【歴史】 私たちはどこから来たのか?
権威主義創作論のために
【これまでの小小林秀雄問題についてのまとめ】
・集団のサイズによっては、何度でも新たに発生してしまう可能性がある。
・極端に小さな集団においては、定石外れの手がとがめられることも無いまま定着し、いわゆる「文芸部の王」「文芸部の裸の王様」を生んでしまいがち。
・さらに大きな集団においても、「真摯マウント」「純粋マウント」という暴牌が通ってしまうことはある。
・日本語圏内最上位の集団においては、すでに小小林秀雄問題は「乗り越えられた」……のかと思いきや、明確な解消手順が周知されることもないまま、ハイレベルなメタ認知による回避がハイレベルな常識になっているだけかもしれない。部外者にはわからない。
・フランス文学側からの解析に対して、国文学側からのそれはまだ手薄であるように見える。要調査。
【本文】
EG文庫はワナビの溜まり場なので、「権威」は常に重要です。
ワナビとは、常に権威に近づこうとしている者たちです。何度でも権威へのアプローチを繰り返し、ついに権威からの褒賞を得た時にようやく卒業ワナビとなります(これに失敗した場合、「結果的には無欲」を本質とする永世ワナビになります)。
ワナビと権威は切っても切れない一方的な関係にあり、「権威とは何か」「何が権威に褒められるのか」を〈権威ではないことが明らかな側〉から探っていくことこそが、ワナビによる創作論の基盤となります。
無条件のマイナス印象語として使われがちな「権威主義」という言葉についても、ワナビがそのような使い方をすることはありません。むしろ、資本主義国の共産主義者が「共産主義」の一語に込めるほどの人類史的興趣と希望を込めて、「権威主義」という言葉を使っています。
ワナビは権威ではありません。しかし、権威主義者です。(※わずかに権威である可能性については後述)
特に小説系ワナビは、「本質的に」と付け加えてもよいほどの権威主義者です。権威主義者にならざるをえません。小説系ワナビほど権威を必要としているワナビがいるでしょうか。
権威とは、つなぐものです。
互いに互いを解ろうとしない人々や、ある理解しにくい概念(〈よい〉など)と個人の脳との間を、理屈抜きでとりあえずつないでしまうものです。
権威からの呼びかけは、「わかってごらん」から「わかるまでわかれ」にいたるまでトーンの強さは様々ですが、いずれにせよ人間の理解力を高めようとするものです。〈理解心〉を目覚めさせようとする、と言ってしまった方が正確かもしれません。
文字列の読解においては、〈理解力〉〈読解力〉の高低よりも、まず〈読解心〉の有無こそが重要です。少なくとも私たちワナビは、読者の読解力を云々する前に、読者の読解心がどのように動き出すのかという問題に取り組む必要がありました。そして認めざるをえなかったのが、「とりあえずつないでしまうもの」——つまり権威の重要性です。
権威の介入、権威からの〈紹介〉無しに、ワナビの書いたフィクションを一から十まで読解しようとする人は稀です。よほどの好事家か、よほどの善意あるいは研究テーマを持っている人だけでしょう。言語、というか、〈見ず知らずの誰かがする長話〉を聞いてもらうというのは、本来それくらいにハードルの高い試みです。〈紹介〉無しでは厳しすぎます。その話が「現実」(という最大手のシェアードワールド)と関係の無い話であるなら尚更です。
だからこそ小説系ワナビは、「見ず知らずの誰か」でなくなるためにサークルを作りたがるものであり、そのサークルで上記の小小林秀雄問題を思い出さざるをえないものであり、そこから進んで「権威とは何か」「何が権威に褒められるのか」を考え、そちらの側へ自らの小説を寄せていかざるをえないものなのです。「労働者にとっての共産主義のように」とまで言ったら過言というか意味不明でしょうが、ワナビにとっての権威主義とはそういうものです。
権威主義者の視点から見ると、現在の日本語小説界は、とても面白いところです。
そもそも日本語小説は、他の人文・美術・芸能に比べて、日本史上最高権威との関係が薄いジャンルでした。そういう意味では、「稗史」ですらなかったのかもしれません。そしてそのまま民主の時代に突入し、現在はプロによる評価と商業的(大規模投票的)成功が二大権威として機能しています。もちろん、二大権威だけが権威だという環境でもありません。適度に複雑で面白い状況です。
もう少しだけ細かく見ると、以下のような感じであるように見えます。
1. 狭義の「権威」 : 日本史上最高権威およびそこからの派生権威
2. わりと狭義の「権威」 : 上記 + 各種文学賞 + 各種アンソロジー(名作選)
3. 広義の「権威」 : 上記 + 商業的成功
4. さらに広義の「権威」 : マーケットの規模や集団のサイズによっては、個人の感想1ツイートや小小林秀雄も「権威」になりうる
カクヨムなどの小説投稿サイトでは、商業的成功を目標にすえた創作論が盛んです。もちろん、それに対するアンチやオルタナティブな成功ルートを作ろうと呼びかけるタイプの創作論も立てられています。EG文庫は2兆円主義です。
一方、芥川賞の選考などの「プロによる評価」の積み重ね(権威の
そして、現在のEG文庫が最も重視しているのは、上記の1と4です。現代の小説とはほとんど関係が無いかのように見える1も、4と同時に視野に入れることによって、大きな課題と共に立ち上がってきます。
小林秀雄の影響力が現代においてもまだ、意識的にか無意識的にか小小林秀雄をやってしまう日本語ユーザーを生んでいるように、日本史上最高権威が人文・美術・芸能についての最高権威だった時代の影響は、消えて無くなったわけではありません。
日本史上最高権威は、ただ在るだけで人々をつなぎ、独り言のようなつぶやきで世の乱れを正す権威でした。そしてその権威は、私たち人民に委ねられました。恐ろしい話ではありますが、「民主」とは、そういうことです。
天佑神助のような補助輪はまだ許されているものの、この時代が1億人の暗君の時代となる危険性については、すでに何度も指摘されています。「民主の時代の帝王学」とでも言うべきものの必要性を説く声もあります。
そのような時代に、小説は新たな帝王学の一環となりうるでしょうか。ワナビの小説は、互いに見ず知らずの人々をつなぐ、話の種になることができるでしょうか。EG文庫の脳内GDPが最高潮になる最大テーマは、そこにあります。
ワナビの権威主義。最高にやりがいのある主義です。
【余談1】
「文章力」「読解力」の高低を判定し、ある作者・読者の能力が基準に達しているかどうかを宣言するのもまた、〈権威〉の領分で行なわれることです。
小説系ワナビである限り、権威が究極かつ最強になる領域を避けて通ることはできません。「つなぐもの」としての権威ではなく、「切断するもの」「切り分けるもの」「切り捨てるもの」としての権威についても、きちんと知っていく必要がありそうです。「単に裏でしょ」「そもそも言語の花言葉は「切断」なので仕方ない」などと簡単に片づけてしまうのではなく、言語のそういうところだぞなところとセットで。
【余談2】
先述の「ハードル」を低くするための何らかの〈技術〉(権威の領分である「適度に」「ほどよく」「普通に」「自然な」「常識的な」といった基準とは関係のないところにある技術)が存在する可能性は否定しませんが、それが本当に再現性のある技術であるなら、そして適用コストが安い技術であるなら、プロとワナビが同じ高さの下駄をはくようになるところまでが上限です。ワナビはワナビのまま残り続けます。この問題(競争の問題から派生する問題)を解決するためには圧倒的な経済成長しかありません。そちらはそちらでワナビのテーマです。
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