学のことも周囲は真剣に悩む中で、私は投げやりだった。表向きは真面目な態度を取っていたので、クラスメートや担任の先生には、ばれていなかったはずだ。だけど母には気付かれていて、何度か喧嘩になったことがある。


 波の音を聞きながら、私はほの暗い想像を浮かべていた。

 冬の、冷たくなった夜の海を、水平線へと向かうように歩いていく、少女の姿だ。もちろんそれはただの想像に過ぎない。私は、彼女が死んでいるかどうかも知らないのだから。でも、なぜか間違ってはいないような気がした。こんな予感、外れて欲しいけれど。


 海水に触れる、とそれはあまりにも冷たく、涙が止まらなくなった。その感情が怒りだったのか悲しみだったのか、私自身も分からない。


 海へとスカーフを投げる。


 彼女のもとに向かっていけ、と願いながら。だけど私の想いは届くことなく、寄せる波が、私のいる場所へと押し戻す。

 このスカーフは私を縛りつける呪いだ、と思った。


 戻ってきたスカーフを拾い直した時、私はほっとしていたのだから。


 私はまだ灯里から、卒業できそうにはない。ぬれたスカーフを抱きしめながら、嗚咽が漏れた。

 灯台の光は、きっとそんな私のことなんて見つけられないだろう。遠くばかりを照らす灯台の近くは、いつまでも暗いままで、そこで、私たちの関係ははじまり、終わっていくのだ。


 あれから十年以上の月日が流れ、娘ができた頃だろうか、私が彼女との関係の終わり……、卒業について、考えはじめたのは。


 久し振りに投げたスカーフが波に押し戻されることはなかった。

 流れるスカーフは、水平線へと向かうように、私の視界から消えてゆく。

 そして見えなくなった。今度こそ、卒業できたような気がする。


 振り返ると、声が聞こえる。

「お母さーん」

 と、私を呼ぶ声だ。


 夫と娘の姿がある。事前に場所は伝えていたけれど、まさか来るなんて思ってもいなかった。どうしたの、と私が聞くと、なかなか帰ってこないから心配だったみたいだよ、と夫が娘の顔を見ながら言った。娘が私の足に抱きつく。


 完全に決別することはできないだろう。物がなくなったとしても、記憶が消えるわけでもなく、そして消えて欲しくない、とも思っている。だけど胸には秘めたまま、すこしの間だけ、お別れしよう。


「ごめんね」

 そう言って、私は娘の頭を撫でる。


 今度は遅くなってしまわないように。近くにいることが当たり前になって、見失ってしまうことがないように。

 たとえちいさくとも、いま一番大切な景色を照らしだす、光となれるように。


 灯台の下の、どこまでも暗い世界にいた私たちほど、そこに際立つ光のあざやかさを知っている人間は、いないはずだから。

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灯台の下は、いつだって暗い サトウ・レン @ryose

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