灯台の下は、いつだって暗い
サトウ・レン
誰よりも近くて、どこまでも暗く。
海へと投げたスカーフが、流れてゆく。
大人になったいまでも、私は海沿いの町にある実家に帰ると、ときおり近くの海岸へと向かう。ぼんやりと灯台を眺めるだけだ。なんでそんなことをするか、というと、いまの私にとって特別な意味があるわけではない。ただむかし私はクラスメートと横に並んで、砂浜から一緒にこうやって灯台を見上げたことがあって、たぶん私は夫と娘のいるようなこの年齢になっても、あの過去に囚われている。
水際に寄せる波の音に耳を澄ませると、いつだって彼女の声が混じる。
近くにいるからこそ、分からないこと、ってあるよね。まるで灯台下暗しだ。
大人になった私は、灯台下暗しの、灯台、が、岬に建つような灯台を指しているのではない、と分かっているけれど、当時の私たちはそんなことも知らなかった。だからこそ私たちふたりの共通認識としての灯台下暗しの、灯台、は、海のそばに高くそびえるあの灯台だけなのだ。永遠に。
私には幼馴染がいた。もう会うことのできない彼女は、
最後に会った時、灯里から渡された赤のスカーフを、私はまだ捨てられずにいる。時間の経過によって、スカーフの色は褪せてしまった。
ここに立つと怖くなる。私たちの特別な場所で、襲ってくる記憶の奔流にのみこまれそうになるから、だ。だったら行かなければいい。頭では分かってはいても、心が言うことを聞かない。忘れたくても忘れられなくて、そして忘れられないのは、忘れたくないからだ、とも気付いている。
彼女とはじめて出会った時のことを、私はまったく覚えていない。
物心がついた時には、彼女をすでに知っていたようにさえ思える。私の日常に同化するように、灯里のいない世界なんて考えられなかった。
「
と私の名前を呼ぶ声は、穏やかな高音で、耳心地が良かった。
あなたたちはいつも一緒だね。
小学生の頃、私たちを見て、まるでふたりでひとつだね、と言ったのは担任の先生だった。先生に悪気はなかったはずだ。だけど私はそれを聞いてすこしだけ嫌な気持ちになったのを覚えている。ひとりでは未熟者、と言われているような気がして。もしも幼かったあの時に、私の内から灯里の存在が欠けていた、としたら、駄目になっていただろう、と知っていながら。
確かに私たちには、そんな時代があったのだ。いつまでも、そんな日々が続くと信じて、疑いもしなかった頃の話だ。だけど、静かな、凪いだ時間に急速な変化を与えるように、ひとつの事故が起こり、それをきっかけに私たちの関係は崩れてしまった。
私自身は、何ひとつ変わっていないつもりだった。だけどそう思っていたのは、私だけだ。そうでなければ、
「私のこと、避けてるよね?」
なんて疑惑を、灯里が私に投げかけてくるはずがない。
「そんなことないよ」
「嘘だ」
「本当だよ」
あの時のやり取りの中で、私の言葉はずっと震えていた。灯里も気付いていたはずだ。
怯えていなかった、と言えば、嘘になる。彼女自身に、ではない。彼女と近くにいることで、私を取り巻く周囲が変わることを怖れていた。私の心の奥底で根付いた保身を、おそらく彼女は私よりも敏感に察知していたはずだ。そんな私を、卑怯者、と罵ることはなく、
「そっか。ごめん。私の気のせいだね」
と寂し気な笑みを浮かべていた。
もしも容赦なく私の心を砕く言葉を、灯里が投げかけていたなら、私たちの未来は変わっていたのだろうか。割れて、破片の失われてしまった、私たちの関係が修復された世界を、いまでもときおり、想像する。そのたび、虚しくなる。
十三歳、中学一年生の頃、私たちは同じクラスだった。
人殺しの娘。
誰が言ったのかは分からない。だけどゆるやかに陰で広まりつつあった噂を聞いた時、まったくの嘘だ、と断じることのできたクラスメートはひとりもいなかったはずだ。それは私も含めて。
