老いのアーリーアダプター
生まれたからには死ぬ。
これは100%当たる未来予測です。(※人間の次元においては)
場合によっては老いて死ぬ。
これもまた、現代の日本では高確率で的中する予測です。
情報産業の中でも最大手のジャンルである〈未来〉の中でも特に安定した需要のあるサブジャンルは〈老い〉です。「確実に来る未来」を謳って購買意欲をあおる書籍は数あれど、〈老い〉についての情報ほど手堅い未来情報は他にありません。
私たちライトノベル拡大主義者は、もちろん商業主義者でもあるので、大きな市場に一枚かみたい気持ちはあります。
しかし、〈老い〉にはちょっと手が出せない。
〈老い〉は激戦区です。「九十歳」「86歳」「101歳」「102歳」「103歳」といった迫力のある数字を出してくる古豪だけでなく、若いころに「IT革命」「早さは強さ」「勝者総取り」の精神を血肉化した中年たちも今後は、老いのアーリーアダプターとして続々と参入してくるかもしれません。
私がまだ中年だったころには、内田魯庵という先輩がいて、こんなことを書いていました。
————以下、引用文
前にも云ったが、日本は老人国で、少くも五十を越えなければ社会的に羽根を伸す事が出来ない。ドウいうわけだか一番年齢が無さそうな大学教授だけに定年があるが、他の方面では大学教授の定年を越した老人が頭を押えておる。世渡りに利口な男は四十を越したばかりでモウ老人振ってる。老成振って早くから壮年者に超越しているような顔をしているのが成功の秘訣の一つである。
恁ういう老人が羽根を伸してる国だから、東京の町は半分動脈硬化症に罹っている。何とか国難ばかりを四苦八苦に艱んで萎けている。不景気ばかりを呟いて後退りしている。
————以上、内田魯庵《モダーンを語る》( https://www.amazon.co.jp/dp/4582806031 )より引用
これは昭和3年のことです。満州事変の3年前、「人口ピラミッド」の形が今よりずっとピラミッドの側面図に近かったころの話です。
そのころですら「世渡り」のために老人ぶる四十五十の鼻たれ小僧がいたのであれば、少子高齢化・完全普通選挙・新作人生訓産業という3点セットがそろった現環境で政治的経済的メリットを得ようとする老いのアーリーアダプターは、少なくないだろうと思われます。
————以下、引用文
現代の日本社会では若者はマイノリティだ。政治経済の枢要は中年や高齢者に占められ、そうした年寄りどもは票田としても売上としても同世代をあてにしている。若者のエネルギーが帯電している街、若者の流行がカラーを決定づけている街は、今、どこにどれだけあるだろう? 少なくとも過去の渋谷や新宿や秋葉原にあった、あの積乱雲のような若者のエネルギーはそれらの街にはなく、インバウンド観光客の賑わいに置き換えられている。
————以上、p_shirokuma《『パーティーが終わって、中年が始まる』にかこつけて日本社会を語ってみる》( https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20240728/1722148700 )より引用
魯庵先輩が書きのこした〈過去の銀座〉のことを思い出さざるをえません。
願わくば、「そうした年寄りども」ではない年寄りどもにこそ同世代の抑止力として活躍してほしいものですが、老害度の低い年寄りほど自分が老害になることを恐れて第一線からきれいに身を退いてしまうという残念な摂理もあります。
それに加えて、今後は老いのアーリーアダプターが老人国の強力な藩屏となっていきそうです。
私の若いころにも、科挙をあきらめて老荘にはまる中年はたくさんいましたが、これからは本場西洋のアーリーアダプター精神を身につけた老いのアーリーアダプターが増えていくことでしょう。〈老い〉というジャンルの勘所を手早くつかんで成功するのは、そういう人たちです。
弱い老人の立場から強い老人と交渉していく道はますます険しくなっていく、と言わざるをえません。
【余談1】
昭和のころには、「自伝を出版していいのは社長と女と芸人だけ」という言葉もありました。
ずいぶんと極端な表現ではありますが、一つの商業的真実を語るものでもあります。重役になれなかったサラリーマンや事務次官になれなかった官僚の個人史は、挫折や転向を語る文学のようなものにならざるをえず、シンプルなエンタメに仕立てるのは難しい。そういう時代はありました。高齢化の時代と言われる現代でも、「一国一城の主」になれなかった高齢者の物語は、いささかメジャー感に欠けると判断されてしまうかもしれません。そもそも当該層では、人生の物語化という行為そのものが放棄あるいは懐疑されがちです。
昔も今も、日本という「老人国」を代表する老人の実態は、それほど変わりばえがしないものです。「政治経済の枢要」で、一貫した国家の物語を作っていくのは、高齢者といってもごく一握りの強靭な高齢者だけなので、統計的な人口ピラミッドはあまり関係がありません。
心身ともに頑健なまま何らかの集団の上層部にいる中高年、という範囲まで枠をひろげると、これは中央政府の大物や大企業の経営者に限りません。
仕事が終わるやいなや、一般部と壮年部の合同稽古や黒帯研究会へ直行して若者たちと競い合い、休日はサッカーやフットサルで汗を流したあとビールと肉でパーティーをしているような人たちもまた、中央政府の老人たちとあまり衝突することのない価値観をもち、地域で強い影響力を保ち続けています。膝や頭頸部の蓄積ダメージにさえ気をつければ、あと20~30年はパーティーを続けていられそうな人たちです。
魯庵先輩の言う「老人国」は、右から左までそういう元気な人たちで固められています。そんな人たちと交渉していくためには、それなりの体力と脳内GDPを必要とするはずです。体力については永世ワナビの専門外ですが、脳内GDPはこれからもワナビのテーマです。
【余談2】
個体ごとに大きな差のある体力とは別な話、『センゴク一統記』にいうところの「故き者が持つ奇妙な力」もワナビのテーマです。
いずれ、下記の権威論につなげる形で展開させたいと考えています。
・権威主義創作論のために ( https://kakuyomu.jp/works/16817330659884875261/episodes/16818093080868055474 )
・ナチュラルメイク創作論 ( https://kakuyomu.jp/works/16817330659884875261/episodes/16818093081199999408 )
【余談3】
老いのアーリーアダプター問題は、大きく言えば物象化(人体が数理に振り回されてしまう流れ)の問題でもあります。
戸籍上の(政府の事務のためにある)年齢にせよ、文化産業のためにある売上データにせよ、そういった社会的な数値が自意識や社会通念を経由して人体に影響を与えてしまうことは確かにあります。
集団の平均値や最高値だけを見て「中高年は肉体労働に向かない」「アジア人は短距離走に向かない」と多くの人が判断し、それが社会の常識になってしまえば、社会全体の労働効率やメダル効率は上がるのかもしれません。
しかし、ある個人Aにとって、その判断にしたがうことが本当に有益だったのかどうかはわかりません。地球2がないように個体A2もないわけですから、あとから誰も検証したりはしませんし、誰も責任はとりません。
たしかに統計処理や人体管理は、天下国家を動かす機関にとっては重要なことなのかもしれません。
しかし、「個人とはまず個体のことである」という個人主義の基本に立ち返る選択肢を忘れさせるほどに、経営者目線の統計的思考を推奨してしまうのはやりすぎだと思います。
このあたりのことは、〈凡知の知〉による凡知マウントが現環境で最強すぎる問題とあわせて、これからの創作論の課題としていきます。
永世ワナビの創作論 水山天気 @mizuyamatenki
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