灯里の父親のことは、私も知っている。彼女に似て、穏やかな雰囲気で、私の住む町のちいさな診療所で、医者をしていた。灯里と仲の良かった私に対しても、娘のように接してくれて、父親のいなかった私は、優しい父親を持つ灯里を、いつも羨ましがっていた記憶がある。
そんな灯里の父親が、交通事故で、ひとを死なせてしまったのだ。
事故が起こったあと、長期間、彼女は学校を休んだ。久し振りに学校に来た時、柔らかだった彼女のまなざしが、ほのかに濁りを帯び、鋭くなっていた。彼女のその時の心を想像して、私の目が、勝手に表情に翳りをつくっていたのかもしれない。
それから一ヶ月近い間、灯里は必要最低限の会話以外、ほとんど誰と話すこともなく、その時間を過ごしていた。その頃の彼女の席は、私の席から対角線上の一番遠い距離にあって、頬杖をつきながら、ぼんやりと窓越しの景色を眺めていた。そのどこか冷めた表情を見ながら、私は声を掛けようとして、ためらい、結局何ひとつ言葉を交わすことができなかった。
人殺しの娘。
ただの交通事故だったなら、灯里に対してこんな風評が付き纏うことはなかっただろう。
事故ではなく、殺意を持って、灯里の父親はそのひとを轢いたのではないか、とそんな噂だ。
噂、というのは怖い。広がるにつれて、理屈がしっかりとしてきて、事実だと決まったわけでもないのに、事実としか思えなくなってくる。灯里の幼馴染で、彼女の父親を知っている私でさえ、疑っていたのだから、あまり近くもないクラスメートの中には、かけらも疑うことなく信じていた子も多かったはずだ。
時間の経過によって、灯里はまた、すこしだけ周囲と話をするようになった。私とも何度か会話を交わすことはあった。いつも通りを心掛けて、私は彼女と接していたつもりだった。だけど心掛けている時点で、無意識に大きな壁をつくっているのだ。だから避けている、と灯里に指摘された時、私はあんなにもうろたえてしまった。
過去へと想いを馳せていた時間を一瞬、いまへと戻すように、冷たい冬の夜気が、私のほおを掠める。
いつかも、こんな冬だった。
「ねぇ、行きたいところがあるんだ」
雪の降っていない冷たい海に、私たち以外の姿はなかった。私たちは中学一年生で、学生服を着ていても、小学生のあどけなさがお互いに残っていた。
私のこと、避けてるよね?
彼女からそう言われたのは、海に誘われるすこし前のことで、私は不安でいっぱいだった。また私の弱い心に、彼女は触れてくるんじゃないか、と。やわらかい砂を踏む音が、波間に聞こえて、やけに耳に残った。
灯里が、行きたい、と言った場所は、小学生の頃、何度か訪れたことのある海岸だった。その頃を思い返すと、いつもここまで私たちを運んでくれたのは、灯里の父親だった。有名な観光名所でもなんでもないけれど、めずらしい景色に私たちは、はしゃいでいた記憶がある。そんな私たちを楽しげに見る灯里の父親を思い出して、いまあのひとはどうしているのだろうか、とそんな気持ちになった。
「すこし遠くなったね」
「そう、だね」
はじめてその言葉を聞いた時、その時の私たちの物理的な距離のことを言っているのだ、と思っていた。私たちはすこし離れた場所に立っていたから。だけどあれは違う意味だったような気がする。精神的な距離について、灯里は話していたのだ。
遠ざかる私の心を指摘して、彼女の表情は寂しげだった。気付けなかった、それこそが精神的な距離の広がりだったのだろう。
「久し振りに、ここに来たかったんだ」
彼女の吐く息は、白かった。
「いつでも来れるでしょ」
「じゃあ、柚子は、私以外と、いやひとりでもいいんだけど、ここに来たことある?」
「ない、よ」
自転車をこげば、三十分くらいの距離だ。なのに、私は幼い頃に連れていってもらって以来、この時まで、一度も訪れたことがなかった。
「そういうものなんだよ、結局。遠くにあるものばかりに気を取られて、近くにあるものを、見つけようとしなくなる。そんなつもりはないのに、ね。見つけてしまった時には、触れることのできないほど、遠くにいる」
「灯里……」
「近くにいるからこそ、分からないこと、ってあるよね。まるで灯台下暗しだ。……お父さんのことも、そうだった。遠くなって、はじめて分かったんだ」
どきり、とした。
お父さん。
お互いが避けるだろう、と思っていた言葉を、彼女が使ったからだ。
灯里の父親が死なせた相手は、私たちと同じ町内に住む中年男性で、このあたりではちょっとした有名人だった。それは良い意味合いではなく、横暴で、周囲とのトラブルが絶えない男だった。自分より弱いと判断した相手には容赦なく、喧嘩で罵声を浴びせている光景も、何度か見たことがあった。
灯里の父親が営む診療所に通う患者でもあり、ふたりの間にむかしからトラブルが多かったのは、もちろん私も知っている。
だから、と言って、殺すだろうか、という考えと、もしかしたら本当に殺したのかもしれない、という考えが、私の頭の中でせめぎあっていた。
「分かった、って、別にお父さんの心の中が分かった、なんて意味じゃないよ。お父さんの心なんて、お父さんにしか分からない」その言葉は、だから聞かないでね、と私を制しているような気がした。「分かったのは、お父さんに対しての、私の気持ち。意外だったんだけど、私、思った以上に、お父さんのことが好きだった、みたい。お父さんは、人殺し、だから、たぶんこんなふうに言うと、もっと、嫌われる、気がするけど」
人殺し。嫌われる。彼女はその言葉の時だけ、つっかえた。
「ごめん」
何に謝っているのか、自分でもよく分かっていなかった。
「なんで謝るの? 別に謝る必要ないよ」
「ごめん」
「泣かないで。本当に私は、柚子が悪いなんて思ったこと、一度もないよ。ただちょっと寂しくなっただけ。気付いちゃったから。私自身の、灯台下暗しな、想いに」灯里は灯台の回転する光を指差した。「あの光は、私たちを見つけられるのかな?」
「見つけられるよ」
見つけて欲しい。そばにいるのが当然だったあの頃に想いを馳せて、私は願うように言った。
灯里は首を横に振る。
「私は、見つけられない、と思うな」
「なんで――」
そんなこと言うの、と続けようとした私の言葉は、彼女のほほ笑みにさえぎられた。
そして彼女が、言ったのだ。
「私たち、もう話さないほうがいいかもしれないね。私のためにも、柚子のためにも」
何か言わなきゃ、と思うのに、絞り出そうとした言葉はのどの辺りでせき止められて、口から息が漏れるだけだった。
灯里が、私を抱きしめる。
いまもっとも近くにいるひとが、何よりも遠く感じられた。
「どうして……」
この、どうして、が、なんの、どうして、なのか、私自身よく分かっていなかった。
「ごめんね」
その会話以降、私たちはすれ違っても、挨拶さえしなくなった。灯里は露骨に私を避けていたし、その姿を見て、自分から話しかける勇気が、私にはなかった。私との会話がなくなると同時に、というわけではないのだろうけれど、灯里は周囲と、事故が起こる前のようなコミュニケーションを取るようになった。私と関わりたくないのなら、せめて他のクラスメートにも似たような態度を取って欲しい。嫌な感情だとは思うけれど、それがあの時の、私の嘘偽りのない本音だった。
たまに目が合うと、彼女はすっと目を逸らす。そこに私がいないかのように。
私はただこの日々が終わることを願っていた。
願いは、叶った。
関係が回復したわけではない。進級とともに、私たちが別のクラスになったからだ。正直、私はほっとしていた。もちろん仲直りするのが一番理想的な形だとは分かっていたけれど、そうなってはくれなかった。
そして私たちが中学二年生、お互いが十四歳を過ぎた冬に、別れは訪れた。
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